→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第1巻

   019.New world

「んーっ……」
 目の前に広がる光景を見て、僕の口から溜め息ともつかない声が漏れた。
 見慣れない部屋。生活臭のしない室内。張り替えられた真新しい緑色の畳と、真っ白な砂目模様の壁。ベランダの向こうには小さな庭とも言える空間が広がっていて、すぐそこの石塀を超えた所に線路が見える。更にその先はなだらかな下り斜面になっていて、遮る物なく大海原が見渡せるようになっていた。
 そして部屋の隅には、先程運んで来たばかりの白いダンボールの山と、自分の机。
 右手に持った清涼飲料水の缶ジュースの残りを一息で飲み干し、すう、とゆっくりと息を吸って、吐く。少しだけ気持ちが引き締まり、活を入れる為に頬を両手で叩いた。
 僕は今日、ここに引っ越して来た。
 線路沿いの小さな二階建てのアパート。外見は若干古めだけど、中は思ったよりもしっかりしていて、フローリングも行き届いている。トイレも風呂も別々で、エアコンも取り付けられている結構贅沢な部屋。それほど広くは無いけれど動くには十分スペースのある台所、6畳一間の和室も台所とのスライド式の戸を取り外せば思ったより広く感じる。
 必要なものはまだ全然揃っていないから、洗濯機も冷蔵庫もない。しばらくは、少し離れた実家と行き来する生活になる。自転車で15分程だから、親も安心してくれている。
 これだけ必要な物が揃っていれば家賃も高いはずなんだけど、沿線の駅と駅との中間点で交通に不便な上、目の前に線路があると言う事、それと引越しシーズンじゃない2月を選んだおかげで、見事お目当ての掘り出し物件を見つけることができた。
 水海からやや離れていても、スタジオまでは電車で数駅分なので通う分には問題ない。黄昏の家やラバーズに行くのが少し大変になったと言う所に目を瞑れば、十分過ぎるとも言えた。
 今からここで、僕の新しい生活が始まるんだ。
 そう思うと、期待やら不安やらごちゃまぜになって胸が次第に高鳴って来る。
 そんな僕の胸の鼓動をかき消すように、目の前の線路を電車が大きな音を立て通り過ぎて行った。さすがにすぐそばなので、かなりうるさい。
 電車が過ぎ去ってから、僕は開けっ放しにしていたベランダの戸をしっかり閉めた。
 ここを選んだのにはもう一つの理由がある。
 目の前に路線があるおかげで、このアパートは防音と振動に強い。と言っても黄昏のマンションみたいに隣の音が完全に遮断できるほど完全と言う訳では無く、建ててから後になってそのように改装された為に、どうしても電車の音は入って来る。それでも昼寝するにはちょっと向いていないかなと言う位で、ギターを弾く僕にとってはかえってうってつけと言えた。
 普通の物件で防音の場所を探そうとするとどうしても家賃はある程度高く見積もっておかなくちゃならない。でもここなら少し位大きな音を出しても大丈夫。大家さんの了解も取ってあるので、気兼ねなしに――とは言っても、夜中とかには弾けないけれど――ギターを奏でる事が出来る。思い浮かんだメロディの録音中に電車が来た所で、それほど問題にもならないはず。それよりも、実家と違い人目をほとんど気にする事無くギターに触れられると言うのは、フラストレーションがずっと溜まっていた僕にとっては嬉しい限り。
 言ってみれば、好きな時にギターが弾けないから僕は家を飛び出したようなものだから。
 他にもたくさん理由はある。いい加減親にずっと面倒を見られっ放しでいるのも疲れたし、いちいち親の小言を聴くのもうざったかった、と言うのもある。ここで自立しておかないと、いつまで経っても自分に甘いままでいるだろうし、音楽に打ち込む情熱を再確認しておきたかったと言う気持ちもあった。今はまだ感じなくても、ここで生活し始めてから見えてくるものだってたくさんあるはず。
「まずはそのために、部屋作りから始めないと」
 そう口に出して自分に活を入れ、早速荷物を解き始めた。
 ここへ引っ越して来たことはバンドのメンバーには話していない。千夜さんは勿論、イッコーにも黄昏にも言わなかった。
 これは個人の問題だし、別にいう必要は無いと思ったから。わざわざ「音楽に集中したいために引越しました」なんて打ち明けた所で笑われるだろうし、何が変わると言うこともない。黄昏だって多分「あ、そうなんだ」の一言で片付けてしまうだろう。
