→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第1巻

   017.ふくざつ

 バイクを飛ばして、夜の街を駆け抜けていく。
 暗闇に浮かび上がる無数のネオンが目に痛い。今日も天気がよかったせいか、昨日と変わらない月が空に浮かんでる。
 車の数はすっかり少なくなってて、俺はほとんど信号に引っ掛らないですんなりと愁に呼び出された場所まで辿り着けた。夜の繁華街は水海のそれと全然違う印象を受ける。そもそもこの辺りに来た事なんて一度もなかった。
 この時間でも夜の街には人がたくさん溢れてる。きっと今日も、この街の中で無数の喜びと悲しみが交差し合ってるんだろうな。
 とてもとても当たり前の事だけれど、なぜかそれが物悲しく、そして愛しく思えた。
 いたずらをされにくそうな適当な場所にバイクを止めて、携帯を鳴らす。俺から誰かに連絡を入れるのは本当に久々のような気がする。
「あ、たそ?よかったーっ、電話してくれて……」
 携帯の向こうから、愁の安心した声が聞こえた。その台詞には本当に安心感と嬉しさが混じってる。そんなに俺が電話してくれたのが嬉しかったんだろうか?
「電話しなきゃ正確な場所が掴めないだろ?」
「ん、ま、そうだけどさ……バイク、どこに止めたの?」
 俺はとりあえず目に付いたネオンをいくつか並べてみる。
「あ、じゃあすぐ近くだ……そこから大通りと反対側に歩いた3本目の十字路を左に曲がって、少し賑わってる通りを抜けたら自動販売機のあるビルの路地に入って、そこを抜けたところにあるビルの3階にいるから」
「わかるかっ!」
 どうして愁がこれだけ正確に地図を覚えてるのかは謎だけど、とりあえず電話を繋ぎながら言われた通りに歩いていく。しばらくすると、愁が言ってたビルの前に着いた。何の変哲のないビル。ここに来る間、電波が切れなかったのが幸いだった。
「なあ、どうして3階にいるんだ?」
「逃げてるから。迎えに来てよ、たそ」
 愁の言ってる事がよくわからないまま、携帯を切って言われた通りにエレベーターで3階へ。その間、薄暗い照明の灯った静かな廊下で誰ともすれ違わなかった。こういう無人のビルにはまた違った恐怖感がある。
「……えっと」
 狭いビルなので、一つ目の角を曲がれば廊下が全部見渡せた。愁の姿は見えない。
 俺は女子トイレの前まで歩いて、扉を軽くノックした。
「……たそ?」
 中から、少し怯えた女の子の声が聞こえてきた。
「たそだよ」
 小動物を手懐ける時のように、優しい声で中にいる女の子に返してやる。しばらくすると、扉が少し軋む音を立てて中から懐かしい顔が現れた。
 肩まで伸びたオーバーブロウの栗髪。仔猫のような丸い目。ほんのりと桃色がかった唇。小さな顔。
 どこも最後に会った時と全く変わってない。
「……ホントに来てくれたんだ」
「おまえが来いって言ったんだろ?」
 俺が肩をすくめると、愁は途端に泣きそうな顔をして、俺の胸に飛び込んできた。勢いがついてたせいで、そのまま後ろの壁にもたれる。
「よかった……来てくれないかと思ってた……」
 緊張の糸が切れたのか、大粒の涙を流して愁は俺の胸に顔をなすりつけてきた。自慢じゃないけど、俺はこういうドラマじみた場面にとても弱い。
「あ……だって、おまえが呼び出したから……」
「だってだって、あたし、てっきりたそに嫌われたんじゃないかって……」
 それは俺の台詞だった。
「どうして俺がおまえを嫌う必要があるんだよ?それを言ったら俺のほうが……」
「だって、あたしあれだけ嫌がったもん。たそがあんなにしたがってたのに」
