→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第1巻

   025.おうとつ、もしくは、でっこぼこ

「た〜そ〜が〜れ〜!」
 金髪の女の子がライヴ後に楽屋に入ってきた瞬間、俺の名前を呼びながら飛びついてきた。俺が汗をたっぷり吸いこんだYシャツを着てるのも物ともせずに、しっかりと体を密着させてくる。
「キュウ、困ってるよその人」
 楽屋の入口に立ってる栗髪の女の子が、肩をすくめて咎める。金髪の子は俺に軽く舌を出して謝って、俺の体から離れた。
「だってさ〜、最高だったもん、今日のライヴ〜。前までと全然違うかったもん」
 ライヴの興奮冷めやらずといった感じに火照った顔で喋る金髪の子。何はともあれ、喜んでくれてホントによかった。
 彼女の言う通り、今日のライヴは想像以上の出来だった。スランプだったのが嘘のように全員の呼吸がぴったり合ってたし、四人の演奏がステージ上で一体化して、奏でた音が渦を巻いてるようだった。観客も今まで以上に盛り上がってくれたし、その姿を見てると、ますます盛り上げようと俺達は乗りに乗った。
 風邪気味で喉の調子は悪かったけど、唄えば唄うほどに痛みが引いていくような感じがして、何度も張り叫んだ。
 いつもならMCを何度か挟んでたけど、今日は本編終了とアンコールの間の一回だけ。まるで車輪のようにごろごろ転がっていったライヴだった。
「まさかアタシ達のコト言ってくれるなんて思ってなかったよ〜、ありがと〜」
 金髪の子はもう一度俺の身体に抱きついてくる。困り果ててる俺を見て、イッコーと青空は着替えながら笑っていた。
『楽屋に忍びこんでくれた二人のファンのおかげで、今日は凄い楽しかった。ありがとう』
 俺は照れもなく、マイクから客席の一番後で観てくれた彼女達に礼を言った。大きく手を振り返してくれた(栗髪の女の子は手を取られて無理矢理だったけど)二人に向けて、今日のアンコールを唄った。届いてくれただろうか?
「礼を言うのは俺達だろう、な?」
 テーブルを囲んでくつろいでるみんなに振ってみる。
「いやー、ひっさびさに気持ちいいプレイができたぜ、サンキュー」
「おかげさまで、溜まっていた鬱憤が大分晴れたよ」
 男性陣は笑顔で彼女達に感謝の言葉をかける。千夜は一人だけ、視線をそらしたまま烏龍茶を飲んでいたけど、照れ隠しなんだろう。こいつが面と向かって礼を言うところなんて見た事がない。でも、煙草を吸ってないって事は、千夜的にも今日のライヴは合格点以上だったんだろう。イライラしてる時以外はあまり煙草を吸わないから。
「立ってるのも何だし座れば?みんなと話してくつもりだったんだろう?」
 俺は空いたパイプ椅子を指差す。金髪の子は大喜びで、栗髪の子は小さな声で礼を言って椅子に腰掛けた。ようやく俺は着替えに入れて、汗でべとべとしたYシャツを脱ぎ捨ててタオルで身体を拭く。
「……何見てんの」
 背中に視線を感じて振り向くと、女の子二人が俺の裸の上半身をじいっと眺めていた。
「やー、脱いでもすごいんだなーって」
 金髪の子は感心したようにどこかで聞いた事のある台詞を言って笑った。栗髪の子は俺と視線が合うと、顔を真っ赤にして俯く。どうやら男の裸に抵抗があるらしい。
「ところで君達の名前は?」
 もう知ってたけど、青空は二人に麦茶を差し出しながら改めて訊いた。
「アタシ?アタシは神楽 憩(かぐら いこい)。キュウって呼んでね♪」
 金髪の女の子が馴れ馴れしく名乗った。とはいえ、もうすっかり楽屋に打ち解けてる感はあった。この二人のおかげで今日は上手く行ったんだから。
 イッコーが、俺達の名前もざっと紹介していく。千夜だけは返事もしないで、一瞥くれるだけだったけど。
「ほら、愁も自己紹介しなよー」
「え……でもあたしは……」
