→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第1巻

   022.爆発空間へよーこそ!!

 その部屋の扉を開けると、中は真っ暗だった。
 カーテンを閉め切った教室程度の広さの部屋に、太陽の光が少しだけ布越しに窓から射しこんでる。
 和美さんに続いて一歩足を踏み入れると、途端に熱気に包まれた。換気をしてないのか、外との温度差が5℃以上あるんじゃないかと思う。
 部屋の中央に並べられた机の上に、謎の物体があった。
「あきら、愁ちゃん達が来たわよーっ」
 少し鼻にかかる声で、和美さんがこの部屋で寝てるはずの男の名を呼んだ。本人は大声を出してるつもりらしいけど、普段と大差ない。
「うわわわわっ」
 すると突然、謎の物体がもぞもぞと動き出した。愁が驚いて、俺の後ろに隠れる。
「んー?」
 謎の物体の影から、人間の顔が見えた。けど、暗くてよくわからない。
「うー」
 そいつはそのまま起きると思ったら、唸り声を上げて再び顔を隠した。俺の横で和美さんがやれやれと肩をすくめてる。そういえば、こいつは一度寝たら自分で起きるまでずっと眠ってるって前に言ってたな。
「だあーっ、あついあついあついっ!」
 蒸し蒸しした室内に堪え切れなくなったのか、愁が大声で張り叫びながら部屋のカーテンと窓を勢いよく開け放って行く。気持ちのいい風が緑の広がる外から入りこんできて、カーテンが音を立ててはためいた。和美さんも愁の後を手伝う。
 全部窓を開けると篭っていた熱気が嘘のように飛んで行って、優しい秋の風が部屋の中を駆け抜けていく。昼の光が部屋を通り抜けて、暗かった今までが嘘のように明るくなる。
 机の上の物体は思った通りみょーで、毛布にくるまって寝息を立てていた。
 俺達は壁際の机に移動して、適当に散らばってた椅子にそれぞれ腰を下ろす。しばらく無言のまま、3人で眠りこけてるみょーを眺めてたけど、これだけ目を覚ます用意を整えたのに本人はぴくりとも動かない。
「放っておいたら起きるよ」
 愁は興味をなくしたのか、買って来た昼食を袋から取り出していた。みょーが起きるまで待ったほうがいいんじゃないかと思って和美さんに声をかけようとすると、彼女が俺達に先に食べておくように指で促した。俺も一緒に待とうかと思ったけど愁がもうチキンナゲットを口に運んでたので、ジト目でそれを睨みつつ俺も袋を開けた。
 和美さんを置いて二人で食べてると、愁が突然目を閉じて俺のほうへ口を開けてきた。
「?」
 何の事かわからないで困ってると、和美さんが微笑みながらジェスチャーで机の上に広げてある食事を指差す。
 ああ、なるほど。
「ふぐむぐぐ」
 俺は包装を開けていた愁のハンバーガーを手に取って、口の中に押しこんでやる。すると愁は目を見開いて、苦しそうな声を上げた。
「だーっ!ちがうーっ!」
 口に詰めこまれたハンバーガーを取って、愁が怒った。どうやら口のサイズに合わなかったらしい。小さいからしょうがないか。
「そっちそっちっ!」
 愁は俺のチキンナゲットを指差す。欲しかったのはどうやらこっちのようだ。俺が頭を下げると愁は姿勢を正して、もう一度目を閉じて口を開けた。
 と、そこで机の上にねりわさびのチューブを見つけた。多分ここで寿司でも食べてた人が置きっぱなしにしておいたんだろう。
 俺はたっぷりとナゲットにわさびを塗りたくる。肩を震わせて必死に笑いを堪えてる和美さんを横目に、愁の口の中へそれを放りこんでやった。
 しばらくして。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
 大学の敷地内の端から端まで届きそうな大絶叫がつんざいた。
「普通にやれ、ふつーにっ!」
「ごめん」
 顔を真っ赤にした愁にたたんだパイプ椅子でばしばし叩かれた頭をさすりながら、俺は謝った。和美さんがそんな俺達を見て手を叩いて大笑いしてる。
 こういう笑い方もできる人なんだって思うと、ほんの少し、親近感が湧いた。
 和美さんはいいとこのお嬢様みたいな雰囲気が漂ってるから、俺達とは人種が違うって思ってた部分はあったけど、よくよく考えてみれば「あの」みょーの彼女なんだ。
 彼氏が変わってるなら、やっぱり彼女も変わってるんだろうか?
