y tasogare's 003 →Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第1巻

   003.黄金の月

 部屋を出たはいいけど、どこに行くかなんて全然決めちゃいなかった。
 マンションの外に出ると今日は風が強いのか、遠くから潮の香りが漂って来てるように思えて、海を見に行く事に決めた。
 大分前にライヴハウスのマスターに格安で譲ってもらった車種さえわからないバイクに跨って、ネオンの並ぶ繁華街を抜けていく。夜の街が呼吸してる姿を銀色のフレームに照らしながら、ヘッドライトの川に乗って海の方向へ流れていく。
 水海(みなみ)は埋立地に作られた街で、周りが全部海で囲まれてる。中心地は排気ガスだらけの都市っていうイメージしかないけど、少し離れるだけで公園や並木道があったりして、個人的には気に入ってる街だった。人間と自然が共存してる感じがする。ただ、自然って言っても人間が作り上げた自然だ。
 陸と繋がってる橋は6本あって、2本の国道と2本の大きな県道、そして2本の細い市道の上を毎日無数の人が行き来してる。
 できるだけ早く海の見える場所に行きたかったから、一番東の小さな橋を選んだ。この通りは海に面してる住宅街に接していて、夜になるととても静かになる。
 申し訳程度にエンジンを吹かしながら住宅街をすり抜けると、潮の香りがきつくなった。
 海――って言っても、今の時間じゃ暗闇が延々水平線まで広がってるようにしか見えない。今日は雲も多く出ていて、月の姿がたまに切れ目から顔を覗かせる程度だ。
 橋を渡ってしばらく海沿いに進むと、小さな港に出る。右手にはずっと大海原が、左手のなだらかな山の斜面には街並が広がっていて、夜景がとても綺麗。
 この街に来るといつも何だか懐かしいような、ちょっとくすぐったい気持ちになる。
 港の近くの堤防で適当な場所を見つけて、バイクを止める。メットを脱ぐと、潮の香りが一気に全身を包みこんだ。
 この時間の港じゃ、明かりも人の姿もほとんど見えない。貨物船のほとんどは水海の大きな港から出ているから、ここに泊まってるのは小さな漁業船やレジャー用の船ばかり。
 ジュースを買おうと、道路を挟んだ反対側の喫茶店の隣にある自動販売機へ向かう。その喫茶店はコテージっぽい外観で、小洒落た文字で店の名前の彫られた看板が入口の横に立っている。
 ボタンを押して缶が落ちてくるまでのほんの少しの間喫茶店を眺めてると、鐘の音と共に扉が開いて、背の低い赤髪と背の高い栗髪の、二人の女の子が楽しそうに笑いながら出てきた。
 出てきたジュースを手に取ると、肌にその冷たさが染みこむ。何気無しに横の二人のやりとりを聞いてたら、女の子だと思ってた背の高い方は声が低く、どうやら男らしかった。背の低い子と一瞬だけ目が合ったけど、愁に雰囲気が似ていて思わず目をそらした。
 自販機にもたれて缶を開ける。その二人がはしゃぎながら目の前を通り過ぎて駅前方面へ歩いていくのを、冷たいミルクティーを飲みながら眺めていた。
 飲み干したミルクティーは、後味が口に残った。知らない銘柄だからしくじったか。
 さて、どうしよう。
 バイクに乗ってれば余計な事は考えないでいられるだろうけど、久し振りに体を動かしたもんだからちょっと眠い。
 どうせ寝るんなら潮風を浴びて寝ようと思って、港まで降りて船の泊まってない適当な波止場の先端まで歩いて、アスファルトの上に寝転がる。冷え切った地面に素肌の部分が触れると、あまりのその冷たさにびっくりした。
 大の字に寝転がって、夜空を見上げる。視界には雲と星と、黒い空しか映ってない。星を覆い隠してるたくさんのちぎれ雲が、物凄いスピードで風に流されていく。
 耳に聞こえるのは、防波堤に砕ける潮騒と吹きつける風の音、そして遠くの緑から届く虫の鳴き声だけで、人の話し声や車のエンジン音は一つもしない。
 そのまましばらく何も考えないで空を眺めてると、愁を犯してる時の本当に生きてる実感が心の中から消え失せて、またいつも通りの現実に流される気だるい感覚が体の中に戻って来てる事に気付いてしまった。
 あの時と似たような感覚が、他にもあったのを思い出す。
 性欲と征服心に彩られた欲望を黒とするなら、ライヴハウスで青空の曲を唄ってた時にこみ上がる情熱と連帯感は、白。
 色は違うけど、マイクを前に絶叫してる時もやけに頭が冴えて、いつも眠ってる魂が目を覚ましたみたいな、そんな高揚感がずっと俺の身体を突き動かしていた。
 でも黒と白の両方を感じてる時は「これが本当の自分だ!」って胸を張って叫べる、確かな自信が胸の中にあった。
 じゃあ、それなら今ここにいる俺は偽物か?でもそれって、あまりにも悲しくないか?
 かと言って、普段の動こうとしない、怠惰な自分を認める気分には絶対になれない。生を実感できる瞬間を得る事よりも、ベッドの上で魂の抜けた蝋人形になる事を毎回毎回選んでる俺はどうやったら、自分を好きになれる?
「……バカバカしい」
 思わず口から本音が漏れた。
 わざわざ自分を追いこまなくても時は流れて、そんな考えもいつかは霧のように消え失せる。
 だったら、このまま流されていよう。
 自分の人生に誇りを持ってる人間に嘲笑われて見下されるような、そんなくだらない人間になろう。例えば他人を傷つけて悲しい振りをするとか。
 そこまで考えて、ようやく愁の顔が頭に浮かんだ。
