007.エブリシング
「9月ってこんなに暑かったか?」
僕の後ろをついて来る黄昏が、顎を落としながらふらふらと歩いている。今日は雲一つ出ていない快晴だから、直射日光がじりじり肌を焦がす。まだお昼時じゃないのに滅法暑い。このまま海に繰り出しても全然構わないくらい暑い。
「今年の夏は特に暑かったからね、黄昏だってずっと家に篭ってばかりだから解らないでしょ。ホントに肌、白いもん。病弱に見えないこともない位」
普通の歩幅で歩くだけで後の黄昏との距離が開いて行く。すぐに見失いそうになるので、角を曲がる度にわざわざ立ち止まり、黄昏がやって来るのを待った。僕はギターを背負っていて、黄昏は何にも持っていないのに今にも死にそうな顔をしている。何だか太陽の光を浴びて弱っている吸血鬼みたい。
「帽子ほしい、グラサンほしい、喉乾いた」
さっきから黄昏は口の中で呪詛のように同じ言葉をずっと繰り返している。
僕は肩を竦め、一旦小休止しようと自動販売機でジュースを買うと街路樹の下へ逃げ込んだ。黄昏も僕に手を引っ張られると力無く引きずられて行く。
「ねえ、黄昏って昼間に外に出歩いてる?」
喉を潤しながら尋ねてみると、大きく首を横に振られた。
「いっつも真夜中。朝方出歩いたのなんて最後にいつだったか覚えてない、もう」
黄昏が木に背中を預け、溜め息をつく。汗ばんだ額にへばり付く前髪をうざったそうに掻き上げ、缶の中に入ったジュースを一気飲みした。
何だか日常生活でも鬱陶しそうに自分の髪を払っていたことが多かったから、昨日もう一度僕が切ってあげた。逃げようとする黄昏を抑えつけ、無理矢理。
それでも半分以上切っても肩にかかるくらい伸びていて、とりあえず今の所は無難にまとめておいた。素人の僕が黄昏に似合う髪形なんてできるはずもない。それでも頭が随分軽くなったみたいで、黄昏は喜んでいた。最初はあれだけ嫌がっていたのに。
どうやら自分で切ると捨てるのが面倒だから、ずっと伸ばしていたらしい。
「でもそうやって髪の毛括ってると、女の子だよまるで」
「そうか?」
僕が指差すと、黄昏は後に流れるおさげを指で摘んだ。僕が食生活を改善させたり運動するようにメニューを作っているおかげで、最初に会った頃より黄昏は随分見栄えがよくなって来た。陽に当たらないこと以外は結構健康的。何度も愚痴をこぼすけれど、きちんと言う所を聞くのが黄昏らしい。
こうやって太陽の下に出て黄昏の顔を見ていると、同性の僕でも見惚れてしまいそうになるほど魅力がある。本人は自分のルックスについてそれほど気も留めていないけれど、顔も小さいし髪の毛の質もサラサラで、体型も背が低いのを除き、悪い点はない。でもそれ以上に、飄々とした振る舞いが目を釘付けにする。身体を動かす一つ一つの動作が、無意識の内に黄昏自身を主張していた。
一緒にいると羨ましくなるのと同時に、自分にコンプレックスを抱く。
「そういうおまえだって童顔じゃないか」
「あはは、よく言われる」
黄昏もイッコーと一緒で痛い所を突いて来る。僕はあまり自分の顔が好きじゃなく、他の同年代の人みたいに男らしい顔をしていない。ほっぺも柔らかく、どちらかと言えば可愛い系に括られる。昔同級生の女の子にほっぺを何度もつねられてからかわれたことがあってから、ずっとコンプレックスになっている気がする。
「まあ、でも、太陽の光がこんなに気持ちいいもんだなんてすっかり忘れてた」
木にもたれ掛かったまま大きく背伸びをしてから、黄昏は身を起こした。身体にまとわり付くだるさを振り払うように、両肩を回している。
「でも暑さでへばってたじゃない」
「ほっとけ」
横から茶々を入れると、黄昏が白い歯を見せ笑った。
逢瀬(?)を重ねている内にだんだんと、僕の前でこんな眩しい笑顔を見せてくれるようになった。本人は気付いていないかも知れないけれど、確かに明るくなっている。
もしかしたら黄昏はずっとこうして、そばで笑い合ってくれる人を欲しがっていたんじゃないかと思う。僕も一緒にいて楽しいから、素直に嬉しい。
相手との距離をちっとも気を使わないで付き合える相手なんて、黄昏しかいない。
だから一緒にいるとこっちも胸がすうっとする。劣等感を感じるのは僕一人の問題なだけで、それ以外の日常のしがらみや嫌なことを全部忘れさせてくれるから、黄昏といるこの空気がとても好き。
僕が女の子だったらどうなってるんだろう、なんて怪しげな妄想までたまに脳裏をよぎる。でもそれは仲の良い証拠だから、他人に引かれても悪い気はしない。
ジュースを飲み終えて一息ついていると、黄昏は数メートル先にある横断歩道をじっと眺めていた。まだ早いから、日光を反射して白く輝くアスファルトの道路を車はあまり通っていない。道路の左右に立ち並ぶ等間隔の緑が風に揺れ、気持ち良かった。大通りから離れていて閑静な場所な上に人通りも少なく、耳を澄ませば南のなだらかな坂の下に広がる海の漣まで聞こえてきそう。
黄昏の目には、この景色がどう映ってるんだろう?
