→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第1巻

   001.傘がない

「やあ」
「……あお……ぞら?」
 ドアのノブに手をかけたまま、長髪の乱れた青年が目を丸くし、僕の顔を見ていた。
 数年振りに会うその顔は年を重ね、幼さを無くしていたけれど、面影は全く変わらない。多分それはこっちも同じことで、向こうも僕の顔を見ただけで一発で誰かを言い当てた。
「や、おはよう。寝てた?」
「……ああ、思いっ切り」
 昔と変わらない挨拶を交わす。他人から見れば懐かしさも感じさせない対話だろうけれど、僕らはずっと前からこう。
 黄昏(たそがれ)の家を訪れたきっかけは、特に無い。日常を繰り返している中でふとした拍子に思い出した、ただそれだけのこと。
 彼と僕は幼なじみで、向こうが一つ年下。昔近所に住んでいて、小学校の頃はよく一緒に遊んでいた。僕はその頃ガキ大将で、黄昏はいつも僕の後ろにぴったりとくっついて来ていた。親同士も仲が良く、何度も叔母さんにご飯をご馳走になった覚えがある。
 けれどその叔母さんも黄昏のお母さんじゃない。父親は昔から居なく、母親も叔母さんに黄昏を預け別々に暮らしていた。詳しい事情は聞いていない。他人のそっとして欲しい部分を好きこのんで知りたくなるほど僕は野暮な人間じゃないから。
 小さい頃から黄昏は既に叔母さんの家に預けられていて、苗字が違うのを理由に最初の頃はよくいじめられていた。その度に僕はちょっかいを出す相手を追い払う役目に回り、彼を庇っていた。僕がガキ大将だったおかげもあって徐々にいじめも少なくなり、口には出さなかったけれど二人共喜んでいたように思う。
 やがてガキ大将でいることにも自然と飽き始め、中学に上がり同級生とばかり一緒にいると、自然と黄昏との仲は疎遠になっていった。向こうも僕との距離を自覚したのか、近所で顔を合わせても特別声を交わすことも無くなった。
 黄昏も僕の背中を追いかける真似はしないで、僕とは別の高校に入った。それを母親に聞いたのが黄昏に関する最後の記憶。最近になって思い出すまで、黄昏のことは3年近く僕の頭の中に無かった。
 どうして今頃になって思い出したんだろう?
 自分自身を見つめ続けるのが嫌になったのか。理由はよく解らない。しかし一旦思い出してからは会いたい気持ちが急速に膨れ上がって行き、叔母さんの家を訪れるのにそう時間はかからなかった。
 突然の訪問に叔母さんは驚いていたけれど、嬉しそうな顔を見せていた。でも、黄昏は高校を中退すると同時に水海(みなみ)にマンションを借り一人で移り住んだらしく、家にはいなかった。住所は聞いたけれど、電話を引いていないので連絡がほとんど取れないらしい。僕は最初から黄昏に会うつもりでいたから、ついでに元気でいるかどうか見てくるように叔母さんと約束して、その場を後にした。
 黄昏の住んでいるマンションは水海駅から少し離れた商店街を抜け、いくつもの建物が列挙する狭苦しい場所にあった。白いコンクリートの11階建てで、隣には建設途中でバブルが弾けたのか、放置された廃ビルが建っている。壁に蔦がたくさん絡まっていて陰湿な感じを受けるその建物は、不思議と見ているだけで心が落ち着いた。
 最上階に出ると、大きな水海の街が見渡せた。水海は陸から離れた埋立地に造られた街で、何本もの橋が陸と繋がっている。通路側からは駅前から離れた場所に立ち並ぶ高層ビルのオフィス街と、その向こうの陸の湾岸に街並が見えた。
 連休の前日は、黄昏と会うのが楽しみで遠足前に浮かれる子供みたいになかなか寝つけなかった。幼なじみがどんな風に成長しているのか早く見てみたかった。
 けれど、最初に家を訪れた時には黄昏と会うことはできなかった。マンション入口のオートロックでもそうだったけれど、留守にしていたのか居留守を使っているのか、何度インターフォンを押しても反応がない。一旦近くの中華料理店で昼食を取ってからもう一度行ってみても、結果は変わらなかった。