 そんな事を考えながら、俺は今度こそちゃんと愁の口にナゲットを咥えさせてやった。ついさっきの怒号が嘘みたいに嬉しそうな顔で頬張ってる。そして、あれだけの絶叫を横でされたのに、みょーはちっとも起きる気配を見せない。
 やっぱり変だこいつ。
「はい、たそ、あーん」
 今度は愁が俺に口を開けるように催促してくる。俺はとっさに机の上のねりわさびをひったくって迎撃態勢を整えると、愁は少し呆れた顔をしてから口にナゲットを入れてきた。さすがにやりすぎたか。
「ほら、これ」
 機嫌を直してもらおうと思って、俺がストローに口をつけたアイスコーヒーを愁に渡してやる。すると曇ってた顔が途端に明るくなって、ほころんだ笑顔で礼を言ってきた。昔からこの性格は変わってないな、こいつも。
「ごちそーさま」
 食べ終わった後に愁が手を合わせて、食後の作法をする。俺もとりあえずそれにならって手を合わせたけど、少し物足りない感じがした。ちょっと量が少なかったか。
「食い足りないから、ちょっと行ってくる」
 みょーも一向に起きる気配を見せないから、もう一度さっきの店で何か買って来ようかと思って席を立つ。愁も俺についてこようと席を立とうとすると、
「あきらの分がたくさんありますから、それ食べますか?」
和美さんがみょーの分の袋を開けて、中からハンバーガーを取り出した。それならわざわざ買いに行かなくていい。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「だめ」
 俺がハンバーガーをもらおうと和美さんに手を差し出すと、横にみょーの顔があった。机の上で毛布にくるまったまま、顔だけ出してずりずりと這っている。
「わっ、こら、いてっ」
 そのグロテスクな幼虫にニープラトンを喰らわすと、ぴちぴちと机の上で跳ね回った。
「起きてたのか」
「ハンバーガーの匂いがしたから」
「俺達も食べてたぞ」
「和美の匂いが混じってたから」
「犬か」
 嘘かホントかよくわからない答えを返してきて、みょーは毛布を脱ぎ捨てて机の上に腰を下ろした。和美さんはみょーの台詞に照れて真っ赤になってる。
「あげないもんねー」
 みょーはアッカンベーをして、自分の分の袋を抱きかかえた。何だか無性に悔しい。
「冷蔵庫の中に何かあると思います。ちょっと待ってて下さいね」
 拳を震わせて血の涙を心の中で流してる俺に、和美さんは優しく一声かけてから食べる物を探してくれた。冷めたおにぎりを二つ冷蔵庫から取り出して、その上に置かれた電子レンジに入れて温める。
 よくよく部室の中を見回してみると、冷蔵庫の他にテレビや布団まで用意されてる。やろうと思えば、この中で暮らしていけるんじゃないか?
