→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第1巻

   018.おとめ心

「でも、どうしてあんなとこにいたんだ?」
 二人ともそれぞれ自分を落ち着かせるために、適当な朝まで開いてる喫茶店を見つけて、一服する事にした。アメリカンの苦味が口中に広がる。
「えっと……ここへ遊びに来てたら、カラオケ行かないかってナンパされちゃって……それで、少しでもたそのことを忘れられたらなって、気持ちを紛らわそうとついていって……で、キス迫られちゃって……その時はああ、こんな知らない人とキスしちゃうんだって半ば開き直ってたけど……突然、たその顔がばーっと浮かんじゃって。男の股間に蹴り入れて、そのまま逃げちゃった」
 愁はそこまで一気に話すと、カプチーノの泡をスプーンですくって口につけた。
「一人で来たのか?」
「うん、ぱーっと気晴らしに。全然ならなかったけどね」
 苦笑して、愁はまだ半分以上中身の入ったカップを置いた。茶系統の色で統一された店内には耳障りのいい曲がBGMで流れてて、隣のテーブルではOLらしい二人組の女性が談笑している。
「で、このまま帰っちゃおうって思って駅に走っていったら、もう終電終わっちゃってて……でも、まだ怖くて怖くて、追いかけられている気がしたから、人気の少ないところに隠れちゃおうって思って」
 愁は照れ臭そうに頬を掻いてから、天井を見上げた。店の雰囲気を出すためにくるくると小さな風車が何個も回ってる。
「……でもね、ホントにたそが来てくれるなんて思わなかったんだ。ありがと。」
 顔をほころばせて、愁は俺に頭を下げてきた。悪いのは全部俺のほうなのに、どうして愁は俺を咎めようともしないで、自分のせいにするんだろう?ただ、これ以上俺が謝ったところで愁を困らせるだけだと思ったので、俺はばつの悪い顔で肩をすくめる事しかできなかった。
「まあ、いいけど……バンドのみんなも心配してたぞ、全然おまえが顔を出さないからって」
「休んでても全く心配されないたそとは大きな違いだね」
「ほっとけ」
「ふふふ」
 こんなふうに無邪気に笑う愁を見るのは久し振りな気がする。俺の家に来てくれる時は、いつも邪険に扱ってるからどこか本心から笑ってないように見えてた。
 もっともっと、俺はこいつを大切にしなくちゃいけないんじゃなかったのか?
 今になって、凄まじい後悔と、愁に対する感謝の念が胸に溢れる。
「キュウだっていつもと変わらない素振りを見せてたけど、きっと内心じゃおまえの事一番心配してたんだぞ」
「ああ、キュウは違うよ。他人の心配より、自分の心配するタイプだから」
「……あっそ」
 無二の親友に対して酷い言い草だと思ったけど、心当たる節がたくさんあるので言い返せなかった。
「なーんだ、たそが一番心配してくれてたんじゃなかったんだ」
 刺のある口調で、愁がすねてみせる。俺は慌てて弁解した。
「あれだけ俺が酷い事したんだから、もうてっきり顔を見せてくれないかと思ってたんだ」
 ジト目で睨んでくる愁の視線が痛い。少しの間沈黙が俺達の間に流れてたけど、先に愁が笑みを浮かべて固まった空気をほぐした。
「大切にしなさいよー。これだけ他人に尽くす女の子なんてそうそういないんだから」
「他人じゃなくて『俺に』だろ」
「わかってるじゃないのさ」
 愁は顔をほころばせて、俺のアメリカンを手にとって口につけた。口に合わないのか、途端に顔をしかめる。俺も愁にならってカプチーノに手をつけてみたけど、コーヒーに泡が浮かんでるのがいまいちよくわからなかったので、すぐに愁と交換して自分のアメリカンを飲んだ。やっぱりこっちの方が性に合う。愁も同じなのか視線が合うと、思わずお互いに笑みが漏れた。
