→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第1巻

   010.名前なんていらない、いらないの

 どれだけそいつと殴り合ってたんだろう。
 夜は更け、雨はすっかり止み、ひんやりした秋の空気が周囲を包む。
 髪を引っ掴んで、腹に膝蹴りを入れる。
 千夜に殴られた右頬の上から、更に殴られる。
 取っ組み合って、側頭部に肘をかます。
 体重の乗った蹴りをまともに横っ腹に食らう。
 頭を両手で掴んで、頭突きを食らわす。
 首を抱え込まれて、ボディーブローを連続で入れられる。
 間合いを取って、飛び蹴りを入れる。
 後ろに回り込まれて、バックドロップを食らう。
 雨上がりの水たまりに足を取られて、アスファルトに転がる。
 背中を見せたところに回し蹴りを喰らわせて、地面に吹っ飛ばす。
 突き飛ばされて、水たまりに顔を埋める。
 よろめいて、尻餅をつく。
 ずぶ濡れで泥だらけの身体とは裏腹に、心はどこまでも昂ぶっていた。無性に笑いがこみ上げてきて、笑いながら攻撃を繰り出してたような気がする。
 でも、さすがに大の男が本気で殴り合って、どっちも五体満足でいられるはずがない。
 体力を使い果たし、俺は冷たいアスファルトの上に大の字で転がっていた。かく言う向こうも、俺の隣で足を投げ出して尻餅をついて、肩で大きく息を切らしていた。
「ちょ……休憩……」
 顔面を腫らしたそいつは全力を使い切ったのか、今にも死にそうな感じでひどく荒い呼吸をしてる。
「俺も……」
 最近全然身体を動かしてなかった俺も、まともに歩けそうになかった。多少体力は残ってるけど、それ以上に全身に走る痛みがひどくて身体を動かすのもままならない。
「ハハッ……」
 そいつの口から笑いがこぼれた。寝転がったまま顔を見合わせると、俺もつられて笑ってしまう。
 しばらく俺達は二人で、人気のない雨上がりの公園で大声で笑い合っていた。
 全くもって、二人共バカな真似をしたなって思う。ガキじゃあるまいし、あんなくだらない些細な事で本気で殴り合うなんて。そう考えれば、俺もまだ相当の悪ガキだって事か。
 殴り合ってる最中は向こうの攻撃をもらうたびにそりゃもう本気でムカついて、相手の悲鳴が上がるたびに胸がすっとしていった。
 自分の気持ちに純粋になるっていう点じゃ、愁を犯した時と一緒なのかもしれない。でも、こっちの方が終わった後の爽快さが段違いだ。胸が晴れ晴れとしたこの感覚は、ライヴの後と似てる。ただ、ライヴだとわだかまりや鬱憤を晴らしてるだけなのに、今の気持ちはもっともっと澄んだ――汚れのない初期衝動みたいな、後腐れも何もないすがすがしい気持ちだった。
「あ、やべ……」
 そこまで考えてから気がついた。
「どーした?」
 そいつが怪訝な顔で俺を見る。大分息は整ってるけど、まだ辛いのか唾を吐き出していた。
「来週、唄うんだった」
 すっかり忘れてた。そもそも今こうしてアスファルトの上で寝転がってるのは千夜のせいなのに。
 そのままの態勢で、喉をさすって軽く発声してみる。幸い、喉は痛めてないようだった。腹に貰ったのが痛むけど、これぐらいなら5日もあればほとんど治るだろう。
 でも、あの少女の時といい今日といい、だんだん満身創痍になってるな、俺。
「そりゃ悪いことしたなー」
 全然すまなそうに思ってる様子もなく、そいつが笑いながら謝ってきた。
「あ、オレも……」
 何か思い出したのか、そいつは真剣な表情で右手を開いたり握り締めたりして、指が動くのを確かめる。
「どうした?」
「指やられちゃ絵が描けないんだった、あぶねーあぶねー」
 冷や汗をかいて、そいつは俺に笑いかけた。どうやらどっちもどっちらしい。
「よくそれで殴ってきたな」
「アンタだってお互い様だろ……まぁ、オレはしばらく描かないつもりだったからいいけどさ」
「ふーん」
 そいつはじっと自分の右手を見つめている。何があったのかは知る由もないけど、何となくこいつが俺の喧嘩を買った理由がわかった気がした。
「あいたたた……」
 何とか上体を起こして、自分の身体を確かめてみる。白のYシャツはすっかり泥で汚れて、清潔感もへったくれもない。擦り傷が多くて、右腕は打ち身がひどいのか肩まで上がらなかった。
「ちっくしょう、手加減なしか」
「どこの世界に喧嘩買った奴が手加減するってんだよ」
「俺」
「あーそーかいそーかい」
 適当に俺をあしらって、そいつは自分の身体を確かめている。俺と同じで泥だらけで、人前に出れないくらい汚れていた。立ち上がろうとした瞬間、
「あ痛っ!」
今度は右足を押さえてうずくまった。長ズボンをめくり上げて、脛の部分をさすっている。
「折れた?」
「太ももから下が痺れるように痛い」
 顔を苦痛で歪めながら、俺に何かを訴えるような表情を見せる。
「……わかった、そら」
