→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第1巻

   011.瞳の奥に隠した光

 ここしばらく続いていた雨も止んで、久しぶりの太陽が街を照らす。
 強い陽射しの中を俺はバイクで駆け抜ける。ヘルメット越しに伝わる、目覚めた街が生み出す喧騒も、懐かしく感じてかえって心地良い。今日はジャケットを羽織ってないから、季節の風を全身で受け止められた。
 ここのところずっと、季節の移り変わりとか街の変化に耳を傾ける事なんてしてなかった。逆に、古いものが消えて新しいものが現れていく街並みに、悪態をつき続けてる。以前はそんな些細で緩やかな変化を感じるたびに、苛立つ心を押さえてたのに。
 昔は心の中にアンテナを立てて、物事に対して過敏になっていた。些細な事に対して疑問を持って、自分の中で結論が出るまで延々と考え続ける。適当なところで切り捨てる事ができなかった俺は、もちろんその後パンクした。
 途切れもなく続く禅問答にいい加減うんざりしたから、自分から心を閉じ込める事にした。幾分生きていくのには楽になれたけど、おかげで大切な事さえ忘れてしまってたらしい。目を閉じて何もかも素通りするより、少しでもいいから立ち止まって受け入れてみるのも悪くはない。そんな思いが俺の中に生まれて来ていた。
 ここのところ、ずっと眠らせてたはずの心がざわめき始めてる。いろんな事が一気に押し寄せて、ごろごろしていたツケが今になって回ってきたからか?
 あの二人――俺のできなかった事をあっさりとやってのけた女の子、俺をまるで鏡を見てるようだと言う男が、俺をどこかに連れて行ってくれるんだろうか?
 気付かないうちに捨ててしまった何かを取り戻させてくれるんだろうか?新しい世界を見せてくれるんだろうか?
 どうやら、あまりに眠り過ぎてたせいで心が退屈してたみたいだ。
 繰り返される日々、朝と夜、喜びと悲しみ、笑いと怒り、希望と絶望――そんな当たり前の毎日に耐え切れなくなって、俺は眠ってたような気がするのに。
 でも、そんな毎日の中に置き忘れて来た大切なものをもう一度拾いに行くために、そんな毎日の中で新しいものを見つけるために、俺は家を飛び出してバイクを走らせている。
 今日を境目に止まっていた時間がまた流れ出す、そんな予感があった。
 水海の中心街から少し離れた歓楽街の中に、黒に塗られたコンクリートのレストランがある。
 窓の少ないそのレストランの壁一面には、色ペンで書かれた無数の落書きがびっしりと埋められている。書いた本人からしてみれば大切な想い出なんだろうけど、他人から見るとただの落書きにしか見えない。この落書きは全部、このレストランの地下にあるライヴハウスに足を運んだバンドマン達が書いたものだった。
 もちろん、こんな外観からして異様な店はこの通りには全く不釣合いで、思いっ切り浮いている。でも、夜になれば必ずこの店は大賑わいを見せて、ライヴのあるバンドのファンや興味を持った奴らが演奏を観に来る。人気のあるバンドがライヴをする時は、開演何時間も前から店の前で多くの人が待ち続けていたりする。
 そして、今日も開演前には店の前の通りは人で埋め尽くされるんだろう。
 レストランから少し離れた専用の駐車場にバイクを置いて、店に向かう。店の横には地下に下りる階段があって、一般客や普通のバンドはそこから出入りする。
 俺は構わず、階段を通り過ぎて『Lover's』とペイントで書かれた扉を開ける。店の前で立ち話をしてた二人の女の子達がこっちを見て何かに気付いたようだったけど、無視して中に入った。
 少し照明の落ちた店内に、80年代のUKロックが流れている。壁にはいろんなバンドの写真やレコードのジャケットが丁重に飾られていて、その中にバイクのスチームやら部品が見える。この店は下のライヴハウスと兼ねているマスターがバイク乗りでもあるせいか、バンドの奴ら以外にも全国から無数のバイク乗りが訪れる聖地でもあるらしい。今日乗ってきたバイクも、ここのマスターにタダ同然で譲ってもらったものだ。
 マスター曰く、「バイクもロックも一緒。」
 意外と広い店内に、見知ったバンドの奴らをちらほらと見かけた。こっちに気付くと、みんな少し驚いた顔をしてから声をかけてくる。そんなに俺を見るのが珍しいのか?
