→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第1巻

   026.はじめてのチュウ

 ……誰だ?
 インターフォンのチャイムの音で、俺は目が覚めた。眼前には、夕日が夜空に溶けて光だけが僅かに残った藍色のカーテンが映っていた。 
 TVの上に置いてあるデジタル時計を横になったまま眺めると、19:00を指している。この時間でもまだ空が真っ暗にならないのは、春が近づいているせいかもしれない。
 もう一度、チャイムが鳴る。
 裸のままベッドから抜け出して、壁際の床に置いてある充電器に突き刺さったままの携帯を手に取って、着信履歴が入ってるかどうか確認した。
 イッコーや青空が俺の家に来る時には、必ず一度電話を入れてくるように言ってある。もちろん着信音量は普段から0にしてあるから俺が出るはずもなくて、絶対に留守番センターに繋がる。だから意味はないんだけど、携帯に電話が入ってないって事は、つまり見知らぬ誰かが玄関前に立ってるって事だ。
 それなら出る必要がないはずなんだけど、このマンションはオートロック。新聞の勧誘とかセールスが入って来れるはずもない(それでもたまに来るけど)。
 俺の家、あの二人以外に知ってる奴がいたか思い出してみるけど、誰も出てこない。
 もし隣の人の部屋と間違えてるんだったら、怒鳴りつけてやろう。
 同じ間隔を置いて鳴り続けるチャイムにうざったさを覚えながら、シーツを羽織って玄関の前までだるい身体を引きずり歩いて行った。玄関の明かりをつけると、あまりの眩しさに思わず立ち眩みする。
 そのままよろめきながらドアノブに手をかけて、鍵を外してドアを開けた。
『あ……』
 そこには、制服姿の愁が目を丸くして立っていた。
「え、あ、わ……ご、ごめんなさいっ!」
 一拍置いてから愁は耳まで顔を真っ赤にして、慌てて扉の横に隠れた。相手のリアクションに首を傾げてると、自分の今の格好に気付いた。
 青空とか男を相手にする時には全然OKなのに、女ってば面倒臭い。
「ちょっと待ってて」
 しょうがないので一旦扉を閉めてから、俺は部屋に戻って適当な服を着て、キッチンで顔を洗い終わった後にもう一度扉を開けた。恐る恐る愁が覗きこんで来る。俺が服に着替えた事がわかると、大きくため息をついた。
「何しに来たの?」
 どうしてここの住所を知ったのかなんて野暮な事は訊かなかった。どのみちあの二人が教えたんだろう。
 あんまり他人に家の場所を教えるのは好きじゃない。できるだけ自分の存在を社会からかき消していたいって思ってるし、訪れる人間が増える事で自分の時間が削られるって感じてるから。
 今度会ったら路地裏決定。
「えっと、できあがったテープ、ダビングしたの持ってきたの……」
 愁は学生用には見えない手提げ鞄の中から一本のカセットケースを取り出した。
「イッコーが持ってってやれって言うから、来たの。なんか『女の子が持ってくほうが絶対に喜ぶから』って。それならあたしじゃなくてキュウでもよかったのにね」
 あんの野郎、俺が女の子あんまり好きじゃない事知ってるくせに。
 イッコー路地裏確定。
「どしたの?」
 知らず知らず眉間に皺を寄せてると、愁が怪訝そうに俺の顔を見ている。
「何でもない。ありがとう」
 愁からカセットテープを受け取って、玄関の光にケースをかざしてみる。
「へー、面白い絵だな」
 裏にはカセットテープに入った曲名リスト、そして表には絵が描かれていた。
 たくさんの色違いの鎖が絡まった大きな石。
 それが何もない空間に置かれている。
 細い鎖、太い鎖、がんじがらめになった鎖、緩々で今にもほどけそうな鎖。
 光る鎖、光を吸いこんだ真っ黒な鎖。
 しっかりした鎖、長い鎖。
 ひびの入った鎖、錆びた鎖。
 そしてその石の中心に、申し訳程度に俺達のバンド名が茜色で刻まれていた。
 何だかよくわからないけど、俺の心の琴線にすごく響く絵だ。