僕には光の粒を散りばめたような、穏やかで緩やかな時間の流れる気持ちのいい景色に見えた。どこまでも終わらない永遠がここにあるものだと錯覚するほど。
それはきっと、子供の頃に夏休みが終わらないんじゃないかって思える時のあの感覚に似ている。懐かしい気持ちが甦って来て、ちょっとグッと来てしまった。
「飲み終わったし、じゃ、行こうか」
このままずっとここで景色を謳歌して約束の時間に間に合わないのは勘弁だから、僕は黄昏に声をかけ、再び歩き出そうとした。
その瞬間。
「て――いっ!!」
元気のいい掛け声と共に、どこからともなく飛び出してきたいつものポニーテールの女の子が黄昏の後に突っ込んで来た。叫び声を上げる暇も無く、女の子に乗っかられ地面に盛大な音を立てすっ転ぶ。
「っ!?あちちちち、あいたっ」
太陽光線を吸い込んでいい感じに暑いアスファルトの上を黄昏が身悶えていると、女の子はいつの間にか僕の目の前に来てにこやかに挨拶していた。
「よ。」
「……もうちょっと普通に挨拶できないかなあ」
眉毛をハの字にしながらも、僕は黄昏が身代わりになってくれたことに内心胸を撫で下ろしていた。僕がスタジオに行こうとする度に、何故か狙い狙い済ましたようにこの子が現れる。偶然なんだろうけれど、ずっと後からついて来ているのかなって余計な心配をしてしまう。
そんな考えを巡らせていると、女の子の後ろで血管の浮き出た黄昏が唸っていた。
「あはは、ごめんごめん、痛かった?」
「すっごく」
幸い強く打った所はないらしいけれど、それ以前に無礼過ぎて怒っているみたい。
「キミがかわいい女の子と歩いてたからあいさつしてみたんだけど」
「いや、彼、男。」
僕が手を振って答えると、女の子はまじまじと黄昏に顔を近づけてにらめっこした。それから白のYシャツの上から胸に掌を何度も当ててみる。
「ありゃりゃ、ホントだ」
「それ以前に知らない人間にいきなり体当たりを喰らわせるのはどうかと思うぞ」
「うーん、やっぱり普通のひとには耐えられないかー」
知り合いに会う度に今みたいに攻撃を繰り出しているのかな、この子?