「おお、たそじゃねえか。俺が恋しくなって戻ってきたか?」
 珍しくカウンターに立っていたマスターが俺を見つけて、豪快な声で冗談を飛ばしてきた。少しむさ苦しい髭面も、他人を威圧するような喋り方もちっとも変わっていない。ただ、この外見のせいでライヴハウスの受付を全部店の人間に任す羽目になってる。本人は、受付の椅子に座って店に訪れるバンドが育っていく様を間近に見たいらしいんだけど、スタッフ全員から猛反発に遭ってるのは言うまでもない。
「この店が恋しくなってさ」
「じゃあ一緒だ。何しろこの店は俺の分身だからな!」
 嬉しそうに大声で笑うマスター。何故か知らないけど、俺はこの店のマスターにえらく気に入られてる。いい人なのはわかるけど、ちょっと苦手だった。
「どうしたんだ、その傷?」
 マスターが俺の顔をまじまじと見てくる。あいつと殴り合った跡がまだ残ってて、顔はまだガーゼやバンソウコウだらけだった。
「鏡にぶつかって」
「まさか自分の顔に酔いしれて抱き着いたんじゃないだろーな」
 笑って冗談を飛ばすマスター。いくら何でもそこまでするほどナルシストじゃない。まあ、多少そういう気があるところは認める。
「と、そうだ。もうみんな下にいるぜ。テストするんだって?」
「そんなとこ」
 マスターに軽く会釈してから、店の隅にある地下への階段の柵を開けてもらう。この階段はマスターと従業員と、マスターに認められた奴らだけが通れるライヴハウスへの通路だった。
 人気のあるバンドだからと言って、入口前で混雑が起きる可能性があってもここから降りられるとは限らない。
『この階段から楽屋に行けるようになる事』
 それがこのライヴハウスに通う奴らのステータスで、最初の目標でもあるらしい。
「お前がステージに立つのを期待してっからよ」
 階段の上から声をかけてくるマスターに手を振って答えて、長い段差を降りてすぐ折れ曲がる通路を歩いていくと、上の店とは全く違った雰囲気の扉に出くわす。
 その扉を開くと、もう楽屋に到着だ。
「やっほー♪」
 ずっと待ち構えていたのか、中に入ると突然横からキュウが抱き着いてきた。所構わず誰にでも抱きつくその癖はいい加減止めて欲しい。慣れた手付きで、キュウをひっぺがす。
「あ〜ん、眼鏡に指紋がついたーっ」
 顔を掴んで引き剥がすと、キュウが文句を言いながら、赤い紐付きの眼鏡についた俺の指紋を拭き取った。やられるのがわかってるなら最初から抱きつかなきゃいいのに、本人にはスキンシップのつもりらしい。
 バンドのみんなはそんなキュウの行動に四者四様で、俺はすぐに鬱陶しく引き剥がすし、青空は顔を赤らめて困った顔をする。イッコーの場合は逆に抱き返してセクハラと言われて殴られるし、千夜の場合はいくら口で言っても離れないので気の済むまでキュウの好きにさせている。
 いつもならここで頬を膨らませる人間がいるはずなんだけど、そいつはどうやら今日も来てないみたいだった。
「今日も無理だって言ってた」
 そう言って名残惜しそうにひっついてくるキュウを押しのけて、俺はため息をついた。
 どうやら、愁に完璧に嫌われてるらしい。
 俺と愁の間に何があったのかなんて露知らずに、友達を放り出してバンドにぶらさがってるキュウもキュウだ。愁も一人で抱えこんでしまうタイプだから無理もないけど。
「たそがなんかしたんじゃねーのー?」
 椅子に座ってベースの弦を張り替えてるイッコーが余計な口を叩く。
「え、なになに、どーかしたの?」
「何もない、何もないって」
 首を突っ込んでくるキュウをあっさり払いのけて、俺も準備を始めた。青空はスタッフと打ち合わせに行ってるのか、姿が見えない。
 今日は俺達のワンマン。いつもならチケット代の問題とかいろいろあって、2,3他のバンドと対バンするけど、俺が戻ってきたのと、ここ2ヶ月の週一のライヴでバンドの財政も潤ったおかげもあってワンマンと相成った。本当は別のバンドがハコの予約をキャンセルしたからできたらしい。
 ここの楽屋は人気のあるバンドが普段使ってる部屋で、広くてくつろぐには快適だ。ここ以外にも小さい楽屋は二つあるけど俺達は使わない。
「どーしたの、その怪我?」
 キュウが俺の顔を見て、マスターと同じ事を訊いてくる。同じ台詞を返すと、
「抱き着くのは女の子だけにしとけば?」
って笑い返されてしまった。みんな俺をそういう目で見てるんだろうか?
