→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第1巻

   020.冷たい雨

 雨降りが続く。
 俺が藍染宅に泊まったその日の夕方から天気が崩れて、ここ四日間雨が止む様子もない。あの日の夜は風が強かったから、雨雲が一気に流されてきたんだろう。
 結局、溢歌とはライヴの日から会ってない。たった五日しか間が空いてないのに、もう何年も会ってない気がするのはどうしてだろう?
 あまりにもその間に、大きな出来事があったからかもしれない。
 愁と仲直りして、抱いて、みょーと思いがけないところで再会して、和美さんと出会って――
 そしてまた、愁の奴が俺の家に来始めた。もちろん学校が終わってからだけど、毎日俺の家に直接やって来て、終電間際に帰って行く。さすがに雨の中を二人乗りのバイクで走るのは危険なので、駅前まで送る事しかできなかった。
 愁が家に遊びに来ればいいのにって何度も俺を誘ったけど、寝てる間にみょーに首を掻っ切られるのはご免だった。あいつならやりかねない。和美さんの顔が見れないのは少し残念だけど。
 和美さんを見てると溢歌や愁とはまた違った、どこか優しい感じを受けた。上手く表現できないけど、あの人のそばにいる間は子供になれる――そんな感覚。
 一日だけでいいから、俺と変わってくれないかな、みょー。不謹慎なのは十分承知の上でそう思う。
 どうやら、あの時最後に言った彼女の台詞が俺の心にこびりついてるみたいだった。
 少しづつ、少しづつ、停滞してた俺の時間が流れ始めてる。ベッドの上でくたばってた過去が嘘のように溶け出してる。何かが、俺の中の何かが変わっていく。
 でも、変わり続ける現実が、俺の中の非現実をかき消していく。
 怖い。
 変わり続ける自分が怖い。自分が、自分じゃなくなってしまうみたいで。
 だから、溢歌に会いたい。
 急激な時間の波に呑まれて溺れ死にそうな俺を唯一繋ぎ止めてくれる存在が、あの幻想的な少女のような気がしてならなかった。
「どうしたの、たそ?」
 俺の上に裸で跨った愁が、虚ろな俺の顔を覗きこんでくる。俺は無理に微笑んで、強く愁の身体を抱き締めた。火照る白い身体から、体温が伝わってくる。そして愁は何事もなかったように、嬌声を上げ続けた。
 あの日に抱いてしまったのがいけなかったのか、愁は毎日俺と肌を重ね合わせてくる。俺も特別拒む理由もないので、流れるままに唇を重ねる。
 それでも、依然として繋がってる感じはしない。
 徐々に慣れてきたのか、愁は俺の身体を簡単に悦ばせるようになった。でも、身体が求めれば求めるほど、胸の中に開いた空洞は半径を増していく感じがする。
 闇の中へ落ちて行きそうな浮遊感。
 そんな俺の手を繋ぎ止めてくれるのは――
「雨ばっかりだね」
 暗い部屋の中から、ベランダの窓の外に広がる暗闇を眺めて愁が言った。ここのところ寒くなっているせいか、分厚い毛布を引っ張り出してきて包まってる日々が続く。
「晴れてくれたほうが楽なんだけどな……」
 肉体的にも、精神的にも。
「そういえば和美さんが美大に遊びに来てって言ってたけど、明日行くか?ホントなら、雨が止んでくれた日に行きたいけど、このまま家でじっとしててもつまらないし。どうせ、明日休みなんだろう?」
「ホント!?きゃはーっ♪」
 心底嬉しいのか、毛布に包まったままベッドの上ではしゃぐ愁。この無邪気な笑顔を見るたびに、心が痛むのはどうしてなんだろう?
「でも、明日は夜にバンドの練習が入ってるし……今日はたっぷり寝なきゃいけないけどな。愁には悪いけど」
「――もしかして、泊まるつもりなのバレバレだった?」
「だから横で寝るぐらいしかできないけど、それでもいいのか?」
「いいよ。だってたそに腕まくらしてもらうなんてはじめてなんだもん」
 愁に言われてみて、そういえばその通りだなって気がついた。もう何百回もしているつもりでいながら、実は親密な関係になってから全然時間が経ってない。
 どうやら完全に、俺の中の体内時計が狂ってしまってるようだった。
 ベッドに寝転がりながら、頭を逆さまにベランダの外を眺める。雨足は昨日とさほど変わってないように見えた。
 明日は晴れるんだろうか?
 もし晴れなくても、俺はあの岩場へ行こうと思った。
 会えなくてもいい。このまま何もしないでいたら、当然頭がおかしくなるだろうって事はわかり切ってた。
 岩場での、溢歌との会話を思い返す。それだけで少しは心が安らいでたけど、もう限界に近い。
 このまま行けば、ぶっ壊れるのは目に見えてる。
 溢歌に会いたい。
 無理ならせめて、優しくなれるような存在――和美さんの顔を見るだけでも、ほんの少しは生き永らえる事ができる。そんなふうに思った。
「たそ、変わったね」
 考え事をしてた俺に突然、愁が言葉を投げかけてきた。
「そうか?」
「うん、前より優しくなった」
 きっぱりと愁が言う。昔の人格が否定されたようで、俺は苦笑いするしかなかった。
「でも、今はなんだか――つらそうに見えるよ」
 ――ふと、魂が抜け落ちて、どこまでも転がって行くような錯覚がした。
「……きっと、光の当たり具合のせいなんだって」
 暗い部屋から明かりのついた台所を指差して、俺はごまかす。
「だから、今日はあたしが横についていてあげるからね」
 愁は俺のそばに顔を近づけて来て、歯を見せて笑ってみせた。その愛らしさに胸が熱くなって、俺はぎゅっと愁の身体を抱きかかえる。突然の事に愁は驚いたけど、全身の力を抜いて仔猫のように俺の頬に顔をなすりつけてきた。
「いい奴だな、おまえはホントに……いい奴だよ」
 俺が思ってる以上に、愁は俺の事を考えてくれてる。俺だけを見てくれてる。俺の気持ちをしっかりわかってくれてる。
 でも、それが俺を苦しめて、手枷足枷をはめている原因だって事に気付いてない。自分自身が知らず知らずのうちに生み出した俺への苦しみを、必死に和らげようとしている。
 端から見ればとても滑稽だけど、愁のこの姿を見て笑う奴がいたら、俺はそいつを容赦なく叩きのめすだろう。
 俺が正直に胸の内を言えば、こいつはどれだけ苦しむのか、想像もつかない。
『あの娘には正直荷が重いと思うけれど』
 和美さんの言葉が脳裏をよぎる。
 俺は愁に想ってくれるだけの分は全部返そうと思ってる。でも、そうすれば愁をどれだけ傷つける事になるんだろう?素直に全部返した方が最小限の傷跡しか残らないのか、それとも立ち直れないほどの痛みを与えてしまうのか?
 どちらにしろ、俺は愁を傷つける事しかできない。
 そんな以前と変わらない結論が目の前に叩きつけられてしまった俺は、これから一体どんな気持ちで愁を抱き締めてやればいい?
 ねえ、誰か教えてよ。
 誰か。


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