 見てるだけで、この絵を描いた人間の意思がひしひしと伝わってくる。
「これ、誰が描いたの?」
「あたしの兄貴」
 思いがけない返答が返ってきて、俺は面食らった。
「絵描くの……得意なんだ。青空がジャケットどうするか迷ってたから、あたしが紹介してあげたの。気に入った?」
 愁がぴょこんと俺に顔を近づけてきて、思わず一歩後に下がってしまう。
「ま、まあ……」
「よかった」
 まるで自分の事のように喜ぶ愁。兄妹のいない俺には、よくわからない感覚だった。
「じゃあ、早速聴いてみるよ。わざわざ来てくれてありがとうな」
 礼を言って、俺は愁を送り返そうとした。すると、
「ね、あたしも一緒に聴いていいかな?」
愁が突然とんでもない事を言い出してきた。思わず後ろにこけそうになる。
「……ウォークマンある?貸して」
「違うよ、部屋に上がって」
 俺の親切心を無下に断ってくる愁。
「……いや、それは、だな……健全なジョシコーセーが社会から自ら堕落を選んだ青年の家に足を踏み入れるというのはだな、その……」
「なにぶつぶつ言ってるの?」
 目をそらして追い返す理由を口に出してると、愁が玄関に踏み入れて俺の顔を覗きこんでくる。
「それじゃあ、おじゃましまーす」
「お、おい」
 俺が止めるよりも早く、愁は靴を脱いで部屋に上がりこんだ。
 もしかして、かなり行動力あるんじゃないか、この子?
 初めて楽屋で会った時とか練習の時には内気そうにもじもじしてたのに、若い男の家に平気な顔で入っていく。
 よくよく考えてみれば、キュウのトモダチなんだ、愁は。
 何となく納得できて、俺は肩をすくめるしかなかった。 
「電気どこー?」
 きょろきょろと電気のスイッチを探して、見つけたものから片っ端に入れていく。するとキッチンの明かりがついて、ごみ袋だらけの床が現れた。
「なにこれー!?」
 それを見て、愁が裏返った声を上げる。
「なにって、ゴミの詰まった透明ビニールごみ袋」
「さっさと捨てようよ、こんなもの」
「エレベータで降りるのが面倒臭い」
「…………」
 俺がきっぱりと言うと、愁は顔を押さえて旋毛を巻いていた。呆れてるんだろう。どこからどう見ても心底呆れてるようにしか俺には見えなかった。
「きゃあ!こっちも洗濯物くしゃくしゃに積まれてるじゃないのさ!」
 もしやと思い洗面所に駆けこんだ愁が、思った通りの悲鳴を上げる。風呂場の前にある洗濯機の下には、洗ったけど干すのが面倒臭くなって放っておいた着替えが全部山のように詰まれていた。もちろん洗濯機を開けても、中はぎっしり。
 愁はぱたぱたと駆けて、今度は俺の部屋へ入って明かりをつける。絞め切ったカーテンに閉じられた部屋にはほとんど物を置いてないので、全然散らかってない。
 こっちは何の文句もないだろうって思いながら後で見ていると、愁は身体を屈めてフローリングの床を指でなぞった。
「…………」
 しばらく無言でその指を眺めた後、振り返って俺に見せてくる。
 埃がぎっしり。
「掃除っ!!」
 愁が大声で怒鳴った。
 ――30分後。
「どーしてあたしがたその部屋の掃除しなくちゃいけないの〜」
 さっきまでの凄惨な光景がすっかり見る影もなくなって綺麗に生まれ変わった部屋で、愁は今にも泣きそうな声で文句を言った。
「誰も掃除してくれなんて言ってない」
「掃除しなきゃたその頭にカビ生えてたわよっ!」
 物凄い剣幕で俺に食ってかかる愁。怒りたくなる気持ちは何となくわかる。
「こうやって見ると綺麗だな、俺の家。わざわざ下までゴミを出しに行った甲斐があった」
 感慨深く呟く俺に、愁は全身でため息をつく他なかった。
「いざ片づいてみると、なんにもないね、この部屋」
愁が広くなった床にベッドのそばに置いてあった座布団を敷いて正座して、もう一度ため息をついた。片付けを手伝ってもらったお礼に、冷蔵庫の中から紙パックのレモンティーを二つ取り出して、片方を愁にあげる。しばらく手渡されたそれをしかめた顔で眺めていると、愁はキッチンへ向かって勝手にガラスのコップを取ってきた。