 ふと、煙草の匂いが鼻についた。テーブルの向こうで、千夜が横を向いて煙草を吸っている。
 一度も俺の顔を見ないで、整髪料で固めた横跳ねの黒髪を指で弄っている。いつもなら直前は煙草を控えめにする千夜も、やっぱり今日は特別なのか随分と灰皿に吸い殻が溜まっていた。煙草でも吸わないと落ち着いてられないんだろう。
 ちなみに俺達は一歳ずつ年が違って、青空が一番最年長の二十歳、そして俺、イッコーと続いて、千夜が一番最年少だ。未成年者の煙草の喫煙は法律で禁じられています(注意書き)。
 そのドラミングは畏怖をこめて神の領域と呼ばれて、同じドラムを叩く人間から一目も二目も置かれてるChiyo(千夜のステージ名は英語)がこんな17歳のクソ生意気な女子高生だと知った奴はみんな同じリアクションを見せる。
 いろんなバンドでヘルプや掛け持ちとしてずっと叩いてて、一つのバンドに留まる事が全くなかった千夜がどうして1年前に青空の誘いに乗って、メンバーになったのかは絶対に話そうとしない。青空は理由を知ってるらしいけど、本人に口止めされてるらしくて絶対に言おうとしないので、あっさり引き下がるしかなかった。妙なところで義理堅い、青空は。
「覚えてきた?」
 煙草をふかした千夜が黒縁の丸眼鏡の向こうから威圧してくる。背も低くて年下のはずなのに、誰も寄せ付けないような凄みを持っている。その黒のニットトップスの下に隠された細い腕は男以上の信じられないドラミングを叩き出して、自分の気に食わない相手を容赦なくブン殴る。
 千夜が過去に叩くバンドをころころと変えていたのも、おそらくその勝気な性格と態度が災いしてたのも原因の一つだろう。
 氷のような視線を投げかけてくる千夜を無言で睨み返してると、
「ここで訊いたところで、ステージの上で唄えなかったら無駄みたい」
挑発的な台詞を吐いて千夜は視線をそらした。俺も反論しないで、青空が持ってきてくれたギターの調子を確かめる。
 俺はちっとも練習なんてしないから、ギターはいつも青空に預けてある。そのギターも実際はイッコーの借り物だ。
 一度だけ俺に渡して練習するように言った事があったけど、案の定次のライヴの時に持ってくるのを忘れてしまって、千夜を大爆発させた。それ以来、青空はわざわざ俺のと自分の分、二本持ってくる。ちなみにその時はマスターに借りて事無きを得た。
 俺達のバンドは人気がある割に、周りの人間関係は至って質素で、基本的にバンドのメンバー+キュウの五人でしか動かない。車で機材を運ぶなんてもっての他で、たまに違う街でライヴする時だって現地集合、アンプとかの機材はそのライヴハウスでほとんど借りる事にしてる。この辺、無頓着というか、音に深いこだわりを持ってないというか。千夜に至っては、スティックと折れた時の予備ぐらいしか用意してこない。用意されたドラムでどれだけ最大限の音を出せるか、そこに賭けてるらしかった。
 気付くと、横でキュウが困った顔をしていた。どうやら、千夜が怖くて近づけないようだ。
 普段ならさっきの睨み合いの場面でキュウが、
「やーもーおねーさまったらピリピリしちゃってー」
