→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第1巻

   028.伝えたいことがあるんだ

 目の前に映るこの世界全てが実は嘘で、本当の自分は別の場所にいるんだ。
 誰だって一度や二度、そんな夢じみたことを考えたことがあったと思う。僕は中学生位の頃、一番そう思っていた。
 思春期特有の憧れなのかも知れない。子供の時にTVやゲームにたくさん触れたせいで、フィクションの世界に妄想を膨らませるようになったんだと思う。例えばみんなが寝静まった夜中に部屋の明かりを豆球だけにして、電源のついていないブラウン管をじっと眺め、その中から誰かが僕を迎えに来ないかなんて思ったりして。
 退屈で堪らなかった。もっと楽しい毎日を期待していたのに、あるのは日常生活のルーチンワーク。ゲームとか漫画とか、誰かが作り出した娯楽で自分を満たしていた。部活は上からやらされている感じがして好きじゃなかったし、与えられたものをただ楽しむのはとても簡単なことだったから。家に帰ればTVに張り付きゲームばかりする息子を見て、親はどう思ってたろう? 
 『mine』を書く前もそんなことをよく考えていた。布団の中で眠りにつき、次に目を覚ました時は知らない世界が目の前に広がっていて欲しい。僕の記憶が全て消去され、こことは違う次元で別人として生まれ変わっていたらいいのに。
 瞼の裏に広がる暗闇に同化して、僕という存在がなくなればいい。
 形は違うけれど、『ここにいたくない』思いがとても強かった。それだけ僕はこの現実を憎んでいた。無力な僕を思い知らされ、悲しみは僕を平気で打ちのめす。世の中は嫌なニュースばかりで、たまに入るワイドショーの明るい話題は世界を誤魔化しているようにしか思えなかった。そして僕は、飢えで苦しんでいる後進国の少女を助けることもできない。
 この体には、僕じゃなくて他の誰かが入っていればよかったんだ。それなら僕はもっと自分を活かせられる場所に生まれて来たかも知れないのに。
 僕は僕として生まれて来たこと自体が罪である。
 宗教で言う原罪とはまた別の意識だけど、生きる為に美味しい牛の肉を食べる、でもお腹一杯、残り物はごみ箱へ。コンビニで売れ残りました、はい廃棄。その中には無駄に犠牲になった命もたくさんいる。なんてことが身近に感じる罪だろうか。
 殺すことが罪かどうかの議論は置いておいて、僕は命あるものが死ぬと素直に悲しい。それが人間であればなおさら。幸い、身近な人は全員生きている。
 そんなことに四六時中意識を傾けていたら勿論すぐにパンクしてしまう。でも、考えなくてもじわりじわりと罪が僕の身体を蝕んでいるのは気付いている。
 そして僕は罪滅ぼしの仕方を知らない。
 まさに無いものづくし。スーパーマンに生まれ変わり、人々を助けられたらどんなに楽か。彼には彼なりの苦労があるだろうけれど、この場所よりは随分居心地が良さそう。
 でも実際はそんなこと、有り得ない。死なない限り朝はやって来るし、僕はずっと僕のまま。ただ、死んだら本当の自分がどこかで目覚める、のかも知れない。
 ともかく、僕は今この世界に、現実に生きていて、ここにいる。それだけは絶対に揺るぎようのない事実で、真実だと自問自答の末、結論付けた。喜ぼうが嘆こうが同じこと。
 だから結局、僕は僕でしかない。
 けれど今の僕にとってそれはとても誇りに思えた。
 何故ならあの頃には思ってもみなかった人生を、今僕は送っているから。
「すっかり暖かくなったよね。4月でも雪が降ってたのが嘘みたい」
 海岸線へ続く並木道を歩きながら、僕は降り注ぐ柔らかい日射しを全身で受け止めようと目一杯胸を反らした。そしたら右手に持っていたアコギの重さで思わずよろけた。
「眠い」
 後で黄昏が小さな声で呟いた。眼を落としてふらつきながらついて来ている。
「春の陽気のせいかもね」
「こんな日は縁側でひなたぼっこでもしたくなる」
「猫じゃない、それ」
 その光景がいとも簡単に想像できて面白い。
 今日は日曜日。昨日の晩は久し振りに黄昏の家に寝泊まりで、ごろごろしていた。どうせ次のライヴはいつになるか分からない。だからまったりと充実した時間を過ごした。
 先週のライヴの後には一本も入れていなかったので、予約の都合上次は良くても2ヶ月後。イッコーが知り合いのライヴにねじこませて貰うと言っていたので、実際はそれより早く演ることになると思う。
「遠いな〜」
「何言ってんの。いつも歩いてる道じゃない」
「家で寝てるほうがよかった〜」