 いつも男の来客ばかり相手にしてるせいで、どうも勝手が違う。
「わざわざ掃除しに来てくれてありがとうな。それ飲んだら帰ってくれても構わないし」
「掃除じゃなくて、テープ一緒に聴こうって言ったの」
 素でとぼける俺に、しっかりと訂正を入れてくる愁。どうやらすぐ退散してくれそうにないらしい。
「これって、いつ録ったやつなんだったっけ?」
「いつって……先週の日曜」
 俺の疑問に首を傾げる愁。曜日なんて何の意味もない生活を続けてるせいか、時間感覚が完全に狂ってしまっている。俺にとっては半日ぐらいしか経ってないような感じがするのに。
 キュウ達に出会ったのが確か一ヶ月前。それからできるだけ遅くならない時間にバンドの練習に二人を誘って、キュウに言われた通りの変革を試みた。
「えっと、コンポは……」
 愁はきょろきょろ部屋を見回して、コンポが目に入ると俺のテープを持ってきてデッキに差しこむ。ほんのしばらくして、スピーカーから青空のディストーションギター(歪ませたギターの音色)が鳴り出した。
「どうして音量小さいの?」
 愁がヴォリュームのつまみを適当な位置に回す。
「そのほうが音楽かけたまま気持ち良く眠れるから」
 俺はたまにインストゥルメンタル(楽器のみ)の曲を流し続けてベッドに潜りこむ事がある。唄の入ったCDを外してるのは、何度も何度も同じ事を耳元で囁かれて他人の意見や考えを押しつけられてるような気がして、胸クソ悪くなるから。普段音量を小さくしてるのも同じ理由だった。
「ふーん、結構よく録れてるなあ」
 流れてくる自分の声はできるだけ無視して、後の楽器に耳を傾ける。
 俺がギターを持って、イッコーが俺の唄にコーラスをつける。
 今までの楽曲に多少アレンジを加えるだけだから編曲は何の問題もなく上手くいったけど、負担が減って伸び伸び演奏できるようになった青空は、逆にその自由さがまだ肌にしっくりこないのか、かなり試行錯誤してる様子だった。
「でも、初めて観たライヴの時よりこっちのほうがずっといいね」
 目を瞑って部屋を包むバンドサウンドに耳を委ねながら、愁が呟く。
 愁の言う通り、まだまだ形にはなってないものの音に厚みが加わった俺達の曲は以前より遥かに聴き応えが良かった。ただ、相変わらず自分の声だけは好きになれないから、特にサビの部分に入ると眉間に皺を寄せてしまう。
 一曲目の『夜明けの鼓動』が終わると、イッコーのシャウトと共に次の『ブルーベリー』へ雪崩れこむ。今までの俺達がやらなかったようなダンスナンバーだけど、不思議とバンドの方向性とマッチしていて、何で今までこういうのをやらなかったのかがおかしく思えるくらいだ。
「聴いてて気持ちいい、イッコーの声」
「うん」
 俺も愁と同じ感想だった。本人は謙遜してたけど、俺が歌うよりイッコーが全部唄ったほうがいいんじゃないかって自分が情けなく思えてしまうほど、スピーカーから流れてくる唄声は気持ちよかった。
 胸の内に抱えてる不満や鬱憤に目を向けてるのがバカらしくなってくる。マイナスの感情はしっかりと心に刻んでおくだけで、光の射すほうへ顔を向けていればいい――「こっちに来て、一緒に歩こうぜ」って誘われてるようで、心の奥からじわじわと温かいものが広がっていく力強い唄声。
 こっちも真正面から聴いてると、目尻が熱くなって泣けてくる。
 これでも、イッコーは俺の横で弾いていたいって言ってくれた。その気持ちはとてもとても嬉しいけど、俺の唄声はそんなに聴いてて気持ちいいものなのか?自分の声が嫌いで嫌いでしょうがない俺には、ちっとも良さがわからない。
「前のライヴ、すっごいよかったよ。周りのみんな楽しそうだった」
 枕を抱き締めて、思い出し笑いを浮かべる愁。ベッドの上に仰向けになって倒れこんでいる俺が頭を横に倒すと、いつの間にか俺の枕が消えていた。
 自分のしてる行為を自覚してるんだろうか、この子?