「でさ……誰を好きになったの?」
 カプチーノをすすりながら、突然愁が俺に真剣な眼差しを向けてきた。とっさに視線をそらそうと思ったけど、その笑みのない射抜くような視線に、愁の俺に対するあまりに一途な想いを感じてそらせられなかった。
 俺は一言も溢歌の事を口に出してない。でも、女の勘とかいう奴で愁もわかってるんだろう。俺の前に気になる存在が現れた事に。
 それなら、正直に言ってしまった方が良かった。
「……好きになったのかも、正直わからない」
 口につけたアメリカンを置いて、俺は人通りの少ない夜の街並をガラス越しに眺めながら、言った。やっぱり薄々気付いてても本人の口から告げられる事にショックがあったんだろう。ほんの一瞬愁の顔に驚きと陰りが見えた気がした。
 愁の顔色を伺いながら、俺は話を続ける。
「ただ、気になるんだ。抱き締めたいとか、キスしたいとか、そんな気持ちはほとんどなくて……」
「あたしとは全然違うんだ?」
 真剣な表情で、愁が訊き返してくる。そりゃあ、一人占めしたい男に好きな人ができたなんて言ったらいくらでも鬼になれるだろう、女性って。
「うん……昔、どこかに置き忘れた自分の一つのような、そんな変な感じがする、そいつには」
 言葉じゃ上手く説明できないのはわかってたし、こんな話をしても愁がちゃんと理解してくれるなんて最初っから思ってない。でも、いつまでも隠し通そうなんて思ってなかったし、だったら余計に俺達の関係がこじれるまえに話しておいた方がいいだろう。
「ふうん……」
 何か考え事をしながら、愁は冷めたカプチーノを一気に飲み干した。
 このまま愁が俺と二度と会わないって言うんなら、俺は何も言い訳しないでそれを受け入れるつもりだったし、今までみたいに変わらずに俺に会い続けるつもりだとしても、断る真似はしないって決めていた。
「じゃあ、まだたその横は空いてるんだ?」
「え?」
 きょとんとしてる俺に、愁は表情を緩めて尋ねてくる。
「だーかーらー。今までもさ、あたしがたその彼女だったのかなんて、あたし自身も全然わかってなかったけど――これから、彼女になることもできるんでしょ?」
 俺は言葉を詰まらせて、唸る事しかできなかった。確かに、俺が言った通りに解釈すれば、愁もまだ俺の彼女になれるって事だ。
「……でも、振り向くかなんてわからないけどな」
 これだけ言うのが俺には精一杯だった。でも、愁は十分満足したのか、
「いいよ、今度こそはっきりと振り向かせてやるもん」
身を乗り出してきて、テーブル越しに俺の唇に軽くキスをした。泳いだ視線が隣のテーブルの女性と目が合ってしまって、恥ずかしい気持ちで一杯になる。
「こ、ここで朝まで話すために迎えに来たんじゃないんだ。帰るぞ」
 俺は逃げるように席を立って、勘定を済ませる。俺のカップに残っていたアメリカンを一気に飲み干した愁が、テーブルで唸っていた。
「ねえ、その人何て名前?」
 すっかり冷え込んだ夜の街を二人で歩きながら、置いているバイクの場所に戻る間、愁が訊いてきた。喋ると白い息が見えるほど外は寒くないけど、もうすっかり秋の夜中って感じだ。
「溢歌……って言ってた」
「いい名前だねっ」
「おまえだっていい名前だと思うけどな」
 ぽん、と一回り背の低い愁の頭に手を乗せると、愁は嬉し恥ずかしいのか顔を赤くして俯いてしまった。この可愛らしさが、突っかかってばかりくる溢歌とは全然違う。
「ねーねー、今度その人に会わせてよ。ライバルの顔見ておきたいもん」
「ライバルって……俺だって数えるほどしか会ってないのに」
「ウソ……一目ぼれ?」
 大きな目を丸くして、愁が驚く。長い間俺と会ってる自分より、ほんの数回顔を合わせただけの溢歌が俺の心を持っていった事が悔しいのか、眉を細めた。