 今朝目が覚めベランダの外を眺めてみたらせっかくのいい天気だったので、部屋でごろごろしているのも勿体無いと思い、黄昏を誘い外へ出た。
「着いたら気分も変わるって。ほら、潮の香りが強くなってきた」
 歩くにつれ道の先に続く大海原がはっきりと見えて来る。太陽の光が海面に反射し、美しくきらめいているのがここからでも確認できた。
 スタジオ入りしていない日にこうしてわざわざあの岩場に向かうのは初めて。黄昏の家からだと電車を使うから少し時間がかかる。それが面倒臭いのでしょう黄昏は。
「何か買って行く?」
 海岸沿いに降りると近場にコンビニが無いので、往き道でちょうど通りかかったコンビニに入るかどうか訊いてみる。起きてから何も食べていないし、ちょうど昼前だから時間もいい。叔父さんの弟の喫茶店が岩場の近くにあるけれど、せっかく来たんだから海を眺めながらご飯を食べたかった。
「まかせる。俺少し休んでる」
 そう言うと黄昏はコンビニの前にある黒のベンチに早速横になった。これじゃ本当に猫だよなんて思いつつ、僕は店に入った。
 自分の分と黄昏の好きそうなのを選び、買い物を済ませ店を出るとベンチの前にしゃがみ込んだ楓さんの姿を見つけた。向こうも僕に気付き手を上げる。
「よ」
「こんにちは。楓さん、今からスタジオへ?」
「うん、キミたちは?」
「ちょっと二人で海でも観に行こうかなって。後でスタジオに顔出すかも知れませんけど」
「ほえー。いー心がけだー」
 相変わらず楓さんは満面の笑顔を見せてくれる。
「行こうとしてたらたそくんここで寝てるのを見つけてさ」
「寝てる?」
 黄昏の方を見ると、狭いベンチに体を丸めすっかり眠っていた。
「寝顔かわいくてさー。まさにうにゃーごろごろってかんじだよー」
 笑顔で言われても、どう言う感じなのか僕にはよく理解できません。
 このまま寝られると困るので、買って来たばかりの緑茶の缶を黄昏の頬に押し付けた。
「ひあっ」
 裏返った声を上げ飛び起きる。その姿が可笑しかったのか、楓さんが隣で笑っていた。
「なっ、冷てえな、もう……!」
 笑いを噛み殺し、気の動転している黄昏に原因の缶を見せると、しかめっ面で僕の手から引っ手繰り一気に飲み干した。昼食用だったのに。
「んじゃ、たそくんも起きたことだし、私行くねー。まったねー」
 一部始終を見届けた後、楓さんはギターケースを担ぎスタジオ方面へ去って行った。
「何でいたんだ、あの女?」
「黄昏の寝顔を見てたんだって。うにゃーごろごろって感じらしいよ」
 教えてあげると、黄昏は紅い顔で首を傾げていた。
 目の覚ました黄昏を連れて海岸沿いに出ると、日曜だからか港に人の姿がぽつぽつと。釣りをしたり防波堤で日向ぼっこをしたり、思い思いに有意義な時を過ごしている。黄昏が飲んだ分を喫茶店隣の自動販売機で買い、僕達も港に降りた。
 ここの港は小さな漁業船やレジャー用の船しか泊まっていない、港とも呼べる大きさも無い港。右手の海辺の遠く向こうには水海の街が見え、左手には剥き出しの岩場が広がっている。僕達がスタジオ後によく訪れているのはその先端。でも手を使わないと登り辛い段差もあるせいか、人の姿を見かけたことは無い。
 でも今日は、岩場から降りてくる人影があった。
 膝上までの白いワンピースを着た明るい髪の女の子が、足元を気にしながらゆっくりとゆっくりとこちらへ向かって来る。
 僕はふと立ち止まり、その少女を見ていた。そのまましばらく眺めていると、後で大きなあくびをした黄昏が肘で背中を小突いて来たので、僕達も岩場へと向かう。
 だんだんとその子が近づいて来る。平坦な場所まで出ると、その姿がはっきりしてきた。
 見た所、中学生くらいだろうか。背中まで伸びた髪が潮風に吹かれて踊っている。飾り気の無いワンピースの下から覗く白い素足がやけに色っぽく見えた。
 何故だろう?不思議と僕は彼女から目を離すことができなかった。
 ちょうど港と岩場の境目で僕達はすれ違う。その時初めて彼女が顔を上げ、僕を見た。
 ――背筋を何かが駆け抜けた気が、した。
 彼女は僕を一瞥し、無言で横を通り過ぎる。
「青空?」
 思わず振り返った僕に、そばにいた黄昏が声をかけて来た。
「うん、何でも――ないよ」
 怪訝そうな顔をした黄昏にはにかみかけると、何事も無かったように先を歩いて行く。僕はもう一度振り返り、彼女の背中を見送った。無意識の内にその目に焼き付けておこうとしたのかも知れない。
 整った顔立ちに、くりくりした猫みたいな吊りがちの目が強く印象に残った。
 彼女、いつもここに来てるのかな?
 また会えたらいいななんて少し思いながら、黄昏の後を追い駆けた。
