→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第1巻

   025.ALIVE

 ――最初、黄昏が何を言っているのか解らなかった。
「観に来る客は、一体俺達に何を求めてるんだろう?」
 僕にすがるような目を向け、胸の不安を口にする。
「リアクションが欲しくて唄ってるわけじゃない。他人のために唄ってるわけじゃない。売れたくて唄ってるわけでもない。誰かの代わりに唄ってるわけでもないし……ただ俺は、生きるために唄ってるだけだってのに――」
 そこでようやく、黄昏の本心が理解できた。
 何から何まで解ってないと気が済まないんだ、黄昏は。最初の頃はただ歌を唄っていればそれだけで十分満足していたんだろうけれど。
 いつも黄昏とお客との間には断絶的な隔たりがある。それはライヴ中の態度を見ていればよく分かる。言葉をかけることもしないし、ステージが終わるとすぐに袖に引っ込む。
 そして、曲の中に込められた気持ちを歌い上げることだけに全身全霊を注いでいる。ステージの上から見下ろす瞳に多分、客の顔は映っていない。
 でも自分の歌を誰かに聴いて欲しいと願っている。隣に誰かいて欲しい、ただそれだけ。
 悲し過ぎる、不器用なコミュニケーション。
 黄昏の唄は自分の中で完結している。この部屋で一人で唄っていたのを、そのままライヴハウスに場所を変えただけ。それでも公開自慰と何ら変わらない黄昏の唄が聴く人に届くのは、観ている人が自分と黄昏の境界が無くなるほど、その唄声に込められた気持ちを感じ取ってしまうからだと思う。そんな一方的で暴力的なものが受け入れられるのは、きっと誰かを傷つけようとする意志の無い、黄昏の純粋な世界が広がっているから。
 そんな動物園の檻や見世物小屋のような形でも僕達のステージが成立しているのは、常に客席に向かい音を投げかけているイッコーの力に寄る所が大きかった。イッコーがいなかったら、僕達の音楽は外に広がることは無かっただろう。
 僕もステージの上だと他人の事を気配る余裕なんて全然無い。その形で何も問題が起こらないまま順調に来ていたから、僕も黄昏に何も言わなかった。
 いつかこうして壁にぶつかる日が来るのは分かっていたのに。
「やっぱり、そばに俺の声を聴いてくれる人がいないとダメなのはわかってるんだ。だから青空と一緒にここで曲を作ったり唄ったりしてる時は、一人の時と違って全然怖くないし――楽しいし、聴いてくれて嬉しいって思える」
 黄昏は目を閉じ、その場で横になった。
「でも最近――俺の声が、誰にも届いてないような気がするんだ」
「…………」
 寂しがりやなんだ、黄昏は。
「いくら俺がステージの上で唄ったって……本当の事なんて何一つ伝わってないんじゃないのかなって。俺や青空が抱いてる気持ちを、本当にわかって聴いてくれてる人なんて、一人もいないんじゃないのかな」
 その気持ちは痛いほど理解できた。いくら目に見えるリアクションがあった所で、本当にこちらの心が相手に届いているかどうかなんて分かりっこ無い。だから黄昏は疑心暗鬼になってしまっているんだ。
 僕だって同じ気持ちは抱いている。でもそこに関しては前もって決着をつけたと言うか、なるべく考えないようにしていた。
 寝転がっている黄昏に、僕の意見を述べてみる。