 愁の言葉に息が詰まった。あれだけ嫌がったのは俺からしてみれば当然の事で、こっちが謝られる理由なんて一つもない。
「あー……あれは俺が全部悪かった。初めてだったのにな……辛い想いさせて……ごめん」
 十字架の前で懺悔する時のように、自分の罪を全部認める。面と向かって愁に謝れる事で、胸の片隅につっかえていたしこりが全部消えて行ったような気がした。
「……なに?」
 目を大きく開けたまま、視線の定まってない顔で愁が呟いた。
「『なに』って、だから俺がこうして――」
「あたし、今日までずっと考えてきたんだよ?たそに嫌われてるんじゃないかって。あのままたそにすんなり抱かれてればよかったんじゃないかって。もう二度とたそに会えないんじゃないかって。何気ない顔でたその家に行ったって、誰もいないんじゃないかって。知らんぷりで軽くあしらわれてしまうんじゃないかって。こわくて、こわくて、だからバンドのみんなとも会わなかったんだよ?誰かが『おまえはたそに嫌われてる』って言って来るんじゃないかって思って。キュウに訊いたって、やっぱりたそはバンドに戻ってないっていうし、どうしてるのかなって起きてる間ずっと考えてたんだよ?あたしがいなきゃ洗濯物だって、一人で取りこめないんじゃないかってお母さんみたいな心配したりして。あたし、あの後何度もたその部屋に行こうとしたよ?でも、こわくてマンションの入口で引き返してた。これ以上、たそに嫌われたくなかったから――」
「もういい。何も喋るな」
 今までずっと胸の内に秘めていた想いをひたすら吐き出す愁を、ぎゅっと抱きかかえる。俺の胸の中で泣きじゃくってる女の子が、とても愛しい存在に思えた。
 ――脳裏に一瞬、溢歌の笑顔がかすめるまで。
 胸一杯に広がってた愁への想いが、一瞬にして引き離されたようにしぼんでいく。そして、愁を抱き締めた腕の力が抜けていった。
 意識が飛んだように呆然となってる俺を、愁は不思議そうに見つめてる。
「いでっ」
 突然、愁が俺の頬をつねってきた。真剣な顔で俺を真下から睨んでくる。
「今までずっと乙女の心を傷つけてきた落とし前、どう取ってくれるのかなっ?」
 顔は笑ってるけど、指にこめられてる力はだんだん強くなってくる。
「……どうすりゃいいんだ?」
 我慢しながら、俺は愁に訊き返した。
「して。」
「……なに?」
 俺のほんの僅かな良心が拒んでるのか、愁の唇から漏れた言葉が耳を素通りした。
「もう一回して。キスだけじゃなくめちゃくちゃに。」
「ダメだ」
 愁の甘美な誘いを、俺は間髪入れずに跳ね除けた。
「……どうして?」
 唇を食い縛り、大きく肩を震わせて愁が俺に問い掛けて来る。
「どうしてって、そりゃあ、自分の身体をもっと大切に――」
 俺はそう口にしながら、心にもない事を喋ってるのをはっきり自覚してた。
 溢歌。
 あいつの存在が俺の脳裏を掠めた瞬間から、俺は愁の姿を真っ直ぐ見る事ができなくなってしまった。
 前みたいに心が、身体が欲望に駆られる事もない。
 いや、逆にこの怯えた小動物と変わりない愁が前よりも愛しく見えたからこそ、俺は抱きたいと思わないのかもしれない。
 どちらにしろ、これ以上愁を抱く事で、傷つけたくなかった。
「嘘。」
 愁が俺の顔をその丸い目に映しながら、俺の心を見透かしたようにきっぱりと言った。
「……じゃあ、たその事忘れるから。忘れるから、最後にもう一回してよ」
 そして呟いた。掠れた声で。
「――っ」
 血が出るくらいに、俺は奥歯をぎゅっと噛み締める。
 どうして俺は、他人を傷つけることしかできないんだろう?
 どうして俺は、他人の気持ちに応えることができないんだろう?