「あたしもへったくれもないって。どーせ今日のライヴ観てファンになっちゃったんでしょ?アタシの横でキラキラ目を光らせてステージに釘付けになってたくせに」
「もうっ、キュウってばあ!」
 頬を赤らめながら、栗髪の子は笑ってるキュウを駄々っ子のようにポカスカ殴る。横から見てるだけで本当に仲のいいのがわかる二人を見てると、ちょっとだけ羨ましくなった。
「あ、あたし……藍染 愁って言います。はじめまして……」
 照れ屋なのか、俺達と目を合わそうとしないで栗髪の子は名乗った。
「か、カッコよかったです、とっても」
 ライヴの感想を少し声を上げて言って、また視線を泳がせる。小動物みたいな感じで、見ていると思わず頭を撫でたくなってくる。
「どーして『Days』って、このライヴハウスだけでしかやらないの?」
「まだまだ方向性も固まってなくて試行錯誤を繰り返してるから。そこそこのお客さんは呼べるけど、今日だって3バンドのトリだしね。曲も少ないし」
「黄昏が時々ステージに立たないのはどーして?」
「サボり癖があるんよ、こいつ。だからそん時はおれが他のバンドに頼んで臨時で即席組んだりしてんの」
「千夜おねーさまは掛け持ちだよねー?どーしてこのバンドで叩いてるの?」
「……誘われたから叩いているだけ」
「黄昏って、彼女いるの?」
「ノーコメント」
 キュウの矢継ぎ早に繰り出される質問にみんなで答えていく。俺の横で愁は黙ってるだけで、どこか上の空のようにそわそわしている。
「飲み物、いる?」
 愁の空になっているコップを指差して訊いてみる。何度も口につけてたせいで、すぐに飲み干してしまっていた。
「あ、すいません……」
 彼女は俯いたまま小声で答える。俺は烏龍茶を入れてやって、そのまま全員の空になっているコップに継ぎ足していった。
「千夜おねーさまのドラムってホレボレしちゃうよねー。男でも叩けないようなプレイするもの」
「その『おねーさま』って呼ぶの、やめてくれない?」
「だっておねーさまはおねーさまなんだもの♪」
「……もういい」
「よかったなー、こんなカワイコちゃんになつかれて。な、おねーさま?」
 茶化してきたイッコーに、案の定千夜の右ストレートが走る。青空が止めに入るとキュウを巻き込んでそのまま大騒ぎに突入して、俺達二人は置いてけぼりにされた。まあ、好き好んで騒ぎに入ろうなんて思っちゃいない。
「…………」
 面白いので乱闘騒ぎを眺めてると、愁がちらちらと俺の顔に視線を向けてくる。始めは気にしないで無視していたけど、今度はじーっと見てきたので、俺は目を返した。すると木の裏に隠れるリスのように彼女はとっさに目線をそらす。俺が首を傾げて烏龍茶を飲みながらまだ止まらない四人の騒ぎを観戦してると、また愁が俺の顔を見上げてくる。
 俺は気付かない振りをして、そっと彼女の後ろに手を回した。愁がこっちを見ているのを視界の隅で確認してから、いきなりヘッドロックをかけてやる。
「きゃあああっ!!」
 物凄い悲鳴が上がって、全員の視線が一斉にこっちに向かった。ぴたりと乱闘騒ぎが収まる。愁が悲鳴を上げた瞬間に離して宙ぶらりんになってた自分の手をテーブルの上に戻して、俺は何事もなかったように麦茶に口をつけた。
「おまっ……たそ、なーにファンの女の子に手出してんだあっ!」
「ひどい黄昏、アタシというものがありながらっ!」
「いやキュウちゃん、それは違う……」
「できればこの娘に手を出して欲しかった。私の気苦労が減るから」
「あ〜んおねーさま、ひどい〜」
「やるなら僕のいないところでやってよ、言ってくれればちゃんと気遣うから」
 4人は俺が弁解する間を与えないまま言いたい放題言ってくる。隣を見ると、少し涙目になっていた愁が俺の視線に気付いて顔を向けてきて、にっこり笑ってみせた。
 他愛のない笑顔だったのに、何故かその顔が胸の奥に染みこんでいく。
 俺が軽く謝ると、愁は何も言わずに小さな胸の上で手を小刻みに振った。
