→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第1巻

   015.ふれていたい

「来た来た」
 月の下で、少女が笑った。
 月明かりに照らされた海を背景に一人岩場に立ち尽くす彼女の姿は、遠目から見ただけでも心が釘付けになった。俺の姿を見つけて、大きく手を振る。
 つまずかないようにゆっくりと岩場を登って、彼女に近づいていく。岩場の先端で待ってる彼女は前と同じ黒のワンピースの上に、俺のジャケットを羽織っていた。海を眺めたりウェーブのかかった髪をかき上げたりして、俺が来るのをじれったそうに待っている。
「ひさしぶり」
 最後の段差を昇ると、少女が目の前で俺に手を差し出していた。何も言わずにその手を掴んで、ひょいと引き上げてもらう。白い素肌に宿る体温は冷たくて、今にもその存在が消えてしまいそうな印象を受けた。
「わざわざここまで来なくてもよかったのに」
 手を放した途端俺を軽くあしらうこいつの態度に、思わず拍子抜けしてしまう。
「待っててくれたんじゃなかったのか?」
「ううん、ここで夜風に当たっていたかっただけ」
 そう言って伸ばした髪を潮風にたなびかせるこいつの真意はよくわからなかったけど、もう、会えただけで、それだけで俺は十分満足だった。
 それも、こんな明るい月夜の下で。
「でも、来てくれたんだろ?ライヴに」
「いろいろあって遅れちゃって。着いたらもう最後の曲が終わったところだったもの。だから今回はやめにしようかなって思ってすぐ帰っちゃった」
 耳の辺りで指にくるくる髪を巻きつけて弄びながら、少女は口を尖らせている。
「楽屋に寄ってくれれば良かったのにな」
 もしも今日会えなかったら、もう二度と会えない気がしてた。悪い予感が外れてくれた事に、ちょっぴり神様に感謝する。
「人の多いところって嫌いなの、私」
 そう言って彼女は俺に背中を向けて両腕を広げると、その場でくるりと一回転した。
「知らない人に囲まれてるより、自然に囲まれてるほうが絶対に気持ちいいじゃない?」
 こいつの言う台詞ももっともだ。だから俺も、バンドの練習をさぼってはわざわざ何度もここに足を運んでたんだと思う。
 でも。
「あそこにいると、いつもなら考えたくもない他人と魂の部分で繋がってる感じがして、凄い救われてる気分になるけどな」
 俺にとってのステージは、そういう場所だった。
 だけど、あそこにだけ集まる人間と繋がったところで、一体何が変わるっていうんだ?
 必死に泳いでるのにいつまで経っても岸に辿り着かない感覚が絶えず付きまとって、気付かないうちに俺は溺れてしまってるんじゃないのか? 
 そう考え出すと、俺の足は自然と遠のいていった。
 今もまだ、その気持ちに決着(ケリ)はついていない。これからまた、唄い始める事でその気持ちがどんなふうに変わっていくのかも全く見えない。
 それでも、もう一度歩き出そうと思った。今日のステージが終わった今は。
 笑って返せばいいもののわざわざ真正面から反論したのも、昔の自分の居場所の悪口を言われてるような気分になったからだった。
「他人と繋がるだなんて、考えただけでも吐き気がするわ」
 するとステップを止めてあからさまに嫌悪の表情を浮かべて、少女はそう吐き捨てる。
「でも、おまえあの時……」
 俺にキスしようとしたじゃないか?
