→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第1巻

   019.世間ってば狭い

 キッチンに、コツコツと壁時計の音が響く。
 男女4人が、テーブルを囲んで座っている。俺の隣には愁、そして面と向かって和美さんと――
「どーしてオマエがここにいるんだよ?」
 みょーちんこと、藍染 明星だった。
「通りでどこかで聞いた苗字だと思った……」
 俺は頭を抱えて天に嘆いた。
 すっかり忘れてたけど、愁に初めて出会った時に、一度だけフルネームで自己紹介してもらった事がある。
「なーんだ。たそ、兄貴と知り合いだったんだ」
 藍染 愁。
 つまり、説明するまでもなく、みょーと愁は実の兄妹。
 キュウがどうしてこいつと知り合いだったのか、青空が龍風で何を言おうとしてたのか、今になってはっきりわかった。 
「ああ、この人が愁ちゃんの言っていたバンドの人」
 和美さんが苛立ってるみょーの横でのんびりと手槌を打つ。
「和美……知ってたんなら早く言えっての……」
「だって、一言も訊かなかったでしょう?」
「んぐ……そりゃ、そうだけど……」
 あっさり言葉を返されて、ぐうの音もでないみょー。愁は普段通りの顔で紅茶をすすってるけど、俺の目の前では今にも飛びかかってきそうなほど獰猛な正体不明の存在が、さっきからずっとこっちを睨んでる。いつも千夜に睨まれまくってすっかり慣れてるから全然平気だけど、もちろんいい気はしない。
「オマエが何度もライヴハウスに足を運んでるってのは、知ってたけど……よりによって」
 だんっ!
「どーしてコイツなんだあっ!!」
 テーブルに拳を振り下ろして、みょーは俺を指差して絶叫する。
「すいません和美さん、もう一杯紅茶いただけます?」
「ちょっと待って下さいね。ポット持ってきますから」
「聞けっ!!」
 すっかりくつろいでる俺達の横で、一人だけ頭に血を昇らせてみょ―が怒鳴る。
「ねーねー和美さん、おととい買っておいたシュークリームってまだ残ってたっけ?」
「あきらが食べてないなら冷蔵庫の中にあるんじゃないかしら?」
「別に無理して出さなくてもいいって、おまえ送ってくる前に食べてたし」
「聞けよオマエら……」
 このまま無視してやるのも可哀想になってきたので、しょうがなく話を聞いてやる。
「で、何を知りたいわけ?お兄さん」
「なんで俺がたそにお兄さん呼ばわりされなきゃいけないんだああっ」
 みょーが皺枯れた声を上げて俺に掴みかかってくる。と、みょーの後頭部に唐竹割りが入った。
「近所迷惑なんだから、大声出さないの」
 ポットを持って戻ってきた和美さんが、ぴしゃりとみょーを叱る。
「うう……」
 すごすごと引き下がるみょー。ついさっきも、俺達が大声を出し過ぎたせいで近所から怒られたばかりだった。
 どうやら、和美さんの前では弱いらしい、みょーの奴。
「俺はてっきり、和美さんの彼氏で愁の兄貴っていうから、芸能人みたいな奴が出てくるのかと思ってたけど、全然見当違いだった」
「やかましいっ」
 痛いところを突かれたのか、気を落ち着かせるために自分の紅茶に口をつけるみょー。でも熱過ぎたのか、思いっきりむせた。無情にも、情けない兄の姿を見て愁は笑ってる。
「大体オマエ、愁とどういう関係なんだ?」
 椅子に座り直して、みょーが改めて俺に訊いて来る。俺が口に出すよりも早く、愁が横から答えた。
「彼氏」
 ぶふーっ!
