004.三日月に照らされて
岩場に辿り着いたはよかったけど、ごつごつした不規則な足場は明かりなしで歩くにはきつすぎる。雲が晴れる瞬間を狙おうと思って空を見上げると、ちょうど大きな雲が頭上に広がっていた。
しょうがない。帰るか。
そう諦めて踵を返そうとした瞬間、脳裏に刻まれた記憶が甦ってきてとっさに振り返った。頭の中で赤い矢印が先端までの一番楽なルートを示してくれる。
そんな都合のいい自分の頭に感謝しながら、ルート通りに岩場を上って行く。楽といっても段差が少なく足を挫きにくいってだけで、この暗がりの中、先端に辿り着くにはほとんど這いつくばるような恰好で手探りのまま進むしかなかった。
何度か転びそうになりながら、目的の場所へ到着する。段差に打ちつけた膝や、掌に数ヶ所つくった切り傷がじんじん痛む。
どうしてこんなになってまでここから海を見たかったんだろう?険しい山の頂上へ到達したような感動なんて全くないのに。
一歩踏み出せば真下の岩礁へ真っ逆さまな所であぐらをかいて、ぼんやりと暗闇に浮かぶ大海原をじっと目を凝らして眺める。大きな雲のせいで、暗くてよく見えないのが残念だった。
うっすらと目を閉じて、波と風のワルツを楽しむ。
ここから落ちたら岩に頭を打ちつけるか、そうでなくてもきつい潮の流れに呑まれて確実に死んでしまうだろう。でも不思議と恐怖はなかった。
ぼうっと他愛もない事に思いを巡らせながら自然の音に耳を傾けてるのもなかなかいい。そういえばここで身を投げた人間が何人かいたって噂があるとか、そんな事を青空が前に言ってたような気もする。俺を怖がらせようとしてただけかも。
ここから眺める夏の夕方の海がまるで自然の宝石のようで、心奪われた事もあった。でも、その光景は日を追うごとにだんだん記憶の中で薄れてる。とはいえ悲しいかと言われると、そうでもなかった。想い出が薄れていく事に、諦めを持ってるから。時間はいい想い出と一緒に嫌な想い出も洗い流してくれる。何も悪い事ばかりじゃない。
目を閉じてるだけで、頭の中で過去のロードムービーが映し出されていく。この場所に、思いの他たくさんの想い出がある事に驚きだった。
そして、同時に不意に叫びたくなる衝動に駆られた。
そうだ。
想い出が今の自分に必要じゃないものだって決めつけてるけど、それに代わる大切な物を今も見つけてない気がするんだ。だから何も残らない毎日の先に希望は見えないし、絶望も見えない。望むものがない俺を取り囲むのは無関心と諦めだけ。
どこまでも続いていく起伏のない時間――そして、想い出さえも残らない。
こんな自分を受け入れてしまったのはいつ?
