→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top         第1巻

   006.裸足のワルツも一緒に踊れなくて

 俺達は港に降りてくるまで、お互いに一言も口を交わさなかった。
 この岩場の中を素足で懐中電灯もなしで帰るのはさすがに危険だから、しょうがなく少女をおぶさって慎重に来た道を引き返して行く。
 時間はかなりかかるけど、なるべく帰りたくなかったし、もう少し身体の痛みが引いてからの方が俺としても都合が良かった。
 夜の潮風が肌に突き刺さる。どうして黒ワンピースだけでこいつがここに来たのかはわからないけど、そのままの恰好でいると寒いはずだから俺の着ていたジャケットを貸してやった。一言も礼を言わなかったのには少しカチンと来る。
 ワンピース越しに背中に触れる少女の肌は、温もりを感じられないほど冷たかった。どうやらこの恰好のままずっと外にいたようで、俺が背負ってる間ずっと肌をくっつけて、こっちの体温を感じようとしている。
 愁より少し大きい。
「あだだだだ」
 いきなり少女が俺の右頬をつねってきた。どうやら考えてる事はお見通しみたいだ。俺は一応少女だと思ってるけど、実際は愁よりも年上なのかもしれない。
 段差のある所で静かにこいつを下ろす。先に俺が下の段差に降りたのを確認してから、俺の背中に飛びついて来る。勢いがつき過ぎて、思わず前に倒れそうになるのを懸命に踏ん張った。
 こいつ、こかそうとしてやがる。
 平手のお返しのつもりか、時々首に巻きつけてる腕がきつく締まる。だけど枝のように細い腕じゃ、そんなに苦しくない。
 月の下で見た外見とは、似ても似つかわない性格をしている。
 そんなあの時の光景を思い出すと唐突に、胸が一際大きく高鳴った。
 何がどう転んだのかは置いといて、今、俺の背中にあの少女がいる。
 でも実のところ、相手の顔をまともに見たのはあの一瞬だけだった。後は全部夜の闇に包まれて、不明瞭な輪郭しかわかっていない。それは向こうも同じだろう。
 なのにこいつは気を許したのか許してないのか、俺の背中にしがみついてる。
 考えてみれば不思議な話だった。
 名前だけでも訊こうと思ったけど、この性悪女が簡単に教えてくれるわけがないだろう。どのみちこの出来事もすぐに思い出せない想い出に変わるんだから、訊くのをやめた。
「着いたぞ」
 来た時の倍以上の時間をかけて、ようやくコンクリートの地面に辿り着いた。
「……おい」
 なのにこいつは俺の背中から一向に降りようとしない。それどころか力をこめてぎゅっとしがみついてくる。
「子なきじじいか」
 がんっ!
 そばにいても聞こえないくらいの小さな声で呟いただけなのに、地獄耳なのか思いっきり拳骨で後頭部をぶん殴ってきやがった。うずくまりたくなるけど前に倒れると俺が押し潰されてしまうから、必死に堪える。
「ムードぐらい読み取ってよ」
「何の」
 早く降りて欲しいから適当に受け答えすると、少女は頬を膨らましてふて腐れた。
 このまま家まで連れて帰れって事か?どうしてそこまで責任持たなくちゃいけないんだ。おまえに義理を立てる必要なんてもうこれっぽっちもありゃしないってのに。
 ぶつくさ心の中で呪詛してると、痛みの走る後頭部を優しく撫でる感触があった。
「おまえなあ、さするんだったら最初から……」
 殴るな、と言おうとして俺が顔を振り向けた途端、相手の唇が視界に入って思わず言葉が詰まった。そのまま何も言い返せないでおぶさったまま突っ立ってる俺の頭を、少女は髪の上から包みこむように撫でる。
 言葉が出て来なかった。こんな時、何を言えばいいんだ?