「俺にもわからない……まあ、俺からも言っておくよ」
「うん」
 バイクの置き場所まで戻ってくると、幸いいたずらされてなかったらしく、無事だった。キーを回すと、静かなビルの谷間にエンジン音がこだまする。
「ほら」
 愁の分のメットを渡してバイクに跨ると、愁は胸の前でメットを抱えたまま、視線を地面に落としていた。
「あ、そういえば俺、おまえの家知らなかったな……」
 重大な事に気付いて頭を掻いてると、愁が顔を上げて、俺の目を見据えて、言った。
「あたしね、好きなひとがいたんだ。」
 ――突然の愁の告白に、俺は時が固まったような錯覚にとらわれた。
 規則正しいエンジン音だけが、辺りを包む。俺はバイクに跨ったまま、呆然と愁の顔を見る事しかできなかった。
「たそが初めてじゃないんだよ、ごめんね。」
 苦笑して謝ってから、愁はぽつぽつと話し始める。
「そのひとのことはホント、小さい頃からずっと好きで、胸の内に潜めてた。だらしなくて、あたしが面倒見なきゃ何にもできない困ったひとなんだけど、一つのことに集中してるときだけはとても輝いて見えたんだ」
 一息置いて、微笑んだ。
「たそみたいに。」
 ビルの谷間を風が吹き抜けていって、大通りの木々が一斉に葉音を立てた。
 ああ、どおりで――
 どうして俺に愁がかまってくるのか、今やっとわかった気がした。
「……でもね。そのひとはあたしのこと、全然真正面に見てくれなかった。子供を相手にするみたいに……そっちのほうが子供っぽいのに、だよ?」
 話ながら、思い出し笑いを浮かべる愁。その笑顔は、一度も俺の見た事のない顔だった。
「そして、想いも伝えられないまま時間だけがずっと過ぎていっちゃって――でも、あたしはそれでいいと思った。このまま、ずっとこのひとの横で見守っていれたらいいのにって。だけど……」
 決壊しそうになる感情を飲みこんで、少し間を置いてから愁は続けた。
「だけど、そのひとに好きなひとができちゃったんだ」
 ビルのネオンが愁の顔を照らす。頬には一筋の涙が伝っていた。
「そのひとはあたしにも彼女を紹介してくれて。話してみたけど、あたしなんかよりずっとずっと、お似合いだなって思った。このひとさえいれば、あたしなんて必要ないんだって思った」
「辛いなら――もういいから」
 俺がバイクを降りて愁の肩を掴もうとすると、愁はメットをぎゅっと抱き締めて首を横に振った。言わなきゃいけない、今言っておかなくちゃいけない。愁の目が、そう言っていた。
 俺は、愁の好きなだけ喋らせる事に決めた。
「だから、ダメ元で告白したの、次の日に。『ずっとずっと、好きだったよ』って……。そしたら、そのひとは何も言わないで、あたしにキスしてくれた。あたしのファーストキス」
 そこまで告白して、愁は指で自分の涙を拭った。
「あたしの初恋はそれでおしまい。それからは、そのひととも今までと変わらない日常に戻った。きれいさっぱり割り切って――新しい恋でもしたいなって思ってた。でも、元に戻っちゃったんだよ」
「……俺か?」
 俺の呟きに、愁はこくりと頷いた。
「でも、あたしは初恋のひとより、たそのほうが好き。何倍も何十倍も何千倍も好き。」
 顔を少し赤くして、でもしっかりとした口調で、愁は俺に告白する。
「だいすきだよ。」
「…………」
 思わず目頭が熱くなって、俺は顔を隠すように自分のメットを被った。
「乗れよ。道、わかるんだろう?」
 温まったエンジンを一発吹かして、親指で後ろのシートを指差す。
「うんっ!」
 愁は満面の笑顔を浮かべて、俺の後ろに飛び乗った。愁がメットをつけるまで待ってから、とりあえず大通りに出る。
 最後に見せた愁の笑顔は、初めて俺に見せてくれた心からの笑顔だった。