 初めてライヴハウスの楽屋で出会った時の笑顔、俺が毎日ベッドの上でくたばってる姿を見て呆れてる顔、初めて遊園地へデートに誘った時の驚きと喜んだ顔。そして、今日のベッドの上で俺に犯されてる時の泣き顔――
 最後の顔が特別強烈に胸に焼きついてるのは、一番時間が経ってないからだと思いたかった。
 他人とつき合う事は、自分が傷つく事。
 小さい頃はそんな大変な事にちっとも気付かなくて、笑っていられればそれで万事OKだって思ってた。それは今も変わらないけど、一時期過敏になりすぎて、少しでも嫌な思いをすると怒ったりすぐに逃げ出したりしていた。
 マイナスを全部受け入れてプラスの部分だけ抽出する。そんな都合のいい世渡りなんてしたくもないしできない。
 でも、そんな考え方も結局は自分の思い通りにいかない現実に一喜一憂しているだけで、俺はただのガキなんだって事にある日ようやく気付いた。
 けれど、気付いたところで何も変わらなかった。
 笑ったり、喜んだり――他人はよく悲しみがなかったら喜びも感じられないって言う。でも、楽しい事しか存在しないユートピアに行った事のない奴の台詞なんて信用したくもない。なら、感覚が麻痺するぐらいまで馬鹿笑いしてやろうじゃないか。そう思うけど、現実にはその場所へ行く事さえ困難だ。本当にあるのかさえ疑わしい。
 けど、子供の頃の仲のいい友達と遊んでた時の記憶には、そんなユートピアが本当に、現実に存在してたんだ。
 ふと、目尻の横を涙が伝っていくのに気付いた。
 どうして涙なんか流したのかわからない。ライダージャケットの袖で拭って起き上がると、あぐらをかいて海の向こうに続く闇を見つめた。
 たまに月の光が夜の海に反射して、きらめく。そんな光景を眺めながら考える。
 そう。
 小さい頃の俺は、特別意識もしなくて簡単に楽園を作り上げてたはずなのに、どうして今の俺は、他人と出会うたびに痛みを振りまく真似しかできないんだろう?
 青空達のバンドに復帰する気がないのも、ただかったるいだけの理由じゃないのはわかり切っていた。
 そう。
 もう、自分で自分の感情の起伏を無理矢理殺してしまうくらいに、他人と触れ合うたびに俺は、辛い思いを味わってきたんだ。
 それは愁とか青空とか、俺にかまってくれる奴ほど心とは裏腹に酷い言葉を投げかけてしまう。やめようとすればするほど、泥沼にはまっていくのも傷跡が残るほど痛感した。そして相手にも、癒せない傷をつけてしまって――
 そうしてその挙句、離れていってしまう。こっちが逃げたり、向こうが離れていったり。
 誰かと一緒にいる事が耐えられない人間なんだと思う、俺は。自分の気持ちを押さえつけてまで、相手の気持ちに応えようとする事ができない。バンドを始めて人と触れ合うようになってから、そんな事ばかりいつも考えてた。
 一人になりたい。ずっとそう思ってたからか、別れに胸がこみ上げる事もない。慣れてしまったのか、今でも自分で感情を押し殺してるのか、それすらも判別もつかなかった。
 愁の奴、鍵置いていったかな。
 強い横風が俺の手入れのしてない髪をたなびかせて、ほっぺに当たる。そこでようやく、久し振りに物事をじっくり考えてる自分に気付いた。そして急速に、周りの空気に当てられたように熱が冷めていく。
 これ以上、考えるのはよそう。
 どれだけ苦悩しても、何もしなくても、どっちにしても時間は流れていく。もちろん、二つの時間が等価値なのかどうか、そんな事は初めからわかりきってたとしても。
「くしゅっ」
 夜風に肌が冷えてきたのか、くしゃみが出た。夏もすっかり終わって、外は秋模様を見せている。長い間部屋から出てないと、季節の変わり目さえ感じれなくなってしまう。
 時間をかけて身を起こして、大きなあくびをする。もうすっかりさっきまでの高揚感は消え失せていて、全身にけだるさが付きまとっていた。一瞬このままここで一泊しようかとも考えたけど、冷えこむ外で寝るのと帰って寝るのとじゃ、いくら面倒でも後者を選ぶのは至極当然。
 時計も携帯電話を持ってないから正確な時間はわからないけど、多分家を出てから1時間ぐらい経ってるだろう。なら後2時間ほどすれば終電の時刻になるから、それまで適当に時間を潰せばいい。いくら何でもあのまま愁が家に寝泊りするなんて思えなかった。
 潮風が頬を撫でる。幾分風が弱まってきてるのか、波の音も少し静かになったみたいだ。
 今のうちにもうちょっと風を凌げる場所へ移りたくなって、辺りを見回す。すると右手に広がる緑と堤防上の集落、反対の左手側に港から地続きの切り出した岩場が見えた。
 その岩場の姿を見た瞬間、この街のスタジオにバンドの練習で来てた時に、よくあそこの先端から青い海を見てたのを思い出した。
 今までずっと頭の片隅に追いやってしまってたそんな想い出も、きっとこの場所に来なかったら忘れたままでいただろう。
 楽しい想い出も辛い想い出も、今の俺が生きていくには何の必要もない。でも、どっちも洗いざらい流して明日を見つけるなんて青臭い事をほざくつもりもない。何しろ、昨日と今日と明日の境目すらない生活を送ってるんだから。
 それでも、思い出したからにはもう一度、あそこからの景色をこの目でしっかりと見ておきたい。そう思うと足は自然に岩場へと向かっていた。
 小さな三日月は雲に覆われていて、足下に影すら伸びていなかった。


トップページへ  前のページへ  次のページへ  第1巻