→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第1巻

   021.コーヒーキャンディ

「まだ来てない?」
 僕が尋ねると、イッコーはやれやれと肩を竦めてみせた。
「まー、いつもの事っしょ。たそが遅れんのは今日に限ったことじゃねーし。でも青空と一緒じゃなかったらぜってーにライヴ始まるギリギリにやってくるよな」
 オレンジ色の頭を掻き、少し苦い顔をする。楽屋の隅で椅子に腰掛けている千夜さんを見ると僕の視線に気付き顔を上げたけれど、ぷいと横を向き煙草を吸い続けた。どうやら今日もご立腹らしい。
 日曜日の昼間にラバーズで演奏するのは始めて。今日はイッコーの前のバンド仲間が主催するイベントが昼から入っていて、そこに僕達も出演することになっていた。3時間6バンドの長丁場。チケットも結構売れているらしく、これほど大きなイベントに出るなんて経験は今までに無い。中規模で、2,300人位入るとか何とか。ここ数ヶ月は100人にも満たない別のライヴハウスでやっていたので、とても緊張する。
 『days』は幸いにして凄くいいスタートを切れたので、そこそこフロアにお客がいる所でライヴができているのは嬉しい限り。ワンマンでやるには人気も実力もまだまだ足りないとは言え、他のバンドだとお客が全然いない所でやるのも結構当たり前だったりするので、僕達はかなり恵まれている。黄昏はお客の数なんて全然気にしないって言っていたけれど、僕は真逆で凄く気にするタイプなのである程度の数は入って欲しい。入り過ぎるとかえってプレッシャーになってしまうけれど……。
 バンドのグルーヴがまだ上手く形になっていない状態でも、『days』は少しずつ水海界隈で注目を集め始めていた。イッコーや千夜さんがいるからなのは勿論だけど、それ以上に黄昏の熱唱する姿に惹かれ始めている人達がいる。そのルックス目当てで来るミーハーな女の子達もいるけれど、黄昏の歌唱力を認めている男の人も多く、客層はいつも半々。全員が全員僕達の音楽を聴きたくて来ている訳じゃないんだろうけれど、こちらはいつも全力で目の前にいる人達に曲を届けるだけでいい。少し悲しいけれどね。
 でもここでいい結果を出せれば、僕達の曲に向き合ってくれる人ももっと増えるはず。
 そういう重要なライヴになる筈なのに、開始30分前になっても黄昏はラバーズに姿を見せていなかった。
「ちょっと電話入れてくる」
 他のバンドの人達と話すイッコーを残し、一度ライヴハウスの外に出る。通りかかった受付前から、フロアが人で賑わっているのが見えた。
 今日、僕は朝から親に頼まれた急用を済ませていたので、ラバーズに来る前に黄昏の家に寄れなかった。用事が終わった後にも電話を入れたけれど出なかったので、先に行っているものだと思い僕もラバーズに直行したのにまだ来ていないらしい。
「……また出ないし」
 電池が切れているのか、携帯の向こうから繋がらない時の電話局の音声が流れてくる。
 どうしようか、迎えに行った方がいいかも。『days』の出番は二番目だから今から往復しても十分間に合う。リハーサルができないのは不安だけどもう仕方が無い。
 僕は一旦寒い外からライヴハウスの中に戻ると、イッコーに相談してみた。
「んー、そーだな、待ってるよりそのほうが確実だもんな。多分寝てっから叩き起こしてきてくんない?間に合わねーなら演奏順変えてくれるよーに頼んでみっから」
「そうならないことを祈るよ」
 前にも二回ほど、黄昏が寝過ごしたせいでわざわざ僕達の出番を後回しにして貰ったことがある。でもそれって相手にも悪いし気分のいいものじゃない。なるべく最後の手段にしたいけれど、黄昏のすぐに面倒臭くなって投げ出す部分は未だに治っていないから。
「こっちに連絡入れっ時はラバーズの内線に頼むな。ここ地下だから携帯通じねーんだわ」
「うん、分かった」
 イッコーの忠告を背に楽屋を飛び出し、急いでもう一度外へ。
「うわっ」
 地上に出た途端、横殴りの冷たい風が吹きつけて来た。せっかくの日曜だと言うのに空は雲に覆われていて、暗い。一気に冬に逆戻りしてしまったような寒さで、道行く人達もみんな厚着をしている。この寒さはしばらく続くそうで、来週には雪が降るかもとか言っていた。十数年振りの異常気象らしい。