 その日は引き上げ叔母さんに再度住所の確認を取ってから、その後も何度か行ってみた。ポストに挟まれていたチラシもそのままで不安になったりもしたけれど、心配かけないように叔母さんにはあえて連絡しなかった。
 そして根気良く通い続けた5度目の今日、ようやく部屋の中から黄昏が姿を現した。
「上がっていい?」
「んー……ちょっと待って」
 黄昏は面倒臭そうに頭を掻き、部屋の電気をつけに戻った。玄関に上がり込み待っていると、10秒もしない内に中から呼ぶ声が聞こえた。
「お邪魔します」
 一人で住んでいる割には、部屋が妙にさっぱりとしていて物が散らかっていない。6畳の台所はさほど使われていないらしく、食器の類も片付けたままなのか全然見当たらない。
 黄昏の部屋は8畳間のフローリングで、ベッドと本棚以外目につくものが全く無く、実際より広く感じた。住むのに余計な物をほとんど排除したような、機能的な部屋。ベランダに出るガラス戸は気を遣ってか開け放たれていて、換気してある。外の肌寒い空気で冷えるのか、黄昏は分厚い毛布に包まりベッドの上に座っていた。
「寒いなら閉めていいのに」
「空気が入れ替わったら閉める」
 黄昏が顔を強張らせ言い張る。他人の指図を受けても自分の行動を捻じ曲げないのは、昔から変わっていないみたい。
 髪は肩より下、胸の辺まで伸びていて、適当に後で括ってある。髭もうっすらと生えていて、何日も外に出ていない様子に見えた。顔色もそれほど良いようには見えなく、どこか疲れているのか瞼が落ちている。自分より一つ年齢が下とは思えない外見。
「元気?」
「あまり」
 僕の問いに対し、黄昏は皺枯れ声を返して来た。
「風邪引いたんじゃないの?声が掠れてるよ」
「ん……ああ、んっ……」
 喉を鳴らし声の通りを良くしてから、一つ咳をつく。
「あー……普通にこうやって話すのは、かなり久し振りだから自分じゃよくわからない」
 だるそうに答えると、壁に背中をもたれかけた。本当に、身体を動かす一つ一つの行動が全て億劫そうに見える。
「話さないって……外出てる?」
「全然。人とも会ってない」
 僕の目を見ずに、黄昏は小さく声を漏らした。喋ると口から魂が抜けて行くような、掠れた声。声帯を痛めているのか、聴いているこっちが辛くなってくる。
「風邪……引いてるのかな。それすらよくわからない、ずっとだるいし」
「前にも何度か来たんだけど、もしかして、寝てた?」
 黄昏は僕の問いに、首を傾げながら答えた。
「どうだろ……よくわからない。新聞の勧誘とかうるさいから全部居留守使うようにしてるし……今日出たのも、あまりにしつこかったから扉から覗いて見てみただけ」
「あ、そうなんだ」
 そっけない答えに僕は苦笑してみせる。きっと自分が他人に心配されているだなんて思ってもいないのだろう。叔母さんも時折様子を見に来るらしいけれど、ほとんど門前払いのような形で追い返されると言っていた。
 黄昏は僕の視線が気になってか、毛布の中に顔を埋める。放っておいたらそのまま眠ってしまいそう。僕は心配になって、黄昏の額に手を当ててみた。他人の体温なんて良く解らないけれど別段熱があるようでもなかった。
「ナマケモノになってない?」
「……そうかもしれない。起きてても、ほとんど寝てるのと変わりないし……」
 黄昏はそう答えて壁からずり落ちると、ベッドに寝添べった。毛布の隙間から見える彼の身体は昔と違って色が白い。日光もほとんど浴びていないに違いなかった。
「TVも置いてあるだけで、アンテナは引いてないから……ニュースもわからない。だけど、ずっと家にいるから別に困る事もない……し、外に出るのも飯を買いに行く時だけ」
 ベッドに横たわりながら文節を区切り話す黄昏の姿は、病人そのものに見える。