「キスしよ。」
「?」
 俺の聞き間違いなのかそれとも空耳なのか、今、変な台詞が聞こえた気がした。
「このままでいいから、キスしようよ。」
 今度ははっきりと、頭の芯に少女の声が響いた。耳に小さな吐息がかかる。その瞬間、俺の頭は真っ白になって何も考えられなくなった。
 茫然自失のまま、顔だけが自然に彼女の唇へ向く。
 少女は身を乗り出して、俺の唇に自分の小さく、そして甘い香りのする唇を横から重ねようとする。
 その瞬間、少女の唇が愁の唇と重なって見えた。
「きゃっ!」
 耳元で短い悲鳴が上がる。同時に、俺の頭の中で愁を汚してる時の光景がフラッシュバックしていく。
 驚いた顔、喜んだ顔、嫌がる顔、泣き叫ぶ顔、悲鳴、罵倒、懇願、嬌声、啜り泣き、泣きじゃくる顔、魂の抜けた顔、そして枯れた涙――
 その光景一つ一つがとても鮮明で、今この瞬間も愁を犯してるような錯覚に囚われる。
「いったあ〜っ……」
 遠くで誰かの声が聞こえる。でも、それも愁の叫び声で耳に届かない。
「う……」
 右手で自分の顔を強く鷲掴みにする。指がめりこんで痛むけど、まだまだ痛みを大きくしなきゃいけない切迫感が胸の中で膨れ上がってくる。きっと、今になって愁に対する罪の意識が現れてきたんだろう。
 このまま自分の頭を握り潰さなきゃいつまでも罪の意識に苛まれる。そんな気がして自分の手を止められなくなった。
「子供産めなくなったらどうしてくれるの!」
 少女のその怒鳴り声で、ようやく俺は我に返った。ひどく荒い呼吸が他人のもののように聞こえる。
 徐々に胸の鼓動が静まっていくのを感じて、顔を掴んでる自分の右手をはがそうと力を抜いた。すると力を入れすぎたせいか筋肉が固まっていて、指が外れない。
 一本一本もう片方の手で指を外していくと、ようやく固まった右腕が自由に動くようになった。力を入れたせいで、肩の痛みがますますひどくなった気がする。
「もう、最っ低!」
 気付くと、背中におぶってたはずの少女が足元で尻餅をついて怒っていた。
「……今、俺……何した?」
 突然の事で少し記憶が飛んでるようだった。少女は俺の呟きに目を丸くしてたけど、次の瞬間海が割れんばかりの大声で怒鳴り散らした。
「ふざけないで!キスしようとした瞬間、背中におぶったか弱い女の子を振り飛ばしたくせにっ!」
「……あ」 
 どうやら俺は、とんでもない過ちを犯してしまったようだった。
「ちっ、違……」
「何が違うっていうのよっ!いたいけな乙女の心を傷つけたくせにっ!」
 自分でいたいけだとかか弱いだとか言うのはどうかと思うけど、今は突っこんでる場合じゃない。
 少女はワンピースについた砂を払ってから、ずかずかと間合いを詰めてくる。
 いくら何でも俺もここで逃げ出すような馬鹿な男じゃない。いや、こいつの気持ちを踏みにじった時点で十分馬鹿な男だ。
 一回り背の低い少女が目の前に立つ。こんなに近いのに、互いの顔はよく見えない。
 右の平手が振り上げられる。俺は歯を食い縛って目を閉じた。
「?」
 逃げたくなる気持ちを我慢して待っていても、一向に平手が飛んで来ない。
 不思議に思って恐る恐る目を開けてみると、彼女の指が俺の目尻を拭っていた。
「涙でてる。」
「え?」
 自分の指で顔を拭うと、冷たい涙が頬を伝ってるのがわかった。愁の顔を思い出したせいなのか?視界が涙で滲んでるのか、少女の顔もよく見えなかった。
「……訳ありだったみたいね」
 さっきまでのヒステリックな叫び声と全然違う、初めて出会った時と同じか細い声で少女は優しく言った。
「……ゴメン、本っ当にゴメン!すまなかった!全部俺が悪い!」
 思いつくだけの謝罪を並べて、俺は懸命に頭を下げた。
「いいわよ。こっちも無理強いしたみたいだったし」
 向こうも悪い事をしたと思っているのか、手を振って笑ってみせる。
「腰、大丈夫か?」
「うん、岩場でぶん投げられた時よりは」
 優しい声で言ってるけど、やっぱりこいつは俺に突っかかってるようにしか思えない。
「……ともあれ、ここまで来たらもう歩けるだろ。まさか家まで送ってとか言わないだろうな?」
 冷えた地面の上を素足で歩かせるのは酷な気もしたけど、バイクで二人乗りなんてしばらくやってない。予備のメットもないし、バイクで送って行くのは危険だと思った。
 俺がどうしようかといろいろ悩んでると、向こうから切り出してきた。
「大丈夫、家すぐ近くだから」
「じゃあ、送って行こうか?」
 思わずそう口走った自分の口を慌てて塞ぐ。
 何もそこまでしてやる必要なんてない。このまま見捨ててさっさと帰った方がいい。心の中でもう一人の自分がそう囁きかけてきたけど、まんざらでもないと考え直した。
「ん……でも、やっぱり遠慮しとく」
 だけど少女は親指の爪を咥えてしばらく考えた後、すまなそうに俺の申し出を断った。
 残念な気持ちが胸一杯に広がったのはどうしてだろう?