 そう言おうとした瞬間に少女の薄い桜色の唇が目に飛び込んで来て、言葉が詰まった。
「あなたとだったら、一緒に溶けていけそうな感じがしたから」
 真っ直ぐに俺の目を射抜いて、心の内を読み取った彼女が言った。
「あなたと私の境目がなくなって、どっちがどっちかもわからなくなるまで混ざれるって思ったから」
 視線に釘付けにされて動けない俺の手に、少女の手が触れた。
 何だかとても甘美で妖艶な誘惑に俺は戸惑いを感じて、思わずその手を払いのける。
「他の人と混ざりあったところで、違う人には薬になるのかもしれないけど、私にとっては毒でしかないもの。少しでも不純物があったら、もうそれだけで壊れちゃう」
 彼女は払われた手にしばらく視線を落として、もう一度俺の目を見た。
「俺は別に混ざり合いたいために唄ってるんじゃない」
「じゃあ、どうしてみんなの前で唄ったりするの?」
 シンプルなようで深い質問をしてくる。
 この命題を紐解いていったらそれこそキリがない。俺もひどく悩まされた事があったけど、今はもう自分なりの答えを持ってる。ただ、それを一言で言い表すにはこの言葉しかなかった。
「すっきりするから」
「……プッ……アハハハハ……!」
 俺がぶっきらぼうに答えると、目を丸くした少女が大笑いし始めた。真面目に答えた俺の顔がよほどおかしかったんだろうか。
「私の思ってた通りの人ね、黄昏クンって」
 笑い過ぎて目に浮かんだ涙を細い指で拭いながら、少女は安堵の息を漏らした。
「はい、これ、ジャケット」
「まだ着てていいって、寒いだろ?」
 羽織ってたジャケットをその場で脱ぎ出す彼女を慌てて止める。
「そう言っていつまでも貸していて、私に会いに来る口実にするつもり?」
 冗談めかして、少女はジャケットを羽織り直した。意地悪い笑みで、俺の顔を見つめる。
「それでもいいけど」
「まともに受け取らないのっ」
 俺のリアクションに彼女は笑って、頭を小突いてきた。ついさっきまでの大人びた表情はすっかり消えて、無邪気な笑みを見せている。
 不思議な奴。
「私もまだ帰るつもりもないし、お言葉に甘えて借りておくね」
 ふと、少女の笑顔がみょーの笑顔とダブって見えた。多分俺、疲れてる。
「そんなわけで、これで黄昏チャンとの約束は守ったわけであります」
 重荷が降りたといった感じに、大袈裟にため息をついて肩をすくめる。
「貸しはまだ一杯あるけどな」
「キスしてほしい?それともSEX?」
 さりげない少女の台詞に、俺は思わず吹き出した。どうやら、年頃の女の子からそんな言葉を直に聞くのにまだ免疫がないみたいだ。
「いらないいらない、小娘(ガキ)の身体なんてこっちから願い下げだ」
 俺が軽くあしらうと、少女は肩で怒りを表しながら食ってかかって来た。
「こー見えても私は16歳っ!小っちゃくて悪い!?」
「嘘……まじ?」
「大マジ」
 …………。
「確かに胸は俺の知ってる娘より大きかったけどな……」
「やっぱりあの時胸の感触楽しんでたでしょっ!」
(外見だけ)少女は顔を真っ赤にして、駄々っ子のようにばしばし叩いてくる。逃げようにも足場が少ないので、俺は腕で攻撃を防ぎながらひたすら謝った。
「まともに顔見たの一回だけだから、てっきり中学生かと思いこんでた」
「マセた小娘だと思ってた?」
「うん」
 更にばしばし叩かれる。凶器を持たせてたら確実に殺されてる。
「だっておまえ、俺に自分の事何も言わなかったじゃないか」
「そうだっけ?」
「……まあ、いい」
 呆れて物が言えなくなってきた。
「じゃあ、改めて自己紹介します」
 俺を殴る手を止めて、彼女は岩場の一番先端へ小走りする。また飛びこむんじゃないだろうなと疑ってると、こっちに向き直ってワンピースの裾を摘み、一礼した。
「私の名前は時計坂 溢歌(とけいざか いつか)。『溢れる歌』って書いて『いつか』。いい名前でしょう?」
「なかなか親はいいネーミングセンスを持ってる」
「母は偉大、ってね♪」
 胸を張って少女は得意気に鼻を鳴らした。俺も正直、こいつの仕草や外見、性格にぴったりな名前だと思った。口に出して呼ぶと胸をきゅっと締め付けられるような、少し切ないけれど優しい温もりを感じる。
「今はこの街におじいさんと住んでるの。学校なんて行ってないけど」
「中退?」
「ううん、最初から行ってないの。いろいろあるんだけどミステリアスな乙女には秘密がつきもの、ってね」
「誰がミステリアスだ、誰が」
 唇に人差し指を当ててポーズをとる溢歌に俺はすかさずツッコんだ。自分で自分の事をいいように言う奴にロクなやつはいないっていうのが俺の信条でもある。
「こんなか弱い美少女にSEXしようなんて言い寄られるのに」 
 悪魔のような笑みを浮かべながら溢歌は体を寄せて来て、俺の胸板に人差し指を当ててじれったそうに回す。
「か弱い美少女がそんな事するかっ」
 すかさず俺は溢歌の首に腕を回して、ヘッドロックからおでこを拳骨グリグリの刑に処す。 
「あーっ、へんけーん」
「同じ事言われたのは今日二度目だ」
 俺の腕の中でもがいてる溢歌を放すと、逃げるように間合いを取って俺の方をじっと猫のように睨み続けた。
 この無邪気な少女から妖艶な女性まで、いろんな顔を見せるこいつは何者なんだろう?