「きゃあっ、あきらっ!?」
 みょーは口に含んでいた紅茶を盛大に吹き出した。慌てて和美さんがタオルを持ってきて、零した紅茶を拭き取る。
「オ〜マ〜エ〜」
 地獄の底から響いてくるような声を上げて、みょーが睨んでくる。
「『彼氏』って事になってるらしい、どうも」
 俺達の今の関係を説明するには時間がかかるので、そういう事にしておいた。
「たその家に料理作りに行ったり、掃除してあげたりしてるもん、ねーっ」
 わざとみょーをどん底に突き落とそうとしてるのか、愁が笑顔でこっちに相槌を求めてくる。事実なので、俺も正直に頷いてみせる。
「和美さんもキュウも知ってるよ。知らないの兄貴だけ、だよ」
「……ホントに?」
 眉間を押さえながら、みょーが和美さんに訊いてみる。
「ええ、名前までは知らなかったけど……たそさん?」
「『たそ』は好きじゃないけどニックネームで……本名は赤根 黄昏って言います」
「ご丁寧にどうも。私は雪森 和美(ゆきもり なごみ)。あきらの面倒を見てます」
「人の彼女に色目使ってるんじゃねえぇ〜」
 テーブルの上でのたうち回りながらみょーが唸る。そんなに全身で怒りを表現してたらすぐ疲れると思うんだけどな。
「……彼女?」
 和美さんを指差して、横でいちごのシュークリームを頬張ってる愁に尋ねた。
「年上に見えるけど、兄貴と同じ大学二年生、二十歳だよ」
「すると、俺と一緒?」
「みんなおんなじだよ、たそも兄貴も和美さんも」
「……嘘」
 これにはびっくりした。どう見ても、物腰の落ち着いた和美さんは年上にしか見えない。
「なにが嘘だよ、正真正銘俺の彼女」
 みょーが胸を張って答える。「もったいない」の一言しか思い浮かばなかったけど、和美さんの気を悪くするのも何なので言わない。
「そもそも兄貴だって、あたしに何も言ってこなかったじゃない。男と付き合うなとか、ライヴハウスに行くなとか」
 シュークリームを平らげた愁が、兄貴に反論する。
「じゃあ今言う」
「遅過ぎ遅過ぎ」
 思わず横からツッコミを入れてしまう俺。
「そりゃあ別に、オレがオマエの恋愛に関して口出しするなんておかしいって思うけどよー、まさかその相手がたそだなんて思わないだろ?」
 みょーはテーブルに突っ伏して、頭を抱えてる。
「じゃあ、たそじゃなかったらいいって言うわけ!?」
 愁が口調を荒げてみょーに突っかかる。俺が入っていったらややこしくなるだけなので、しばらく傍観に徹する事にした。
「そうじゃねー、そうじゃねーけどさー」
「兄貴だってあたしに何も言わずに和美さん連れてきたじゃない!それなのにあたしには口出しするわけ!?」
「だーかーらー違うっての!驚いてんだよ、オレも!」
「兄貴になにも言わなかったのはあたしだって悪いと思うよ、でもそんなに目くじら立てることないじゃない!」
「兄貴が妹の心配するのは当たり前の事だろ?オマエの事は母さん達に任されてるんだしよー」
 延々と目の前で兄妹喧嘩が続く。このままだと収拾がつかないんじゃないかと思って和美さんにアイコンタクトを送ると、彼女は微笑みながら二人の喧嘩を眺めていた。どうやら、このまま好きなようにやらせておくのが最良の判断らしい。
「ま、コイツが悪い奴じゃないってことはわかるけど……なにかあったらすぐオレに言って来いよ。ぶっ飛ばしてやるから」
 余計なお世話だ。
「くそ……ようやく寝つけると思ったところにこれかよ……もういい、部活サボって寝る」
 ぐったりした顔で、みょーが席を立つ。少し心配そうな表情で和美さんが見てる。
「サボり癖はよくないよー、たそみたいになっちゃうよー」
『こいつと一緒にするな』
 愁の忠告に、俺達二人がハモる。お互いに見合わせた後、ぷいっと顔を背けてみょーは二階に上がって行った。和美さんがくすくす笑ってる。
「ったく、誰に似たんだろうな、あいつ……」
 ため息をついて、俺は冷めた紅茶を口にした。搾ったレモンの果汁が舌を刺激して、眠気が取れていく。
 気付くと、愁と和美さんが俺の顔をじっと眺めていた。
「俺の顔に何かついてる?」
「似てるなあって思って、あきらに」
 和美さんが両手を前に組んで伸びをした。愁もうんうんと頷いてる。
「そんな……俺には両親もいないし兄妹だっていませんよ」
「ううん、そうじゃなくて……雰囲気。愁ちゃんが好きになるのもよくわかるわ」
「えあっ……ちょっと、なしなしっ!」
 和美さんの言葉を慌てて遮ろうとして、わーわー愁が声を上げた。何か悪い事でも言ったのか?