 水海の街路樹は生え始めた緑葉が成長を止め、強い風に吹かれ不穏にざわめく。空の天気と相成って、僕の心まで同じ色に染まっていた。
 でも、それだけの理由じゃない。
 黄昏の家への道程の間、ずっと考えていた。
 もしかしたら黄昏は、もう一度部屋に閉じ篭もるつもりなのかも知れない。
 今の黄昏は苦しみを全て自分で抱え込んでしまっているみたいに見える。ずっと一人で暮らしていた為か、恐らく他人に心を打ち明けることを忘れてしまっている。疲れているのはそのせいと僕は思う。電話に出ないのもただ眠っている訳じゃなく、外に出るのを拒絶しているんじゃないかって。
 でも今は隣に僕やイッコーがいるんだから、一人で苦しむ必要なんてないのに。
「っ」
 ――そこまで考え、ぞっとした。
 僕が本当に黄昏を苦しめている原因だとすれば、何も言ってくれないのは当然だと思ったから。
 ああ、気が滅入ってくる。
 僕の考え通りなら、この先どうやって黄昏に会えばいいんだろう。
 考えれば考えるほど嫌な方嫌な方へ向かって行くので、胃がきりきりする。小さくなりそうな歩幅を無理矢理広げ、黄昏のマンションへ急いだ。
 到着した時に携帯の時刻はライヴが始まる少し前を示していた。早く黄昏を連れて戻らないと、自分達の出番に間に合わない。そしてこう言う時に限りエレベーターは11階の最上階からゆっくり降りて来たりする。くそっ。
 焦る気持ちを押さえられなくなり、エレベーターホール横の階段を全力で駆け上がる。その途中で息を切らしながら『ここで黄昏が自殺しそうになってたら』なんて昼メロみたいなことを考えていると、だんだん怖くなってきたので休憩を挟まず一気に最上階まで駆け上がった。よろめきつつ一番端の黄昏の部屋まで急ぎ、インターフォンを押す。
 そのまましばらく待ってみたけれど、黄昏は出て来なかった。
 もしかして、本当に……?
 怖い想像が脳裏をよぎる。でもそれはまず無いだろう。2年以上も一人で孤独を乗り切って来た強さを持っているんだから。黄昏が弱いようでいて強い人間なのは、今まで歌い続けて来たその足跡を見ればよく解る。それに僕に何も言わずにさようなら、は悲し過ぎる。僕ならともかく、黄昏はそんなに薄情な人間じゃない。
 ひとまず深呼吸してみて、僕は前に作っていた合鍵をドアノブに差し込んだ。
「おっ」
 鍵を開けて一気に開けようとしたら、いきなりガツンと音がして抵抗された感じで弾き飛ばされた。一呼吸置いてもう一度ドアを開けようとすると、開け始めで引っ掛かる。
 よく見るとチェーンが掛かっていた。ドアの隙間から見える部屋の中は真っ暗で、どうやらカーテンも閉め切っている。
「黄昏?」
 小声で返事してみた。しかし部屋の中は波打ったように静かで、物音一つ立たない。
 いないのかと思ったけれど、外に出ているなら内側からチェーンを掛けられるはずがない。なら黄昏は中にいる。少し心配になり、鼻先を隙間に突っ込み嗅いでみたけれど、変な匂いはしなかった。
 寝ているのならインターフォンを何度も鳴らせば起きる筈。その前に一度黄昏の携帯に着信を入れてみたけれど、部屋の中から着信音は聞こえて来なかった。
「黄昏、たそがれーっ」
 力押しでチェーンの掛かった扉をガンガン鳴らすのは近所迷惑にもなるので、素直にインターフォンを何度も押してみる。それでも中からは何の反応も無い、少し間を置いて鳴らしてみても一向に同じ。こうしている間にも時間は過ぎて行くのに。
「黄昏、いるのは分かってるんだから。早く出てきてよー」
 ドアを叩いて黄昏を呼ぶ自分の姿が惨めでたまらない。でも連れて行かないとみんなに迷惑をかけるし、信用も無くなる。僕達の姿を観に来てくれる人もいるはずで、それにこの機会を逃すとまた小規模のライヴばかり続くかも知れない。
 人情やら打算やらが頭の中で渦巻いているそんな今の自分がとてつもなく嫌になる。黄昏のせいにしたくないけれども押し付けたい自分がいる。本当はそっとしておきたいのに、状況がそれを許さない。時間もないせいか切迫した考えが次々に浮かんで来る。
 ああもう、僕は何なんだ。
 黄昏を連れて来る、こんな些細で簡単なことなのにどうしてここから身投げしたくなるほど激しい後悔と惨めな気持ちに襲われるんだろう。