こんな自分を受け入れた理由はわかってるのに。
ほぐれた記憶の糸を辿って答えを見つけようとしたけど、途中で馬鹿な真似をしてる自分に気付いてやめた。
くだらない。くだらない。こんな事ばかり考えてどうなるってんだ――
いっそ、身でも投げてやろうか。
突然そんな気持ちが俺の胸に沸き上がってきた。もちろん突発的なものでしかないんだろうけど、今死んでも誰も不思議に思わない材料は揃ってる。
あいにく両親もとっくにこの世にいないし、俺が死んだところで誰も悲しまないだろう。
今の愁なら嘲り笑うかもしれないし、青空やバンドの奴らだって「あっ、そう」ぐらいにしか思わないだろう。現に俺がいなくても、あいつらはあいつらの道を進んでる。
他にも世話になった人間の顔が思い浮かんできたけど、それさえもはるか昔の事みたいに霞がかっている。どうやら全然会ってない人なんて今の俺には何の関係もないらしい。
かったるそうに立ち上がって、前に一歩踏み出して落ちる寸前の所で足を揃えてみる。足下を見ると、暗闇の中で岩礁が勢いよく波を立てていた。
痛いのは好きじゃないな。
掌を開いて、ここに上って来る時に怪我した傷をぼんやりと眺めてみる。痛みはまだかすかに響くけど、自分の心とかけ離れた所で身体が泣いてるぐらいにしか感じれなかった。
どうやら痛みさえ感じるのも面倒臭いらしい、俺の身体は。
なら、今ならいけるか。
特に絶望してるわけでもなかった。高揚感も何もない。ただ、ここから一歩踏み出せば死ぬ。その事実だけが目の前に突きつけられてる気分だった。
ああそうか、ここで飛び降りたらその時点で人生が終わって、踵を返したらまだまだ続いていくんだ。
そんな当然の事が何故かひどくおかしくて、笑いがこみ上げてくる。二者択一って面白いものをよく考えたもんだ、時間を司る神様は。
「…………。」
さて、と。
ようやく決心のついたところで、もう一度真っ黒な空を見上げた。
あの雲の向こうに、三日月が出ている。今日は時折顔を出すけど、雲の流れが絶え間なく続いていてまともな姿はほとんど確認できない。
もう1回、ちゃんと月を見たかった。できれば満月を。
雲の向こうに広がる星空に浮かぶ三日月の欠けた部分に思いを馳せる。
俺って、多分9割方欠けた月なんだろうな。そう考えるとため息が出た。
もう一度自分の心に確認を取ってから、うんと背伸びをして身体をほぐす。
「準備運動?」
「わっ」
突然、か細いけど芯の通った女の子の声が背後からかけられて、思わずつんのめりそうになった。
「わっ、とっ、たっ」
落ちそうになるのを堪えて、バランスを取り戻そうと必死に身をよじる。
「でっ?」
潮で滑りやすくなっていた足元のむき出しの岩肌に足を取られて、俺はその場に盛大な尻餅をついた。
「〜〜〜〜」
骨盤をまともに打って、悲鳴さえ上げられないほど痛い。かといってもんどり打つと本当に落ちてしまうので、一回後転してから好きなだけのたうち回った。
痛がるのも面倒だって言ったのは前言撤回。このままいっそ殺してくれって思うほど痛い。誰に頼んでるのかはよくわからないけど。
しばらくするとようやく痛みが引いてきて、ゆっくりと腰を上げた。転げ回ってる間、暗闇に響く女の子の笑い声がやけに大きく聞こえた。
後ろを振り返ると、俺より一回り背の低い少女がそこに立っている――らしかった。明かりがないせいで相手の輪郭がぼんやりとわかる程度でしかない。
「今から飛び込む人間がそんな事でじたばたしてちゃいけないんじゃない?」
声量は小さいけど、凛とした少しキツめの口調で向こうがからかう。顔は全く見えないけど、かろうじて輪郭と暗さから黒のワンピースを着てるらしい事だけはわかった。
「飛びこむつもりでここに来たんじゃない」
相手の言葉を撤回するように吐き捨てて、ばつの悪い顔で頭を掻いた。もちろん暗過ぎて、俺の表情も向こうはわからないだろう。
「海を見に来てて、今から帰るとこだったんだ」
自分で言ってて言い訳がましく聞こえるけど、別に飛びこむつもりなんて最初っからなかった。ほんのちょっと、死ぬ真似をしてみただけだ。
「ふーん。じゃあちょうどよかったみたい」
適当に相槌を打って、彼女は俺に向かって近づいてくる。人一人がやっと立てる足場なのにお構いなしに歩いて来るもんだから、慌てて斜め前へ飛びのいた。