「だから……例えばこうして僕が黄昏に話をしててもさ、僕が言葉に込めている意味を君が100%理解しているかと言ったら、それは絶対ないんだよね。自分も相手も同じ人間じゃない訳だから、頭の中にあるものをまるっきりそのまま相手に伝えられるかって言ったら、土台無理な話で」
 伝えることと受け取ることは、イコールではない。
 頭と頭がプラグで繋がっている訳じゃあるまいし、ものを伝えるためには一度自分の心の中をこの現実の世界に何かしらの形にしなくちゃいけない訳で、そこでもう既に本来のものから変質してしまっていると僕は思う。そして受け取る人それぞれで、美しいものに見えたり醜いものに見えたりと言う風に、感受性の違いでずれが必ず生まれてしまう。言葉だろうが唄だろうが表現だろうが、全て同じ。
「自分の中にある気持ちを一つ残らず唄や作品に込めることができても――多分相手はどこか捻じ曲げて受け取っちゃう気がするんだよね。それはもう、仕方無いと言うしか無いけど。誤解されて届いてしまうことなんてたくさんあるもの、別に悪いことじゃないと思うよ、それは。黄昏のその気持ちも十分僕にだって解るし」
 悪いことじゃない、そう思うしかない。
 何もかもマイナスに考えるからいけないんだ。もしかしたら僕達の歌が、思いも寄らない力で誰かの心を助けることだってあるかも知れない。
 伝わらないことを恐れちゃいけない。
「自分のことを解って欲しいって言う気持ちはどうしたって消えないから。唄と曲はまた違うけど、結局自分の創った物を完全に理解できるのは自分一人だけなんだよね。それが分かってるのに、僕は創り続けるんだよ。何故だか分かる?」
 僕の質問に、黄昏は体を起こし答えた。
「他に方法がないから?」
「そう」
 正しい答えが返って来て、僕は安堵した。
「だから伝わり切らないのを承知の上で繰り返すの。それって……悲しいけどね、考えると。それでもここに自分の想いを遺すためには、形あるものにしなくちゃいけないんだ」
 僕も小説を書いていた時には、技量なんて無かったから自分の気持ちを上手く文章にできない事なんて山ほどあった。でも、それでも僕は魂をぶつけるように一言一言に自分のできる限りの想いと願いを込め、書き綴っていた。
 心の奥底から発した本当の気持ちは、必ず相手に届くんだって。
 そう信じて書いていたからこそ、僕は『mine』を書いた自分自身を誇りに思う。
 伝わらなくったっていい。自分に嘘を付かずに本当に大切なことを言い尽くせたのが一番嬉しいし、今でも心の支えになっている。大声で自分がここにいることを叫べた、それが何より幸せで、かけがえのないものだってことに僕はその時ようやく気付いたんだ。
 この現実に生まれ落ちた意味、自分の存在意義、そして生きて行く理由。
 たった一つの答えを求め、僕は幾度となく自問自答を繰り返した。一つの解答を見つけては、また考え直し、悩む。少しずつだけどだんだんとそれらが見え始めて来たように思えるのに、まだまだ全然足りない気がする。
 そんなものはどこにもないよ。心の中にいるもう一人の僕がそう呼びかけて来る。薄々そんな気がし始めて来たのは確かだけど、続けていればいつか大きな答えを見つけ出せる日が来るんじゃないかって今でも思うんだ。
 そのために僕は叫び続けなくちゃいけない。叫び続けたい。自分の中から形になり出て来た物に触れ、初めて気付くことだって何度もある。そしてそれをまた言葉に変え、新しい何かを見つける。その繰り返しで僕は僕を高めて生きたい。
 それでもまだ、叫び足りない。
 僕はここにいてもいいんだ!