「他のバンドの客も取ってたしな」
 とりあえず新しくなった俺達をお披露目しようという事で、録音する3日前にやった他のバンドを混ぜてのイベントに参加した俺達は、演奏した6曲のうち半分を新曲、半分を現在のバンド構成に合わせてアレンジした今までの曲にした。
 それが功を奏したのか、その日は6バンド出場してたんだけど、メインでもない俺達の出番が一番客席が盛り上がっていた。その後、周りのバンドの奴らから「早く音源作れ」って催促されまくったのは言うまでもない。
 とりあえず、現段階の記録だけでも遺しておこうと、次の練習日にテープに録る事になった。キュウの助言の後、再びメンバー全員でスタジオに集まるようになった俺達は新曲も作っていて、ひとまず形のできあがった6曲を録音してみた。
「ねえ、千夜さん結局どうするの?」
「……やりたいようにやらせりゃいいんじゃないか?」
 録音が終わった後、千夜は去り際に俺達の前で堂々と言った。
「私、これからこのバンド以外叩かないから」
 スタジオに取り残された俺達全員、口をあんぐり開けて何も喋れなかった。
 その年齢からは想像もつかないほど叩くドラムは神業の域だと周囲に畏れられてる千夜は、俺達以外にも他のバンドとかけもちしたり、ヘルパーとして叩いていた。一度も決まったバンドを続けてないから、俺を含めて周りの人間はてっきり一人でいるのが好きなんだと決めつけていた。だから千夜の口からそんな事を訊くなんて正直予想外で、嬉しさよりも驚きの方が大きかった。
 まあ、俺にしてみればあいつとは犬猿の仲だから、顔を見る機会が増えてまたいざこざが増えるんだろうって、げんなりしてる。
 イッコーが唄う新曲『8月10日』が終わってから、最後にまた俺の曲がスピーカーから流れてくる。俺は耳を塞いで、上体を起こしてキッチンへ行こうとした。
「OOOOOO」
 すると愁が俺のズボンの裾を引っ張ってきて、何か喋っている。無視してそのまま行こうとすると、今度は俺の足に腕を絡みつけてきて、ずるずる引っ張られていく。
「何なんだ、一体」
 俺は耳を塞いでる手を外して、愁の腕を払いのけた。愁は少しむくれて俺の顔をじっと睨んでいる。
「逃げないでよ、って言ったの」
「嫌いなんだ、この曲」
 『小さなメロディ』って名前の、ほんの少しでも耳を傾けてみれば、恥ずかしさのあまり悶絶死してしまいそうになるほど静かなバラード。こういうタイプの曲もやった事がなかったからキュウに進められて唄ってみたのはいいけれど、やっぱりダメだ。青空の作ってくれたこの曲のメロディは今までの中で一、二を争うほど好きなんだけど、自分の声が乗った途端聴けるもんじゃなくなる。俺一人で猛反発したんだけど、他の5人が許してくれなかったので渋々唄ったのが本音だった。こうやって音源にしてしまうと、何だか人生の中で大きな汚点を残してしまった気がしてならない。
「あたしは一番好きだけどな、この曲。だってたその気持ちが一番入ってるもん」
 愁は枕をぎゅっと抱き締めて、俺の顔を見上げてくる。
「俺の気持ちじゃない、青空の気持ちだろ」
 俺は愁の大きな瞳に映る自分の姿に嫌悪して、目を反らしてそう吐き捨てた。
「青空くんが書いたから?」
「そう」
「たそのために書いたのに?」
「おまえ、どうしてそれを――」
「ほら、やっぱり」
