→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第1巻

   020.人にやさしく

 僕達3人の激しい演奏がスタジオの壁に反響する。
 横目でちらちらと二人とのタイミングを見計らい、ビシッと最後の曲を締めた。……つもりだったけれど、僕だけ半テンポ遅れる。それに気付かないフリをして肩にかけていたタオルで額の汗を拭っていると、千夜さんとイッコーの痛い視線が飛んで来た。
「……バレてた?」
「もち」
 イッコーが肩で溜め息をつく。でもすぐに笑顔に切り替えると、近くの座椅子に腰を下ろした。黒のランニングシャツが肌に張り付くほど汗をかいている。
 スタジオの中は練習に夢中になっていた僕達の熱気で充満していた。千夜さんも眼鏡が曇ったのか、一旦外して背広の中に携帯していたポケットティッシュでレンズを吹く。
 かわいい……。
「おい、なーにぼけーっとしてんの」
 素顔の千夜さんに見惚れていると、イッコーが横から声をかけてきた。しどろもどろになりながらも上手く誤魔化そうと、そばに置いてあるスポーツドリンクを手に取り口につける。千夜さんは訝しげな表情でこちらを見ていたけれど、何事も無かったように眼鏡をかけ直しドラムで腕を慣らしていた。
 普段は絶対に眼鏡を外さない千夜さん。黒の丸眼鏡に跳ねた髪、黒ずくめの服と相成ってトレードマークになっている。だから眼鏡を外した顔は貴重と言えた。
 とても気が強い男勝りの千夜さんだけど、顔立ちはとても整っていて美人だったりする。演奏すると汗で落ちてしまう為か最低限の化粧しかしていないのに、それだけでも見栄えするくらい。普段の千夜さんは知らないけれど、女の子の服を着ても全然街中で目立つと思う。あまり想像出来ないが。
 化粧品のCMに出て来る女性のように潤いのある素肌で、演奏すると上気してすぐに頬が赤くなる。けれどどれだけ暑くても汗をかいても、第一ボタンまで留めた服は絶対に脱がない。それがまた色気を出していて、見る人の目を惹き付ける。
 人気があるのも分かります。眼鏡をかけていても、一目で美人だと判るくらい綺麗だし。
 色々考えているとまた見惚れてしまいそうになったので、僕は慌てて顔を背けた。
「まーだちょっとズレるとこあるよな、青空。ま、それでも最初の頃に比べりゃズイブンできるようになってきたけどよ」
 そう言ってイッコーが頷きながら微笑みかけて来る。
 バンドを組み始めてからもう半年経つので、いい加減僕も初心者じゃない。家でスタジオで、毎日のようにギターに触れていたら否が応にも上達していく。最初の頃はスケール(音階のこと)さえ覚えられなかったのに、たくさんの曲を演奏して行く内にどこを押さえたらどんな音が出るのかくらいは感覚で判るようになってきた。こういうのは頭で覚えようとするよりも、体で覚える方が上手く行く。
 てっきり音楽って文化系だと思っていたのに、楽器を演奏するのは自分の腕だったりする訳で、さほど体育会系と変わらないような気がした。
 おかげさまで指にはすっかりギターたこができていて、若干スタミナもついた。それでもライヴを30分やるだけで次の日までぐたぐたになるのは変わっていない。
「相手の呼吸に合わすのって苦手で……」
 言い訳をするように呟いてみると、イッコーがジト目でこっちを見てくる。
「青空オメー、小学校の体育祭ん時に二人三脚とかで足引っ張るタイプだろ」
「ご名答……」
 イッコーの言葉でちょっと嫌な記憶を思い出してしまったりした。
 僕が通っていた小学校は体育祭が二つあり、一つは普通の学内でやる体育祭、もう一つは校内の町内会別で対抗する、親子混合の体育祭。普通のだと競技が選べるからそんなことはなかったけれど、町内別のだと親が選んだりする訳で。
 見事大失敗してどん尻でゴールを切ったのを覚えています。
「ま、それでも上達早いほうなんじゃねー?一応聴かせられるだけのモンはステージの上でも出せてるし。すぐ猫背でギターばっか見るクセは直したほーがいいけどな」
