→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top    第1巻

 岩場の先端で、少女がうたっていた。
 陽の傾いた水平線に向かい、旋律を紡いでいた。
 まるで、祭壇に祭られている神様の前で両手を組んで、祈るみたいに。
 その光景に誘われるように近づいて行くと、その唄声ははっきりと耳に届いた。
 後ろ手を組み、ほんの少しだけ胸を反らし、アカペラで途切れ途切れにうたう。唄声の間に岩礁で砕けた波の音が挟まる。荒々しい波と少女の唄声が何の違和感も無く溶け込み、一つのハーモニーを生み出していた。
 ウェーブのかかった淡い色の髪を潮風になびかせ、黒いワンピースの少女は裸足でうたう。その後姿はとても切ないのに、何故かそこから身投げしそうには見えなかった。
 何て、胸を抉られる唄声なんだろう。
 断末魔の悲鳴のような、一度聞けば忘れられない心の奥底から搾り出された声。心臓を鷲掴みにされた気分になり、何て言えばいいのか解らなくなる。その声は透明感のある、透き通った声なんかじゃない。かと言って激情の篭った、歌姫の声でもない。
 羽根を持っているのに、重石のついた鎖を繋がれて飛べなくなった声とでも言えばいいのか。地に足がついていて、空を飛べない僕と同じ場所に立っていることを嫌が応にも痛感させる声。
 それは、彼女の心そのものだった。
 僕の頭の中に昔の記憶が甦ってくる。唯一無二の親友が、少し照れ臭そうに僕の前で初めて唄ってくれたこと。
 感じたものは、同じだった。
 絶望よりも深い闇を目の前に叩きつけられた感覚。希望を欲しがることさえ諦めているのか、そんな自分を嘆くことも、悲しみに酔いしれることもしないで、真っ直ぐに自分自身と向き合っている。だけどそれは強さじゃなく、他に選択肢がないから。
 だから、救いを求めている。闇にかき消されそうな点でしかない光を見つめて、祈る。光を祝福する。この世の中を、生きている自分達の姿を祝福する。
 そうすることで、消えてしまいそうな自分の存在を確かめられるから。
 僕はあまりにも悲しくなり、今すぐその心にかかった閂(かんぬき)をこじ開けたくなる衝動に駆られた。もちろん今のは、僕一人の勝手な思いでしかない。けれど、彼女の唄声を耳にするだけでどうしようもなく切なくなる。
 彼女の唄声に、僕の心はあっさりと捕らえられてしまった。自分の欲しがっていたものを持っている彼女。薄っぺらい絶望と希望の繰り返しを続けている僕なんかが得られる筈もない、本物の人間の心を持った彼女。その唄声はどれだけ深い日常の果てで培われたものなのか、想像がつかない。
 僕が彼女の元に辿りつくと、声が止んだ。後ろ手を回し、夏の想い出が消えた大海原を眺めている。ウミネコの声が遠くで聞こえる夕焼け色のきらめく海は、今までここから見た景色の中で一番幻想的でいて、美しかった。まるで生命の全てがそこに宿っているような感覚。いや、色褪せた日々に埋もれていてすっかり忘れていただけで、この世の全てのものは素晴らしいと言うことを思い出させてくれる。
 鼻を突く潮の匂いが、小さい頃の夏を甦らせる。何もかもが自分の手の中にあるようで、嬉しくなった夏。あの頃の自分はとても純粋で、欲しいものを求めて駆け回った。楽しい時は笑って、悲しい時は泣いた。そんな自分を失ったのはいつからだろう?
 郷愁に返っていると、突然少女が振り向いた。一際高鳴る自分の心臓の音を、僕ははっきりと聞いた。
「…………。」
 言葉を失っている僕に彼女は少し驚いた顔を見せ、それからうっすらと微笑んだ。天使のようなその笑顔は心の奥深くに刻み込まれ、僕は知らず知らず彼女の姿に無数の想いを重ねた。
「何泣いてるの?」
 目尻を涙が零れるのを、僕は止めることができなかった。
 口に入った涙の味は、少ししょっぱかった。


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