 そんな理由もあって、引越しは全て一人でやることにした(勿論荷物運びは引越屋さんに頼んだ)。黄昏に手伝って貰うことも出来たけれど、面倒臭がり屋だしきっと乗り気にならないだろう。それでも頼んだら文句も言わずに手伝うんだろうけれど、黄昏なら。
 荷解きと言ってもそれほどたくさんの量がある訳じゃない。CDコンポやパソコンみたいにかさばるものはあっても、雑誌なんかは必要なもの以外全て捨てて来たし、漫画だって本当にそばに置いておいてたいもの以外は古本屋に売ってしまった。ビデオデッキだって最初から持っていないので、テープも無い。
 二月の空が暗くなり始める頃には部屋も一通り出来上がった。まだ5時過ぎなのに、もう太陽は夕焼けを引きつれ地平線の向こうに沈んでいた。
 一息つくと、机の椅子をベランダの前まで持って行き腰掛ける。用意しておいたオレンジジュースの冷たさを喉で感じながら、僕は完全に暗くなるまでぼんやりと外の景色を眺めていた。冬の海も、夏と違う顔を見せていてなかなか乙なもの。
「ふー」
 さて、やることがなくなってしまった。
 ご飯でも食べようかと思っても別にお腹は空いていないし、今から布団を敷いて寝た所で夜中に目が冴えてしまうだけ。親への連絡は後でもいいし、明日もバイトの休みを入れているので緊張の糸もすっかりほぐれてしまっている。ライヴも先週の日曜に終わったばかりで、次も3週間後なので今は余暇を満喫している所。今の日ぐらいは黄昏の家に遊びに行かずにのんびりしたい気分でもあるし、とはいえ曲を作る気もしない。
 こんなにも心にぽっかり穴が空いたような気分になるのは久し振りな気がする。
 確か『mine』を書き終わった後もこんな感じだった。あの時と違うのは、僕にはまだやらなければならないことがたくさんあると言うこと。でも、今の自分は何だか遠くに離れた所にいるような、頭にもやがかかっていてそれらのことを考えられないような感じになっている。ただ、それがもどかしい訳じゃなく、逆に気分は落ち着いていた。
 『mine』を完成させてから、もう一年経つ。
 あの頃の自分は何に対しても躍起になっていて、ひたすら何かを考え、矛盾を許さず、たった一つの答えを見つけようと必死になっていた。今もそれは大して変わっていないけれど、多少は頭が柔らかくなった気はしている。ゆとりができた、とでも言うべきか。
「んしょ」
 僕はギターケースの中からアコースティックギターを取り出し、椅子に座り直した。長時間座っても疲れないように、座布団代わりに毛布を敷いて背もたれに体を預ける。
『引越し祝い』
 そう言って、叔父さんはこのギターを僕にくれた。今まで借りていたアコギと同じタイプの新品。高い物でもないから素直に受け取っておけって言われた。
 感謝の気持ちで胸が一杯になるのと同時に、申し訳ない気持ちで心苦しかった。もしこの後僕が音楽を辞めてしまったら、叔父さんの気持ちを踏みにじることになる。かと言ってそれが足枷になり、僕を苦しめる時もいつか来るかも知れないと思うと、胸が痛んだ。
 一弦一弦、ゆっくりと爪弾いてみる。広々とした和室の中に深いギターの音色が緩やかに響き渡った。借りていたものと若干違う音色に聞こえるのは、まだ僕がこのギターに思い入れを持っていないからだと思う。今まで使っていたものには叔父さんの愛情がこもっていたから。
 このギターに想いを刻んで行くのは、持ち主である僕なんだ。
 そんな当たり前のことを僕の心は深く受け止めていた。
 そのまま適当にアルペジオを弾きながら、閉めたベランダの向こうに広がる夜の海をぼんやりと眺める。時折目の前を通り過ぎて行く電車も、不思議と幻想的に感じる。
 曲にもならない手癖だけの思い付きのメロディをバックに、僕はぼんやり考えていた。
 こんな時に限って、いつもは眠っていて思い出すこともない記憶まで瞼の裏に甦る。
 幼稚園の時、狭い園内のプールで泳いだこと。足場のコンクリートが水色だったのをやけに覚えている。水が凄く冷たくて、空は曇っていたような、そんな一枚絵。確か6月の話。
 幼稚園から家に帰る時、何故か下のズボンを履いていなくてパンツ丸出しで泣きながら帰った苦い想い出がある。今でも時折悪夢になって出てくるけれど、物心がつき始めて間もない頃の記憶で、それが現実にあったのかどうかは自分でも解らない。もしかして子供の時に見た夢が、そのまま頭に刷り込まれているのかも知れない。それだけ嫌な気持ちになったから。今でも思い出すだけで顔をしかめたくなるけれど、音の海にたゆたっているとそんな気持ちも湧き起こらずに、ロードムービーみたいに記憶が目の前を流れて行く。
