→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第1巻

   023.ゆらりゆられて

 日が徐々に傾いている。
 頭上に広がる大樹の葉は夏の頃より緑が色褪せて、徐々に枯れ葉へと姿を変えて行く。強い風が吹くと、揺れる木の葉が一斉に大合唱する。
 木の陰になった草むらの上に俺達は寝転がって、ぼーっと風に揺れる無数の木の葉をつけた枝を眺めていた。
「……和美達戻ってるかなー」
 俺の横でみょーが呟いた。日陰で転がって大した話もしないまま、もう30分ぐらい二人で寝転がってる。
「待ってるんじゃないかな」
 うとうとしながら、俺も呟く。
 こうやって自分の家じゃないところで寝るのなんて久し振りだった。草むらのベッドに身体を横たえてると凄く気持ちよくて、顔を優しく撫でる風が母親の手のひらのように感じて、このまま夢の中へ誘われてみたくなる。
 母親の温もりなんて全然覚えてないけど、きっと赤ん坊の頃、こんなふうに優しく俺を抱きしめてくれたに違いない。
「なあ……おまえがこのまま寝たら、置いてけばいいのか?」
 眠ってもよかったけど、それじゃ寝過ごして溢歌に会えなくなるかもしれない。そう思うと、俺は懸命に眠気を振り払った。
「ん……ちょっと寝足りなかったから、転がっていたくなったの」
 目を閉じて寝転がったまま、みょーが笑う。一瞬マウントポジションになってプロレス技でもかけてやろうかと思ったけど、前みたいに殴り合いになるのはごめんだった。やれば多分、今もずっと頭をもたげている鬱憤は晴らせるだろう。和美さんと会えばきっと心は安らぐけど、結局それも一時凌ぎでしかない。
 すると溢歌は違うのか?
 溢歌がそばにいれば俺はずっと安らかに眠れるのか?
 あいつの誘いに乗って抱く必要はないと思う。どろどろと混ざり合えてどっちがどっちかもわからなくなる、そんなものを俺は求めてるんじゃない。
 じゃあ、何を求めてるんだ?
 ――変わり続けて壊れそうになる俺を助けてほしい。
 そう思って俺は今日、溢歌に会いに行こうって決めた。和美さんに会おうって思った。
 でもそれは実を言うと、俺を助けてくれる存在が横にいるなら、誰でもいいって事だ。
 虚ろな感じを漂わせた月の妖精みたいな存在の溢歌。
 聖母の笑みを浮かべた包容力のある和美さん。
 ひ弱な愛らしい小動物の愁は、俺を抱き締められなかった。あれだけ必死に必死に俺の事を考えてくれて、何度も肌を重ねてきたのに。
 俺はそばにいてくれる以上に、彼女達に何を求めてるんだろう?
 自分から、一体何を求めてるんだろう?
 そして、溢歌と愁は俺に何を求めてるんだろう?
 俺は結局、癒されたいだけなんだ。くたびれた毎日にほとほと愛想が尽きて、昔走ってた道にまた戻りたいだけなんだ。でも、俺の錆付いた魂はすぐに悲鳴を上げる。だからこんな俺を癒してくれる存在に、そばにいて欲しい。
 でも、それ以上に何も望んじゃいなかった。
 自分から手を触れないで、美術品のように手元に置いて近くで眺めてるだけ。でもそれは相手からしてみれば、拷問でしかない。
 だからこそ愁は、俺に何度も肌を重ねてきたのかもしれない。例え自分じゃ大切なひとを救えないってわかってても、自分の身体を捧げる事でこっちを向いて欲しい、あたしを求めて欲しい――そして俺のほうから愁の身体を求めようになる事で、ほんの少しでも苦しみから目を背けて欲しい。そんなふうに思ってくれてるのか。
 何て――何て愛しくて、可哀想な存在なんだろう。
 どうして俺は愁をもっと強く抱き締めてやれないんだ?
 どうして俺は愁を苦しめる真似しかできないんだ?