 胸を張ってそう言える日を夢見て、僕は創り続けている。
「伝わらないことを恐れてちゃ駄目だよ。決して届かないことが解っていても、伝わると信じて叫ばなきゃ。一番大事なのは、伝えることじゃなく叫ぶことだと思うよ」
 自分に向かって叫んだ言葉は、絶対に相手にも届く。そこを疑っていたら、伝わるものも伝わらない。自分の存在を示した所で、誰も受け取ってくれなかったらそれは最初からこの世に無かったも同然だと僕は思う。
「でもその叫ぶことも、最初は誰かに伝えようと思う気持ちから始まってると思うんだよ」
 その気持ちが無いんだったら、叫ぶ必要なんて初めから無い。もしこの世に僕一人しか存在していないんだったら、何も言わなくたっていいんだから。
 僕がいて、あなたがいる。結局現実って、そこから始まっている。
 別に作品を創ることだけじゃない、恋愛だって根っこは一緒だと思う。隣に愛している人がいて、安心する。寄りかかれる存在がそばにいるからこそ、心が安らぐ。そんな風に、知らない間に僕等は心の底で誰かを求めている。
 これは僕が自分の力で導き出した極論だけど、あながち間違っちゃいないと思う。
 他人の存在と自分の存在。その関係はいつだって迷う。
 僕が文章を、詩を書き始めた当初はそこでずっと悩んでいた。他人が解り易い言葉を選べばいいのか、自分にしか解らない言葉を作り上げ突っ走ればいいのか。前者を選べばありきたりな言葉しか浮かんで来ないし、後者を選べば他人にはさっぱり訳の分からないものになってしまう。それならさっき言ったように最初から書かなくていい。
 詩によってその比重を変えればいいのかとか、いろいろ考えていた思い出がある。でもそれも『mine』を書いたことにより、僕の中で一つの結論が出た。
 黄昏は今までずっと部屋に篭り唄い続けていたから、他人のことなんてちっとも考えたことがないんだろう。自分を生かす為だけにずっと、自分の為だけに唄っていたんだ。だから部屋を出て初めて他者と触れることで、悩みが生まれたんだと思う。
 このまま底知れない不安を抱えたまま唄い続けていられるのか?
 初めてのコミュニケーションに黄昏は怖がっている。でも僕が横で自分なりの答えを言った所で、多分今の黄昏には理解出来ないだろう。
 ならせめて、嫌われてもいいから黄昏の力になろう。バンドがどうなろうが構うもんか。当り障りのない優しい言葉で慰めるよりは、面と向かってはっきりと言った方がいい。
 僕は早口で言葉をまくしたてる。
「どうして人に自分の唄を聴いて貰おうと思ったの?叫んでいる自分を知って欲しかったんじゃないの?何もメッセンジャーになるつもりなんてないんでしょ?自分と似たような気持ちを抱えている人を探して、その人の代わりに唄おうとしていた訳?カリスマに祭り上げられて熱い目で見られたくてやっていたの?僕は黄昏がそんな気持ちでこの部屋から飛び出したんじゃないと思うよ。必死になって唄っている姿を、死に物狂いで生きている自分の姿をみんなに――」
「うるさいっ!!」
 頭に来たのか、黄昏は耳を塞ぎ大声で怒鳴った。ベッドの上の毛布を引っ掴み、自分の体に巻きつける。何も言わずに貝のように縮こまっている黄昏を見て、僕はやや間を置いてから話を続けた。
「……僕は最初っから、黄昏に僕の気持ちを代わりに唄って貰おうなんて思っていないよ。メロディを作って、歌詞をあてて……そこで僕の想いは一通り形に出来てるから。ギターを弾く時にも感情を込めるけれど、それは毎回毎回違うから一緒くたにできないけどね。言ってみれば、僕も黄昏と同じだよ。立ち位置が違うだけで。黄昏が唄で、僕がギター。イッコーがベースで千夜さんがドラム。それぞれがバンドの四分の一で、4人集まって初めて曲を届けることが出来るんだよ」