「やっぱり、思った通りだ」
 思わず感嘆の息が漏れてしまうほど、春の海は美しかった。苦労して先端にやって来た甲斐があったと言うもの。今の女の子もこれを観に来たんだろう。春になってから一度も来ていなかったから知らなかったけれど、実際、想像を遥かに超えていた。
「腹減った」
 感動している僕の気持ちを削ぐように黄昏が言い、買い物袋を漁り始めた。まずはお腹を満たしてから、と言うのは花見でも言えることなので、僕も食べることにした。
 僕は唐揚弁当と、それだけじゃご飯が足りないのでツナマヨネーズのおにぎり、烏龍茶。コンビニの弁当はご飯が少なくて困る。黄昏は焼肉弁当とさっき買ったばかりのレモンティー。一口チョコとかお菓子もいろいろ買っているけれど、いきなり全部食べる必要はない。のんびりしようと思っていたから、僕もアコギを持って来た訳で。
「でも」
 黄昏が口の中に物を入れたまま話しかけて来る。落ち着いてと僕が手でジェスチャーすると、緑茶で一気に流し込み、一息つく。
「嘘みたいだ。自分が今ここで、こうしていられるなんて」
 柔らかく微笑んでから、黄昏はまた弁当を食べ続けた。
 たった一言だけど、それにどれだけの想いが篭もっていたかは容易く理解できた。
 僕も同じ気持ちでいた。本当に、今、僕が、ここにこうしていられるなんて。
 心のどこかで絶対無理だと思っていた。でも、そう思っていたのは自分を信じていなかったからだって今は言える。自分の力を信用していなかったし、何かを始めることにずっと脅えていた。結果を知る前から怖くて逃げ出そうとしていた。
 自分一人だと絶対に途中で投げ出していたと思う。我慢してやり続けられたのは、『days』のおかげ、黄昏の、イッコーの、千夜さんのおかげ。
 そして信じていたから、黄昏の力を。黄昏の力を信じた僕自身を。
 これで終わった訳じゃない。これからまた始まるんだと、先週のライヴは僕に思わせてくれた。気持ち的にもバンド的にも一区切りついたおかげで、僕の心はこれまでに無いほど穏やかで、昔の自分を冷静に振り返ることができた。
 こうして今日やって来たのも、バンドの原点がここにあるような気がしたから。
 今日はやけに海鳥が多い。あちこちから引っ切り無しに鳴き声が聞こえて来る。
 雄大な海、潮の匂い、どこまでも続く空が僕を包み込む。ここで景色を眺めながら考えごとをしていると、歌詞やメロディがフッと浮かんで来る。創作の面でも精神的な面でも随分助けられた。普通ならこうした断崖の先端にいると飛び降りたくなったりするんだろうけれど、僕は逆にもっと頑張ろうと言う気持ちが湧いて来た。
 言葉にすると臭いけれど、ここは何かが生まれる場所なんだと思う。剥き出しの岩場で草花さえロクに生えていない死の場所のはずなのに、不思議ととても命を感じるんだ。
「それ、食べていい?」
「交換ならOK」
 黄昏とおかずの中身を一つ交換して貰う。緩やかな風が潮の香りをたくさん運んで来て、お腹が一杯になりそう。全部食べ終わった頃にはすっかり眠くなり、このままここで寝てしまいたくなる。そんな僕とは対照的に、黄昏は元気が出たのか立ち上がると軽く体を動かしていた。さっきまで凄く眠そうにしていたのに……。
「始まりはどこだったか/今日をまた小石に刻んで/あてもなくさまよい続けた/信じてたもの/置き忘れたまま――」
 我慢し切れなくなった僕が寝転がって目を瞑っていると、横で黄昏が唄い始めた。一月以上前に作っていた『小石』。歌詞をなぞると黄昏のこれまでの葛藤を暗示しているみたいで、偶然とは思えなかった。書いたのは僕だけど、うっすらと感じ取っていたのかも。
 ああ、あのライヴの後で黄昏の唄声を聴くのはそう言えば初めてだっけ。
 なんて思いながらうとうとと夢見心地で耳を傾けていると、目尻を伝う自分の涙に気付いた。母親に子守唄を聴かされているみたいで、幸せな自分を実感したからかも知れない。
「青空」
 黄昏の声に意識を呼び戻され、僕は目を開けた。真上から僕の顔を覗き込んでいる。
「よく寝た?」
「……寝た?寝てた?」
「30分くらい」
 ずっと目を閉じたまま黄昏の唄を聴いていたような気がするけれど、上体を起こし携帯の時計を確認したら確かに30分ほど過ぎていた。うたた寝してしまったみたい。
「俺寝てないのに」
「ごめんごめん。代わりに寝る?」
「唄ってたらすっかり目が冴えたからいい」
 黄昏は少し拗ねたような口調で言い、足元の石を海に投げつけた。悪いことしたかな。
「ずっと唄ってたんだ?」
「ああ。でも部屋で唄うのと違って、気持ちいい。周りに何もないからかな」