 苦虫を噛み潰したような顔をしていたのか、イッコーが慰めの言葉をかけてくれる。それでもムチは忘れない。
「あんまり後ばっか向かねーほうがいいって。ステージってさ、そん人の自信がどれだけあんのかって言うのが素直に表れちまうから。努力ばっかしてても、それを自信に変えれるハートがねーとホントの意味で上手くなんねーぜ」
 イッコーがどん、と自分の胸を叩いて豪快に笑い飛ばした。千夜さんがちらりとこちらの方を見たけれど、すぐにスネアを叩くのに戻った。
 何だかバンドを始めた頃から、イッコーに色々なことを教えてもらってばかり。人気バンドの『staygold』でヴォーカルを努めていたせいか、様々な状況に対応出来る力を持っている。前のライヴの途中で僕が弦を切ってしまい大慌てしている時も、すぐ横に来てくれてアドバイスをくれた。リフに頼らずに基本のコード進行を繰り返すのに努めたことで、おかげさまであのライヴは何とか乗り切れたんだった、感謝。
 そう言った技術面に関してだけじゃなく、こうした精神面での後押しもしてくれる。外見も含めて、本当に2歳下なのかなあとすら思う。明らかに人生経験の面ではイッコーの方が上で、こうして僕の駄目な部分をサポートしてくれるんだから。
 素直に一人間として、イッコーのことを尊敬してしまう。
「あれ、どーしたのたそちゃん、元気ないじゃん」
 羨望の眼差しを飛ばしていると、イッコーが部屋の隅で一人椅子に座っている黄昏に声をかけた。何故か知らないけれど黄昏は休憩する時、部屋の隅に行きたがる。
「ん?ああ……ここのところちょっと寝不足で、疲れてるだけ」
「へぇーっ、珍しー。ここんとこまた寒くなってきたっしょ?んだからてっきり爆睡街道まっしぐらかと思ってた、たその事だし」
「人をこたつ猫みたいに言わないでくれ」
「だってあんま変わんないっしょ」
「いや、まあ、そうだけど……」
 黄昏は反論できずにもごもごと言葉を繋げないでいる。どうやら自分が引き篭もりなのを自覚しているみたい。
 暦は3月の終わりを迎えていても、今年は例年と違って春の到来は遅いみたいで寒い日が続いている。特にここ一週間はめっきり冷え込み、ちゃんと布団を被って寝ないと風邪を引いてしまいそう。
 僕は大丈夫だけど、黄昏がちょっと辛そうに見える。家にはクーラーしかないから、ついついつけっぱなしにして喉を痛めたりするらしい。今日も声の調子は今一つで、何度か演奏の途中で中断したりした。
「だけど黄昏が睡眠不足って珍しいね。というか今までなかったね」
「……生活が変わったからかもしれないな」
 僕の言葉に黄昏は溜め息を一つついて返した。その顔色はあまり優れていない。どこかしら見えない疲れでも溜まっているように見える。
 ここ最近はバンドも上り調子で、二週間に一度位、イッコーのバンド仲間のイベントで対バンして実力と知名度UPに励んでいる。他のバンドとかだともうちょっと間隔を空けたりするものなのかも知れないけれど、僕達は休まずに突っ走っていた。
 相変わらず僕が後向きで切羽詰っているのもあるんだけど、それ以上にバンドが徐々に形となっていくその様を見るのがとても面白く、毎日が充実している。
 少し違うけれど、『mine』を書いていた時の感じに似ていた。振り返ると自分が進んできた足跡が確実に残っている、それだけで力になる。
 でも今は振り返る余裕が無い位、密度の濃い日々を送っている。よく音を上げないものだと自分でも思う。それはきっと、音楽しかない!という僕の一途な思いがそうさせているに違いない。
 一度ライヴをやる度に、一度こうしてスタジオに入る度に新しい発見がある。勿論反省も多いけれど、自分達が、『days』が成長しているのを肌で感じ取れるのが嬉しい。
 しばらく何も喋らないで休んでいると、近くの椅子の上に置いてあった目覚まし時計が鳴り出した。千夜さんがその音に反応してドラムを叩くのを止める。