 俺が食ってかかろうとすると、愁は意地悪っぽく微笑んでみせた。
 青空の書いた歌詞にどういう意味や気持ちが含まれてるなんて、俺は訊かない。俺は唄うだけ、あいつは書くだけ。でも、その中にまるで俺が叫びたかったのに言葉にできなかった気持ちがちらほらと入ってる事は気付いていた。俺のために言葉を捜してきてくれたみたいに。
 そして、今流れてる曲には青空の想いは一つもなくて、俺の抱えてるものが全部詰めこまれてる事に。
 訊かなくたってわかってる。文体とか表面上は全部青空の書いたものに見えるけど、この曲は俺のために書いてくれた。
 俺のために。
「それ以上言うな」
 だからこそ、お互いの想いに横から無断で割りこんできたこいつに俺は憎悪を覚えた。胸倉を掴んで押し倒して、その手に力を入れる。
「わかるよ、いわなくても……わかるもん」
「言うなッ!」
 俺は体重を乗せて苦しそうにうめいて咳き込む愁の小さな身体を押さえつけて、更に首を絞めんばかりに腕に力を込めた。愁の唇から悲鳴が掠れ、弱々しく息が漏れる。
 それでも。
 大粒の涙を溜めた目をじっと俺に向けて、にっこりと笑顔を浮かべた。
 枕を胸に抱き寄せたまま。
「あ……」
 次の瞬間、不意に部屋に流れる曲がやけに大きく聞こえてきて、俺は愁からそっと手を離した。全身の力が抜けていって、ふらつく足でよろめいて壁に背中を預ける。解放された愁は床に転がったまま、何度も大きく咳き込んだ。
 呆然となっていると、スピーカーから流れるあれだけ嫌がってた自分の唄声が、何故かすんなりと胸に届いてくる。
「ごめん……言っちゃダメみたいだったね」
 涙を拭きながら、掠れた声で愁が謝ってくる。俺は何も言わずに、頭を振った。
 やがて曲が終わると、テープが音を立てて止まる。部屋の中に沈黙が流れた。
「……でも、青空くんに訊いたわけじゃないから。そう思っただけ」
 愁はカセットをデッキから取り出して、ケースにしまう。俺は何も言わないで、その仕草をただ眺めていた。
「あたしもね、一度他のひとに、自分の気持ちを形にしてもらったことがあるから」
 ケースを小棚の上に置くと、愁はそこに置いてあった物に目を止めた。愁は何かを言いかけようとしたけど、これ以上俺をほじくり回すのがためらわれたのか、見なかった振りをして鞄を手に持った。
 ――想い出にない、両親の写真。
「じゃあ、あたし帰るね。遅くなるのもヤだしさ」
「…………」
 愁は手を振って、壁にもたれてうなだれている俺の前を通り過ぎていった。玄関から靴を履く音が聞こえるけど、俺は愁にかける言葉もなく見送りもしないまま、ぼんやりとどこか遠いところを眺めていた。
 すると足音を鳴らしながら、愁がこっちに戻ってきた。
「……まだ何か用か?」
 俺がうざったそうに愁に目を向けると、彼女は満面の笑顔を向けてこう言った。
「これからも、たそがだらけてないか時々見に来るから」
 そして、唇に柔らかい感触。
「また来るね、たそ。ばいばい」
 茫然としている俺に手を振って、愁は帰っていった。
 ようやく我に返って唇に指を触れてみると、ほんのりと温もりが残っていた。
 それがあいつとのファーストキスだって気付いたのは、しばらく経ってからだった。


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