 苦笑混じりに答え、黄昏は僕の隣に腰を下ろした。
 その横顔は最初に出会った頃と違い、生気に満ち溢れている。幼さも随分消え、顔立ちもかなり男っぽくなった。
「でもまだ眠そうな顔で僕の後ろをついてくるけどね」
「んっ?」
「何でもないよ、独り言」
 口に手を当て小さく笑う僕を黄昏は不思議そうな目で見ていた。
「けどもう1年近く経つんだよね。黄昏に会ったのが6月……末だっけ」
「かな。それだとまだ10ヶ月ちょいだけど」
 まだ拗ねているのか、横から細かい指摘を入れられてしまった。
「すっかり変わったよね、黄昏」
「そうか?俺はおまえのほうが変わったように思うけどな」
「僕が?」
 思いがけない台詞に驚いている僕に黄昏は頷いてみせる。
「前はもっとのっぺりとした顔してた。感情の振れ幅が小さい――人形みたいな感じで。
今は全然違って目の色が濁ってない。いつも眉間に皺を寄せてるのだけはそのままだけど」
「悪かったね」
 顔では笑ってみせるけれど、内心少しショック。そんなにいつも僕ってしかめっ面かな?
 でもそれより、目の色が変わったと言われたのが嬉しかった。黄昏に再会する前までは先の見えない自分に半ば絶望したまま、本当に生き人形のような日々を過ごすだけの人間だったから。目の輝きでは黄昏に到底及ばないけれどね。
 両親も変わった僕に気付いてくれているんだろうか?もしそうなら、嬉しいな。
「けどね、自分がギター弾けるような人間になるなんて、本当に思ってなかったよ」
 そう言って僕は隣に置いていたギターケースからアコギを取り出し、弾く体勢を取った。軽くストロークすると、今日も調子の良い音を奏でてくれる。
 ピックを持たずに指で弦を爪弾いてみると、漣の音と重なり家で弾くよりも深い音色が辺りに広がる。一旦弦を手の平で押さえ音を止め、黄昏に見せるように左手を左右に動かして音域のあるフレーズを鳴らしてみた。
「まだまだ下手だけどさ、これだけできるようになったもの」
 ちょっとだけ鼻高々になる。僕が黄昏に唯一勝っている部分があるとすれば、ギターの腕だけ。単に黄昏は楽器を弾くのに興味が無いだけなんだけどね。
「合わせて唄ってみる?何でもいいよ、『days』のでも黄昏の曲でも」
 そして他人の曲もライヴハウス以外じゃほとんど聴かないから、黄昏と演る時はどうしても曲が限られてしまうのでした。
「じゃあ……『貝殻』で」
「了解っ」
 両手を組み指の間をマッサージしてから、僕はギターのネックを握った。
 ボディを叩いてカウントを取り、『貝殻』のイントロをアルペジオで演奏する。この場所で思いついた曲だから、一曲目にちょうど良かった。
「ああ/僕が消えてしまう前に/この気持ちを/君に託したいと思っているから」
 僕達は映画の1シーンの中にでもいるんじゃないかと錯覚してしまいそうになる。
 黄昏の唄声はより深みと感情の度合いが増していて、以前よりもずっと胸に響いて来る。
 ますます、黄昏の唄声が好きになっている自分に気付く。聞き惚れて思わず弦を弾く手が止まってしまいそうになるほど、僕の心を鷲掴みにしていた。
 曲が終わった時の充足感は半端じゃない。黄昏と顔を見合わせ、力強く二人でサムズアップする。この曲をくれたこの岩場に、僕は心から感謝した。
 休憩を挟みながら、『夜明けの鼓動』『雪の空』をそれぞれアコースティックバージョンでやってみる。僕のギターと黄昏の唄声が溶け合い大海原に広がって行くのが、とても心地良かった。いつになく優しい声で唄ってくれたので、僕も優しい気持ちになれた。
 3曲終わると黄昏は腰を下ろし、買い置きのペットボトルの清涼飲料水に口をつけた。その横顔はライヴが終わった後の時のように満足げで、とてもいい顔。
 僕も座りっぱなしなのでギターを置き立ち上がると、その場で体を伸ばす。眠気を完全に吹き飛ばしてから、もう一度腰を下ろした。
「俺、ライヴの一曲目でがむしゃらに唄っただろ」
「えっ」
 水平線を見つめながら、不意に黄昏が口を開いた。驚いている僕の顔を横目で見て、大海原に視線を戻す。これから話す内容を察知して、僕は身構えた。
「いつも唄う時は、あまり何かを考える事がなくて……心で感じるままに唄ってるんだけど、あの時はもう、余計な事は何一つ考えずに唄ったんだ。自分の状況とか、ステージに立ってる事とか、その曲にどれだけ自分が想いをこめてるだとか、音程を合わせなきゃとか、リズムがどうだとか、こういう歌い回しだとか、歌詞が間違ってようが、もう全部どうだっていいって。へたくそだろうが全然構わないから。頭の中からっぽにして、自分の核だけで唄いたくて」