「じゃあ俺じゃなくったって別にいいだろ」
 僕の顔を見ないで間髪入れずに黄昏が言い返して来る。
「……本当にそう思う?」
 その投げやりな言葉に僕は少しムッとなり、訊き返した。
「黄昏に唄って欲しいんだ、僕の曲を。黄昏じゃなきゃ駄目なんだよ。僕の創った歌をこの世界に謳い上げられるのは黄昏しかいない。歌のパーツの一部なんだよ、黄昏が。メロディがあって、歌詞があって、コードがあって。そう言う曲の核の一つなんだ。だからそこが一つでも抜けてしまうと成立しない。そんな曲を創ってるんだよ、僕はね」
 今の言葉に何一つ嘘は入っていない。
 黄昏の歌を聴きたいんだ。黄昏の唄声が、僕の心を一番満たしてくれる。
 多分僕は世界一黄昏の歌のファンで、自分の歌を唄って欲しいと思っている。
「僕が黄昏を誘った理由なんて、言葉じゃ口にできないくらいたくさんあるけど……思い付きとか単純なノリで声をかけた訳じゃなくて、心の底から君じゃないと駄目だと思って決めたんだってことを解って欲しいんだ。本当はこうして口に出しちゃいけないことなんだろうけど――それって、黄昏を縛り付けちゃうことにもなるし」
 本当なら何も余計なことを考えずに唄って欲しい。黄昏の唄声はまるで曇りのないガラス玉みたいに澄み切っているから、ややこしいことや難しいことに心を悩ませて歪んだ歌を唄って欲しくない。
 でもそんな気持ちも、結局は自分の気持ちを満たしたいだけなのかも知れない。本当に黄昏のことを思って動いているのかなんて、自分でも解らない。
 だから僕は、包み隠さず全てを曝け出すことが一番良いことだと思った。
「だから黄昏を誘ったのなんて、僕のわがままなんだろうし……。黄昏をこの部屋から連れ出してやりたいって思う気持ちも本当だけど、自分のことの方が大事だったのは認めるよ。こう言うと黄昏が落ち込むだろうから絶対に言わないでおこうって決めてたんだけど……逆に言えば、黄昏だって僕のよりも自分のことを考えて手を取ったんだと思うし」
「違う、俺は……!」
 声を荒げようとする黄昏を手の仕草で制し、僕は頭を下げた。
「ごめん、今のはちょっと言葉が過ぎたね。――でも、悪いことじゃないと思うよ、それは。結果としてああしてバンドを組めて、イッコーや千夜さんに出会えて。僕達の演奏を観に来てくれるお客さんがいて。とても素晴らしいことばかりだもの。勿論、いいことばかりじゃないけれど……それを差し引いても、十分お釣りが来るほど良かったって思える」
 まるで走馬灯のようにこの半年のことが瞼の裏を駆け巡る。不思議と僕の心の中は、太陽の光に満たされたように晴れ晴れとしていた。
「黄昏」
「何」
「黄昏はまだ、バンドを続けたい?」
 僕の質問に、黄昏は困った顔で目を泳がせた。
「わからない……あそこで唄いたい気持ちもあるけど、凄く怖い気持ちもあって――もしかすると、ここで唄っている方がまだマシなのかな――って思ったりも、する」
 力無い声でぽつぽつと話すその姿は臆病な小動物みたいに見える。ぼんやりと、黄昏の中にある闇の深さが垣間見得た気がした。おそらく僕の想像以上に黄昏は脅えている。
 僕は腹を括ると、今日までずっと考えていたことを口にした。
「もし――黄昏がバンドに戻るつもりがないなら、僕は迷わず『days』を解散させるよ」
 ――これが、僕の出した答え。
 このまま黄昏が逃げ出しても、責める気は一つもしなかった。黄昏がどれだけ苦しんでいるのかは、話を聞いているだけで痛いほど解る。苦しいからこそ、何も言えずに抱え込んでしまったのかも知れない。他のみんなには悪いけれど、これが僕の決めた結論なんだ。
 黄昏は唇を噛み締め口をつぐんでいた。言いたいことが山ほどあるのに言葉にできない、そんな感じに見えた。