 みょーとはまたタイプが違うけど、変な奴だと言う事は二度会っただけではっきりとわかった。
「ふうっ。」
 一つため息をついて、俺は空を見上げる。雲一つない夜空に、まばらに散らばる星屑と丸い月が見えた。
 月の光に騙されただけなんだろうか、俺?
「じゃあ、こっちも自己紹介……」
「知ってるわ、赤根 黄昏クン19歳でしょう?水海ラバーズの人気バンド『Days』のヴォーカリストで、得意技はサボる事」
 俺がわざわざ名乗ろうとしたところを、溢歌にあしらうように返されてしまった。
「サボる事って何だよ」
「自分が一番よく知ってるでしょう?」
 一言も言い返せなかった。
「もしかして、何度かライヴ観に来た事あるのか?」
「言ったでしょう?人の多い所は大っ嫌いだって」
 溢歌は露骨に嫌な顔を見せてぷいっと首を横に振る。
「知り合いにファンの女の子がいるだけよ。それで知ってるだけ」
 バンドの話になると、途端に不機嫌になる溢歌。話を転がそうにも全然続かない。
「…………」
 互いに黙ったまま、しばらく一言も口を利かなかった。
 緩やかな潮風が岩場に吹き付け、潮の香りが鼻腔をくすぐる。波の音がやけに遠くに聞こえた。
 このまま突っ立っているのも疲れるだけなので、俺は岩肌の上に腰を下ろした。溢歌も俺にならってその場で三角座りをする。
 座ったまま一言も喋らないでいると、身体に溜まってる疲れのせいで眠気が襲ってきた。ごろりと姿勢を崩して寝転がると、更に眠気は強さを増した。
 このまま二人で朝までここで眠ってるのもいいかもしれないなんてバカな事を思う。寝てる間に溢歌は帰ってるだろうけど。
「その傷、どうしたの?」
 溢歌が沈黙を割って俺の顔を指差してきた。眠気が少しだけ和らいで、ほっとする。
「鏡に殴られた」
「ドッペルゲンガー?」
 溢歌の答えに首をぶんぶん振って、俺はきっぱり言い放つ。
「全然似てないのに俺を鏡みたいだって言い張る変人」
 どこからか、みょーのくしゃみが聞こえた気がする。
「ふーん……でも、私も黄昏クンのこと、鏡みたいに見えるわ」
 顎に両手を当てて、溢歌が小さな声で呟いた。
「な……」
「その変人サンみたいに鏡の向こうにいる自分ってわけじゃなくて……ほら、騙し絵ってあるでしょう?あれで白が黄昏クンだとしたら、私は黒の部分なの。どちらでも欠けると、成り立たないみたいなね」
「だから、混ざり合えるって?」
「そ」
 何となく、こいつが俺を何度も誘ってくる理由がわかったような気がした。
「月の表と裏側みたいなもんか……」
 寝転がった俺の目に映る月をぼんやりと眺めながら、呟く。ふと、青空が話してた絵本の内容を思い出してしまった。
 じゃあ、俺の探してるのは今、そばで座り込んでいる女の子なのか?