 黄昏は正直に胸の内を語ってくれた。この前のライヴの後にイッコーと3人で打ち上げをしたけれど、その時は本心を出さずにいた。多分自分の気持ちに整理がついたから、今こうして僕に聞かせてくれている。
「吐き出したかったんだ、一度何もかも。多分俺の中にはあそこに籠り始めてから――いや、それ以前の時期かもひっくるめて、大きな膿が溜まってたんだと思う。嬉しい事や辛い事、何もかも全部抱えこんでしまったせいで産まれた膿が」
 そのことは僕も再会した時からずっと感じていた。
 黄昏は捨てることをしない。全てに向き合い、一つ一つ答えを出しながら進んで来た。でも解決出来ていないことがたくさん残っている所に次々に難題が襲いかかって来たせいで、余裕を無くし身動きが取れなくなったんだと思う。
「俺は今まで唄う事をここにいるための手段、みたいにしか考えてなくて。唄ってなきゃ闇に呑み込まれそうで、怖くて。だから自分の感じた気持ちをメロディにして、唄ってきた。けどだんだん知らない内に、それが重石にすり変わっていった。『唄わなきゃ死んでしまう』って強迫観念にずっと追われてた気がする。それは今もそう」
 諦めた顔で、やや投げやりに吐き捨てた。
 黄昏にとって唄を捨てることは人生を放棄するのと同意義。だから、重い十字架を背負ったまま歩き続けることを宿命付けられているようなもので、そこから生まれる苦しみの大きさは僕には想像もつかない。
「気が狂ったように唄って、不安を取り除きたくて、恐怖心に目を向けたくなくて、暗闇を感じないように、全力で逃げてた。それが俺の全てで、多分途中で生き絶えるまで続くんだろうなって。だけど――青空と会って、変わった」
 口元を結び、黄昏は僕に微笑みかけた。
「誰かに唄を聴かせる事で、こんなにも楽になれるのかって。隣に誰かいるだけで、こんなに安心できるなんて。そう思った。だからステージで唄うと凄く気持ちよくて、嬉しくて。俺の唄う場所はここなんだって、心の底から思えた」
 照れもなく喋る黄昏を見ていると、こっちが恥ずかしくなってきた。でも、嬉しかった。僕がそう思えるきっかけになったのなら。
「だけど――」
 黄昏は難しい顔を浮かべ、言葉を詰まらせた。
「最初はそれでよかったけど――だんだん自分のやってる事が疑問に思えてきたんだ」
「どんな風に?」
 僕が問い返すと、両手を顔の前で小さく打ち合わせ、話を続けた。
「どうして見ず知らずの他人にこんな事してるのかなって。向こうが俺の事を知ってるわけないのに。見ず知らずの人間の歌をみんな聴きに来てるって、とても変な絵面だと思わないか?そう考えると怖くなって、無理矢理こっちに振り向かせようって思いながら唄い続けてた。俺の事を早く知ってくれって、俺はここにいて、ここで唄ってるって」
 だから、いつもあんなに切羽詰った顔で唄っているんだ、黄昏は。自分を見て欲しいから、苦しんでいる自分を知って欲しいから。そうすれば救われるとずっと信じていたんだ。
 今ようやく、僕の中で一つに繋がった。黄昏の唄う本当の理由が。
 自分の存在理由、生きる目的そのものなんだと。
 だからこそこうして他人の心を震わせる歌を唄えるんだ。唄の中で叫んでいるのは執拗なほどの生への願い。聴いている僕等はそこに自分の姿を見出している。
 真剣に聞いていると喉が乾いてきたので、黄昏から受け取った清涼飲料水で口をゆすいだ。一息つき、ペットボトルを返す。
「でも、黄昏だって知らない人の唄とかライヴで聞いて、いいと思うでしょ?」
 深い話題ばかりだと気が沈んでしまうので、さりげなく振ってみた。
「……時もある」
「同じことだよ。みんな気持ちを感じに来てるんだから」
「そうかな……そうなのかな」
 僕の答えに釈然としない顔をしながらも、黄昏は渋々と納得したみたい。
 一概にそうとは言えないけれど、僕の場合は気持ちの入った音を心が求めている。だからライヴを観るのは好きだし、売るためだけのヒットチャート上位に並ぶ歌謡曲には何の心も揺れ動かない。消費されるだけのメロディには興味が無いんだ。
「黄昏にもいつか解る時が来ると思うよ」
 まだ黄昏は、自分のことしか考えて生きていない。僕が黄昏のおかげで客観的に他人のことを考えられるようになったみたいに、何かがきっかけで黄昏もそれに気付いて欲しい。その時にはまた、新しい存在理由を見つけられると思うから。
 一つ咳払いの後、黄昏は話を戻した。
「で……次第にわけわからなくなった。みんな俺達の曲を聴きに来てるけど、ちゃんと届いてるのか不安で堪らなくて。叫んでも叫んでも、目の前にいるのに何も届いてない気がして、凄く孤独を感じて……寂しかったんだ」