 僕は肩を竦め、言葉を続けた。
「解散させるって、別に悪い意味じゃなくって……『days』は黄昏がいなかったら成立しないから。黄昏がいたからこそ出来上がったバンドだと思うから」
「俺が?」
 親指で自分の胸を指差し驚いている黄昏の目を見て、僕はしっかりと頷いた。
「黄昏自身気付いているかどうかは知らないけれど――凄く人を惹き付ける魅力のある人間なんだよ、君は。こんなこと言われたら普通気にするものだけど、多分黄昏は『ふーん』としか思わないかもね」
「悪かったな」
 僕の冗談に付き合う黄昏が頬を膨らませてくれる。
「いいんだよそれで。男の僕でも惚れるくらいいいキャラクターしてるから。もし僕が女性だったら、間違いなくコロッと行っちゃってたと思うよ……って、逃げないでよ」
「いや、そういう気があるんじゃないかと思って……」
 話している間に黄昏は部屋の隅まで後ずさっていた。顔を引きつらせこっちを見ているので、咳払いを一つ。あいにく僕にもそう言う気は全く無い。男同士が絡む姿を想像するだけで気分が悪くなってくる(別にそれを悪く言うつもりは無い)。
 黄昏と一緒にいると居心地が良い、そう言うこと。
 僕が横に手を振ると、黄昏は安心したのかベッドの上まで戻って来た。
「それだけ、人間として凄く魅力があるんだよ。ライヴじゃみんな君を観に来てると思うし、イッコーや千夜さんだって君がいなきゃバンドに入らなかったと思うよ。僕一人だけだったら絶対無理だったに決まっているから」
「千夜がか?」
「じゃなきゃ最初から断ってたよ、絶対にね」
 半信半疑の顔で黄昏は僕を見るけれど、実際そうと思う。他のバンドで叩いている時と僕達のバンドで叩いている時、確かに顔色が違うもの。黄昏に言った所で鼻で笑われるだけだからそこは黙っているけれど。
「でも、あいついっつも俺に喧嘩売って来るじゃないか」
「うーん、千夜さんの場合は黄昏の『歌』かな?声とか唄い方とか」
 曖昧な答えになってしまったけれど、唄っている本人の心に惹かれたからこそ千夜さんも一緒にやっているはずで、心の底から黄昏を嫌っているように僕には思えない。
「僕もみんなも黄昏の唄があってこその『days』だと思っているから、他のヴォーカルを探して続けるなんて、絵が思い浮かばないし……僕もやりたくない」
「買いかぶりすぎだって。俺にそんな――」
 大きく手を振り黄昏は笑い飛ばそうとすると僕の無言の視線に気付き、言葉を詰まらせた。
「そんなこと問題じゃないよ。力のあるないの次元を飛び越えて、黄昏が必要なんだ」
 はっきりした僕の口調に黄昏は喉を鳴らし、唾を飲み込んだ。
「どうしてもって言うなら、引き止めないけど……千夜さんも叩かないだろうし、イッコーも抜けると思う。その後僕はどうするかなんてその時になってみないと解らないけど――音楽は辞めないと思うよ。僕は小説から物創りを始めたんだけど、やっぱり小説と音楽って違うから。音楽でしか出来ないことがあるのに気付いたんだ。それに――まだここで僕は引き返したくないから」
 そう言って、はっとなった。
 ずっと心の中で複雑に絡み合っていた糸が、一つになっていく。目の前で何かが弾け、心の中に白い光が広がって行くのが見えた。
「ギターを手に取った時から決めたんだ。自分のできることをやって行こうって」
 自分の左手を開き、食い入るように見つめる。指の先はすっかりごつごつになっていて、ネックを握る指の付け根にも大きなマメが出来ていた。
 この手が音楽に情熱を注いで来た僕の証。生きて来た時間、様々な想い、そして『mine』。それらが全て、形を変えこの手に宿っている。
「僕は今も生きることを諦めてないんだ」
「…………。」