 席を立ってた4人が一段落ついたところで椅子に座り直す。もちろん、俺が席替えさせられたのは言うまでもない。
「でさー、ホントに訊きたい質問が二つほどあるんだけど……」
 キュウが一つコホンと堰をしてから、改まって尋ねてきた。俺達も真剣に耳を傾ける。
「どーして、イッコーが唄わないの?」
 自分の名前を呼ばれて、机の上に足を投げ出して椅子にもたれていたイッコーが顔を上げた。全員の視線を感じて、とぼけた顔で自分を指差す。
「だって、『staygold』のヴォーカルだったんでしょー、イッコーって?あの『staygold』だよ、あの。ねーねー、どーして?」
 テーブルに身を乗り出して詰め寄るキュウ。イッコーは答えにくそうにしていたけど、開き直ったのか逆立ったオレンジの頭をガリガリ掻いて、ぶっきらぼうに言った。
「ヴォーカルじゃねーもん、おれ」
 当たり前過ぎる答えが返ってきたせいか、キュウががくっとテーブルに突っ伏した。
「ヴォーカルはこいつ。おれがたまに唄ってるのはこいつがサボるから」
「悪かったな」
「悪いんだって」
 冷たい目を向けてくるイッコーに、俺は何も言い返さなかった。ここで言い訳しても謝っても誓いを立てても俺のサボり癖が治るわけでもないんだから。
「唄いたく……ないの?」
 キュウが申し訳なさそうに訊いてくる。自分の好奇心で、相手の傷口に触れてしまうかもしれないって思ったんだろう。幸いイッコーは気にする様子もなく、答えた。
「前のバンドは関係ねーって。おれは青空の書いてくる歌詞がを唄うのはたそが一番いいって思ってるだけなん」
 その台詞に、俺の胸の辺りがちくちく痛んだ。
「たそはずっと前のバンドで唄ってたおれよりも歌唱力あるし、顔もいいからフロントに立たせるのはもってこいじゃん?それに何より、こいつの声に合わせてベース弾くんがすげー気持ちいいんだわ」
 こいつの期待に全然応えてない自分が情けなく思えて、それでもこんな自分に期待してくれてるイッコーに対して感謝の気持ちが溢れた。
「今日弾いてて思ったもん。ここんとこバンドの音がしっくりこねーなーって思っていろんなベースの音色とか弾き方とか試してみたけど、違うんよ。こいつが前で唄ってくれてればいいん。前ですげー歌を聞かせてくれたら、それだけでこのバンドの音が出せるんだって」
 普段のおちゃらけた表情を見せないで真顔で喋るイッコー。
「でも、ホントは最初にセッションやった時に思ったんを、今の今まですっかり忘れてただけなんだけどよ」
 それまでの台詞を全部茶化すように、イッコーはしししと笑った。その性格は、ホントこいつらしい。
「それじゃ、別にバンドの方向性に疑問を持ってたわけじゃ……」
「んなわけねーだろ、青空。音うんぬんよりもおめーは相変わらずギターヘタクソだし、たそは歌以外何にもできねーし、千夜は千夜で叩くドラムはなんでもいいときてる。それでも俺達の演奏ができるんは、ここんとこのライヴで十分わかってんじゃねーか」
 全くもってイッコーの言う通りだった。つまり、俺と青空が勝手に勘違いしてただけなんだ。イッコーがずっと荒れてたのも、上手く行かない事への当てつけだったに違いない。眉一つ動かさずに腕を組んでいる千夜は、最初からわかってたんだろう。俺達が気付くのを待ってたのか、イッコーが言うのを待ってたのか。
「でもさー、イッコーが唄った方がもっともっとバンドに幅が出ると思うよ」
『ん?』
 キュウが俺達の会話に割って入って、自分の意見を言った。
「イッコーが全部ヴォーカルを取るっていうんじゃなくってさー、今までの曲以外にイッコーが唄う曲があってもいいと思うんだよねー」
 俺とイッコーは思わず顔を見合わせた。キュウの喋りはまだまだ続く。