 それでもちゃんとやる事はやってるようで、部屋の片隅に上から布を被せた大量の絵画スタンドがまとめて立てられていた。
 それと、部屋が明るくなってからずっと気になってたけど、部室の天井にも壁にも床にもいろんな絵が描かれてる。鳥獣戯画みたいなものもあればモナリザの微笑みを真似したようなもの、アメリカのシャッターアートみたいなcoolなものもあれば、恐竜の絵や人体解剖図、果ては惑星群やアニメ絵まで。
 一言で言い表せば、「狂っている」。
 芸術が大爆発したような感じ。冷蔵庫や机の置き方一つにしても、それ自体が作品なんじゃないかって思えるほどだ。
「ここって何部なんですか?」
 俺は和美さんに訊いてみる。部室の外の表札にも、何も書かれてなかった。
「えーっと、正式な名称はわかりませんけど、何でもやってます。はい、どうぞ」
 和美さんは中途半端な答えを返しながら、俺に温まったおにぎりを差し出した。手に取ると意外と熱い。
 おにぎり(ツナ)を頬張ってると、椅子に座ってる愁が転がってたラグビーボールとじゃれあっていた。金属バットやバスケットボールが置いてある部屋のもう片隅には、暗室らしきものも見える。
「文化系……ですよね?」
「これでも絵が中心なんですよ。人数は少ないですけど」
 苦笑して俺の質問に答える和美さん。絵が中心と言うけれど、どう見ても真面目に取り組んでる部活には見えなかった。
「ごっそさん」
 みょーが幸せそうな顔で腹をさすってる。その横には、無数のハンバーガーの包装紙が積まれていた。これだけの量をあっという間に平らげたのか、こいつ。
「もう一眠りしていい?」
『ダメ(駄目)』
 再び毛布にくるまろうとするみょーを、俺達3人がすかさず止める。
「全然寝てねーよ、とほほー」
 涙をアメリカンクラッカーのように打ち合わせながら、みょーはしょうがなく毛布を畳んで布団の上に置いた。
「和美さんから俺達が来るって聞いてたんだろ?」
「聞いてたけどよー、絵ー描いてるとそんな事すっかり忘れちゃって。いつの間にか朝になってたから和美送って……ここで爆睡してた」
 重い瞼をこすりながら、みょーは冷蔵庫から牛乳パックを取り出してそのまま飲む。
「でも、なにしに来たんだ?」
 みょーは口の周りを袖で拭って、素っ頓狂な質問をしてきた。
「何しにって……和美さんが遊びに来てって言ったから、なあ?」
「うん」
 愁と椅子に腰掛けたまま、ラグビーボールのキャッチボールをしながら答える。
「というわけで、おまえの作品とやらをわざわざ遠いところから足を運んで観に来てやったんだ。光栄に思って末代までの自慢話にしてくれ」
「かえれかえれー」
 俺のせっかくの好意に対して、みょーはブーイングを浴びせてくる。そりゃそうか。
「まあまあ、そんな邪険にしないで……見せてあげてもいいじゃない、ね?」
 和美さんがみょーをたしなめる。あんまり乗り気じゃないみたいだけど、和美さんの頼みとあれば断るわけにはいかないのか、ぶつぶつ言いながらスタンドの置かれた部屋の隅に歩いて行った。
「わーすれものわすれものー」
 と、そこで突然一人の背の低い女の子が部室に駆けこんで来た。
 妙な唄を口ずさみながら、赤いツンツン頭の女の子は黄色にペイントされた机の引出しを開けて何か探し始める。
「どしたの、山崎?」
「今日のライヴのチケットー、たーしかこの辺にあーったはずなーんだけーどなー、っと」
 みょーに山崎と呼ばれた女の子は唄うように喋りながら探し物を続ける。身につけてる凄まじい模様のTシャツと言いその喋り方と言い、やっぱりおかしいぞみょーの周りは。
「あったよーん」
 散々物を散らかして、山崎さんは引出しの奥からボロボロのチケットを取り出した。はっきり言って使えるのかさえもわからないくらい原型を留めてない。
「これでよーし、と。お客さん?」
 Gパンの後ポケットにチケットを入れてから、山崎さんは俺達に訊いてきた。
「オレじゃない、和美の」
「またそういう事言う」
 しれっと答えるみょーに和美さんが後から咎める。そんな二人のやりとりを眺めて肩をすくめてた山崎さんが、俺の顔を見ると突然、勢いよくこっちに向かって大股で歩いてきた。その迫力に思わず後ずさってしまう。
「…………」
 目と鼻の先までに顔を近づけてきてから、山崎さんは胸ポケットから丸眼鏡を取り出してかけた。
「やあ〜っぱりぃ!!」
 と思うと今度は大声を上げて、ぶりっ子のポーズを取る。彼女の後ろで、俺達の間を離そうとしていた愁が固まってるのが見えた。
「『Days』の黄昏じゃなーい!なんでこんなとこにいるのー!?どーして―!?」
「やかましいっ」