 そんな自分の情け無さを呪いながら、ドアを背もたれにしてずり落ちる。
 これ以上焦っても仕方無い。もうどうにでもなれと、僕は頭を後に倒しぼんやりと廊下の天井を眺めた。手に持った携帯のディスプレイの時間は開演時刻を回っていて、僕は怒る気さえも失せてしまった。
 黄昏が悪いのか自分が悪いのか。それすら考えたくも無い。
 そのまましばらく一分間に一度位、後頭部を軽くドアにぶつけ続けて10分間程経っただろうか。反応は全く無い。今出て来てもここからだともう予定時刻をオーバーしてしまうので、一度イッコーと連絡を取ることにした。
 ラバーズに電話を入れ、イッコーを呼び出して貰う。しばらくして、イッコーの大声が受話器から飛び出して来た。思わず耳を遠ざける。
「おーい!今どこよー!もう始まっちゃうぜー!?」
「え……ああ、それなんだけど――」
 僕は一旦唾を飲み込んでから、手短に伝えた。
「黄昏が家から出て来なくて。連れて行くのにもう少し時間かかりそうだから、悪いけど僕達の出番後ろの方に回してくれないかな」
「え――――!!またかよオイ――っ」
 イッコーが受話器の向こうで天を仰いでいる姿が目に浮かぶ。悪いとは思いながらも他に方法が無いから、罪悪感を抱えて頼み込んだ。
「ごめん、この借りは後で必ず返すから」
「ったってなー、いきなり言われても……ま、頼んでみるけどよー。何でもいいから引っ張ってでも連れてきてくれよー、早く。家いるんだろ?」
「それが、いるんだけど……チェーンかかってて」
「はあ?」
「ドアのチェーン。だからこっちからじゃどうしようもなくって」
「あ〜〜〜。ったく、何考えて……もう少しこっちのことも考えてくれよなあいつ」
 珍しくイッコーが愚痴を漏らしている。でも言い分ももっともなので反論はしない。
「あいつ死んでないよな?」
 前置き無しにドキリとすることを言うイッコー。
「変なこと言わないでよ」
「わりーわりー」
 なるべく考えないようにしていたけれど、黄昏はいつ自分に引き金を引いてもおかしくないような危ういオーラを放っている。だからイッコーの言葉、洒落になっていない。
「んじゃあ、おれもそっちへ行こっか?ペンチ持って」
「いやいや駄目だよイッコー。そこまですると黄昏多分ステージ上がってくれないよ」
「う――、めんどくせーなー」
 ただやりたくない、面倒臭いと言う理由だけで黄昏は歌うのを投げ出さないだろう。
「黄昏にだって何か理由があるんだろうし。何とか説得して間に合わせるようにするから、そっちもみんなにお願いして」
「わーったよ、たく……なあ?ま、何かあったらこっちからも連絡入れるわ。んじゃ」
「ありがとう」
 僕の声が届くかどうかの所で電話が切れた。相当飽きれている様子で、これが後々悪い方向にバンドが向かないことを祈るしかない。
 時間は稼げたけれど、結局状況は変わっていない。自分の走って来た息もすっかり落ち着いていて、温まった体も廊下を吹き抜ける風ですっかり冷えてしまった。
「くしゅっ!」
 鼻がむずむずして、大きなくしゃみが出る。このままだと風邪を引くかも。でも僕はここで黄昏が出て来るのを待ち続けるしかない。
 ほとんど絶望的な気持ちでドアの前に座り込んでいると、背中で物音がした気がした。
「黄昏?」
 体を捻りドアの隙間から中を覗いて観ると、毛布を体中に巻きつけた黄昏がのそのそとこちらに歩いて来るのが見えた。部屋が暗くその表情は解らない。
 玄関の前で足を止めると、黄昏は低くか細い声で僕に言った。
「……悪い。今日のところは帰ってくれないか。一人になりたいんだ」
「…………。」
 居たたまれない気持ちになったので、僕は一旦玄関のドアを閉めた。黄昏の顔を見ながらまともに話ができる心構えを今の僕は持ち合わせていない。
「青空?」
「いるよ、ちゃんとね」
 ドアに背中を預けて返事をする。自分の弱い心にうんざりする気持ちと、黄昏が出て来てくれて安心した気持ちで全身に力が入らなくなっていた。
「でも、早く出て来てくれてよかった。風邪引いちゃうかと思ってたから」
 僕の冗談ともつかない台詞に黄昏の苦笑いが返って来た。
「話し声が聞こえたから。まだいるのかなと思って」