「だってさー、『staygold』でイッコーが作詞してた曲が少しだけあったけど、それって『Days』が唄ってみたところで何の違和感もないじゃない。今の持ち曲って全体的に聴かせるほうに偏ってるでしょー?もっともっと身体を動かせる曲があってもいいと思うんだけどさ。それだと『staygold』でやってた時みたいなイッコーの本来の持ち味が出せるはずなんだし」
 俺達は口をぱくぱくさせる事しかできなかった。千夜でさえもだらしなく口を開けて、狐につままれたような顔をしてる。
「せっかくあのイッコーがこのバンドにいるんだしさ、唄わないのは損じゃん?アタシももっとたくさん聴きたいし、イッコーの唄うところ」
 キュウはそこで一息ついて、近くにあった麦茶を適当に手に取って一気に飲み干した。
「でもそれじゃ、楽器持ってない黄昏はどうするの?」
 顎に手を当てている青空が疑問を口に出した。もしキュウの言う通りにイッコーが唄う曲を作った場合、その曲を演奏してる間手持ちぶさたになってしまう。横でタンバリンを叩くなんてカッコ悪い真似はしたくないぞ、俺は。
 するとキュウはそこまで考えてたのか、
「そこよそれ!黄昏、ギター持ちなさいよ!」
間髪入れず物凄い剣幕で俺に提案してきた。
「俺、楽器できないんだって」
 とっさに首を振る。
 自慢じゃないけど、俺は青空に誘われてバンドを始める前に家に篭ってずっと唄ってたけど、本当に唄ってただけだった。楽器なんて全然触れてない。もちろん唄を作る時に頭の中では無数の楽器が鳴り響いてるけど、それを現実に出せるかどうかは話が別だ。だから久し振りに会った青空が俺の目の前で稚拙だけど弾き語りした時には、正直感心した。
「イッコーの言うとーり、青空は手癖でしか演奏できないんだから負担かけちゃダメ。黄昏もコードストロークぐらいわかるでしょ?ジャカジャカやるやつ」
 何だか言いたいように言われてるような気がする。
「それぐらいならできるって」
「じゃやってみせて」
 俺がムキになって反論すると、キュウは青空のギターを勝手に掴んで俺に手渡してきた。無言で青空に視線を送ってみるけど、苦笑いを浮かべてるだけ。
 しょうがないので俺はピックを持って、ギターのネックを握る。みんなの視線が俺に集中して、ステージに立つよりも緊張する。
「えっと、確かこうやってこう……」
 ……指が動かない。
 何度か青空にギターのレクチャーをしてもらった事はあったけど、指を思い通りの弦に持って行くだけで一苦労。
「よし、これで……」
 ぎこちない右腕の上下のストロークで和音が出る。アンプを繋いでいないから大した音は出ないけど、弦がしっかり押さえられてないのか音が抜けてる感じがする。
「動かしてみて」
 キュウがまるでコーチのようだと内心苦笑しつつ、言われた通りにコードを変えて行く。
「あれ、お、ん?」
 すると足元が崩れたように、途端にボロボロになった。肩を縮めてキュウを上目遣いに見ると、勝ち誇った笑みを見せている。
「土台すらできてないんじゃ、時間かかりそう……ま、簡単なストロークぐらいならすぐ形になるから。自分で唄う時は演奏しないほうがいいよー、どっちか片方に絞ったほうが能率がいいし、ギターに気が行って歌に集中できないんじゃ、イッコーが気持ちよくベース弾けないないもんね」
 もう決定事項のように、キュウは俺にてきぱきと指示してくる。でも、言ってる事は正しいので文句の一つさえ言えなかった。
「あとそれと、もう一つ足りないのがコーラス。イッコーの声がうまいところでバシッ!と決まると、曲の強さも段違いになるんじゃない?あとそれと、んーと、んーと」
「あーっもーいー!喋るなおめー」
「うぎゅう……」
 このまま放っておくと延々続くって思ったのか、イッコーは怒鳴ってキュウの喋りを止めさせた。情けない声を上げてしぼんでいく。
「ったく、部外者が言いたいこと言ってくるんだもんよー」
「ごめんね、てへ♪」
 キュウはぶりっ子ぶってイッコーに謝る。反省してるのか、よくわからなかった。
「んじゃ、その続きは次の練習の時聞くってことで」
「へ?」