「なーごーみーさーんー」
 愁はぜーぜー肩で息をしながら据わった目で和美さんを見てる。和美さんは自分の頭に拳骨を当てて、赤い舌を出して謝った。そんなお茶目な仕草が、少し堅苦しく見える普段の態度と違って魅力的に見える。
「あ、そうそう。今日ずっとあの人、あなたの事を口にしてました」
「え?」
 和美さんが両手を合わせて、突然切り出してきた。
「時間的には……一昨日になるのかしら?あなたのライヴを観て、物凄いショックを受けたって。珍しく興奮してた」
「ショック……ねえ……」
 俺のライヴで息の根を止められたんだろうか?いまいちピンと来ない。
「でも、まさか愁ちゃんの彼氏だったなんて私も思わなかったです」
 口元に手を当てて、和美さんが微笑んだ。まるで絵画のようなその微笑を見ていると、知らず知らず吸いこまれそうになる。
「いろいろあるんですけど、こいつとは」
 愁の頭を掴んで髪の毛をくしゃくしゃにすると、突然の事に驚いた愁が俺に手を上げてきた。そんな俺達のやり取りを、和美さんは楽しそうに眺めてる。マイペースな人だ。
「あ、そうだ」
 和美さんがもう一度両手を合わせて、俺に訊いて来る。
「あきらの描いた絵って見た事ありますか?」
「絵?」
 何の事かわからなくて、俺は愁の顔を見た。
「兄貴、美大に通ってるの。和美さんも同じ大学」
 そういえば、最初に殴り合った後にもそんな事を言ってたような気がする。
「いや……あいつとも知り合って間もないですから、一度も」
 手を横に振って、和美さんに答えを返す。
「今は部屋で寝てるし、見せられないけど……一度美大に遊びに来て下さい。あそこにもたくさん作品を置いてますし、あなたならきっと……絶対、気に入ると思います」
 和美さんが俺の目を見つめて、やんわりとした口調と違ってきっぱりと言い切った。
「……じゃあ、バンドの練習がない時にでも寄らせてもらいます。……愁と一緒に」
 最後の言葉は、横にいる愁の視線に耐え切れなくなって付け足した。本当ならバンドの奴らでも溢歌でも構わなかったけど、ここはケジメをつけておかなきゃいけないだろう。そんな俺の考えも露知らず、隣で愁が嬉しそうに鼻歌を歌ってる。
「じゃあ、俺はそろそろ……」
 キッチンの時計を見ると、すでに朝の5時を回っていた。耳を立てると、遠くで小鳥の囀りが聞こえる、そんな時刻だ。
 席を立とうとしたら、愁が俺の腕を勢いよく掴んできた。
「……わかったよ、泊まってけばいいんだろう?」
 どうやら、帰してくれそうにないらしい。俺が諦めて再び席に着くと、愁は立ち上がってキッチンを出て行く。
「シャワー浴びてくるね。帰っちゃだめだよ、たそ」
 キツい一言を残して、愁は風呂場へ向かって行った。顔をしかめて困ってる俺の顔を見て、和美さんが笑いを堪えてる。俺もしょうがなく、苦笑いを浮かべてみせた。
「和美さんは寝ないんですか?」
 このままだと場が保たなくなりそうなので、俺から和美さんに切り出してみた。
「あきらを寝かしつけるので大変だったから、そんなに寝てないですけど……。でも、寝てなかったみたいですね、あの人。一度寝たら自分でしか起きられないんですもの」
 聞いてるこっちが赤面するような台詞を平気で口に出す和美さん。一体みょーとこの人の普段の生活ってどんなものなんだろうって思ったけど、あえて訊くのを止めた。平然と深い部分まで答えられそうで怖い。
「何か食べますか?もう朝食の時間なので、お腹に何か入れてから私は寝ようと思ってるんですけど」
「じゃあ……そんなに減ってないんで、少しだけ」
 お言葉に甘えさせてもらって、和美さんの申し出を受け入れる。
 遠くから、シャワーの音が微かに聞こえてきた。キッチンの窓の外を見ると、徐々に空が白み始めてる。
 よくよく考えてみれば、いきなり知り合いの女の子の家に連れられて来て、見知らぬ女性と一緒に朝食を取るっていうのは物凄く奇妙な光景なんじゃないだろうか?