「おいコラ、危ないだろ」
ほんの注意のつもりで怒っただけなのに、少女は無視してさっきまで俺があぐらをかいてた場所に三角座りする。その傲慢な態度を見てるとますます腹が立ってきた。
「ここは俺が見つけた場所なんだから勝手に座るなよ」
もちろんこの場所は俺のものだとか主張するつもりはない。単にこいつをあしらうためのでっちあげだった。なのに、
「帰るんでしょ。だったらここで見ていていいじゃない」
なんて言って突っかかってくる。それももっともで、こんな時間に一人で海を見に来る得体の知れない奴につき合って話してるより、さっさと帰路に着いた方が賢明だと思った。
「落ちても知らないからな。じゃあな」
こいつがここから飛び降りてくれる事を願いつつ、俺は足下の見えない岩場を慎重に戻って行った。
ほんの少し降りた所でふと、三角座りのあいつのシルエットが頭に浮かんだ。確か、手に上履きみたいなのを持ってたような気がする。
嫌なイメージが頭の中で一気に膨れ上がる。
「おい!ちょっと待てっ!」
慌ててあいつのいた場所へ戻る。途中で何ヶ所か打身が増えたけど、呑気に飛び跳ねてるような悠長な真似をしてる暇はない。
段差を上がると、あいつが岩場の先端で立ち尽くしているのが見えた。
「こらっ、おいっ!」
俺の声が耳に届いてないのか、ぼんやりと雲だらけの空を見上げている。雲がちょうどちぎれて、三日月が顔を覗かせようとしていた。
「待てっつってんだろうがっ!」
あいつのすぐそばまで走りながら、喉が枯れんばかりに振り絞って大声で怒鳴った。ようやく俺の声に気付いたのか、こっちを振り返る。そこで、周囲一体が明るくなった。
――その瞬間、俺の時が止まるのを、はっきりと感じた。
あれだけ憤ってたのが嘘のように、心が急速に平静を取り戻していく。
足を止めて、息を呑み、目の前の光景に全身が動かなくなる。
わずかな月の光に照らされた少女。
華奢な体の線に貼りつくきめ細やかな花柄で彩られた黒のワンピース。
味気のない岩肌に妙に似合う白い素足。
胸の辺りまで伸びて、息を吹きかけただけでさらりとたなびくようなウェーブのかかった明るい髪。
やや尖り気味の顎の上に乗っかった薄い桃色の唇と小さい鼻。
そして、強い意志を感じさせるのに儚げな感じが漂う大きなつり目。
触れただけで壊れそうな硝子の身体を持った少女が、暗闇の中から現れた。
「…………」
口だけ動かして言葉の出ない俺に、彼女はうっすらと微笑んだ。幼さと大人らしさの両面を兼ね備えた顔だった。色素の薄いその瞳には世の中のキレイなもの、汚いもの全てを映し出してるように思える。
心が奪われてしまったのか、指一本動かせない。
とっ。
しかし、次の瞬間に急速に現実に引き戻された。
彼女の素足が、岩場から離れる。その顔には、何の表情も浮かんでいなかった。
「畜生っ!!」
海へ向かって背中から跳ねた彼女へ、足が砕けそうなほど全速力で駆けて行く。
間に合うかどうか、なんて一つも考えなかった。
絶対間に合わせる。
それだけで頭の中が一杯になったせいか、自分でも驚くほどの早さで彼女の元へ辿り着いた。
限界まで右腕を突っ張って、彼女の腰を抱えこむ。それはまるで硝子細工のように細くて、このままぶん投げたら折れてしまいそうな感じを受けた。
でも、このままだと一緒に落下してしまう。
一瞬の判断の後、抱えこんだ腕の勢いで彼女を岩場へ投げ飛ばす。これで向こうは助かったけど、今度はこっちが絶体絶命の大ピンチに陥る。あまりに勢いづいてたために足が止まらないで、靴の裏が岩場から離れる。
次の瞬間、俺の身体は宙に浮いていた。
真下に広がるのは夜の岩礁。呑まれたら一巻の終わりだった。
「ふっ……ざけんなよっ!」
少女を投げた時の勢いにまかせて、空中で身体を捻って半回転する。そして落ちるところで岩場にしがみつけるように、必死に両腕を伸ばす。
頭の中が真っ白になって、何もわからなくなる。
気の遠くなるような時間が流れた後、両肩に激痛が走った。でもそれは岩を掴めた証拠だ。それが頭に浸透するまでしばらく時間がかかって、ようやく自分が助かったのを認識できた時には心の底からため息をついた。
空は再び雲に覆われて、暗さを取り戻した。