 胸に込み上げるものがあったのか、Yシャツの袖で顔を拭う。
「まだ、一人ぼっちなのかって。これならまだ、誰もいない場所で唄ってた方が気が楽だ。だから逃げた。結局ここも俺の場所じゃなかったなって思った」
「何だか逃げっぱなしだね」
 相槌を打つはずが、つい本心が口を突いて出てしまった。僕が言えた義理じゃないのに。
「ごめん……今のは、失言」
「いや……いい、ホントの事だし」
 そうは言うけれど、深く突き刺さったのか背中を丸めて沈んでいた。ごめん黄昏。
「でももう一度ステージに立って。そしてあの時ようやくわかったんだ」
 すぐに気を取り直し、黄昏はしゃんと背筋を伸ばしてはっきりと言った。
「俺、歌を唄うのが好きなんだなって」
 隣にいる僕だけじゃなく、目の前に広がる景色に、この現実の世界に宣言するように、そして自分自身に言い聞かせるように力強く。
「あの時、初めて実感できた。これまで好きだとか嫌いだとか、そんな事考える余裕さえなかったけど。生きるためにしょうがなく唄ってたところもあった。誰に言われる事なく、自分に鞭打って。でもそれって、とても苦しい事なんだ」
 自分の右肩に置いた左手で、強く体を抱きしめる。
「いつの間にか、限界近くまで俺の心はボロボロになってた。青空に心配される前から、少しずつ部屋で唄う回数が減ってきてたし……一月前、最後に青空が来てくれた時から五日くらいは唄うのを完全に止めた。少し休んで回復しようって思ったのもあったし――青空に言われた通り、自分を一度じっくり見つめ直してみたかったんだ」
 黄昏は僕を見て照れ臭そうに笑った。自分のことだと何もかもあっけらかんと話す黄昏だけど、他人に言われ行動するのには照れがあるみたい。
「けど変だな、少し休もうなんて……昔じゃ考えられなかった。1日休んだだけで、もうアウトだって思ってた」
「それだけ、余裕が出てきたってことじゃない?気付いてなかったかも知れないけど――そう思えるってこと自体、まだ自分の人生に先があるって希望を持ってるってことだから」
「かな」
 僕が指摘すると、黄昏は紅い顔で鼻を掻いた。
 一週間先さえ先の見えない日々を僕達は送っていた。今も僕は一月先の自分がどうなっているのかなんてちっとも想像できない。
 でも、未来を思い描くことはとても大切なことだって知ったんだ。
 未来が無いと希望も無くなる。希望が無くなれば、待っているのは無しかない。
 夢や目標、それらは希望の先にあるもの。姿形さえなかなかはっきり見えないものに捉われて足を踏み外すより、自分の足元を見てできることをやるのが重要なんだって。『days』が時間をかけ、それを僕に教えてくれた。
 海鳥が僕達の目の前を横切る。すかさず黄昏が手元の小石を投げつけてみたけれど、かすりもしないで海面に消えて行った。
「ずっとさかのぼって考えたんだ、どうして俺は歌を選んだのかってところまで。そして思い出したのが、中学の時、文化祭でバンドを組んで唄った時の事」
「初めて聞いたよ」
 突然現れた話に驚いている僕を見て、黄昏が可笑しそうに笑う。
「自分でもすっかり忘れてたな。誘われてヴォーカルやって、唄って……最初はみんなに馬鹿にされてたけど、いざ蓋を開けて見ると大盛況だった。曲が終わって、拍手の中、体育館の舞台の上で立ち尽くした時の感覚――今でもよくわからないけど、何だか気持ちよかったんだ。それがあったから、俺は歌い始めたんだと思う」
 なるほど、黄昏の唄のルーツはそれだったんだ。
 よくよく振り返ってみると、子供の頃黄昏が唄っていた所なんて一度も目にしたことが無い。会っていない頃の話もほとんどしないので、てっきり僕は身一つでできて、一番直接的に内面を吐き出せるものだから唄を選んだものと思っていた。けれど、叫びたい気持ちと歌はすんなりと結び付く。多分黄昏もうっすらと気付いているはず。
「それを思い出したのをきっかけに、いろいろ考えて……。『俺って、好きで歌を唄ってるのかな?』って疑問にぶち当たった。でもどれだけ一人で考えても答えが出なくて……だからステージに戻ってみたんだ。あそこならその答えが見つかるかもしれないって」
 その話を聞いていて、僕は思った。
 黄昏は、ロックスターなんだって。
 僕との覚悟の違いをはっきり思い知らされた。でも、嫉妬心は生まれない。ステージ上に答えを探している黄昏の苦しみを隣でずっと見て来たから。そうやって自分自身と戦い続ける黄昏に、僕は尊敬の念すら抱いていた。 