天真爛漫かつ無邪気な顔で謝る彼女に負け、黄昏は力無い顔で肩を落としていた。
「ね、ね、今からスタジオ行くんでしょ?一緒に行こー行こー!」
ギターケースを持った女の子は僕の腕を取ると、スタジオの方角へ引きずって行く。もう言い返す気力もない僕は、されるがままに連れて行かれた。
「……知り合い?」
重い足取りでついて来る黄昏が、顔に冷や汗を浮かべて僕に訊いて来る。
「今から行くスタジオの常連さん」
名前も知らないから、とりあえずそう答えておいた。
「あれ、今何時?」
しばらくそのまま引きずられていると、女の子が足を止め僕達に振り返った。
「えっと、10時35分」
携帯の時計を見せてあげると、目を丸くして慌てふためく。
「ありゃ、もうそんな時間!?ごめんごめん、遅れてるから先行ってるねー!」
女の子は僕の腕を離し、急ぎ足で通りを全力疾走して行った。陸上部のエースなんじゃないかと思うくらい速く、あっと言う間に後姿が見えなくなる。夏の夕立ちみたいに突発的で勢いのある彼女がいなくなると、僕等は顔を見合わせ苦笑いを浮かべた。
イッコーと叔父さんのスタジオで朝の11時に待ち合わせ。今日は初めて、バンドのメンバーとして黄昏を顔合わせさせる。まだ黄昏には相手の名前を教えていないから、会ったらきっと驚くに違いない。面白おかしい想像を巡らせながら、僕は黄昏を連れスタジオの前までやって来た。
白を基調に青をアクセントで入れた外観で、一風コテージ風に見える。店の前には黒いワゴンが止められていて、数人のスタッフらしき人が機材を中に運んでいた。昼からアニメのCDか何かの声を録音するらしく、地下は貸し切りになるらしいから僕等が使うのは102。さっきの女の子が101を使うんだろう。
「……やっぱ俺、帰る」
じっとスタジオを見上げていた黄昏が、踵を返し元来た道を戻ろうとした。慌てて腕を掴み、引きずり戻す。
「ここまで来て怖気づかないでよっ」
「怖気づいたんじゃない、面倒臭くなった」
まるで子供みたいに屁理屈をこねる黄昏。気持ちは解るけど、ここで帰られたら今までやって来たことが全部水の泡になってしまう。
「後で唐揚定食おごるから」
「ライス大盛り、ビール中二本つけたらやる」
「OK」
何とか契約を交わし繋ぎ止めることに成功。黄昏はかなり気紛れで行動する所があるから、気をつけないとすぐにそっぽを向いてしまう。本人としてはきちんと考え抜いた末に動いているらしいけれど、前置きがないから何もかも突飛に見える。
尻尾を振っている時は素直に言うことを聞く癖に、一度背中を向けると徹底して我がことを貫くのが黄昏。他の人と比べると曲者なんだろう。でも、不思議と嫌な気分にならないから面白い。捻くれている訳じゃなく、根が純粋だからなんだと思う。そう言う意味だと本当に子供と変わらない。
黄昏にもし彼女ができたら、きっとその人は毎日楽しいだろうな。
外のワゴンの荷下ろしが終わるのを待ってから、店の中に入る。他の人ならぶつぶつ何か文句を垂れていそうだけど、黄昏は何も言わずにじっと僕と一緒に日陰で待っていた。
弟みたいと言うかペットみたいと言うか。
「おう、おはよーさん」
いつもと変わらない天然パーマの頭をした叔父さんが、顔だけこっちに向けて挨拶した。今日はリアルなガイコツの描かれた白いTシャツを着ている。
叔父さんの服はほとんどが洋楽アーティストの作品がプリントされた物で、ただコレクションとして集めているだけじゃなくて実用的な所が胸を張っている点らしい。着れなくなったものはきちんと供養しているそうで、その想いに頭が下がる。
「一足先にもう入ってるよ。さっさと行ってやりな」
どうやら打ち合わせの途中だったみたいで、叔父さんは僕達に手短に言ってからスタッフの人と話を続けた。軽く頭を下げてから、横を通り過ぎて102に向かう。立ち止まって深呼吸してからドアを開けたかったけれど、入口は通路に面しているから邪魔になるのでさっさと入った。黄昏も戸惑い気味について来る。
「おはよー」
「よ、おはよーさん」
「ええっ!?」
黄昏は中にいるイッコーと顔を見合わせると、目を丸く仰天していた。
無理もない。いつも食べに行っている中華料理屋の店員が目の前にいるんだから。
「あーやっぱこいつなん、黄昏って」
「あれ、言ってなかったっけ?」
てっきりイッコーにも話したつもりだったのに。
「名前は聞いてたけど、どんなヤツかまではねー。ま、メシ食いに来てる時にそいつんこと黄昏黄昏って呼んでたから、そーじゃねーかなーって思ってたけど」