 スタジオの中には時計がついていないから、練習する時はこうしてイッコー持参の目覚まし時計を用意して、終了5分前に鳴るように設定してある。ちなみにこの時計は洋楽ハードコアバンドのグッズらしく、黒い悪魔が大きな口を開けている中に時計がある置物みたいな形をしている。でも目覚ましの音は普通にジリリリリと一種類だけ。
 しかめっ面をして黄昏が席を立つと、目覚ましのスイッチを切りに行った。
「うるさい」
 黄昏の家に目覚ましがないのはこの音が大嫌いだから、らしい。
「時間だ」
「ああ、もうこんな時間かー。それじゃそろそろお開きとしましょーかねー」
 イッコーがうんと背伸びをして、楽器についた汗をそれ用の布巾で拭い始めた。千夜さんも一人で黙々とドラムのセッティングをデフォルトに戻し始める。この辺の几帳面さが千夜さんらしい。
 それはドラムの音にもよく表れていて、必要の無い時以外はアドリブで叩くことをあまりしない。それよりは決められた音階とリズムの中でどれだけの物を出せるか、と言うのを追究しているように思える。
 今日は部屋を2時間取っていたけれど、あっと言う間に終わってしまった。
 こうして4人でやるのはライヴ前と新曲のお披露目の時位で、今日は来週の日曜のイベント合わせで集まった。本当は毎回この4人で合わせたいけれど、千夜さんの他のバンドとの都合もあるし何より夜はスタジオ代が高い。
 今は春休みなので千夜さんもイッコーもこうして平日の昼間に来れても、いつもこうは行かない。普段は千夜さんがこの叔父さんのスタジオで別のバンドと音合わせをする時に、合わせて練習をブッキングするようにしていた。
 今度、別のスタジオも借りてやってみようかと考えている。
「じゃあ、俺先に帰ってるから」
 のんびりと僕が休んでいると、黄昏は早々に帰り支度を終えて部屋を出て行った。練習が終わると黄昏はいつもすぐ帰るけれど、今日はやけにそっけない。
「なんだあいつ……?拾いもんでも食ったんかなー」
「そんな猫じゃないって」
 イッコーが手を止め首を傾げている横ですかさず突っ込みを返した。
 でも黄昏、本当に体調が悪そう。ここの所一緒にいても、以前より口数が減っているように思う。時折考え込むような表情を見せたり、笑うことも少なくなった気がする。
 それに、唄っている時の黄昏の顔が本当に泣いて見える時があった。
「でもちょっと、ナーバスになってるかも知れないね」
「そーかあ?いっつもあんなかんじじゃねーかなー」
 確かにイッコーの言う通り黄昏はあまり他人と話したがらないし、元々自分からは必要なこと以外なるべく喋ろうとしないタイプだけど。
 出会ってから1年も経たないイッコーじゃ仕方無いかも知れない。多分僕が一番、黄昏のことを知っているつもりでいるから。
「放っておけ。人間一人で悩みたくなる時くらいある」
 珍しく、千夜さんが口を出して来た。
「何、心配してんの千夜ちゃん」
「馬鹿か。どうして私が貴様達の心配をする必要がある」
 いや、同じバンドの仲間なんだから心配して下さい千夜さん。
「それより、私を二度と『ちゃん』付けで呼ぶな。次は消すから」
 左手に持つ黒のスティックをイッコーに向け、千夜さんは眼鏡の下から強烈な視線を浴びせて来た。その迫力に男二人、たじろぐ。
「ライヴ当日の予定とかはさっき決めた通りでいいな。それじゃ、次があるから」
 手に持つスティックをケースの中に戻すと、一言挨拶を残して出て行ってしまった。練習の途中でミーティングは済んでいたので、これ以上用も無いから次のバンドとの練習に行くんだろう。と言ってもここの別部屋なだけだったりするけれど。
「余韻とかそーゆーのってないんかねー、あのふたり」
「似た者同士だよね、犬猿の仲なのに」
「本人たちは気付いてねーんだろーなー」
「それで後々くっつくの?」
「ラブコメじゃねーかそれ」
 イッコーが笑いながら突っ込んで来る。自分で言っておきながら、あいにくそう言う想像は出来ません。相手が黄昏以前に、千夜さんのあの姿で恋愛って全然考えられない。
「さて、と。おれも今日は夕方からうちん店手伝わにゃなんねーから早く帰んなきゃなんねーけど、ちょっとくらいなら余裕あるし」