 母親の田舎は毎年夏になると遊びに行く。それは今でも変わっていない。小学生の頃は10日間きっちりと決まっていて、中学になると7日間、高校になると5日間とだんだん滞在する時間が短くなっていった。去年は自分一人で、黄昏と再会する前に訪れた。当時はまだ無気力状態だったから、新しい刺激を求めて違う季節を選んだ。今までと違う春の匂いの中で、携帯MDを片手に大きな和室の真ん中に寝転がり、これからの人生を漠然と考えたりしていた。あの時望んだ僕に、今は少しでも近づいているのかな?そう言えば田舎の目の前に流れていた川は、小さい頃あんなに綺麗で泳げていたのに、小学校高学年の頃、対岸に何かの工場が建ち、それからだんだん汚れていってしまったのが悲しかった。
 まだガキ大将だった頃、クラスメートの女の子をいじめて泣かせ笑っていた。可愛いとまではいかなかったけれど、魅力のある顔立ちをしていたような気がする。いじめの理由は覚えていないけれど、どんないじめ方をしていたかはよく覚えている。でもそれも思い出したくない記憶の一つで、心の傷の一つでもあった。だんだんエスカレートしていってクラスの男の子全員がその子をいじめるようになった時、先生がホームルームで僕達に叱り付け、一人一人席を立たせ順番に理由を訊いていった。クラス全員の視線が集中する中、立たされて理由を説明する時のすまない気持ちはこれからも忘れないだろう。ただ、その子は僕のことが好きだったのか、結構話しかけてくれていた。彼女をいじめた理由は、今にして思えばきっと照れ臭さのせいだったんだろう。
 男友達も、小中高といろいろ変わった。でも、卒業してからは誰とも会っていない。幼稚園の頃、年少、年長ともクラスメートでとても仲のいい男の子がいたんだけど、卒業と同時にどこかへ引っ越してしまった。今じゃもう名前すら思い出せない。
 小学校中学年の時にも、同じように気のあった男の子がいた。僕と同じガキ大将で、二人でクラスを二分していた。小学校の頃はクラスの中でもいろんなグループがあって、体格の良さや性格なんかで自然と一人一人位置付けされていた。でもその子も結局4年の二学期に転校してしまい、それ以来会っていない。一度2年後くらいにこの街へ遊びに戻って来たらしいけれど、ちょうど運悪くその時用事で出掛けていたせいで会う機会を逃してしまった。一体今頃、どこでどうしてるのかな?
 それとは別に、近所に仲の良い同級生の友達もいた。一つ下の黄昏より仲が良かったかも知れない。けれど、学校からの帰り道にとある冗談をきっかけに彼を泣かせてからは、徐々にその関係もおかしくなっていき、中学を卒業する頃にはすっかり他人になってしまった。ゲームが好きで、木彫りのオルゴールを作る美術の授業で大好きなRPGのキャラクターのデフォルメされた絵を彫っていたのがやけに印象深かった。
 そうした些細な出来事がきっかけに心がすれ違っていったことは、高校の時にもあった。
 一年の時、クラスメートの中で一番の仲良かった友人と一緒に毎日自転車で帰っていた僕は、たまに一人で帰りたくなってある日、適当な理由をつけて一緒に帰るのを断った。その時どんな風に断ったのかはよく覚えていないけれど、その時に彼はひどく傷ついたのか、その日以来関係がギクシャクして、3学期も終わる頃には片言しか会話を交わさないようになってしまった。上手く僕が気持ちを伝えられなかったせいでおかしくなり始めたんだと思う。後悔は特別していないけれど、胸の中に今でもしこりとして残っている。
 たくさんの想い出が、今の僕を形作ってきた。そんな自分が嫌いか好きかと言えば、勿論大嫌い。人見知りが激しく、すぐに後ろ向きになり、他人のことばかり見て自分を卑下する。もし僕がもう一人目の前にいたら、きっと仲良くなっていないと思う。
 だから、そんな僕と一緒に歩いてくれる仲間に心から感謝している。
 黄昏は、僕の人生の中で一番のパートナー。ただ彼が僕の事をどう思っているかは分からない。うざったく感じているのかも知れないけれど、こちらを必要としてくれていることは一緒にいて感じるから、僕もそばにいていいんだと思う。
 でもいつかは、今までの友達みたいに最後には離れ離れになるのかな?