 振り落とされないように、愁がしっかりと俺の背中にしがみついてくる。そういえば愁の奴、ほとんど俺のバイクの後ろに乗った事がない。最初に乗せた時なんてワーキャー絶叫しまくって、降りたら喉が枯れててすっかり声が出なくなってた。
 空いた夜の道をぶっ飛ばして風を全身に浴びるのもよかったけど、また騒がれたらたまらないのでゆっくりとバイクを走らせる。
 愁の言う通りに道を進んでいくと、溢歌と出会った岩場の見える街に出てきた。愁の家は、港とは逆の山の方面にあるらしい。
 今まで、俺は愁の家に一度も行った事がなかった。もともと出不精だし、ライヴの打ち上げも一人で先に電車で帰るから、送っていった事もない。
 山道を登っていくと噴水の見える少し大きな公園の通りに出た。この先の住宅街に愁の家はあるらしかったけど、バイクで行くと今の時間じゃ近所迷惑になるので、一旦ここでエンジンを止めてバイクを押しながら、公園の通りに立ち並ぶ街路樹の下を二人で歩いていく。
 山が近いせいか、空気がやけにひんやりしてて、風も強い。
「この公園は昔、もっと小さかったんだよ。あたしが小学校の時に今みたいに大きくなっちゃったけど」
 昔を思い出して懐かしんでる愁の話を聴きながら、バイクを押していく。住宅街の周りには人の気配も全くない。
「ん?」
 途中、一風変わった着こなしをした大学生風の青年を見かけた。憂いを持ってるけど澄んだその眼差しをこっちに向けて、眼の下まで伸びた髪の毛をかきあげる。その目に一瞬強烈な既視感を感じたかと思うと、次の瞬間には青年の姿はなかった。
「どうしたの?」
「ん……別に」
 怪訝そうに俺の顔を覗きこんでくる愁に、笑顔を返す。三歩も歩かないうちに、その青年の事はもう二度と思い出せないくらい記憶の奥底に沈んでいった。
「ここ、ここ」
 坂を降りた十字路の角地に建つ何の変哲もない一戸建てを愁が指差す。家族は寝静まってるのか、家の明かりは全部消えていた。
「こっちに駐車場があるからさ。車はないけどね」
 愁に導かれるままについていって、バイクを止める。これほど長い間押したのも久しぶりなので、腕が疲れた。
 玄関に回って、愁が家の扉を開ける。外には電気がついてないので、表札は暗くて読めなかった。
「ただいまーっ」
 愁が玄関の明かりをつけると、思ってたよりもそこに並べられている靴が少なかった。
 俺って、愁の家族構成すら知らないんだよな。愁は俺の事、ほとんど知ってるのに。
「あれ、和美さんいるんだ」
 女物の靴を見つけて、愁が一人納得したように呟く。
「ほら、たそもあがってあがって。玄関閉めてね」
「あ、ああ」
 ぼうっと玄関前で突っ立ってると、愁に呼びかけられた。こんなに大きな音を立ててちゃ、家族が起きないかと余計な心配をしてしまう。
「おじゃまします」
 様々な疑問を残したまま、愁に言われた通り靴を脱いで家にあがる。女の子の家に丑三つ時を回った時間に上がるのに物凄く気が引けるのは、俺だけか?
 と、突然家の明かりがついて、誰かが足音を鳴らして階段を降りてきた。
「愁ちゃん?」
 キッチンの奥の扉が開いて、大人びた声とともに寝巻き姿の若い女性が現れた。そのあまりの美貌に、思わず見とれてしまう。
 腰まで伸びた黒髪、服の上からでもわかる華奢でいて、端正の取れたボディライン。どこか優しげな瑪瑙色の瞳、小さな鼻、薄い唇――
「何見とれてんのさ」
「あいたたた」
 横にいた愁が俺の頬を強く引っ張ってきた。鼻の下を伸ばしてたわけじゃないのに。
「今日は泊まり?兄貴と」
「ええ」
 愁のとんでもない問いに、さらりと応える彼女。彼女に釣り合うほどの恰好良い男なんて、そうそういるはずがない。愁も周囲から見ればかなりの美少女らしいし、まさか愁の兄貴ってのはそれほど凄い奴なのか?