「僕も今日は休みにしてるから、いいけど。帰ったらまた練習しなきゃいけないけどね」
 僕達は少し早めに切り上げ部屋を出て、それからスタジオ前のベンチに座り缶コーヒーを飲みながら30分位談笑した。始めた当初はそんな余裕すら無いほど切迫していたのに、今はライヴが近くてもこうしてとりとめも無い話ができるほどの余裕は持てるようになれた。
 普段でも会っている相手と言ったら仕事場の人間か、バンドの仲間達かしかないのでイッコーと話す機会は自然に増える。黄昏とは世間話なんて出来ないので、普段友達にするような他愛も無い会話をイッコーとすることが多い。黄昏テレビなんて観ないもの。
「んじゃ、また日曜なー。何かあったらこっちから連絡入れるわ」
 イッコーと別れると、途端に周りの空気が静かになってしまった。このままスタジオに戻って叔父さん達と話すのもいいけれど、明日はバイトに出るから今日の所は引き上げよう。仕事を邪魔するのも悪い。
 僕は一人で駅前に向け歩を進めた。今日は寒いと言っても太陽は出ていて、柔らかい春の光が街を照らしている。大通りに立ち並ぶ街路樹は例年より少し遅れ、ようやく桜のつぼみをつけ始めた。こんな気持ちのいい日には、あえてMDのイヤホンをつけないでいる。道行く子供のはしゃぐ声やたまに通る自動車のエンジン音さえ愛しく思えるから。
 季節が巡るのは遅いようで早い。充実している日々の中にいるととても遅く感じるけれど、振り返るとあっと言う間。去年の今頃は受験に失敗して、何もやる気が起きなかった。部屋の中でごろごろと時間だけを食い潰して行く自分に腹立たなかったほど、怠惰な日々を過ごしていたっけ。
 それに比べると今の方が苦しみは多いかも知れないけれど、その分得られる喜びも多い。
 来年の今頃は、もっと理想の自分に近づいているのかな。
 そんなことを考えながら歩いていると、歩道の向こうに楓さんの姿が見えた。こちらに気付いたのか、大きく手を振って駆け足でやって来る。ギターケースを抱えていて、どうやらこれからスタジオ入りする所みたい。
「ちわー。あれ、今日は休みー?」
「ええ、今日はバンドの音合わせで。さっき終わった所です」
「ふーんそーなんだー」
 楓さんはいつもの様に満面の笑顔を投げかけて来る。その曇りのない顔があまりに眩しくて、ついつい目を逸らしてしまう。今日も黒髪のポニーテールがよく似合っていた。
 彼女は初めて叔父さんのスタジオに行く時に案内してくれた女の子。僕がバイトに入っている時も常連さんとしてよくやって来るので、すっかり仲良くなってしまった。
 楓さんだけじゃなく、対バンしている人達ともスタジオを通じて仲良くなったりしているのでここ半年で交友関係はかなり広がった。色々な人と音楽の話ができるのは嬉しい。と言っても浅い付き合いが多いけれど、その辺は学校の友達と変わりない感じ。
「今から入る所ですか?」
「うんそう。大学に用事があって、その足で来たとこ」
 こう見えても楓さんは僕より一歳上で、駅から山側に少し歩いた所にある4年制大学に通っている。言動だけだと中学生にしか見えないけれど、背丈があるので高校生位?
「あ、そうだ。さっきたそくんみかけたよー」
「あれ、とっくに電車乗って帰ってるものだと」
「んー?でも海の方へ歩いてったよ。声かけたけど返事なかったし」
「海……?」
 海の方に何か用事でもあるのかな、と思うと黄昏の行き場所がすぐにピンと来た。
「じゃ、またねー」
「頑張って下さい」
 二、三話をして楓さんを見送った後、僕は港に向けて足を速めた。
 港が近づくにつれ、潮の匂いが強くなっていく。海岸沿いの歩道に植えられた桜の木と何も遮るものの無い広がる海が、一つの風景画を作り出していた。海が綺麗に感じられるのは何も夏だけじゃない。
 岩場の先端に人影が見えた。多分黄昏だろう。寒いと言う理由で冬になってからここに来ることも無くなっていたのに、わざわざこんな寒い日に海を観に来るなんて、いつもの黄昏だったらありえない。
 やっぱり悩みごとでもあるのかな?