 違うだろう、そんなの。
 俺は今熱にうなされていて、錯覚してる最中なんだ、きっと。
「でも――この錯覚ってのも気持ちいいよな」
「錯覚?」
 目を閉じて柔らかい風に揺られながら独り言を呟く俺に、溢歌が訊いて来る。
「夢なのか夢じゃないのかもわからない夢の途中、ってね」
「その夢って、どんな名前?」
「『現実』」
 溢歌の問いに即答すると、彼女の笑みが横で聞こえた。
「キミの事、たくさん知りたいな」
 雨の雫のように透き通った溢歌の声が頭に染みこんでいく。
「多分毒だけどな、俺も」
「じゃあ、壊してくれる?」
 唇に何かが触れる感触があった。あえて目を開けないで、俺は成すがままにされる。永遠とも思えるほど長い時間が経ってから、唇から伝わる温もりが離れていった。
「忘れっぽくても?」
「OK。」
「ナマケモノでも?」
「当然。」
「歌を唄っても?」
 そこで突然、溢歌とのやり取りがぴたと止まった。目を開けて上体を起こすと、俺のすぐ隣で膝をついている溢歌が神妙な顔で俯いている。
「歌だけは絶対ダメ」
 やがて顔を上げ、鋭い光の宿った目を俺に向けてきっぱりと拒絶した。
「……唄うの、嫌いか?」
 さっきから頭の片隅に引っかかってた疑問を溢歌に投げかける。すると、
「大っ嫌い!!」
突然物凄い剣幕で怒り出して、腰を上げた。
「ごめんなさい、私帰る。バイバイ」
「お……ちょっと待てってば!」
 別れの言葉を吐き捨てて足早に帰ろうとする溢歌の腕を慌てて掴んで、引き止める。溢歌は鬱陶しそうに顔にかかった髪の毛をもう片方の手でかき上げて、俺を殺意の篭った目付きで鋭く睨んだ。
「どうしたんだ、いきなり?」
「黄昏クン、今までのはなかったことにして全部」
 早口で声を荒げると、溢歌が俺の腕を振り払おうとする。このまま俺の手が離れてしまったらもう二度と溢歌とは会えない気がして、俺は掴んだ掌に力を込める。
「悪い事言ったんなら謝る」
「違うの、私やっぱりどうしても歌だけはダメなの」
 怒りに満ちた顔から懇願するような表情に変わり、溢歌は首を振る。
「唄うのがダメなのか?それとも歌を聴くのが……」
「ダメ!それ以上言わないで!ごめんなさい、黄昏クン……歌はダメなの、唄うのも聴くのも嫌、嫌、絶対嫌っ!!」
 俺の手を無理矢理振り解き、両手で耳を塞いで涙を流しながら溢歌が錯乱し出す。突然の事に、俺は戸惑う以外何もできなかった。
 溢歌が全身の力が抜けたように膝から崩れて、顔を押さえて泣きじゃくっている。
 一体どうしたって言うんだ?歌?何か嫌な想い出でもあるのか?