とか言って千夜に抱き着いてそのままうやむやになる、ってパターンになるんだろうけど、煙草を吸ってる時の千夜は『ムカついている』以外の何物でもない。そんな時に千夜に抱き着くのが自殺行為だって事を、さすがのキュウも熟知していた。
 キュウが千夜を『おねーさま』って呼ぶのは年頃の乙女心からなんだろう、きっと。最初に愁と楽屋に潜りこんできた時も、千夜目当てだったから。
「ん、もうみんな揃った?」
 一通り準備が終わると、楽屋の扉が開いて青空が戻ってきた。俺と軽く挨拶を交わして、素早く自分の準備を始める。
「リハーサルの時間でーす。みなさんステージの方へお願いしまーす」
 しばらくすると、スタッフの女の人が楽屋に入ってきて俺達に知らせてくれた。労いの言葉をかけて、俺達全員すれ違いに楽屋を出て行く。ステージに上がるまで、背中に突き刺さる千夜の視線が痛かった。
 まだステージの上でスタッフが数人動いてたので、ステージ裏で待機。隣で腕を組みながらその作業を眺めてる千夜の服に染み付いた煙草のメンソールの匂いが鼻につく。青空と話しながら待っていると、キュウがステージの上で機材や配線の位置の確認を取っていた。
「んじゃ、そろそろ始めますかと」
 全て準備が整ったところで、ハードコアバンドのプリントが入った白のTシャツに黒の短パンといったラフな格好で固めたイッコーが、アンプにベースのシールドを早速突き刺す。適当に即興で演奏すると、ステージ横のアンプから重低音の塊が飛び出してきた。
 ロックのライヴに一度でも観に行った人間ならわかると思うけど、音ってのは耳だけで感じるものじゃない。ヘッドホンやコンポから流れてくる音はどうしても鼓膜にしか届いてこないけど、ライヴハウスや野外のフェスティバルなんかでアンプから伝わってくる音は、まさに『飛び出す』って言葉がよく似合う。目に見えないものが具現化して、身体を直接揺さぶってくる。全身で音を聴くこの感覚に病み付きになるから、みんなわざわざ足を運んでくるんだろう。
 俺も何度か、心に響いてくる音の響きに飲まれて涙を流した事がある。あれはいつの事だったか。
 記憶の中に埋もれた想い出を引っ張り出してると、ピックを一気に振り下ろしたギターの音が俺の意識を呼び戻した。
「何ぼーっとしてるの?」
 青空が深い海の色を持ったエレキギターを抱えて笑っている。俺が考え事をしてる間に、全員準備ができているようだった。キュウもステージ前でパイプ椅子を用意して待ってる。周りを見ると、周りの作業しているスタッフも手を止めて、俺のほうを見ていた。
「懐かしいなって思って」
「感傷に浸ってる場合じゃねーぞ、たそ」
 口元に笑みを浮かべたまま、イッコーが首を鳴らして忠告してくる。確かに今はそんな余裕なんてないんだった。
「じゃあ、これから黄昏が今日のライヴに出れるかどうか、テストするよ」
 青空の言葉で、一気に会場の空気が引き締まる。ステージの中央まで歩くと、そこから見える場内の広さが以前より大きく感じられた。
「黄昏が休んでる間に、黄昏用に書いた新曲が3つ。これを今から、本番と全く同じ感じで唄ってもらうから、いい?」
 わざわざ立てかけてあるマイクのスイッチを入れて説明する青空。スタッフのみんなを観客に見立てて演奏するって事なんだろうか?