「まるで仙人だね」
「世間がどうだろうと興味ないから……今日が何日なのかも知らないし、雨が降ってるのも起きてから知った」
 本当に何もかも無頓着になっている。自分以外、いや、自分自身さえどうでもよくなっているのかも知れない。生きていることさえうざったく感じているんだろうか。
 そんな黄昏の姿を見ていると胸が痛んだ。でもそれは同情じゃなくて、一年前の自分を今の黄昏に思い重ねたから。
 嫌な想い出に呑み込まれてしまう前に、適当に場を繋ぎ考えを振り払う。
「叔母さん心配してたよ、元気でいるのかって」
「……俺の事は放っといてくれって言っといて」
 しばらく間を置いてから、黄昏が機嫌悪そうに返事した。どうやら、僕の考えは間違っていたらしい。他人の心配が罪悪感となり自分の身に振りかかるから、近づくものを拒絶する。おそらく今の状況も足枷となり、黄昏の心を蝕む要因の一つになっている。
 でも、それから抜け出す術を知らない。黄昏がどうなのか解らないけれど、少なくても過去の僕はそう。
「ねえ、どうして家を出たの?」
 間が持たなくなり頭に浮かんだ疑問をそのまま口にするけど、話を悪い方向へ持っていくばかり。本当に黄昏のことを思うのなら、今すぐ靴を履き立ち去った方が賢明なんだろう。特別重要な話があった訳でもない。僕はただ、ほんの興味心で黄昏を見たくなっただけ。でもそれが、彼を傷つける結果にもなりかねないことを気付いてなかったんだ。
 自分の軽薄さを痛感し、嫌になる。
「ちゃんとご飯食べてる?」
「……あまり食べたくない気分だから、丸一日何も口にしてない」
 ちぐはぐな答えを黄昏が返して来る。これ以上構って欲しくないのか、黄昏は姿勢を変え僕に背を向けた。それでも僕は、次の質問をせずにはいられなかった。
「……今、何してるの?」
 口にした途端、更なる憂鬱が僕を襲う。易々と引き下がるつもりは無かったけれど、胸が痛みこれ以上耐えられなかった。
「ごめん、聞かなかったことにして」
 一秒でも早くこの場所から逃げ出したかった。そして二度と黄昏の元へ訪れないで、何もかも忘れてしまえばいい。
 僕が謝って腰を上げようとした時、黄昏が上体を起こしながら言った。
「何もしてない」
 そして、僕の目を見る。心の奥底まで居抜くようなその済んだ黒い瞳に、背筋が震えた。
 何て綺麗な目をしてるんだろう。
 無垢だとか、小動物のような瞳とは違う。強いて言えば、この世の綺麗なものを判別できる目。濁り切ったものにも染まらず、強い意思を感じさせる目。無頓着な風貌もあり、その目は更に際立っていた。
 これほど純粋な目を自分は持ってるんだろうか?そう考えただけで、悔しさと羨ましさが心の中に湧き上がる。
「学校も辞めて、死んだ母さんの脛をかじって、朝も夜もわからない時間に目を覚まして、ずっとベッドの上に転がってる。腹が減ったら飯を食って、風呂に入って、知らない間にまた寝る。その繰り返し」
 黄昏は自虐的に近況を述べた。やり場のない怒りが言葉に込められている。だけど僕はそれを冷めた気持ちで受け止めた。
 その状況を変えるだけの努力を黄昏がしたとは思えなかったから。
 結局、自分で動かないと状況なんて変化しない。僕はこの一年でそれを特に学んだ。
 見方によっては『自由』とも言える場所にいる黄昏のその言葉は、僕には甘えにしか聞こえなかった。
「そのまま、ずっといるつもり?」
「何も変わらないから」
 きつく咎めるように僕が訊くと、黄昏は諦めの言葉を吐く。
 何が変わる、変わらない。そんなもの、所詮言い訳にしかならない。行動して初めて、何かが見えて来る。現にそうやって僕は思春期の苦悩を抜け出した。
 内心苛立っていると、黄昏はぽつりと口にした。
「……眠る時、いつも思うんだ。このまま二度と目が覚めなければいいのにって」