 高い声でさえずる山崎さんの後頭部を、みょーがどこからともなく持ってきたハリセンですっ叩く。綺麗な音がして、山崎さんはくらっと横によろめいた。
「いーたいよー、みょーちーん」
 ずれた眼鏡をかけ直して、頭をさすりながらみょーに涙目を見せる山崎さん。でもいつもの事なのか、みょーは平然と膝をついた彼女を見下ろしてる。
「愁の彼氏なんだとさ。オレは認めてねーけど」
「うっそまじでー!?やるねー愁ちゃん愁ちゃんー」
 山崎さんはいつの間にか愁の手を取って、ぶんぶん振って喜んでる。その強烈な個性に愁はただ呆然とされるがままになっていた。
「この前のライヴ、マジサイコーだったよー。やっぱ4人のほーがいーねー。本編終わった時にアンタが客席にダイブした時なんてそりゃもーびっくりしてびっくりして……」
「それより山崎、急いでんじゃねーの?」
 機関銃のように早口で喋り出す山崎さんにただただ圧倒されてると、みょーが助け舟を出してきた。
「あ、そーそー!ダチと待ち合わせしてんの、早く行かなきゃねー。じゃ、そーゆーことでー!みょーちーん、次のライヴのチケット貰っといてねー!黄昏よがんばーれーよー」
 凄まじい勢いで喋りながら、嵐のように山崎さんは部屋を出て行った。
「……竜巻みたいだった……」
 あまりの出来事に茫然となった俺には、その言葉を口に出すので精一杯だった。愁も何が何やらといった感じで椅子に座ったまま呆気に取られている。
「気にすんな、突発事故だ」
 落ち着いてるみょーがさらりと言ってのけた。和美さんも困った顔で山崎さんが散らかした物を引き出しにしまってるけど、驚いた様子は全然見せてない。
「あれで風速10m」
 止めとばかりに、みょーが口にする。これ以上は想像したくなかった。
「あ、あいかわらずだね、あのひとも……」
 ようやく理性を取り戻した愁が、ぽつぽつと呟く。あの性格に対抗できるのは、きっとここの部活の人間だけなんだろう。そう確信する。
 片付けを終えた和美さんに、わざわざ冷蔵庫から麦茶を出してもらってありがたく頂く。冷たい液体が喉を通り越してからやっと、俺は落ち着く事ができた。
「たそさんのバンド、『Days』っていうんですか?」
 ぼんやりと天井を見上げてると和美さんが少し俺に詰め寄って、訊いて来た。
「そう、ですけど……」
「もしかすると、カズくんのやってるバンド?」
「カズくん……?ああ、イッコーの事ですか?ベース弾いてる」
 一瞬誰の事だかわからなかったけど、イッコーの本名が一光(かずみつ)だったのを思い出した。俺が答えると、和美さんは手を打ち合わせて一人納得している。
「ああ、なあんだ、そうだったの」
「誰だよ、そのカズくんっての?」
 和美さんの口から男の名前が出てきたのが気に入らなかったんだろう。みょーの訊ねる声のトーンが一段階低くなってる。
「音楽やってる親戚の男の子。二年前に組んでいたバンドが解散してから、全然会ってないけれど」
「『staygold』だっけ?イッコーの前のバンドって」
 愁が俺に訊いてくる。俺も詳しくは知らないけど、確かそうだったはずだ。
「メジャーデビュー寸前で解散してしまったの。カズくんは何も話してくれなかったけど……」
 昔に思いを馳せてるのか、遠い目で和美さんは呟いた。そんな彼女を見て、みょーは横で苦い顔して唸っている。
「良かったら俺達のライヴ観に来ます?チケットならタダでいいですよ、和美さんも俺達を誘ってくれたんだし、な、愁?」
「そだね」
 とりあえず愁に振って、俺にやましい心がない事を証明してみせる。愁も賛成なのか、笑顔で頷いてくれる。
「オレは?」
「買え」
 俺の頭上で拳を振り上げてぷるぷる震わせているみょー。
「冗談だって冗談」
 全く、こいつのリアクションは見ているだけで面白い。
「ったく、まーいいけどよ……それより、山崎が来たせいで止まってたけど、見んの、オレの絵?」
 みょーが寝癖のついた頭を掻きむしりながら、かったるそうに訊いてくる。山崎さんが出てきたせいで、絵の事がすっかり頭から吹っ飛んでしまっていた。
「とか言いながら見せる態勢整えてるじゃないか」
 いつの間にかみょーは作品にかけてある布を剥ぎ取って、俺達のほうにスタンドを傾けてる。用意周到な奴だ。
「訊いても一緒かって思ったからさー」
「じゃあ見ない」
「殴るぞテメエ……」
 今にも爆発寸前のみょーを和美さんが必死になだめる。隣で愁がけらけら笑ってた。
「ほら、これ」
 みょーはまず最初に、一番手前に置いてある作品を俺達に見せてくれた。
 右手から水滴が滴り落ちて、その水たまりの中に宇宙が見える。
「んー……」
 こういう絵を描くのか、こいつは?