「勿論いるよ。黄昏を連れて行くって約束したもん」
 黄昏が何も言って来ないのを見て、僕は話を続けた。
「一人になりたいって今言われても困るよ。後で黄昏の言い分はいくらでも聴いてあげるからさ、せめて今だけはステージに立ってくれないかな。お願い」
 むず痒い鼻をぐずらせながら、畳み掛けるように言葉を並べる。
「ここの所黄昏が何か考え込んでるのは気付いてたけど……何も喋ってくれないでいきなりボイコットされてもこっちだってフォローできないしさ。どんな理由なのかも解らないし。僕でよければいつでも相談に乗るよ。ライブも今日終わったらしばらく入れないつもりだし……だから嫌かもしれないけど、今回だけは我慢して欲しいんだ。じゃないとみんなに迷惑がかかるし……前にも黄昏が遅刻した時とかあったけれど、大変だったんだよ?結果的に上手く行っても、悪い気持ちはずっと胸に残るし……。黄昏本人はいいのかも知れないけど、僕はみんなを裏切りたくないんだ。千夜さんだってイッコーだって、僕だって待ってるんだから、黄昏を。今日はいつもより大きいライヴで、お客さんも多いから……。うん、黄昏の歌を聞きたくて足を運んでくれている人だって中に絶対にいるよ。その人達を残念がらせていいの?」
 話しながら、これなら黄昏を説得できると内心ほくそ笑んでいる自分が見え隠れして気分が悪くなる。口にしたのは本心でも、それ以上に今の状況をどうやって打開するか考えている自分自身が嫌で嫌でたまらなかった。
 相手の嫌がっていることを強要させるなんて、普段の自分じゃ絶対にありえないもの。
 黄昏を想う心とみんなを想う心、その二つが分離している感覚がとても辛かった。
 こんな気持ちを味わう為に僕は黄昏を誘ったんじゃない。
 それともこれは、バンドを続けて行くには避けて通れない道なんだろうか。自分が思い描いているバンドの理想形が高過ぎるせいで苦しいのか。
 僕はただ、みんなで同じ所を目指したかっただけなのに。
「……ダメだ。俺、今唄えそうにない」
 やや間を置き、黄昏が喉を搾り出すように答えた。その声を聴いただけで黄昏の苦しみが伝わって来て、今は唄える精神状態じゃないのが解る。
 黄昏はいつもを全て曝け出し、歌を唄う。感情や想いを何もかも唄声に乗せる。でもそれって簡単なようでいて、とても苦しい。歌詞の気持ちをそのままに唄うから、唄い終わった後の疲労も半端じゃない。
 そうやって自分自身と向かい続けている黄昏の気持ちが痛いほどよく解っていたから、僕も誘う気持ちが徐々にしぼんで来た。
「大丈夫?」
「大丈夫だって。変な心配しなくても」
 僕を安心させようと黄昏は気遣ってくれるけれど、ちっとも心が休まらない。いつ変な気を起こさないかとハラハラしてしまう。
 不本意だけれど――仕方無い。
「……じゃあ、今日のライヴは中止ってことでいい?」
 溜め息を一つ挟み、僕は黄昏に訊いてみた。
 すると諦めかけていた僕の心に自分の口にした『中止』の単語が重く響き渡ると同時に、イッコーや千夜さん、他のバンド仲間やお客さんの顔がたくさん頭に浮かんだ。
 そしてまた、やっぱり連れて行くんだと言う気持ちが湧き上がる。
 腰を上げドアに向き直ると、もう一度だけ黄昏に呼びかけてみた。 
「黄昏がいなきゃ、ライヴできないよ。バンドって誰か一人が欠けただけで機能しなくなっちゃうものだから。僕達三人で演奏したって、みんなに一番聴いてほしいものは絶対に伝わらない。黄昏がいなくちゃ始まらないんだよ?」
 自分の気持ちに嘘をついている訳でもないのに泣きたくなるのは多分、僕は誰の気持ちも裏切りたくない優しくも甘過ぎる人間だからなんだってことを今、僕は理解できた。
 強い突風が吹き抜け、マンション下の木々が大きく音を立ててざわめく。 
「悪い」
 そして返って来た答えが、深く僕の胸に突き刺さった。落ち込むくらい残念に思うと同時に、黄昏をそっとしておけて良かったと心底安堵する。
「ごめんな」
 最後に黄昏が小さく謝る声が聞こえた。僕はしばらくドアを見つめながら、甘苦い気持ちで寒空の下立ち尽くしていた。
 これで……よかったのかな。


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