 これからもし、僕が生きることにもう一度嫌になり、いなくなってしまったとしたら、黄昏は悲しんでくれるのかな。黄昏がいなくなってしまったら、僕は悲しむのかな。
 一番人生に絶望していた時期は、親の事なんてどうでもよかった。この苦しみから抜け出す事ができるのなら、何もかも見限って楽になれたらいいと思っていた。この世から僕がいなくなれば、後に残るのは永遠の闇と音の無い世界だけだと考えていたから。
 でも今は違う。
 ほんの少しだけだけど、自分を見てくれている人間がそばにいることに気付いた。
 弦を爪弾く指を止め、実家よりも狭い押入れに目をやる。
 引越しの時に、今まで隠し持っておいたあのロープは粗大ゴミに紛らせて捨てた。今の僕には必要無い、そう思いたかったから。
 逃げる自分にいい加減うんざりしていた。自分の心の弱さを数え切れないほど呪った。僕以外の人達ももしかすると同じ気持ちをいつも心の中に抱えているのかも知れないと思った所で、何の慰めにもならなかった。多分僕はずっと心が病んでいる。
 現実にいるのはどれだけ辛い事なんだろう。
 誰しもいつか生きている中でそのことに気付かされてしまう。自分と他人、自分と社会。何もかも思い通りにならなくて、意を決し放った自分の言葉でさえかき消されてしまう世界。思いがけないことがたくさん圧しかかって来るせいで、悲しみや苦しみが生まれる。
 ギターに視線を落とすと、自分の手が半ば意志とは別に動いている姿が見える。
 自分の体さえ思い通りに動かせない。自分の気持ちさえ思い通りにならない。
 自分が死んだ所で、現実は決して消えない。消えるのは僕。僕と言う名の世界。
 一体どこまでが現実で、どこまでが自分?
 境目のない世界。
 そんな中、僕は自分を満たしてくれるものをさがしている。この現実で生きるために必要なものをさがしている。
 自分の存在だけじゃ、自分が満たされることなんてありえない。
 心を求めてる。
 他愛もない日常の会話、誰かが書いた本や絵、想いや感情を乗せた音楽、唄。あいにくまだ恋愛感情は分からないけれど、肌と肌が触れ合うこともそう。
 どんな形でもいいから、ずれやひずみを感じさせずに僕の中に入って来てくれるものを探して、探して、探して、満たして、すぐに足りなくなるからまた探す。
 心をたくさん見つけられる場所、今、僕はそれを音楽に託している。大切な仲間の力を借りて。
 そんな自分の生き方を教えてくれたのは、『mine』と言う自分の中から生まれたもの。
 自分を救う力はいつだって、自分の中に眠っているんだ。誰だってそうだ。僕だけじゃない。変えていくんだ。きっと出来るんだ。
 そう叫んでる。叫ぶことで他人にも伝わると思うし、何より自分を生かす力になるから。
 いつだって切羽詰まっていて、余裕がなくて、混乱していて、他人のことを思い遣る気持ちすら考えられなくて、何気無い一言で一気に下まで落ちたりするどうしようもない僕。
 そこまでして、生きたいと想う意味は――
 演奏を止めて、机の上に置いてある目覚まし時計を見てみると、既に6時半を回っていた。知らない間に長々と考えごとをしていたみたい。
「よし」
 これ以上アコギを弾いているのも近所迷惑になるので、一曲だけ弾いて今日は終える事に決めた。大きく息を吸い、足と口とで一緒にカウントのリズムを取る。
 唄う曲は『貝殻』。一番今の気持ちにフィットしていると思った。
 自分の下手な唄声に乗せ、目の前を今までの想い出が走馬灯のように流れる。それがまるで映画のエンドロールを見ているみたいで、僕は目を離せなかった。
「ああ/僕が消えてしまう前にこの気持ちを君に託したい ああ/君が消えてしまう前に この想いを……」
 唄い終わり最後に鳴り響くギターの弦をカットすると、同時に想い出にも蓋をされた。
 気だるい虚脱感。だけど確かにこの胸にある、幸せな気持ち。
 椅子にもたれたまま、僕はベランダの外に広がる虚空を見つめ続けていた。
「変だな、どうして涙が出てくるんだろ」


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