「和美さんは授業に出ないんですか?」
 そんな事を思いながら、頭の中に浮かんだ疑問を口にしていく。
「一度ぐらい授業を休んだところで、大して変わりません」
「みょーと一緒にいて、そんなに楽しいんですか?」
 食パンに包丁を入れながら、和美さんが逆に訊き返してくる。
「たそさんも愁ちゃんといて、楽しいでしょう?」
 俺はここで嘘をついていいものかどうか、迷った。でも、どうせこの人に嘘をついたところで、簡単に見破られる気がしてならなかった。それが何故かはわからないけど。
「……わかりません」
 どうして俺はこんなにバカ正直なんだろう?でも、和美さんは特に気にする様子もなく朝食の準備を続ける。
「楽しいかどうかなんて、考えもしなかったし……愁が俺といて楽しいのか、それはずっと考えてたけど……」
 空になったポットに紅茶を注ぎながら、マリア像に告白するように胸の内を話した。
「好きな人がそばにいるだけで、私は最高に楽しいわ」
 食パンをトースターに入れて、和美さんは席に戻る。和美さんの空のカップにも紅茶を淹れて渡してあげると、彼女は微笑んで礼を述べた。
「有難い事に、あの人も私といて、楽しいみたいだし……。迷ってるなら、迷ったままでもいいと思う。結論なんてすぐに出すものじゃないし、人の気持ちなんて山の天気みたいにコロコロ移り変わるもの。一緒にいる事で、いろいろ見えてくるんじゃない?」
 二分もしないうちに、トースターが元気な音を上げた。チーズを乗せた表面が上手い具合に焼け上がって、香ばしい匂いが漂ってくる。それを真っ白な皿に載せて、今度は何も乗せてない食パンをトースターに入れる。和美さんが差し出してきた皿を受け取って、俺は冷めないうちに先に頂く事にした。
「……でも、あの娘には、正直荷が重いと思うけれど……」
 椅子に座り直した和美さんが、肩肘をついてため息を漏らした。その姿がとても老けた貴婦人のように見えたのは一瞬の事で、目をこすると元の顔に戻っていた。気のせいか。
「ただ、悲しませるような真似だけはしませんから」
 トーストをかじると、チーズの表面に包まれた湯気が口の中に広がる。もう一度トースターがチンと鳴って、和美さんは席を立って自分の分を取りに行った。マーガリンとマーマレードを塗って席に戻ると、少し遅れて朝食を摂り始める。
「たそさんとあきらが似てるって言ったでしょう?」
「……ええ」
「じゃあ、わかるでしょう?あの娘の事」
「今日……ついさっき、聞きました」
 和美さんはトーストをかじる手を止めて、どこか遠くへ視線を向ける。
「私が取っちゃったから……」
 外の木に止まってるのか、小鳥の囀りが大きく聞こえた。
 そのまま、しばらく言葉を交わさないで朝食を続ける。そんなに腹は空いてなかったけど、俺は素早くトーストを平らげて、紅茶を飲んでくつろいでた。
 こうやって他人と会話しながら朝を迎えるなんて、久し振りだ。
 昔は、青空と何度も晩から朝までとりとめもない話を続けて、二人でベランダに出て水海の朝焼けを眺めてたものだった。その時に見る朝焼けは凄く綺麗で、目を瞑ると今でもたくさんの夜明けの街並みを思い出す事ができる。
「ごちそうさま」
 和美さんも食事を終えて、紅茶を飲んでくつろぐ。顔にかかる艶のある髪の毛をしなやかな指でかきあげて、唇をカップにつける時の仕草がとても美しい。見ているだけで胸が高鳴るというより、逆に静まっていって凄く優しい気分になれる。
 こうやって、しばらく和美さんの姿を眺めていたかった。もちろん、みょーや愁の前でこんな事をしてたら間違いなく半殺しにされるだろうけど。
 俺の視線に気付いて、和美さんが照れ臭そうに微笑んだ。まるで聖母のような微笑みだ。
「――あなたがもっと前からいれば、あの二人も上手く行ってたのに」
「?」
 首を傾げてる俺の顔を見て含み笑いを漏らしながら、和美さんは席を立った。空になった食器を流し場に持って行って、後片付けを始める。俺も手伝おうかと思って腰を上げたけど、それより早く和美さんは片付けを済まして、水道の水で軽く口をゆすぐ。
「それじゃ、私も寝ます。愁ちゃんによろしくね」
 ふくよかな胸の前で小さく手を振って、和美さんはキッチンを出て行った。彼女の一つ一つの仕草が、どれも見ていて心が安らいだ。
 幸せなんだろうな、みょーは。
 そんな彼女に愛されているみょーが、少し羨ましく思えた。
「あ、そうそう」
 ドアの向こうに消えた和美さんがちょこっと顔を出してきて、最後に俺にこう言った。
「もし私が先にあなたと出会っていたら、きっと好きになってたんだろうって思うわ」
 …………。
 呆然となってしばらくそこに立ち尽くしていると、俺を呼ぶ愁の声が聞こえてきた。


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