「裸足の方がひんやりした地面を歩くのに気持ちいいし……迷惑ばっかりかけられないもの。それに……」
「それに?」
「ううん、なんでもない」
 少女は頭を振ってはにかんだ。彼女の笑顔は暗くてよく見えないけど、その声だけで俺の心は十分満たされた気がする。目の前の笑顔を想像すると、今まで出会って来た誰よりも素晴らしいもののように思えた。そう考えるだけで、彼女の笑顔を青空が広がる太陽の下で、一度でいいから眺めていたい気持ちに駆られる。
「あ、そうだ。このジャケット借りてもいい?やっぱり上は寒いから」
 想像を巡らせてると、少女の無理な質問に突然現実に引き戻された。
「借りるっておまえ……どこの誰だかわからないってのに」
「私知ってるもの、キミの事」
 少女の台詞に茫然となるのは今日で何回目だろう。脳味噌にその言葉が届くまで立ち尽くしてる俺の前で、羽織ったジャケットをひらひらさせてその場で軽く踊ってみせた。
「今度返しにいくから、それまで借りておくね」
「おい、ちょ、ちょっと……」
 それを持って行かれると冷たい風の中、Tシャツ1枚でバイクに乗らなきゃいけない。いくら何でもそれだけはゴメン――ってよくよく考えてみれば、今の両手の怪我じゃスピード出せないんだった。とはいえ、それでも十分寒い事には変わりはない。
 少し悩んだけど、ちゃんと返しに来てくれるんなら、太陽の下で彼女の笑顔が見れるかも知れない。
 もし本当に俺の事を知ってるなら、ライヴを観にきた事もきっとあるんだろう。
 そう考えると、決断は早かった。
「わかった。貸しておくから絶対返せよ」
「がってんしょーちのすけ」
 少女はステップを止めて、こっちに大仰に敬礼してみせる。よくわからない奴。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
 その言葉を彼女が口にした瞬間、今まで周囲にかかっていた魔法が解けた。
「……ああ」
 一気に普段の怠慢な現実に引き戻された気がして、気が滅入り始める。
「なーにくよくよしてるの?」
 いつの間にか少女が俺の真下に潜りこんで、とん、と軽い拳で俺の胸を叩いた。どうやら顔に思いっきり出てたみたいだ。
「いや……何でも」
 俺は無理にはにかんでみせる。それを見て彼女は、
「よし」
大きく頷いて静かに俺の頬へ手を伸ばした。冷えた彼女の指が、俺の真っ赤に染まる頬に絡みつく。
 顔はよく見えないのに、相手の吐息や心臓の鼓動が指から伝わってくる。
 どうする、どうする、どうする?