「もちろん、僕達はイッコーが代わりに唄った音源に合わせて練習してるけど……」
「どれも、ベース弾きながら唄う曲じゃねーんだよなぁ」
 イッコーが何かぶつぶつ言ってるけど、無視して青空の話に耳を傾ける。
「ちゃんとバンドで合わせるのは初めてだし、黄昏が唄ってどれだけいい曲ってのも正直な所分からないから」
「おいおい、客の前で歌うんだろ、今日?」
「いい曲だったらね。少しでもひっかかりがあったら、たとえ上手く行ったところで今日お披露目するのは止めようと思うんだ」
「ちょっと待てよ。全部ダメな曲だったらどうするんだ?」
 俺の疑問に、青空はしれっと返してくる。
「それはヴォーカルの力量でどうとでもなるよ。それ以前に、僕は黄昏が唄ってこそ成立する曲を書いてきたつもりだけど?」
「……わかったよ」
 そこまで言われちゃやらないわけにはいかない。
「おれにも曲書いてよ、青空ちゃ〜ん」
 イッコーがすがるような顔を見せて青空にせびる。このバンドで曲を書くのは青空とイッコーの二人だけど、青空は基本的に俺が歌うのを前提に曲を書いてて、イッコーが唄うのは自分で書いた曲だ。両方の曲を並べてみても、十分バンドの振れ幅に当てはまって違和感はさほど感じられない。
「イッコーは自分で書いた方がいいに決まってるよ」
「あーもー、つれないんだからさー」
 イッコーは笑いながら逆立てたオレンジ色の髪の毛を掻きむしってる。ただ、青空の言う通りで、音楽に関しては圧倒的にイッコーの方が詳しく、たくさんの和音を使える。和音が多ければ楽曲のアレンジは増すし、似たり寄ったりの曲になる事が少ない。
 青空は未だにアレンジに関しては未熟な点があるので、大まかなコード進行とメロディしか曲の形を作ってこない。2年前に音楽を始めたばかりの人間が、その3倍以上のキャリアを持つイッコーに敵うわけがない。
 曲の構成は話し合って決める事がほとんどだ。正式に加入する前までは、千夜は片言しか口を挟んでこなかったけど、今は積極的に参加してくる。
 千夜の経歴については俺達でも謎な部分が多くて、本人も自分の口から話そうとしないのでみんなあまり触れないようにしている。ただ、音楽のキャリアと間口の広さはイッコーよりも遥かに上らしい。リズム感は正確無比だし、絶対音感も兼ね備えていて小さい頃から音楽に精通してるように見えた。
「失敗した時の事なんて何にも考えないのね」
 3人で和んでいると、ドラムセットに囲まれた千夜が釘を刺してきた。無駄話はそこで止めて、それぞれ自分の立ち位置に戻る。
 途中で俺が歌詞を間違えたり忘れたりしたら、そこで演奏は終了、きちんと3曲とも唄えるようになるまで次回から俺がステージに立つのは禁止。それが今回の俺と千夜との妥協点だった。
 もちろん、間違えるつもりなんてない。ここで終わってしまったら、それこそ俺はバンドとすっぱり縁を切って、今までの自堕落な生活に戻る事だろう。それだけはどうしても避けたかった。
 そう考えるとやっぱり俺は、あの生活に満足してなかったんだろうか?
 今になってやっと気付いた気がする。
 俺は、ここに立つのが性に合ってる。
 もう、何もかも見限って嘆いてるのには飽きた。
 だからこそ、青空から曲を持ってきてから五日間、俺は今までベッドの上で転がっていたのも嘘のように必死になって覚えたんだろう。幸い青空も手伝ってくれたし、何よりいつものように歌詞が俺にとってとても覚えやすくて、また、心に届いた。
 青空の詞には、稀に俺の心をそのまま抜き取ったような部分があったりして、どきりとする。本人は自分の思った事をそのまま歌詞にしてるだけって言うけど、叫ぶ手段を持ってない俺に言葉を与えてくれてるような、そんな気がした。なら、俺もそれに応えなきゃ。
 痛いのは嫌い。
 怒ると疲れる。
 ずっと笑っていられればいい。
 楽しい日々ばかり続けばいい。
 その思いはくたびれる前から、ずっと変わっちゃいない。きっと今の気持ちもすぐに薄れて、また閉じ篭もりたくなる時が何度も何度もやってくるんだろう。
 でも、それでいい。
 ゆっくりとゆっくりと変わっていけばいい。
 弱い自分を抱きかかえられるようになっていけばいい。
 目を閉じて、大きく息を吸う。地下にあるこの会場に、緩やかな風が吹きこんでいるのを肌で感じる。無機質な風に、微かに潮の香りが混ざってる気がした。
「じゃ……『宝石』から行こう」
 そうみんなに指示して目を開くと、違う世界がそこで待っていた。


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