 そのままそっとしておこうかとも思ったけれど、ここ最近の黄昏の唄っている時の顔が気になって仕方無かったから、意を決し岩場へ足を向けた。
 先端に辿り着くと、僕の足跡に気付いて人影が振り返った。ビンゴ。
「先に帰ったんじゃなかったの?」
「おまえこそ、何でここに」
「途中で楓さんに会って。こっちに向かう黄昏を見かけたって言ってたから」
「あの女……」
 髪の毛を掻き毟り、黄昏は悪態をついた。僕より楓さんに何度も体当たりを食らっているので苦手らしい。逆を言えば気に入られているんだろう。
「差し入れは?」
「そんなものないよ。期待した?」
「少し」
 僕が両手をひらひらさせてみせると、がっくりとうなだれる。
「コーヒーでもいる?買って来るよ」
「いや、いい。これだけ寒いと飲んだらトイレが近くなるから」
 黄昏は僕の誘いを断ると、また海を観始めた。どうやら喋る気配が無いので、僕も無言で隣に腰かけた。岩肌の冷たさがズボン越しに伝わって来る。
 今日は風がそれほど吹いていないので、波も穏やかで小さな漣の音が聞こえて来るだけ。
大海原の上に浮かぶ太陽に雲もかかってなく、気持ち寒さも幾分和らぐ。
 そのまま肩を並べのんびりと時間を過ごす。久し振りにここから観る景色も新鮮で、海岸沿いを飛ぶ海鳥を目で追っているだけでも随分楽な気分になれた。でも、内心では黄昏のことが気になって仕方無い。
 何を喋っていいのか判らないでいると、不意に黄昏が小声で言った。
「俺、ちょっと疲れた」
「え?」
 訊き返してみると、黄昏は小さく首を振り、寂しげな目で海を見つめた。その横顔は最初に出会った頃の時のように、少しやつれているように見える。
 でも、その理由が皆目見当がつかない。今はバンドだって上手い具合に転がっているし、黄昏にとって悪いことなんて一つもないはずなのに。
「何言ってんの。まだまだこれからだよ?しなきゃいけないことだってたくさんあるし」
「青空はそれでいいのかもしれないけど、俺は少し休みたい」
 僕が励ましの言葉をかけると、それを振り払うように黄昏が言った。
「どうし……」
 あまりに突然のことで、次の言葉が上手く出て来ない。黄昏は僕の顔を横目で一度見て、足元の小石を拾うと海に向け軽く放った。孤を描き、音も無く消える。
「風邪?」
「もあるけど、それだけじゃない」
 首を横に振り、黄昏は空を見上げ小さく息を吐いた。
「おまえがいつも苦しみながら前を向いて進んでるのはわかるんだけど……俺はそんなに強くないみたいだしさ、同じペースでついていくのは少しつらいかも」
 あ。
 言われて初めて、黄昏の内心が解った気がした。
「ご、ごめん……」
 とても気まずい気持ちになり、僕は咄嗟に頭を下げた。けれど謝った所で自分の心の中は一気に黒いもやもやで覆い尽くされて行く。
 今になってようやく気付いた。
 僕は自分のことしか考えないで、黄昏の手を引っ張っていたんだってことに。
 いや、考えてはいた。けれどそれは考えたつもりでしかなくて、本当の意味で相手の気持ちを考えるなんてことはしていなかった。
 黄昏だけじゃなく、今までの人生を振り返ってみてもそう。思い当たる節がたくさんあって、振り返る度に気が滅入ってくる。このまま黙っていると泣きたくなってしまうと思ったので、僕は慌てて立ち上がるとストレッチを始めた。
 他人のことを考えていたとしても、それは自分の考えの中でしか他人を見ていない。でもそれじゃ決して他人の気持ちなんて分かる訳がない。
 その人と僕とじゃ育って来た環境も違うし、考え方も明らかに違うはず。それを全部自分のカテゴリーにはめてずっと考えて来ていたんだ、僕は。