イッコーは読みかけの雑誌を横の椅子の上に置き、うんと背伸びをした。大きくあくびを上げて、目を擦りつつ首を鳴らす。
「くぁ……っ、やーっぱこの時間はねみーわ。ついつい調子に乗って朝まで曲作ってたから、2時間しか寝てねー」
黄昏を横目で見ると、こっちも同じなのか眠そうな顔をしていた。
「あれ、髪の毛戻したの?」
部屋に入った時から気になっていたけれど、イッコーのトレードマークのオレンジ頭が黒色に染め直されている。
「ああ、これ?」
イッコーは逆立っている自分の髪を摘みながら、僕の問いに平然と答えた。
「おれ学生だかんね、ガッコーにキンキン頭で行っちゃまずいっしょ」
「納得」
確かにそれもそうだ。
「んーと、12時までしか取ってねーし、さっさとやっちゃいましょ」
席を立ち、イッコーが壁際に立てかけていた自分のベースを持って来る。僕は椅子を2つ用意して、黄昏を座らせた。黄昏は生まれて初めてこんな所に入るのか、目を輝かせ室内を見回している。中の壁も木でできていて、よりコテージを想起させる。
アンプにシールドを繋いだイッコーが戻って来て、椅子の上であぐらをかいた。
「それじゃ、一応自己紹介。こっちは日野君って言って、昔あった『staygold』っていうバンドでヴォーカルとギターをやっていたって。今は……何もやってないんだよね?」
「今んとこ」
僕の問いに頷くイッコー。ここでやってるなんて言われたらどうしようかと思い、内心ビクビクしていた。胸を撫で下ろす。
「とりあえず、僕はベースで誘ったんだけれど……前の時はこっちがギターボロボロだったから、今日こうして再挑戦しに来たの。それでせっかくだから、黄昏も一緒に連れて来た訳なんだ」
黄昏は僕の言葉を頷きながら聞いている。相手の目を顔一つ反らさずにずっと見ていて、堪え切れなくなったイッコーが目を泳がせていた。
恥ずかしがるのも面倒なのか、黄昏は人見知りをしない。と言うより、他人に自分を合わせるのが嫌なんだろう。だから黄昏はいつも0か100で、何もかも包み隠さずに自分の想いをぶちまける。僕はそれがすごく魅力的だけど、嫌な人は滅法嫌らしい。「嫌われる時は徹底的に嫌われる」って前に言っていた。
「この辺じゃけっこー有名なんよ、おれ。『staygold』のイッコーって名前ぐらいは知ってるっしょ?」
「知らない」
得意気なイッコーに間髪入れず、黄昏が言葉を返した。きっぱりし過ぎて逆にイッコーの方が面食らっている。慌ててフォローしてあげた。
「実はそっちの方に全然疎いんだ、黄昏。ずっと家に閉じ篭っていたから」
「昔中学の学園祭でライヴやったことが一度だけあるけど、こんなスタジオなんかに入るのなんて初めてだ」
「……またかよ……」
イッコーは顔を押さえて旋毛を曲げている。どうやら僕達は相当怖い物知らずらしい。
「あーもーいーや。で?そいつは何ができんの?」
半ば投げ遣りになって、イッコーが顎をしゃくり黄昏を指した。代わりに僕が一から答えてあげる。
「えっと、彼は赤根 黄昏。ぱっと見女の子みたいだけど、ちゃんとした男だよ。僕より一つ年下で、イッコーより一つ上かな。ライヴハウスで唄ったことはないけど、2年間近くずっと毎日家で唄い続けてた変わった経歴の持ち主で、唄についてはもう文句の出ないほど凄過ぎるから」
「って言ってますが、どーですか、黄昏くん?」
「俺には自分の事なんてよくわからないけど、褒められて悪い気はしない」
話を振られ、黄昏は率直な気持ちを口にした。そもそも黄昏は自分を世界から隔離し続けて来たから、他人と自分を見比べる真似なんて最初から考えもしないんだろう。
「楽器なんてできないし、俺には唄う事しかできないけど……でもそれだけだったら誰にも負ける気はしない」
イッコーの目を見据え、黄昏ははっきりと言った。それだけ自信があるのか普段からそう思っているのか大口を叩いているだけなのか、イッコーには分からないだろうけれど、黄昏の放つ魅力に興味を示している様に見えた。
「青空に誘われたから、俺はやるだけ。他にメンバーがいてもいなくても、俺は青空が望んでいる限りこいつの横で唄い続けてやる。だから青空が目をつけた人間なら、俺も一緒にやっていい。嫌なら断ってくれればいいし、青空がやめれば俺もまたあの部屋に戻って一人で唄い続けるだけだ。けど、青空は一緒にやろうと言って俺を連れ出してくれた。一体俺に何ができるのかわからないけど、やれるだけの事はやってみるつもりだ」
迷いもなく、黄昏はしっかりとした口調でそう言ってのけた。決意と覚悟のこもったその言葉に、隣で聞いている僕の胸が熱くなる。
どうしてこう、魂の震わせることばを黄昏は紡げるのかな?