 彼女の鼓動に自分の鼓動が重なって、頭が混乱し始める。
 そのまま動けないでいると突然、
「いでっ」
頬から指が離れ、べちっと情けない音と共におでこに痛みが走った。どうやらデコピンを食らったみたいだ。
「さっきのしかえし。違うもの期待した?」
 そばから離れて悪戯っ子のように笑う少女のシルエットを眺めながら、俺は苦笑した。
「また振り飛ばすのは嫌だから、これでいい」
「こっちも二度と振り飛ばされたくないけれどねー」
 最後まで突っかかってくるな、こいつ。
「もうあんな真似二度とすんなよ」
「ジャケット返すまでね」
 もう一度、念を押しておく。返ってきたのは頼りない言葉だったけど、これでこいつがもう一度俺に出会うまであそこから飛び降りることはない。そう胸の中で確信した。
 立ち止まって肩をすくめていると、少女は素足で港を駆けていく。そして一旦立ち止まってこっちを振り向くと、大きく手を振った。
「またね、黄昏クン」
 いきなり出てきた俺の名前に、身体が固まってしまう。その間にも、走り出した彼女の姿は闇に溶け込んでいった。驚いている暇はない。
「おまえの名前は――っ!」
 最後に夜の港に響くほど大声で尋ねる。すると、今にも消えそうな少女の声が風に乗って聞こえてきた。
「次会う時までのおたのしみ――っ」
 そして、波と風の音が再び周囲を支配した。
 次の瞬間、猛烈な疲れが襲ってくる。あまりに大きな出来事が続いたから、身体がびっくりしてるのかもしれない。
 しばらく少女の走り去った方向を眺めて、今の出来事が現実だって事を噛み締める。
 次、いつ会えるのかはわからない。会えないかもしれない。彼女との想い出はこれだけになってしまう可能性だってある。
 でも、それでも十分だった。
 絶対に色褪せない想い出ってのが、もしかしたらあるんじゃないか?
 そう思えるようになっただけで、俺の胸は高鳴った。身体は疲れ切ってるのに、頭は冴えまくってる。
 またいつものくだらない日々に戻っても大丈夫な気がした。何がどう自分の中で変わったのかわからないけど、不思議とそんな予感があった。
 ひとまず気持ちを落ち着かせるために喫茶店横の自動販売機で、来た時と同じミルクティーを買う。すっかり喫茶店の明かりは消えていた。
 来た時と同じように自動販売機にもたれて、缶の中身を一気に飲み干す。口にしつこく残る味も、今は全く気にならなかった。 
 頭を上に向けると、空はまだたくさんの雲に覆われてる。今日はもう、これ以上晴れることはなさそうだ。
 結局彼女の顔は一度しか見れなかったけど、かえってそれが強烈に心に残る結果になった。粋な計らいをしてくれる神様に、ちょっとだけ感謝する。
 バイクに跨って、アクセルを握る手に力を入れてみる。肩と手の平がかなり痛むけど、30キロぐらいでなら持ちこたえられそうだ。
 海から流れてくる冷たい風を全身に浴びながら、ゆっくり時間をかけて家まで戻った。愁の事を思い出したのは、跨ったバイクから降りようと地面に片足をつけた時だった。
 マンションの玄関の時計は、すでに02:00を回っている。
 自分の部屋の前まで戻って来ると、さすがに足を踏み出すのがためらわれた。でも、自業自得なんだと言い聞かせてドアに鍵を指しこむ。軋みながら開いたドアの向こうは真っ暗闇だった。
 帰ったのかな。
 玄関に愁の靴も見当たらない。電気をつけないまま寝室へ向かう。中に人の気配は全くなかった。
 ベッドの上にいないのを確認してからキッチンの明かりをつける。今までずっと暗いところにいたせいか、少し目が眩んだ。
 視力が戻っていくのを実感すると、質素な何もないテーブルの上に一枚だけ、紙切れが置いてあるのを見つけた。
 ちょっとの間にらめっこして、紙切れをくしゃくしゃにしてゴミ箱に放りこむ。
 この手の傷で風呂に入るのは厳しいから、シャワーで軽く身体だけ流した。
 その後に傷の手当を自分ですると、急激に睡魔が襲ってきた。これほど強烈なのも最後にライヴハウスのステージに立った時以来だ。
 家の明かりを全部消してベッドの上に腰を下ろすと、シーツは上下とも取り換えられていた。愁の気遣いに感謝しつつ、毛布に潜り込む。途端に睡魔が完全に俺を覆いかかって、一分もしないうちに夢の中へ連れ去られる。
 意識を失う寸前に、目の前に浮かんだ愁が紙切れに書いてあった台詞で怒鳴った。
「たそのバカ!!」


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