 黄昏に向けて言ったその言葉が、自分の胸に深く響いた。あまりに深く突き刺さったので、涙腺が緩んで来るのを懸命に堪えた。
 そう。
 そうなんだ。
 諦めてない。
 まだ諦めたくないんだ。
 現実に負け、自分の力の無さを認めざるを得ない時が来たとしても、それでも諦めたくない。
 その気持ちが消え失せてしまったら、僕はもうこの世界にいられない。
 今の言葉は、僕の生きる意味そのものだった。
「……ごめん、何だか泣き落とししてるみたいでさ。そんなつもりじゃないんだけど」
 我慢出来なくなり溢れ出る涙を零さないようにを天井を向いても、止まらないものが目尻を拭う。涙声になっている自分に気付き、少し恥ずかしくなる。
 でも、言いたいことは全部言えた。後悔は無い。
 それに、今ここで僕の抱えていた想いがはっきりと形になった、それが嬉しかった。
 今日の日を僕はきっと、一生、忘れない。
 喉を大きく鳴らし、笑顔を取り繕った。多分僕の顔は不細工になっているだろうけれど、お構い無し。そんな僕を黄昏は、凄く優しい顔で見つめていた。
「ちょうど一月後にライヴをやる予定でいるんだ、ラバーズで。ここの所ずっと走り回っていたから、しばらく間隔を開けようって。この前みたいなイベントで、ライヴの時間は少ないけど。――で、その時に黄昏が来なかったら、『days』は解散する。その間に練習は一度も入れないよ。前日とかに音合わせはするかも知れないけど。時間はたくさんあるから、じっくり考えて結論を出して。その間は僕もここに来ないから」
 僕の提案を黄昏は真剣な面持ちで聞いている。一月の間黄昏と顔を合わせないのは残念だけど、これも課せられた試練だと思おう。
「はい、これ」
 自分の鞄を手探り、3冊の大学ノートを黄昏に渡す。黄昏がずっと書き貯めている歌のノート。ここに来る度に毎回借りていて、曲を創る時の参考にしていたもの。
 でもこれも、もしかすると必要無くなるかも知れない。
 なら借りっぱなしでいるよりは、黄昏の手元にあった方が絶対にいい。
「一度全部読み返してみれば?黄昏が過去を振り返るのは辛いことだと思うけど……自分の辿って来た道がここにある訳じゃない?何かヒントがあるかも知れないよ」
「……うん」
 黄昏は小さく頷くと、僕の手からノートを受け取った。小学校の頃、登校する時に僕の後ろを俯き加減でついてくる姿がだぶり、つい頭を撫でたくなる。そんな気持ちを抑え、僕は空になった二つのカップを片付けた。食器とかを全部洗い終え部屋に戻って来ると、黄昏はベッドに腰掛け、手の中のノートをじっと眺めていた。
「強制してる訳じゃないから。僕の話は一意見として受け止めて。流されないで、自分の力で決めて欲しいんだ。悔いのない方をね。その結果どちらを選んだとしても、僕は喜んで受け入れるよ。それでまた一つ、黄昏は強くなるから」
 これ以上何を言っても同じ言葉を重ねるだけ。なら僕は待つことにしよう。黄昏が、自分で鎖を外さないと意味が無い。
 本当の意味で黄昏がこの部屋から飛び立てるように、心から願っていよう。
「じゃ、待ってるよ」
 空になった鞄を背負うと、肩の荷が降りていたからかとても軽く感じた。
 ノートに目線を落としている黄昏の横顔を目に焼き付け、家を出た。これが黄昏と会うのも最後かも知れないなんて思うと名残惜しいけれど、僕は信じる。
 外はうって変わってとても寒く、まだ雪が降り続いていた。空はまるで僕の心を映したような色をしていて、自分と空の境目が無くなったような錯覚に陥る。溜め息をつくと、暖かくて真っ白な息が自分の鼻にかかった。
「……これで良かったのかな」
 誰に訊くともなく呟いた言葉は白日の空に吸い込まれ、消えた。


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