「そちらの彼は?」
 ぐるぐると俺の思考回路が回ってるところに、彼女が俺に気付いたのか尋ねてきた。
「え、あ、その……」
「終電に乗り遅れちゃって。この人に送ってもらったの」
 突然の事にしどろもどろになっている俺の足を無言で踏みつけながら、愁が答えた。怒鳴ってやろうかと思ったけど、近所迷惑にもなるし家族の人を起こしちゃマズいので、泣く泣く引き下がる。
「どうもありがとうございました」
 彼女は俺にふかぶかと頭を下げてきた。言動にも姿勢にも、上品さが見かけられる。
「あ、いえ……じゃあ、俺はこの辺……」
 そそくさと帰ろうとした俺の足を、愁が更にぐりぐりと踏みつけてくる。不幸にもテーブルが邪魔になって、彼女から俺の惨劇は見えない。
「もう遅いから泊まってもらおうって思うんだけど、いいよね?」
「ええ。でも、お兄さんが寝てるから静かにね」
 俺が痛みで言葉を出せないうちに、愁はてきぱきと事を運ぶ。 
「じゃあ、たそ、こっちこっち」
 愁は足音を鳴らしながら、キッチン奥の廊下へ一足先に消えた。こうなってしまったからにはしょうがないので俺も後をついて行くしかない。彼女と廊下に出るところですれ違い、頭を下げると彼女も微笑み返してくれた。一瞬、キンモクセイの香りが鼻につく。
 大人の女性って言葉がしっくりくる、そんな人だ。
「ほら、なにしてんの、こっちだよ」
 階段の上から愁の声が飛んできて、慌てて追いかけた。
「紅茶でも淹れましょうか?」
「あ、お願い。後で取りに行くから」
 深夜もへったくれもない声量で言葉を交わしてる二人に呆れつつ、俺は廊下の一番奥のドアが開いた部屋へ歩いていく。
 と、入ろうとした途端にドアが内側から閉められた。
「わ、ちょっと待って。片付けるっ」
 愁に言われる通り、しばらく壁にもたれて待つ。俺にしてみれば他人を家に上げるなんて全然どうって事ないけども、年頃の女の子からしてみれば、好きな男を自分の部屋に入れるのは大冒険なんだろうな、なんて考えてしまう。
「いいよ、入っても」
 中から聞こえてたどたばたした物音が止んで、愁の呼び声がかかった。
「……おじゃまします」
 ドアを開けて中に入ると、女の子らしいカラフルな内装が目に飛び込んできた。黄色のシーツを敷いたベッド、黒い机、赤いカーペット、緑のカーテン、そして――
「……なんだこれ」
 視線の先にあるものを見つけて、俺はげんなりしてしまった。
「あ、これ?キュウが撮ったのを印刷屋さんで拡大コピーしてもらったの。よく撮れてるでしょ?」
 愁が座ってるベッドの横の壁に、俺達のバンドのポスターが貼られてる。というか、俺だ。
 ライヴ中に、俺が絶叫してる場面。
「……嫌なもの見た」
 このまま回れ右して帰りたくなったけど、そうもいかない。
 部屋に入ると、いい匂いがした。特に香水の匂いなわけじゃないけど、これが愁の生活の匂いなんだろう。
「紅茶淹れたわよーっ」
 階下から、さっきの女の人が愁を呼ぶ。
「……起きないか?家族のみんな……」
 俺が呆れてると、愁はにべもなく言った。
「ここは死んじゃったおじいちゃんの家。両親はすぐ近くだけど別のところに住んでて、あたしと兄貴だけがこっちで生活してるの。和美さんはほとんど第三の住居人だけどさ」
「かと言って、寝てるんだろ?兄貴が」
「あーあー、一度寝たら周りでどれだけ暴れても起きないカバみたいなもんだもん」
「悪かったな、カバで」
「げっ、兄貴!?」
 閉じたドアの向こうから、突然眠気を帯びた唸り声が聞こえてきた。
「一体オマエ、今頃帰ってきて何時だと思ってん……」
 ドアが開いて、寝癖でぼさぼさ頭の男が部屋に入ってくる。
「あ……」
 中にいる俺と、目が合った。
 一瞬の沈黙。
 そして……
『だあああああああああああぁ――――――――――――っ!?』


トップページへ  前のページへ  次のページへ  第1巻