 悔しくて、悔しくて、涙が出そうだった。
「ごめん、ごめんな――」
 繰り返し、繰り返し、自分を戒めながら呟く。
「いいよ。することには変わりないんだから。ね?」
 零れ落ちる涙も拭おうとしないで、愁は俺に唇を重ねてくる。その温もりが触れると、堪え切れなくなって熱い涙が俺の目尻から零れた。
「ここで、いいのか?」
 永い永いくちづけが終わった後、俺は懸命に笑顔を見せてる愁に訊いた。
「いいよ。見回りしてるガードマンに思いっきり見せつけるくらいにさ、ぱーっと派手にやっちゃおうよ」
「……そうだな」
 俺達は開き直って、お互いの肩を掴んでもう一度唇を重ねた。
 この胸の中に湧き上がってる気持ちは何なんだろう?苦しくて、優しくて、悲しく、そして愛しい気持ちは。
 俺は、愁を好きなんだろうか?
 今までずっと先送りにしてきた問題に直面する。
 でも、わからない。
 じゃあ、俺は溢歌を好きになったのか?
 それも、わからない。
 だったら、胸の中にある愁への想いを、今全部あげよう。
 それでどれだけ、彼女が満たされるのかわからないけど。
「あ……」
 薄暗い電灯に照らされた愁の白い裸体は、抱いてしまっただけで壊れてしまいそうなほど繊細で、小さかった。
 今日はあの時みたいに、黒とベージュの欲望が血をたぎらせる事もない。すぐに傷ついて壊れてしまうこのひ弱な女の子を守ってやりたい、そんな想いが俺の心を包み込む。
 自分で傷つけておいて、自分で守りたいだなんて物凄い言い草だな、ホントに。
 上着をずらして、恐る恐る愁の身体の部分に触れていく。すると、
「だいじょーぶ。あたしそんなに弱くないよ」
頬を赤らめた愁が、少し震えてた俺の手を掴んで、自分の肌に当てた。彼女の温もりが掌に伝わってくる。そして、そのまま俺の手を心臓の位置まで持っていった。肌一枚向こうにある愁の心臓の高鳴りが、俺の胸の鼓動と重なる。
「ほら、こんなにたそを待ってたんだから、ね?」
 安心してるのか、それとも怖がってるのか。愁は目尻に涙を溜めたまま、俺をじっと待ってる。少し戸惑いながらも、俺は愁の誘いを受け入れた。
 嬌声と悲鳴が交じり合い、静まり返った廊下に二人の声が響く。前とは逆の意味で俺の頭は冴え渡ってて、愁の消えそうなほどか細い吐息も逃さなかった。少しでも自分に償いをするために、この瞬間を五感に焼き付ける。
 愁の吐息が顔にかかるたびに、涙が溢れそうになるのを必死で堪えた。愁は俺の下で目を瞑って、何度も何度も俺の名前を呼んでる。
 繋がっているのに、繋がっていない感覚。
 だからSEXは嫌いだ。
 感じるのも、絶頂に達するのも、一緒じゃない。自分じゃ埋められないところを、他人に身体で埋めてもらう。
 でも、それはほんの一時のことで――
 恋だとか、愛だとかそんな感情で欠けた部分を必死に繋ぎ止めようとして――
 繰り返す。
 愁が俺の背中に手を回して、力一杯抱き締めてくる。胸の中で泣きながら、すぐそばにいる俺の耳にも届かないくらい小さな声で、何かを繰り返し呟いてる。
 しばらくそのまま繋がってると、頭の中が徐々に霞んできて、やがて真っ白な世界が訪れた。そして、一気に広がる現実にちっぽけな自分を痛感する。心が宙をさまよってると、夜の冷気を途端に肌で感じて背筋に寒気が走って、我に返った。
 気付くと、俺の下で愁がはだけた格好のまま、両目を覆って嗚咽を漏らしていた。
「……どうした、やっぱり――」
「ごめん、ごめんね……」
「え?」
 愁の顔を覆った両手の下から、涙が止めどなく伝う。
「ごめん、やっぱりあたし、たそのこと忘れられないよ……。最後って、最後って自分で言ったのに、ますますたそのこと……好きに……好きになっちゃったよぉ……」
 ――俺は、どうすればいい?


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