「だからああやって唄った。そしたら心から唄う事を好きになれるかなって、思ったんだ。唄う自分を感じたくて、声を出す事を全身で感じたくて。それで……気付いた。俺は始めから好きだったんだ。馬鹿みたいな話だけど」
 最後は苦笑混じりに呟く。勿論僕は、全然馬鹿だとは思わない。答えを探し続けるその姿は、僕にはとても格好良く見えた。その遠回りは後々きっと、黄昏の力になる。
「駄目だったら、黄昏、どうしてた?」
「もし、やっぱり唄えない、俺には無理だってあそこで思ったら……心底嫌いになってたと思う。何もかも投げ出して……終わってたと思う。そう考えるとぞっとする」
 言われて初めて、僕もぞっとした。あの時は黄昏が戻って来ただけでもう何もかも大丈夫だと思っていたけれど、黄昏はあの一曲目に全てを賭けて唄っていたんだ。
 それを知った僕は、どっと背中から倒れ込んだ。上手く行ったから良かったものの、駄目だったら僕はここでこうしていられなかった訳か。
 全く、いつも黄昏は冷や冷やさせてくれるんだから。
 僕は仰向けに寝転がった体勢のまま、全身を大の字に広げた。狭い自分の家だと寝たまま体を伸ばせないので、ここに来るといつもこうして解放感を味わっていた。正午に比べると太陽の位置も降りて来て、眼前に広がる空が優しい光に覆われている。岩場もすっかり温まって、背中の暖かさと適度にひんやりとした潮風が程好い感じにマッチしていた。
 そのままの体勢で僕は訊いてみた。
「黄昏」
「何?」
「結局、答えは出たの?」
 ステージの上で唄い続ける理由を。
 僕の質問に黄昏は目を閉じ、横に首を振った。
「一ヶ月、毎日考えてみたけどちっとも答えなんて出なかった。唄うのが好きなんだって事はあの時わかったけど。ただ、これからどうすればいいのかなんて今でもわからない。自分の何が悪いのかなんて見えない、怖いのなんてちっとも解消されてない……もしかしたら俺、あそこで唄う資格なんてないのかもしれない」
「そんなこと……」
「でもいいんだ、そんな事はどうだって」
 疑問を振り払うように頭を振り、自分の顔を軽く両手で引っ叩く。
「これからも多分、いや絶対しんどい事とか辛い事とかいっぱいあるけど……」
 黄昏は僕の方に体を向け、目を輝かせ言った。
「それでもさ、やっぱり唄いたい。俺はステージに立って、みんなの前で歌っていたい。そうする事で俺自身救われるし……嬉しい、楽しい。それに……青空達が俺を助けてくれてる事もわかったし」
「えっ?」
 思いがけないことを言われ、僕は体を起こし訊き返した。
「おまえ達の出す音に囲まれて立ってると、包みこまれてるような感じがするんだ。優しかったり、ヒリヒリしたり……曲によって違うけど。青空のギター、イッコーのベース、千夜のドラム。全部、俺を護ってくれてる気がして……戦う俺を後押ししてくれてる」
 自分の両手に視線を落とし、体中に実感したものを確かめるように手の平を握り締める。
「それって結局」
「信頼してるから」
 言葉の尻を取ると、黄昏は面食らったような顔を浮かべた。
「でしょ?じゃなきゃそうは思えないよ。みんなに信頼されてるんだよ、黄昏は。黄昏がいるからこそ、僕達も迷い無く音を出せる。いつもは少し皺枯れた声の黄昏が、張り詰めた声で感情や気持ちを包み隠さず唄ってくれるからこそ、僕達は自分の音を出せるんだ」
「そうだな」
 僕の言葉をしっかりと受け止め、感極まった顔を見せる。
「この前のライヴで教えてくれた、みんなが」
 ――その想いに気付いてくれただけでも、僕は死ぬほど嬉しかった。
「だから俺……戻るよ、バンドに」
 黄昏は立ち上がり、僕の目を見て力強い声で言った。
「だって、伝えたい事があるんだ」
 両手を広げるジェスチャーで、自分の想いを表現する。
「たくさんたくさん。だから俺も青空みたいに信じてみたいと思う。曲にこめた気持ちが伝わるって信じて、叫んでいきたいと思う。俺、それしかできないから」
 僕は少し微笑み、黄昏に言ってやった。
「それが答えだよ、きっとね」
 そして僕も答えを一つ見つけた。
 今の黄昏みたいな笑顔をもっと見たい。
 曲を作ってライヴで届けることで、みんなの笑顔を見れる気がする。そうすれば僕はもっと人に優しくできるかも知れない、強くなれるかも知れない。
 自分の物を創る原点が見えた気がして、僕は湧き上がる胸の熱さを全身で感じていた。
「新曲作ってきたんだ、聴いてくれる?」
 わくわくした気持ちでギターを手に取る。今回のことがあった後に作ったばかりの曲で、今の僕の想いがたっぷりと込められていた。
 だからまず最初に、黄昏に聴いて欲しい。
「ああ」