 その突然の言葉が僕の胸に突き刺さり、一瞬涙が溢れそうになった。自分が抱え込んでいた想いが一気に溢れ返り、大声で叫びたくなった。
 『そうなんだよ、僕も!』って。
 現実に打ちのめされ、狭い天井を眺めながら暗い部屋の中で二度と来ない明日を望んでいた自分。ずっと夢の暗闇の中をさまよっていたい、そう思いながら、僕も何度眠りについただろう。
「でも毎回、目が覚める。それと同時に、世界に裏切られた気分になるんだ」
 そしてその度に裏切られる。自分の身体に、現実に。
 同じことを考えていた人間がそばにいる。それだけで僕は嬉しくなった。苦悩を分かち合いたいだとか、甘い考えで喜んだ訳じゃない。ただ、自分と同じ道を歩んでいる人間がいたことが、単純に嬉しく思えた。
 黄昏は言葉を選びながら、ゆっくりと自分の想いを言葉に変えていく。
「だけど……だけど別に、死のうとか、そんな事は思わなくて……死ぬのは怖いから、生きてて……それでも、何をしたいだとか、そんな気持ちも別になくて」
 そこで少しだけ僕は残念な気持ちになった。何故なら僕は、そこで死のうとしたから。
 一番酷い時は死ぬことしか頭に無く、どうやって命を絶とうか、そればかり四六時中考えていた。今でも僕の部屋の押入れには、水海の港の倉庫裏で拾った荒縄が苦い想い出の日々と一緒にしまってある。それを使う機会は、多分もう二度とないだろう。
「俺がいてもいなくても何も変わらないんじゃないかって、ずっと思ってる」
 黄昏は俯いて、心の叫びを搾り出すように、掠れた声で呟いた。
 そうだ。
 ずっと、自分がこの世に生まれて来た意味を知りたかった。
 僕は愛されて生きて来たのか、どうして自分が自分であるのか。誰かを愛するために生まれて来たのか。誰かの為に僕は生まれて来たのか。
 考えれば考えるほど、自分の存在を否定してしまう。それこそ黄昏が言うくらい、生まれて来たことに意味が無いと思えた。自分が死んだ所で身近な人しか悲しまない、そして知らない間に忘れ去られる。そんな置物みたいな存在でここにいたい訳でもない。
 なら、僕に何ができるのか?僕はどうすればここにいられるのか?
 そんな無数の疑問も、たった一つの問いに帰着していった。
「自分で動こうにも、どうすればいいのかわからないから……でも、別に自分を救い上げてくれる人間を待っているわけでもなくて……こうやって死ぬまで続けていくんだろうなって、そんな気がするんだ」
 考えごとをしていると、黄昏は何かを悟ったような口振りで、天井を眺めながら言った。絶望だとか諦めだとかを飛び越えた所で、今の自分を受け入れている風にも見える。そこに辿りつくまで、どれだけ多くの苦痛を感じたのか僕が知る由もない。
 僕にはそんな黄昏にひどく興味を持った。他の人間とは違い、ただ腐っている訳じゃない。無数の思考錯誤の結果、自分で今の状況を望んでいるように見えた。堕落への道を。
「……こんな事、誰かに話すなんて初めてだ」
 今更照れ臭くなったのか、黄昏が顔を背けた。でも僕は他人と話している時についつい真面目な話題に持って行ってしまって煙たがれることが多いから、こうした話ができる相手がいてくれるのはむしろ嬉しい。
「だってそれは、ずっと一人でいたからでしょ?」
「それもそうか」
 そこで初めて黄昏は笑顔を見せてくれた。ほろ苦い笑顔。口元をほんの少しだけ緩ませただけの笑顔だったけれど、それは今まで見た誰のものよりも胸を打った。
 この若さで人を遠ざける生活を繰り返しているせいか、同年代の友人達とは全く異質の雰囲気を黄昏は漂わせている。地に足が付いていないような、飄々とした佇まい。身体の動作その一つ一つが、僕を惹き付ける。
 見惚れていたら何か言われそうな気がしたので、僕は換気の終わったガラス戸を閉めに行った。改めて、部屋の中を眺め回してみる。
 少し大きめの8畳のフローリングで、カーペットが無く寒い感じを受けた。部屋の隅にはテレビと小さなCDコンポが置かれているけれど、存在感がなく壁と一体化している。