 ――そこで、溢歌が何でライヴの最後にしか姿を見せなかったのかを理解した。
「わかった……おまえの前じゃ歌の話は口にしないからさ」
 うずくまっている溢歌をそっと抱き締めて、背中を軽く叩いてやる。
「ごめんね……ごめん……黄昏クン」
 俺の腕の中で何度も謝りながら、溢歌は大粒の涙を拭う。しばらくすると溢歌も落ち着いたので、俺は手を放してやった。
「自分の都合のいい部分しか、見れないもんね、他人のも……」
 言葉を詰まらせながら、弱々しい声で溢歌が言った。俺は何も言わずに、黙ってその言葉を噛み締めていた。
「ん……だいじょうぶ、ダイジョウブ、大丈夫だから溢歌……!」
 俺に背中を向けて自分に呪文でも唱えるように呟いてから、溢歌は涙を拭った頬を叩く。
「よし、もうこれで大丈夫!」
 くるっと振り向いて、溢歌がはにかんだ。その顔は今まで見せてた笑顔と少しも変わらなかったけど、泣き腫らした目尻がやけに痛々しかった。
「ホントか?」
「うん、昨年はお世話になりました、今年もよろしくお願いします」
 理解不能なギャグを飛ばして、深深と頭を下げてくる溢歌。
 大丈夫、って事にしておこう。
「じゃあ、そろそろ帰るね、私」
 その溢歌の言葉に、またも魔法が解けてしまった感覚が俺を襲う。前よりも残念に思わないのは、これから何度も溢歌と会えるかもって期待があるから。
「あ、そうだジャケット」
「いいって、やるよ」
「え?」
 ジャケットを脱ごうとしていた手を止めて、目を丸くした溢歌が俺の顔を見ている。
「今度俺のバイクの後ろに乗る時があったら、それ着て来ればいいから」
 俺の言葉に溢歌は顔を輝かせて、体を抱えるようにジャケットの両裾をぎゅっと握り締めた。
「貸しばっかり作っちゃってるわね、黄昏クンに。身体で返す?」
「いらないいらない」
「独り寂しい夜には私を迎えに来てね♪」
「はいはい」
 本気なのかどうかよくわからないけど、とりあえず適当にあしらう。俺に小娘として見られてるのが嫌なんだろう、溢歌は少し頬を膨らませていた。時折俺より年上の顔を見せたりするけど、結局何だかんだ言って俺より3つ下の女の子だ。
「これから黄昏クンはどーするの?」
 ジャケットを貰って喜んでいる溢歌が俺に尋ねてくる。一瞬このまま溢歌を家に連れて帰ろうかと思ったりしたけど、これからも会えるんだからいいかなと一人納得した。
「俺もいい加減疲れたから帰って寝る。あっと……それと、その『黄昏クン』っての、くすぐったいんだけど」
「黄昏クン黄昏クン黄昏クンーっ」
 俺が言った途端に、溢歌が俺の耳元まで寄ってきて抑揚なく囁いた。ぞぞぞと全身に寒いぼが立つ。
「……『たそ』でいい、みんなそう呼んでる。あんまり好きじゃないけど」
「かっこ悪くて情けなくて間の抜けた涙が出そうになるニックネームね」
「……『黄昏クン』でいい……」
 そこまでボロクソに言われて強要する俺じゃない。
「謙遜しなくていいから、ね、たそ?」
 溢歌は俺に満面の笑顔を向けて、そう呼んでくる。
 こいつ絶対、俺の事からかってやがる。確信、決定、当確。
「じゃあ、たそ、港まで送って行ってよ前みたいに」
「〜〜〜〜」
 俺がつむじを曲げて溢歌の足元を見ると、今日はサンダルを履いていた。
「…………」
 ぽいぽいっ。
 俺の目の前で、溢歌はサンダルを脱いで海に放り投げる。
「わかったよ……」
 出会った時からずっと、こいつに振り回されている気がしてならない、俺は。
「そうだ、おまえ携帯持ってる?」
「持ってないし、欲しいとも思わないわ。おじいさん以外に誰も知り合いなんていないもの」
「中学校の友達は?」
「音沙汰ナーシ」
「あはは、俺と一緒だ」
「どうせたそだって、本当は嫌なのに友達に無理矢理持たされたクチでしょ?」
「図星。でも、それじゃどうやって会いに来ればいいかな?」
「ここまで迎えに来て。私雨の日と生理の日以外、ほとんど毎日夜になったらここから海を見てるから。借りを返して欲しくなったら来ればいいし」
「だから借りはいいんだって……俺も出不精だから、多分気まぐれでしか来ないと思う」
「絶対家でゴロゴロしてそうじゃない、たそって」