 俺が右に来るようにして、そいつの脇を抱えて立ち上がらせる。力なくよろめいてたけど、左足で支えられるようになると俺の手を離してベンチに向かって、背もたれに膝をついて寄りかかった。本当は座りたいんだろうけど、そうするとまた手を借りなきゃいけないから我慢しているようだった。
「一人で帰れるか?」
「あ、電車だオレ……」
 俺が尋ねると、困った顔を見せた。その格好で電車に乗るわけにもいかないし、足を引きずって帰るのは大変に違いない。
 こいつの顔を見てると、だんだん放っておけなくなってきた。いつの間に俺は、こんなにお人好しになったんだろう?
「わかったわかった、俺の家に来いよ。10分も歩けば着くから。傷の手当てもすればいいし」
「いいの?」
 つい今まで殴り合ってた人間の提案だから警戒してるわけじゃないんだろうけど、ばつが悪いと思ってるのか、上目遣いに俺に訊き返して来る。
 俺からすれば、最初のムカついた事なんてすっかり忘れてたし、何より純粋な感覚を取り戻させてくれたこいつに今は気を許して、感謝もしていた。さすがに身体につけられた傷に関しては許せないけども。
「ここで殴り合ったのも何かの縁、ってね」
「嫌な縁だな、それ」
 そいつは苦笑して、俺の誘いを受け入れた。一人で歩くのは大変だろうから、そばまで身体をひきずって行って、肩を貸す。ただ、俺も下半身はまともに動くけど腰より上の痛みがひどくて、そいつの身体を支えるというより、俺の方がそいつにもたれるような感じになる。端から見れば気持ちの悪い構図だったけど、この際文句を言ってられない。
 幸い、月も出てないし雨上がりで十分冷えてるから、外を出歩いている人間も少ない。人通りの少ない道を選んで帰れば、誰にも会う事なく家に辿り着けるだろう。
「ぷ」
 俺の顔を見たそいつが、突然頬を膨らませた。
「どうした?」 
「いや、せっかくのハンサムな顔もずいぶん腫れたなーって」
 それを言ったらおまえの顔だって一緒だろ。元は全然違うけど。
「この顔でステージに立ってファンの女の子に嫌われたら全部おまえのせいだからな」
「へーっ、バンドやってんの?ビジュアル?」
「よく言われるけど、違う」
 俺がライヴのステージに立つ時はいつも普段の服装にしてるのに、周りからよくビジュアル系と勘違いされる。白のYシャツと革パンがそんなにナルシストっぽいか?俺からすれば、アメリカの不良ロックバンドのようにライダースーツで身を固めるのが理想だと思ってるんだけど、実際動きにくいし、暑いからすぐ脱いでしまうので結局この衣装になる。
 ちなみに青空は普段着、イッコーはストリート系の軽装で演奏することが多い。ただ、千夜だけは毎回びっちりと正装の黒のスーツで身を包んで、どれだけ汗をかいても服を脱がない。元々冷めた顔で凄まじいビートを刻む奴だから何の不思議も思わないけど。
「ねー、次のライヴ観に行っていい?」
 いきなりで馴れ慣れしい奴だと思った。でも、よくよく考えてみれば俺も見ず知らずの女の子にジャケットを貸してる。実は似た者同士なのかもしれない。
「『水海ラバーズ』でやってるよ、定期的に」
「オレ、アンタに興味が出てきた」
 思わずこけそうになる。
「あ、あのなぁ……」
 とっさに態勢を立て直して、水たまりに突っ込むのは何とか回避された。俺がこければこいつも倒れるんだけど、いっその事こいつだけでも突き飛ばしてやろうかと思った。
「変な意味じゃなくてさ……鏡見てるみたいで楽しいの、ホントに」
 そいつは殴られて腫れた顔を上げて、上機嫌にほころんだ。
 話してて、たった一つだけわかった事がある。
 こいつは変な奴だ。
 そして、その変な奴を今、俺は自分の家に連れて行こうとしてる。
「もしかすると俺はとんでもない間違いを犯してる最中なのかもしれない」
 俺はこいつの耳に届かないような小声でぼそぼそと呟いた。
「何か言った?」
「神様に懺悔しただけ」
 暗い道を男二人でお互いを引きずるように歩きながら、ようやく明かりのある俺のマンションまで辿り着いた。玄関で隣の廃ビルに住んでる黒猫が俺の帰りを待っていたのか、俺の顔を見ると一声鳴いてから、外の暗闇へあっという間に消えていった。
 到着した無人のエレベータに転がるようになだれ込んで、最上階のボタンを押す。
 静かな音を立てて昇って行くエレベータの中で、俺はようやくそいつの姿をきちんと確認できた。
 まじまじと上から下まで眺め回してみる。
「ん、なに?」
「ちっとも似てない」
 エレベータの扉が開く音に、俺の台詞はかき消された。
 手すりに身体を預けながら、通路の一番奥にある俺の部屋まで歩いて行く。扉を開ける時になって、重要な事を忘れていたのに二人共ようやく気付いた。
『名前は?』


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