 そんな目につく物が少ない部屋の中で、一つだけ興味を引く物があった。
 ガラス戸のそばに落ちてあった、1冊の赤い大学ノート。学校にも行っていない黄昏が必要なものだとは思えない。何故そんな物が置いてあるんだろう?
「あれは何?」
「ノート」
 僕が指差して訊くと、そのままの答えが返って来た。
「見ていい?」
「別に」
 先に断ると、黄昏は面倒臭そうに言葉を返した。僕はノートを拾い、剥き出しの床に座る。客も来ないせいか、座布団の1枚も見当たらない。
 もう一度黄昏に目配せしてからノートをめくる。中に目を通した途端、僕の頭はこんがらがってしまった。
 縦横無尽に罫線を無視し、無数の言葉が散りばめられていた。更にノートをめくると、何やら記号のようなものが文章の下に付記されている。どのページをめくっても、隙間がほとんど見当たらないくらいに文字が敷き詰められていた。
 頭の中に浮かび上がった言葉をそのまま叩き付けるように書き殴られた文字。分からない漢字は平仮名で書かれていたり、隣り合って並ぶ文章の繋がりが無かったりと、全く整合性が無い。
 いくつかの文章に目を通してみる。
『八じょう一間のくらやみで歌を織る 想いを繋ぐ言葉をさがすのに骨を折る』
『君を助けてあげられる言葉もなく 抱き締めてあげられる強さもなく』
『彼はもぎ取られたつばさを背に地におちた 次は俺の番だろう?』
『冷たい雨に濡らされ ナイフを持つ手は震え 涙も地面に流れ いつまでもおびえていた  強くなれる気持ちが欲しくて 好きなうたをうたいつづけた つづけたんだ』
 思わず、喉がごくりと鳴った。目頭が熱くなるのを感じ、黄昏の位置から見えないように僅かに俯く。書かれた言葉を目の中に入れる度、何かが崩れる音と、何かが開かれた音が胸の奥で聞こえた気がした。
 紙の上には、黄昏の奥底の想いがびっしりと綴られていた。心の悲鳴が、叫びが包み隠さず注ぎ込まれている。あまりの濃度に、頭が眩んだ。
「これ……詩?」
「歌詞」
 ひっくり返った声で黄昏に訊いてみると、また興味無さそうに端的な言葉が返って来た。
 確かに、CDのジャケットの歌詞みたいに文章が並んでいるページも多数見かけられる。すると記号のようなものは音符だろうか。譜面を読めないのか、本人だけ理解できる自分専用の楽譜を作っているらしかった。
 ふと本棚に目を向けると、そこにはノートがたくさん並べられていた。あの中にも僕が今手にしているものと同じく、黄昏の想いが一杯込められているんだろう。 
「へー、歌作るんだ」
「作りたくて作ってるわけじゃない。唄ってないとそれこそ生きてても意味がないからやってるだけ」
 切羽詰った想いをさらりと黄昏は言ってのける。きっと今の黄昏は、全ての行動が「生きるか死ぬか」に繋がっているんだろう。だからこそ、他人にとっては大袈裟な想いも、当然のことのように口に出すことができる。僕はそんな黄昏を尊敬したくなった。
「ねえ、唄える?」
「一応。他人に聴かせた事はないけど」
 口元を指でなぞり、黄昏はやや苦い顔をする。どうやら恥ずかしさはあるらしい。
「じゃあ僕が第一号になってあげるよ」
「……嬉しくない」
 僕が満面の笑顔を見せて言ってあげると、案の定ふてくされた。昔からそうだったけれど、青空はとても素直に喜怒哀楽の感情を表に出す。楽しい時には笑みを見せるし、腹が立った時には眉をひそめる。昔と同じ姿を見ることができ、少し嬉しくなった。
「じゃあ、これ唄える?」
 個人的に引っ掛かった歌詞が載ってあるページを開き、黄昏にノートを渡す。それを受け取りしばらく考える表情を見せてから、黄昏はOKを出した。メロディを記憶から引っ張り出していたのかな。
 毛布のかかった膝に指を当ててリズムとカウントを取り、黄昏は唄い始めた。