 何て馬鹿なんだろう。
「ハハ……何言ってんだろな俺。今の、愚痴だな。疲れてんだろうなきっと」
 自責の念に苛まれている僕の横で、黄昏は乾いた笑いを浮かべ寝転がった。うっすらと目を閉じ、大の字になり岩の冷たさを感じている。
 その泣き笑いみたいな顔を見ているだけで、こっちの胸が痛くなる。
「悩みごとでもあるのなら相談に乗るよ」
 堪え切れなくなったように、上ずった声で僕は言った。
 何とかしなきゃ。
 相手の気持ちがどうとか自分の考えがどうとかそんなのは後回しでいい。今は黄昏のその辛い気持ちを取り除いてあげなくちゃと言う気持ちで一杯になった。
「気にし過ぎだって、そんな大した事じゃないから。単に俺が考え過ぎなだけだと思う」
「なら、いいんだけど……」
 僕の心配させまいと、起き上がった黄昏が笑って手を振った。
「大丈夫、大丈夫。ずっとあそこにいたのがまだ残ってるのかな、些細な事でいろいろ考えこんてしまうっていうか……」
「もしかして睡眠不足って、そのせい?」
「そんなとこ」
 図星とばかりに鼻で笑ってみせる。黄昏の顔をよく見ると、ほんのりと目の下にクマができていた。それすら今の今まで気付かなかったのか僕は。
 一週間の内に何度も会って、一緒にいて。それなのに僕は自分のことしか考えてないで。
 黄昏のことをきちんと考えてあげる余裕すら無かった。
「……確かに僕が引っ張りすぎてたのかもね。ごめん。」
「いいって」
 逃げたくなる気持ちを抑え黄昏の顔を見て謝ると、優しくはにかんでくれた。その顔を見ているだけで目尻が熱くなってきたので、慌ててストレッチを続ける。そんな僕を笑顔で見て、黄昏は立ち上がるとズボンについた砂を払い落とした。
「まだ泣き言言うには早過ぎる。青空は俺以上に頑張ってるんだから」
「…………」
 僕は何か言おうとしたけれど、言葉が出て来なかった。
 多分黄昏は、僕の何倍もの苦しみを抱えて生きている。それに比べると僕の頑張りなんてものは、きっと付け焼き刃程度のものでしかない。
 だから黄昏にはそんな言葉で自分自身を苦しめて欲しくなかった。
「さ、行こう。日が暮れると途端に寒くなるからな、ここんとこ。俺もこれ以上風邪こじらせたくないし」
 もういいのか、黄昏は先に岩場を下りて行く。僕はもう一度大海原を振り返り、徐々に陽の落ち始めた春の空を見つめた。柔らかな陽射しが視界を優しい光色に染める。
 黄昏が辛いのは、僕のせいなんだ。
 自分のことしか考えなかった人間だったんだ。
 僕は本当に、人にやさしくできているのかな?
 無数の苦悩が脳裏を駆け巡るけれど、暴発しないように胸の内にぎゅっと閉じ込める。
 これからはもう少し、人にやさしくなれるのかな?
 ならなきゃいけない。そう、強く思った。
 もう少ししたら、一ヶ月位バンドの休みを入れよう。ここまで無我夢中で駆け足で来たせいで、知らない間に僕も疲れている。前に進むことに一途になり過ぎたせいで、周りを見る目が盲目になってしまった自分に今、気付いたから。
 忙しい日々を送ることで自分の弱さを克服してきたつもりだったけれど、実は何も変わっていなかった自分が何か情けなく、悔しかった。
 喚き散らしここから飛び降りたいなんてことも頭の隅の方で考えたりする。でも、もう少し頑張ってみようと思う。挫けるのはまだ早い。
「おーい、早く来いよー。イッコーん家へ飯食べに行こー」
 黄昏が呼んでいる。僕は手を振って応え、足元の小石で一番大きいものを手に取ると太陽目掛け大きく振りかぶって、投げた。


トップページへ  前のページへ  次のページへ  第1巻