それはきっと、何一つ嘘なんてなく、心の底からそう思っているからなんだろう。
嘘にまみれた日常を過ごしているとすぐに見えなくなってしまう言葉の力。だからこそとても純粋でどれだけ汚れても核の部分だけは絶えず輝いている黄昏の言葉がこうも胸に突き刺さるのだと思う。
「…………」
しばらくイッコーが下を向いて黙っていると、あぐらをかいた膝が震え始めた。
「? どうしたの?」
「ぃやあ、あんたサイコーに面白れわ!」
僕が尋ねると、震える自分の膝を上から押さえ付け、イッコーがいきなり大声を上げた。反響する壁が震えるほどあまりに大きく、鼓膜をつんざく。耳を塞いでいる僕の横で、イッコーは目を輝かせて大笑いしていた。黄昏も何事かと目を丸くしている。
「おれ、あんたの唄が聴きてえ!青空、ギター練習したんだろ!?黄昏と一緒に一曲やってくれよ、なあ早く」
「ええっ!?」
心の準備もなしにいきなり来たもんだから、素っ頓狂な声を上げてしまった。
「でもあいにく、最近の曲なんて何にも知らないからオリジナルだけど、それでいいか?」
うろたえる僕をよそに、黄昏が代わりに受け答えしてくれる。
「全然いいぜ、そん方がそいつの技量とか持ってるもんがわかるからよ」
そう言ってイッコーは僕等を立たせ、椅子を配置し直した。一番音が聴き易い簡素なステージを作っているらしい。僕はその間にトイレに行くと言葉を残し一旦部屋を出た。
だんだんと緊張して行く自分が分かる。どうして人間は緊張なんてするんだろう?とか意味の無い疑問ばかり頭に浮かんで来る。
この感覚はあまり好きじゃない。でも嫌がってばかりいると押し潰されてしまい本番で失敗するから、いつも我慢して無理矢理楽しむように心掛けている。そんな矯正のおかげで今は随分緊張を楽しめるようになったけれど、完全にリラックス出来る訳でもない。
幾分心を落ち着けてからトイレを出ると、入口に黄昏が立っていた。
「入る?」
僕がトイレの扉を指差すと、黄昏は横に首を振った。
「たくさん練習したんだろう?なら大丈夫だって」
いつもと変わらない顔を僕に向け、安心させようと言ってくる。喉が枯れていると上手く声を出せないから、ジュースを受付で買ってここで飲んでいただけみたい。
無言で差し出された中身の残り少なくなった缶を、笑みを零して受け取る。これって一応間接キスなのに、なんてくだらないことを考えて口につけていると、大分緊張がほぐれた。
黄昏の後に続き、部屋に戻る。自分の心臓の高鳴りがはっきりと耳に聞こえた。
目の前に見えるのは二つの道。ここで成功するのと失敗するのとじゃ、人生が大きく変わる。僕等は普段から些細過ぎて気付かない選択を無数にしながら人生を歩んで行っているけど、時にこうして大きな分岐点が現れる。
どちらの道を進むにしても、悔いだけは残したくない。だからベストを尽くす。
自分のギターを取り出して、椅子に座る。黄昏も既に準備万端で、イッコーが僕達の演奏を今か今かと心待ちにしていた。
不思議と恐怖は無かった。心強いパートナーが隣にいるからだろう。逆に僕の方が黄昏の力を十二分に引き出すためにバックアップしなくちゃいけない。彼を生かすも殺すも自分次第だと強く思う。
僕がストロークを始めれば、もう止まらない。まるで坂道の上から音を立て岩が転がるみたいに。
ふと『ロックンロール』の言葉が頭を過ぎり、小さな笑みが零れた。
朝が来ないのは 君のせいだと
聞こえないフリして 夜を睨んでた
変だと思わずに 壁のシミを見てた
受け入れてみるだけ 何も変わらない
鎖に繋がれたままで 声を張り上げて唄う
膝を折るのを堪え 暗闇を振り払っている
鳥の鳴き声は ここまで届かない
見続けているだけ 知っているそぶり
言われなくたって わかってるくせに
夜は明日(あす)へ伸びて また立ち尽くした
空が赤く染まる時を 今日も待ちわびながら
世界を救う歌を いつまでも書き続けている
今も壁のシミは じっと僕を見てた
射し込む月の光 赤い世界照らす
君がこの夜に 手を差し伸べてくる
泣き笑いの顔で 今日も明日もずっと
言わなくたって わかってるから
夜が明ける日を また待ち焦がれる
空が藍く染まる時を 今日も待ちわびながら