 絵の知識には疎いので、何の画材で描かれてるかとか筆のタッチがどうとかとかはさっぱりわからないけど、どうやら美術の教科書に出てくるような絵を描くらしい。
 正直言って、俺にはいまいちこの絵の良さがわからなかった。
「いまいち」
「そりゃそーだ、失敗作だもん」
 俺の感想に、さらっと答えるみょー。思わずブン殴ってやろうかと思ったけど、和美さんの前なので我慢する。愁はまたけらけら笑ってる。
「じゃ、次コレ」
 次に出てきた絵は、大樹の下で眠っている人型の兎だった。絵を見た瞬間。思わず開いた口から息が漏れる。
 これは俺でも一目で凄いってわかる。鉛筆を基調に描かれたその絵はとても緻密かつ雄大で、キャンパス一杯に枝を伸ばした大樹はまるで生きてるようだ。手を触れれば実際に存在してるような質感を持っている。
 そして木の下で眠る兎はそれと対照的にとても柔らかい線で描かれてて、気持ちよさそうに身体を丸めて眠っていた。真っ白な体毛に触れると気持ちよさそうだ。
「どうですか?」
 和美さんが微笑みを浮かべながら俺に尋ねてくる。後でみょーがニヤニヤと笑っていた。
「プロ?」
 俺が思った事を口にする。それほどまでにこの絵は凄いと思った。
「ちがうちがう、こんなのここなら誰でも描けるって」
 あっさりとみょーは言ってのける。でも、俺にはこれほどの絵を描くためにはどれだけ才能と努力を費やさないといけないかが肌でわかる。
「んじゃ、コレ」
 大樹と兎の絵を戻して、今度は茜色の絵を持ってきた。
 茜色。
 それ以外に言い表せられない。何故ならただキャンパスに筆で上から塗りたくっただけのような、線も輪郭もない絵だから。
 でも、俺は何だかこの絵がすごく気に入った。
 まるで自分の中にあるものをそのままぶつけただけのような、現実と自分の境界が存在してない絵。これが感情なのか夢なのか無意識なのか、それはわからないけど、描いた人間の魂の部分に触れられた気がして、胸の鼓動が早くなる。
 それと。
 この絵は、俺を描いてるような気がしたんだ。
 鏡の向こうにいるもう一人の自分。どこか遠い昔に置き忘れてきたものが、今この絵になって俺の元に戻ってきた、そんな既視感が俺を襲う。
「……もらっていい、これ?」
 自然と俺の口から、言葉がついて出る。
「チケットタダでくれるなら」
「それだけでいいのか?」
「じょーだんだって、やるよ、タダで」
 みょーは嬉しそうに笑って、絵をぽんぽんと叩いた。
「だーれもこの絵を誉めてくれなかったもんだからさー、ずーっとこの部屋で埃被ってたんだよねー。やっぱり絵って、見て気に入ってくれる人がいないとなんの価値もないし。それなら喜んでくれた人のトコに置いておくのが、絵にとっても一番いいじゃん?オレが描き終わった時点で、もうこれはオレのもんじゃないし」
 みょーはまるで息子の頭のように絵を優しく撫でている。他人から認めてもらえなかった絵でも、自分から生まれたものには愛着を感じてるんだろう。そんな親と子の光景を眺めてると、胸が熱くなってきた。
 ああ、この笑顔を和美さんは好きになったのかな。みょーを眺めてる和美さんは、とても幸せそうに見えた。
「じゃあ、あたしがたその家に持って帰ろっか?夕方から用事あるんでしょ、たそ」
 愁が俺の肩の上に手を置いて、顔を伸ばしてくる。朝起きた時に外が晴れてたから、夕方から用事があるって先に言っておいたんだった。練習前に青空と会うって言っておいたけど、そんなつもりは毛頭なくて、岩場に行って溢歌に会いたいだけだった。
「悪いな」
 ちょっと後ろめたい気持ちを感じながら、愁にこの絵を頼む。
「まだまだあるんだぜー。よっと」