 ここから見える窓の外の朝焼けは四季が訪れても変わらない景色で
 緩やかに鮮やかに照らす朝日がほんの少しだけ世界を眩しく染めた

 夢の続きを虚ろな意識で追いかけて小鳥のさえずりで今朝もまた目がさえる
 見慣れた天井に今日も想いを馳せ創り上げた日常に呑み込まれてく

 躓いた想いとか誰にも届かない言葉も 
 ノートの中に綴っては堪え切れない涙流す

 すれ違うひとたちは自分の道を歩んでせわしない日々に自分の価値を捧ぐ
 現実に生きる誰もが同じ時を過ごして孤独に包まれて今日も怖くなる

 夢の中囁いたまだ見ぬ君の言葉を
 どうして何度も繰り返してるのだろう

 狭苦しい部屋の中でいつも何か探してる
 絶望も希望もない鳥かごの中で心を打つ花を捜しあてもなくさまよう

 I want to flying on the city
loop in the days by days,I sing an our song

 寝転がる毎日に飽きて自分を捜す全てに遮られた八畳一間の中で
 母親もトモダチもなくたったこの身一つだけで挿し込む光求めている

 夢無く歩む日々の中で救いを求めて唄ってる          
 迷路の中で朝日を見れるのも目に見えない温もりがそこにあるから

 I want to flying on the city
loop in the days by days,I sing an our song you don't hear
 伸ばした手に気付かなくて かけられた声さえ聞こえなくて
 やがてそばから離れていって それでも俺は唄い続けて 
 今は誰にも届かなくても、いつか心が癒える日を願って――

 すれ違いと後悔の中で笑顔を見せ生き続けている
 変わらない時を受け入れてやる もちろん中指はそのままで
 誰かの嘲笑う声が聞こえる それでも胸を張るさ
 そう I sing an our song

 I want to flying on the city
loop in the days by days,I wish you sing an our song!

 苦い血の味が霞んだ心を呼び戻す そこはいつもと変わらない風景で
 夢のような現実を思い描いては 今日もまたその境目にまどろむ
 唇を噛み悔しがってる俺の明日が見える だけど……