 それは――溢歌に出会ってしまったから。
 俺を隙間なく満たしてくれる存在――溢歌。
 俺はあいつにも、何も求めてない。もし求めてるのなら、俺はあいつの誘いに乗ってSEXしただろうし、そしてそのままどこまでも混じり合っていっただろう。
 でも俺は、あっさりと拒否した。
 怖いからじゃない。彼女に魅力を感じなかったからじゃない。
 非現実――
 溢歌の存在自体、溢歌がこの現実にいる事がまるで嘘みたいに思えるんだ。
 抱いてしまった瞬間、霧のように消えていってしまいそうな気がして。
 目の前から消えてしまったら、今度こそ俺は深い闇の中へ墜ちていきそうで恐くて。
 かつてくたばってる間、俺はベッドの上からずっと暗闇を眺め続けた。その暗闇はしつこく付きまとってくるのに、決して俺に手を出そうとしない。大きな口を開けて、そこでじっとしてるだけ。
『飛びこむのは貴様の自由、いつでも俺は待ってるぞ』
 暗闇がそう吼えていた。
 最初のうちは何度も何度も飛びこみたい衝動に駆られながらも、必死に現実に杭を打ちつけて耐えていた。けれどいつの間にかその気持ちもすっかり心の中から消え失せて、時々俺の後で待ち続けてるその暗闇を眺めては、鼻で笑うようになっていた。
 でも、俺が今溢歌を失ったら――
 じゃあ、変わりに愁を失ったらどうなる?
 そう思った瞬間、そんな事を考える自分自身にぞっとした。
 愁が今、いなくなったら。
 目の前に、愁の喜怒哀楽を見せた顔が無数に現れては消えていく。そして、最後に映ったのは俺の胸の中で泣きじゃくる愁の姿。
 それは想い出だってわかり切ってるのに、まるで今も目の前で起こってるかのようだ。あの時の光景は俺の胸にしっかりと焼きついてて、今も心を焦がす。
 ――ああ、そうか。
 俺は愁を好きになってたんだ。
 ずっと俺のそばにいてくれて、いつでも俺の事を考えてくれる愁を。
 何だ、そうだったんだ。
 そう考えると、昨日までの肌を何度も重ね合った時間はちっとも無駄じゃなかったんだ。
 和美さんは愁が俺に守られてるって言ってたけど、俺はそんなつもりは最初から――そう、最初はそんなつもりはなかったんだ。愁が勝手についてくるだけで、俺は何もしないどころか、怒鳴ったり追い返したりしてただけだった。
 でも、今はすぐに泣き出しそうな愁を抱き締めてやってる。けど、あいつが泣きたくなるのは全部俺のせいなんだ。
 初恋の人に似たひとを守ってやろうって思って愁は俺を構い始めた。でもちっとも守れなくて、俺が岩場で出会った溢歌を気になり始めた事で泣き出した。そして俺が、崩れそうになるあいつを逆に守ってやる。
 そして、守ってる間に俺のほうが愁を好きになった。
 そう考えると、そこで、また大きな疑問が俺の頭をもたげる。
 俺は、溢歌を、好きなのか?
 あの月夜の下で笑い合った少女を、俺は好きなんだろうか?
 わからない。
 こればかりは、全然わからない。
 大雑把に言ってしまえば好きっていう単語で一括りにできるんだろうけど、それは愁に対する感情とは全く異質のものだ。
『あなたとだったら、一緒に溶けていけそうな感じがしたから』
 溢歌はそう言った。あいつは、俺を求めてる。俺の肉体を。俺の心を。混じり合って自分と言う存在が消えてなくなっても構わないくらいに。
 なぜ?
 どうしてあいつは、そこまでして俺を求めるんだ?
 いろいろ考えてみたけど、ちっともわからない。それはまるで人間が妖精の生態を調べるようなもので、到底わかるはずもなかった。
 なら、直接訊いたほうが早い。
 ただ、あれだけ歌の話になるとヒステリックに喚き散らした溢歌が、そう簡単に自分の内面を話してくれるなんて思えなかったけど。
 と、そこで頭の片隅に一つの単語が引っかかった。
 歌?唄?うた?