「だから俺の心を読むなっ」
「そんなの顔見ればわかるわ、一発で」
「俺ばっかり読まれてる気がして、何か不公平だ」
「だって私は魔性の女の子だもーん」
「……おまえ自分でそんな風に言ってて、恥ずかしくないか?」
「嘘ついてるつもりなんてさらさらないもの」
「あっそ」
 この前と違って談笑しながら、溢歌をおぶって岩場を降りて行く。段差の所で降ろした時に、王子様がお姫様を運ぶ時のように腕で抱えてって言われたけど、足元が見えないと危険だし、さすがにこっ恥ずかし気持ちもあって丁重に断った。
「ほら、着いたぞ」
 港の石畳に到着すると、溢歌は俺の言葉より先に背中から飛び降りた。そのまま裸足で冷たい石の上を駆けて、はしゃぎ回る。その姿は、まるで舞台の上で踊っているダンサーみたいだった。
「なんだかすっごくたのしいの」
 身体の芯から湧き上がってくる喜びを押さえ切れないのか、全身で笑みを浮かべて溢歌は踊り続ける。月明かりしか届かない、でもその月光をさんさんと浴びて優雅に踊り回る妖精を、俺は顔を緩ませて眺めていた。
「あだっ」
 勢い良く回り過ぎて派手な尻餅をついた溢歌が、俺の顔を見て舌を出す。俺は思い切り笑ってやって、彼女に手を差し出した。頬を膨らまして顔を背ける溢歌の身体を、後ろに回って引っ張り上げる。溢歌は笑いながら、俺をポカスカ殴ってきた。
「あーつかれた」
 しばらく二人ではしゃぎ回った後、溢歌のその一言で俺の全身に忘れてた疲れが一気にのしかかってくるのを感じた。
「一人で帰れる?」
 堤防に座りこんで息を切らしてる俺の顔を溢歌が覗きこんでくる。
「……ミルクティー一杯飲んだら」
 俺が強がってみせると、溢歌は少し待つように言って防波堤の階段を駆け上がっていった。溢歌が戻ってくるまで、冷たいコンクリートに背中をもたれかけて夜空を見上げる。今日の月は、丸いけど満月には見えなかった。
 昔、一度だけ絵本に出てきそうな、物凄い大きくてまん丸な黄金に輝く月を見た記憶がある。場所はどこか忘れたけど、とても高い場所から見た事だけは覚えてる。
 ただ、今思うと、あんなに大きな月なんて地球から見えるはずがない。それは多分子供心に見えた月で、実際は今目の前に見える月と同じぐらいの大きさだったんだと思う。
 でも、俺の心に残ってるその月は本物で、真実なんだって言い切れる。だって、自分の心さえ信じる事ができなくなったら、俺は何を信じていけばいい?
「寝てる?」
 突然、横から跳ねるように溢歌が顔を出してきた。
「……五秒遅かったら寝てた」
「じゃあ、これ飲んで頑張って帰って」
 溢歌が笑みを浮かべて、右手に持ったミルクティーを差し出してくる。それを受け取ると、溢歌はすべるように俺の横へ移動して、反対の手に持ってたレモンティーを開けた。息を吹きかけながら、少しずつ口をつける。
「猫舌なの、私」
 ぺろっと出した赤い舌を俺に見せて、缶と必死に格闘している。しょうがないので俺が半分飲んで少し冷めた缶を差し出すと、溢歌は唇を押さえたまま俺にレモンティーの缶を渡してきた。手に触れると、俺の飲んでいた缶よりも冷たく感じた。それなのに溢歌は俺の横で喉を鳴らして熱いはずのミルクティーを飲んでいる。よくわからない。
 これって間接キスなんだろうな、なんて青臭い考えをしながら溢歌のレモンティーを口の中に注ぎこむ。肩の上にずっしりと乗っかかってた疲れが少しだけ引いて行くのを感じる。でも、この少しのおかげで何とか帰れる気がした。
「ごちそうさま」
 そう言って溢歌が微笑んだ。差し出してくる手に俺が持ってた空き缶を乗せると、溢歌は背筋を伸ばして立ち上がって、髪をなびかせて振り向いた。
「また会おうね」
 笑顔で手を振ると、一度も振り返らずに溢歌は暗闇へ駆けていく。俺はその後ろ姿を、そのままの姿勢で見送っていた。
 別れの時に振り向かないのは、余計寂しくなるから。
「だったっけな、俺の場合」
 そう薄れて行く意識の中で小さく呟いて、目を閉じる。
 と、次の瞬間俺の目に飛びこんできたのは自分の部屋の天井だった。


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