 笑みを浮かべて言ったイッコーの台詞に、キュウはきょとんとなる。
「だって、もうバンドのマネージャー決定だもん、オメーに」
「はい?」
「それは冗談だけど、君にも僕らの練習に来てもらっていろいろ指摘してもらった方が、バンドのために絶対いいと思うよ」
 突然の事で茫然としているキュウに青空は苦笑して、彼女を誘う。
「正直煮詰まっていた所だから、このバンド。じゃれてくるのは気にくわないけれど、たまにでいいから来てくれる?楽屋にいつでも入れるようにスタッフにも言っておく」
「ホントーっ!?」
 千夜の言葉が決定打になった。キュウは目を輝かせて、信じられない顔をする。
「やるやる、絶対やるーっ!ありがとー、おねーさまー!」
「だからくっついて来るなっ」
 千夜は抱きついてくるキュウを、顔をしかめて必死に押しのけている。気に入らない奴は平気で殴る千夜も女の子には手を出せないのか、この娘がとても苦手のようだった。
「いつでも遊びに来れば。待ってるから」
 話についていけなくて今までずっと置いてけぼりにされていた愁も誘う。ぼーっとみんなのやりとりを眺めてたのか、一瞬遅れて俺の台詞に気付いて、笑顔で頷いた。
 ライヴ前まで漂ってた険悪な空気はどこへやら。今までの4人のギクシャクがすっかり取れて、くだらない話をしてバカ笑いしたりできる時間が戻ってきた。
 大きく息を吸って、吐いてみる。
 息苦しくて喉の奥につっかえていたものが消えていた。
 俺が遅れて楽屋に入ってきたのも、上手に呼吸ができなかったから。
 意見がぶつかりあったり、ライヴが上手く行かなくてその場の重苦しい空気に堪え切れなくなると、俺はすぐに逃げ出してた。
 わざわざ辛い場所に行かなくても、ベッドの上でずっと寝転がっていればいい。そう思って、何度も何度もライヴや練習をサボっていた。それでますます自分の首を絞めて、呼吸ができなくなっていく。
 ほんの一、二時間まで、そんな悪循環がピークを迎えそうだった。でも、この二人がいれば、前よりもずっと気持ち良く呼吸できそうだ。
 もしかしたら、天使ってのはこんな存在なのかもしれない。いるかどうかもわからない神様に、俺はほんの少し感謝した。
 そのまま愁も加わってしばらく6人で和やかに話してると、楽屋の扉がノックされた。一番扉に近い俺が席を立って開けると、井上さん(受付のバイトを始めて半年ほど)の顔があった。
「黄昏くん、ちょっと来て。マスターが呼んでる」
「マスター?」
 誘われるままに、俺は一言残してから楽屋を出る。
「何なんですか、一体?」
「さあ、大切な話らしいよ。私も聞いてないけど」
 思い当たる節がなくて首を傾げてる俺に、井上さん(いつもデニムの黒パンツ)が手を上に向けて答えた。
 バンドを始めてここのライヴハウスに顔を出し始めた時からマスターには気に入られてたけど、こうやって直に呼び出されたのは初めてだ。
 一旦入口の階段を上がって外に出てから、一階のレストランの扉を開ける。店の前には次の人気バンドのライヴが始まるのを待ってる客でごった返していた。
 中に入ってしばらくマスターと話した後、俺は楽屋に戻った。
「何だったの、用事って?」
 青空が開口一番に訊いて来る。
「店の階段使っていいって」
『嘘っ!?』
 愁を除いた五人の驚いた声が一斉にハモった。滅多に驚かない千夜でさえ、目を丸くして口を開けている。
「嘘じゃないって。俺今、店の階段から降りてきたもん」
「階段?」
 何の事だかわかってない愁が、頭の上に『?』マークを浮かべる。
「ここのライヴハウスのマスターに認められたバンドだけしか使えないレストランの階段!人気があるだけじゃ通れない、ここのライヴハウスに通うバンドマン達が目標にしてる階段なの!」
 興奮気味にキュウが説明する。でも、その気持ちもわからなくもない。バンドのメンバーの俺本人だって信じられないくらいだ。