世界を救う歌を どこまでも唄い続けている
最後のストロークがスタジオに鳴り響いてから、終わった。途端にどっと疲れが出て来て、大きく頭を項垂れ息を吐く。それほどまでに疲れた。
あまりに集中し過ぎたので、自分でも何が何だか良く解らなかった。しくじった所はたくさんあったけれど、全力を出し切ったんだから後悔は無かった。
終わった後でも黄昏の唄声が耳にこびりついている。マイクなんて使わなくても僕のギターより圧倒的な存在感のある彼の唄声は、気持ちの良いくらいにスタジオの壁に反響して幸せな気分にさせてくれた。演奏している間の4分足らずは、今まで生きて来た中で一番濃密で充実した時間だったように思う。
唄った曲は、僕が初めて黄昏の前で弾き語りした曲。自分の為に、黄昏の為に創った。この一曲を創る為に、僕はこの数ヶ月、全身全霊を注ぎ込んだ。
結局最後には黄昏が唄うんだから、メロディに関しては黄昏が唄い易いように心掛けた。間奏のソロパートなんかも黄昏のノートから流用したものだし、お手本にした部分も多数ある。本人もきっと気付いているだろう。
歌詞に関しては全て僕の独壇場だけど、黄昏の影響も強く受けているから、きっと共通する部分もあるに違いない。
「何だろ、聴いてて嫌な気持ちにならなかった。他の奴のは全部ダメだったのに」
黄昏の前で初めて弾き語りした後、澄んだ瞳で僕にこう言ってくれたのを覚えている。その言葉を聞けただけで、心から報われたと言っていい。
満足感に浸っていると、拍手の音が耳に届いた。顔を上げると目を見開いたイッコーが、大きく手の平を打ち合わせている。
「や、すげーすげー!ホントすげーわおめーら!」
白い歯を見せながら隣にやって来て、僕達の肩に両腕を回して来る。思いの他強い力で抱き締められ、息が詰まった。黄昏もあからさまに嫌な顔をしている。
「あんたみたいなとんでもねーやつがこんなとこにいたとはねえ!唾つーけた、他のやつにかっさらわれる前におれがキープしとく」
「俺にその気はないっ」
大袈裟にキスしようとして来るイッコーを懸命に押し退けながら黄昏が本気で喚く。スキンシップのつもりなんだろうけれどされる方は結構辛い。
「青空もホント上手くなったよなー!上達早いぜあんた。この調子で行きゃあライヴなんてすぐできんぜ。あの小説読ましてもらってからちょい気になってたけどよー、いいもん書くねー。キャリアだとか関係ねーわ、そんなん。あんたらと一緒にやればすげえもんが見れそうな気がする」
「え、それって……」
「やろーぜやろーぜ!もー全然OK!今までずーっと一緒にできるやつ探してきたけどよ、お目にかかんのがちっともいなくてつまんねー思いしてたとこなん。なーに、楽器なんてやってりゃすぐ上手くなるって!それよりも熱いもん持ってる方が大切なんだからよ」
イッコーは満面の笑顔で承諾してくれた。どっと肩の荷が降りて嬉しさがこみ上げて来るけれど、ヘッドロックが苦しい。腕を叩いてギブアップの合図を送ると、ようやく謝って手を離してくれた。大柄な体格通り、力が強い。
「特に黄昏、あんた異常」
席に戻ったイッコーは、びしっと黄昏の顔を指差し言い切った。
「何が」
「あんたすげえロックンローラー。才能ありすぎよ」
「知らんそんなの」
褒められているのに、黄昏は機嫌悪そうにそっぽを向いた。才能だとかそう言う話は本当に興味が無い、彼は。多分これからいろんな所で言われるんだろうけど、ひたすらマイペースなんだろう。そこが黄昏の魅力の一つでもあるけれど。
「さてとそれじゃ、早速合わせますか」
「え」
イッコーがベースを構え、やる気満々になっている。目の輝きが尋常じゃない。
「12時までなんだから、とっととやろーぜ。他に曲ある?ないんだったら適当にセッションでもいいからやろーやろー、早くやろー」
どうやらうずうずして仕方無いらしい。黄昏と顔を見合わると、互いに笑いが零れた。
「そんなに急かさなくてもやるよ」
そう言い、黄昏がマイクスタンドに向かう。イッコーも腰を上げ、シールドを繋ぐアンプの隣に移動した。僕はアコギだから、椅子に座ったままでいる。
それから12時まで、僕達は夢中に音を合わせ始めた。
転がる石は徐々に大きくなっている。