 言葉が出なかった。
 僕は心の中で、大量の涙を流していた。メロディが胸を打ち、唄が心に突き刺さる。どんな美辞麗句も、黄昏の唄声の前では色褪せてしまう気がした。
 リズムと声だけの本当に飾りのない淡々とした曲調だったけれど、今まで生きて来てこれほど胸を抉る唄は無かった。それは多分、黄昏と同年代の僕だから、共感した所もあるだろう。けれど、それ以上に、黄昏の唄声は胸に響いた。
 喋る時の掠れ声からは想像もつかないほど、張り詰めた染み渡る声。その声を得るために日常の声を引き渡したと言ってもおかしくないくらい、黄昏の唄声は完成されていた。
 魂を丸ごとそのまま載せたような声をぶつけてくる。僕の魂と黄昏の魂が唄を通じ、触れ合うのを確かに感じた。鋭い棘のついた殻の中で身体を丸め脅えている姿――無防備なその心を、黄昏はいともあっさりと曝け出す。
 負けた、と思った。
 僕は黄昏に、負けているんじゃないかと。
 徹底的な敗北を思い知らされた感じがした。表現や生き方、その魂の輝き等全てに置いて。今まで生きて来て、これほど他人を疎ましく、同時に羨ましく思ったことは無かった。
 そしてこの瞬間から、僕の中にある一つの思いが形作られ始めた。
「……どう?やっぱり変だろ、俺なんかが作った曲じゃ」
 黄昏は謙遜してみるけれど、僕には到底及びもしないものを描き切っている。
「ふーっ。」
 気を取り直すように、背筋を伸ばし僕は大きく長い息を吐いた。
「いいと思うよ。他の人はどう感じるかは分からないけれど、僕は凄くいいと思った」
「……そう」
 震える声を押えて感想を述べると、黄昏は照れ臭そうに鼻をさすった。とてもいい笑顔。
「他にも唄える?」
「ちょっと待って、喉が掠れる」
 僕がせがんで見ると、黄昏は台所へ水道水を飲みに行った。その隙に、黄昏の本棚からノートを適当に数冊に引っ手繰ると自分の鞄の中に詰める。素直に頼めばいいだけなのに、何故か衝動に駆られ身体が動いた。自分で負けを認めるのが嫌だからなのかも知れない。
 満足そうな顔をして戻って来た黄昏は、僕が気になり選んだ数曲を嫌な顔一つせずに唄ってくれた。その度に黄昏の歌唱力に驚き、懐の深さと才能を感じ、情緒的なメロディに目頭が熱くなり、そして様々な点を比較して自分を卑下した。
 黄昏はまるで魂を燃やすように一曲一曲を唄う。終わった後は必ずぐったりと肩を落とし、満足し切った顔を見せていた。
 どうしてそこまでして唄わなければならないのか。僕には分からない。その核となる原動力は僕の想像には及びもつかない。
 だからこそ僕はいつまで経っても『凡人』なんだ。
「ねえ、外に何か食べに行こうよ」
 続けて黄昏の唄を聴いているとそれこそ立ち直れなくなるまで打ちのめされる気がしたので、切りのいい所で僕は気分転換のために黄昏を誘ってみた。ミニライヴを広げてくれた彼は心底疲れ切ったのか、ベッドの上で大の字になって大きく深呼吸している。後先を考えずに唄うからか、自分をコントロールできていないようだ。
「……めんどくさい」
 息を整えた黄昏は小さな声で呟くと、僕に背を向け寝返りを打った。生活の全てを唄に注ぎ込んでいて、他のことはどうでもよくなっているんだろうか。周囲から見れば黄昏の存在は「腐っている」としか思われないだろうけれど、全然違う。フィクションのような盛り上がりも何も無い、適度な喜怒哀楽の中淡々とした日々を送る人間には及びもつかないような激動の毎日を送っている。
 自分自身をひたすら見つめ続けることによって。
「前来た時にさ、近くにおいしい中華料理屋があったんだ。そこ行こう、奢りでいいから」
「おい……」
 僕は乗り気じゃない黄昏を置き、腰を上げた。座っていて固まった身体をストレッチで軽く鳴らしてから、外に出る準備を始める。
「せめて顔ぐらい洗いなよ、僕まで変な目で見られちゃう」
「俺のどこが……っ!たく……わかったよ、ちょっと待ってて」
 ベッドで反動をつけて体を起こし、面倒臭そうに乱れた頭を掻き毟りながら黄昏は洗面所へ向かって行った。自分の考えを第一に考える所があるから、きっと黄昏もお腹が空いているんだろう。その点は昔とさほど変わらない。
 僕の中で、黄昏の存在が一気に膨れ上がって行くのを感じた。黄昏といれば、何かとても素敵な日々が待ち構えている気がして。
 髪を後ろに括り、顔を洗った黄昏が大股で戻って来る。面倒面倒とか呟いている割に、思い立ったらてきぱきと行動する。前髪で隠れていた黄昏の素顔は少し幼さも残るけれど精悍で、見ている男の僕が惚れ惚れするほど恰好良かった。
「ねえ、また遊びに来ていい?いろいろ話したいし」
「……いいけど」
「せめて携帯電話ぐらい持とうよ、連絡取れないからさ」
「考えとく」
 身だしなみを整えて外に出られる恰好に着替える黄昏は、僕の薦めに興味は全く無さそう。顔に考えが出る分、こっちもとても判り易い。
 どうやらこれから、何度もここに足を運ぶことになるみたい。 
「中華料理の店なんてこの辺にあったっけ?」
「黄昏が外に出てないから分からないだけだよ」
 黄昏の疑問に苦笑しながら、僕は玄関に出て靴を履く。
「あ」
 いざ玄関を空けて外に出ようとした時、後ろで黄昏が間抜けな声を上げた。
「どうしたの?」
「傘がない」


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