 誰かが先に言ってたって 僕が見つけた言葉だから
 胸を張って唄えるさ 何度でも 何度でも君に届くまで

 どう受け止めようが構わないさ 伝えたい気持ちはここにある
 ありふれた歌って君は言うかも でも嘘はついてないさ
 言葉足らずでいつも勘違いさせてしまうから 歌にしたためてみたよ
 こんがらがった気持ち整理してみたけど まだ自分でも解らないんだ

 口下手な僕は 唄うしか術を知らない
 強く抱きしめる勇気は まだ今の僕にないから

 街路樹の下 木漏れ日の中で リズムに歩幅合わせ  
 鼻歌で歩きたくなるような 懐かしさ感じるメロディ

 リクエストだって受けつけるさ 気にいらないならちゃんと言って
 リボンかけるような優しい気持ちで 記念日にプレゼントするよ

 慣れてない歌で 高い声が掠れていてもいいさ
 おかしそうに笑う 君の顔が見れるなら

 小春日和の 並木道の途中で 微笑み零れた時ふと
 口ずさんでみたくなるような 夢の中で生まれたメロディ

 その場凌ぎの フレーズで 君を喜ばせたくない
 喰い潰されるだけの 歌なんて 誰の胸にも届きはしない だから

 悲しませるもの 全て振り払えるように 心を篭めて唄うから
 恥ずかしくて言えない事も 胸に抱いてた想いも 全部

 手招きする闇に 追いつかれないように 君目がけ叫んでいる
 まだ諦めたくないんだ 歌声を聴いて欲しい

 超えられない夜に 踏み止まらせるような 強い歌響かせたい
 未来の向こうに希望はあるさ 目をそらさない限り

 心が離れても 耐え切れない夜に 押し潰されそうな君を
 いつでもそばで助けられるように このありふれた歌を贈るよ


「どう?」
 自信満々に出来映えを訊いてみると、黄昏は両手を組んでうーんと唸った。
 ……もしかして、全然駄目?
 びくびくしながら反応を待っていると、僕の目を見てはっきりと言った。
「俺が唄った方が、多分いい」
 親指で自分の胸を指し、にっこりと笑ってみせる。その顔がやけにツボにはまり、笑いを噛み殺すので精一杯な僕を黄昏は笑いながら見ていた。
「あー可笑しい」
 思わず出て来る涙を拭ってから、僕は右手を差し出した。
「じゃあ、お願いするよ。よろしく、黄昏」
「よろしく」

→to be Rolling Stone.


トップページへ  前のページへ  次のページへ  第1巻