「でも、どこが認められたんだろうね?」
 青空が腕を組んで頭を捻っている。
 言われてみればそうだ。今日はいいライヴができたと言っても、キュウがさっきたくさん指摘したようにまだまだ俺達のバンドは地盤が固まってない。
「それだけ期待してくれてんじゃーの?おれたちに」
 イッコーは気楽に考えてるのか、素直に喜んでる。イッコーの言う通り、多分俺達の可能性を見抜いてくれたんだろう。深く考えないでそう受け止める事にした。
 それなら、まだまだこんなところで止まってるわけにはいかない。
「階段が使えるなら、あの楽屋を使わせてくれるって事?」
 予想していた質問が千夜から出された。
「ああ、全然構わないって」
 俺の答えに、千夜は感嘆する。いくつものバンドを掛け持ちしてる千夜だけど、ここのレストランの楽屋へ通じる地下階段を降りた事は一度もないらしい。
 ここのライヴハウスには楽屋が2つあって、ここでライヴを始めたばかりのバンドや普通のバンドはこの小さな楽屋を使う。
 そして人気のあるバンドと、マスターに認められたバンドだけがここの3倍は広さがある楽屋を専用で使う事ができた。出演者の多いイベントの場合も開放するけれど、楽屋を出た傍にある、店と直接通じている階段は使わせてもらえない。
「私は帰って来た!なーんて言ってみたりして」
 イッコーが軽口を叩く。こいつは前のバンドで、何度も階段を使ってた事がある。ただ、解散して俺達とバンドを組んでからはライヴハウスの正面入口から入ってきていた。
「ああ、それともう一つ言われてた」
「何?」
 青空が目を期待に輝かせて俺に訊いて来る。
「くっ喋ってないでとっとと帰れだとさ」
「あいよー」
 椅子からずり落ちそうになった青空の尻を引っ叩いて、イッコーが席を立って仕度を始めた。そうそううまい話が転がってくるもんじゃない。
「そうそう、これからおれたち、いつもおれん家のメシ屋で打ち上げやってるんだけど、時間あるなら一緒に来ちゃえば?タダで食わせてやるから」
「はーい、いくいくー、いっちゃうー♪」
 キュウが両手を上げて誘いを受ける。ギターケースのチャックを閉めてる青空が顔を赤くしてたけど、純情青年だからしょうがない。
「愁、時間だいじょーぶだよね?」
「え、あたしはだいじょうぶだけど……明日も学校あるからあんまり長くいられないよ」
 キュウの問いに綺麗な腕時計に目を落として、愁が難しい顔で答える。
「だーいじょうぶ、まーかせて!半日ぐらい授業さぼったところで社会は変わらない!」
「あたしが困るよ」
「アタシは困らない」
「だってキュウがサボった授業、全部あたしからノート借りてるじゃない」
「よよよ、一蓮托生って言葉を知らないのねこの子はっ!悲しいわ母は」
「ただの道連れじゃないのさ。それにお母さんはちゃんと別に生きてるよ」
「ああ、あれだけアタシがお腹を痛めたってのにこの子は……」
「いつキュウがあたしを産んだのさ?キュウならもう子供作った経験ありそうだけど」
「堕ろした経験はないわよ」
「あのー」
 夫婦漫才(?)を続けてる二人に、青空がすまなそうに声をかけた。このまま放っておいたらいつまでも続けていそうだ。
 俺達はとっくに帰り支度を終えて、楽屋を出て扉の前で待っていた。慌てて二人は仕度を整えて、楽屋を出る。
「あの……訊きたいことがあるんですけど」
 俺が部屋の電気を消して扉を閉めようとしたところに、頬をほんのり赤く染めた愁がこっちの顔を上目遣いに見ながら、俺にしか聞き取れないような小さい声で尋ねてきた。
「このバンドの、CDとか……テープとかってないんですか?」
 これがキュウの訊き忘れていた、ホントに訊きたいもう一つの事だったと知るのは、打ち上げで寄ったイッコーの店で俺が唐揚定食の味噌汁を口に含んでる時だった。


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