 ――まさかな。
 頭の中に浮かんできた考えを振り払って、俺は寝転がったままうんと背伸びをした。大きく息を吸いこんで、自然の空気を味わう。
 今日は早めに岩場へ行こう。溢歌を絶対に逃さないように。そして、そこであいつに対する俺の気持ちも確かめてみればいい。
 渦巻いてたいろんな考えがようやく一まとまりした。頭を使い過ぎたせいで知恵熱が出そうだ。
 俺は目を開けて、上体を起こした。
 ごちんっ!
「あ〜〜〜〜〜〜〜お〜〜〜〜っ」
 鈍い音と共に目の前に火花が飛び散って、次の瞬間額に割れんばかりの激痛が走った。額を押さえながら頭を振って眩んだ目を覚まそうとしていると徐々に視力が戻ってきて、俺の横で地面に顔を突っこんで悶えてるみょーの姿が目に入った。
「……何しようとしてた、おまえ」
 泣きそうになりながらみょーに恨みをこめて言葉を吐く。
「瞳孔開いて寝てんのか確かめよーと思っただけだバカやろー……」
 両手で額を押さえたまま寝返りを打ったみょーが息も絶え絶えに言った。目の前の通りを歩いてた3人の女子大生がこっちを見てくすくす笑ってる。でもその笑いさえどうでもよくなるほど頭が痛かった。みょーはダウンしたまま、女子大生達に手を振って応えてる。こんな時でもおちゃらけられるのはさすがとしか言い様がない。
「寝てないって、ずっと考え事してただけだ」
「あれからしばらく反応がなかったぜ、オマエ」
「いろいろあるんだ、俺も」
 ようやく頭から痛みが引く。あれだけ強く打ったのにこぶになってないのが幸いだった。
 もう一度、平べったい地面の上に大の字に寝転がる。するとみょーも俺と同じように大の字になって、俺と反対に身体を向けて寝転がった。
「オマエ、愁と寝た?」
 突然、みょーが直球を投げてきた。顔を見たくなって寝転んだまま頭を動かしてみるけど、自分の胴体が邪魔になって見えない。
「……正直に言ったほうがいいか?」
「殴らないから安心しろって」
 別に殴られても俺は気にしないけど、嘘をついたところで貫き通せるはずもないし嘘をつく理由もない。それに愁が俺の事を『彼氏』って言ってくれたんだから、俺があいつのことを『彼女』って呼ぶのには何の戸惑いもいらないだろう。
「6回」
「……へー」
 俺の言葉に少し遅れて、みょーの感嘆の声が聞こえてきた。
「一ヶ月前が最初、おまえの家に連れられていった時の前に一回、その後は今朝まで毎日」
「モテモテだねー」
「…………」
 軽口を返してくるみょーに、俺は何も言えなかった。愁がどんな気持ちで俺と繋がろうとしてたのか、俺がどんな気持ちで愁を抱き締めてるのか、それはもう、俺達二人以外には誰も知らないし、わからない。
「オマエが最初?」
 俺達は顔も見合わせないまま、目の前に広がる同じ景色を眺めながら言葉を続ける。
「事故みたいなもんだったけどな。ごめんだけど、あの時の事だけは思い出したくない」
「そっか、悪い」
 俺は愁を最初に犯した時に感じた欲望を嫌悪していた。今はもう、俺にあの感情は必要じゃない。みんなのおかげで自力で立てるようになったし、自分のやりたい事をやれる。あの感情が立ち上がれるきっかけの一つだったのは確かだけど、あんな――あんな相手を傷つけるだけの欲望なんていらない。思い出すだけで、全身の血が逆流する。
「いいヤツだろ、アイツ」
 今までになく優しい声で、みょーが言った。気のせいか、その中には家族、兄妹以上の感情が含まれてるように俺には思えた。
「おまえと違ってルックスもいいし、性格もいいし」
「顔は余計」
 へらず口を叩く俺に、みょーは間髪入れずツッコミを入れてくる。それが無性におかしくて、俺は吹き出した。
「……でも、ホントにいい奴だよ……どうして今まで気付かなかったのか、情けなくなる」
 自分で言いながら、その声が震えてるのがわかった。過去の自分が本当に情けなくて、悔しくて、涙を流してしまいそうなほどに。
「あいつと出会ったのは、ライヴ前の俺達の楽屋だったんだ」
 今でも克明に覚えてる。あの時の事は――


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