 自分の絵を気に入ってもらって嬉しいんだろう、みょーは上機嫌に鼻歌を唄いながらいろいろな絵を並べ始める。和美さんも楽しそうにみょーを手伝っている。
 ほんの少し傾いた日が部屋に射しこんで来て、床や壁に描かれている絵が光に照らされる。金色にペイントされた部分がキラキラと輝いていた。
 左から順にピカソみたいな前衛芸術な絵、三つ編みの髪をたなびかせる女性の顔、夕日のあたる河でボートに乗って釣りを楽しむ老人の風景画、拘束具をつけられた裸婦画、そして漫画に出てくるようなファンタジックヒーローの絵。
 そのどれもが多彩で、みょーの懐の広さと高い感受性を感じさせた。
 ファンになってしまいそうだ、やばいやばい。
「気にいってもらえました?」
 和美さんが少し首を傾けて俺に訊いてくる。ただ、素直に感想を口に出してしまうとみょーに負けてる自分を認めてしまうと思ったので、黙って頷くだけにした。それでも十分嬉しいのか、和美さんはみょーの顔を見つめてお互いに顔を緩ませてる。
「どうしてこれだけ描けるのに休学する必要なんてあるんだ?」
 俺は率直な疑問を口にした。すると突然みょーが顔をしかめて、和美さんを睨む。どうやら禁句だったらしい。
 和美さんは頭を下げて何度も俺達に謝ってくる。悪い事をした。
「凡人には到底理解できない悩みがあるのだよ、明智君」
「誰だ明智君って」
 はぐらかされた感もあるけど、別に言いたくないなら無理矢理訊く事もないだろうと思って、俺もそれ以上何も言わないで並べられた絵を鑑賞した。
 しばらく愁と二人でわいわい絵を眺めてると、ふとした疑問が頭によぎる。
「和美さんの絵はないんですか?」
「ほとんどコンクール行きなんだよ、和美の絵は」
 和美さんの代わりに、みょーがつまらなさそうに吐き捨てた。これも触れちゃいけない話題だったんだろうか?
「だから私の絵はここに一枚もないんです、ごめんなさい」
 和美さんが目をうつ伏せて謝ってくる。その姿を見てられなかったのか愁が元気づけると、和美さんは何とか笑ってくれた。
 この二人はこの二人で、俺と愁みたいにいろいろあるようだった。さすがに深いところまで詮索しようとは思わなかったけれど。
『学生番号25331、雪森和美さん、雪森和美さん、校内におられましたら学生センターの方まで起こし下さい。繰り返します、学生番号25331……』
 しばらくすると、遠くの校舎のスピーカーから風に乗って呼び出しの声が聞こえてきた。
「あれ、和美さん呼んでるんじゃない?」
 耳を立てた愁が、聞こえ辛い呼び出しの声を聴き取って和美さんに言う。和美さんは一旦外まで出て行ってから、慌てて戻ってきた。
「あら、本当。それならちょっと出かけてきます、ごめんなさい」
「ああ、ちょうどいーや。たそ、少し話があるんだけど、いい?」
 行こうとする和美さんを呼び止めて、みょーは親指で出口を指差して一緒に出るように促した。
「ねーねー、あたしは?」
 一人置いてけぼりにされるのが嫌なのか、愁が頬を膨らませてる。
「和美についてけばー?学生センターまではこっからだと結構歩くし」
「じゃあ、そーするね」
 素早く仕度を整えて、愁は出口で待っている和美さんの元へ小股で駆けて行った。
「またあとでね、たそ。愛してるぜいっ」
 ぴっ、と頭の上で二本指を立てると、愁の姿は出口から消えた。俺が肩をすくめてると、みょーの冷たい視線が肌に突き刺さる。
「ここでいいんじゃないか?俺達しかいないんだし」
 俺が提案すると、みょーはもっともな答えを返してきた。
「この部活のヤツら、山崎みたいな人間ばっかだぜ」
「……外にしよう」


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