→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第1巻

   021.Like a Rolling Stone

 雨が止んだ。
 昨日までの天気が嘘のように、今日は晴れ渡ってて青空には雲一つ見当たらない。
 駅を出ると、緑の残る街路樹が雨の雫をたっぷりと吸いこんで、朝日に反射している。あまりに眩しくて、目が眩んでしまう。
「吸血鬼みたい」
 歩道の水たまりの上を歩きながら、隣で腕を組んで来てる愁が俺を見ておかしそうに笑う。俺もそう思ってたので、苦笑するしかなかった。まともに朝の光を見るなんて久し振りだ。いつもなら夜が明ける前にベッドに潜りこんでたから。
 愁に連れられて、みょー達が通っている美大へ足を向ける。愁は何度か遊びに来た事があるらしくて、俺は手を取られてただ引っ張られていく。秋物のファッションに身を包んだ学生達と行き道でいくつもすれ違った。
 遊んでる奴、将来のために努力してる奴、先が何も見えないで苦労してる奴――いろんな人間が、今日もこの大学に足を運んでるんだろうな。少なくとも俺には、家でくたばっていたり気まぐれでバンドをやったりしてる人間より、こいつらのほうが偉いと本気で思う。
 駅前の商店街を離れて10分ほど歩くと、塀の中に人間の身長の10倍近くある大樹が立ち並ぶ通りへ出た。どうやらこれがみょー達の大学らしい。近くのバス停には、『桜花美大前』と書かれた案内灯が立っている。
「でかいな」
「大学だもん」
 そのままの会話をした後、愁の指差す方向へ歩いていく。もう少し歩いたところに正門があるらしい。
 愁が俺の腕に抱き着いて離れないせいで、道を歩いてる学生達が俺達をジロジロ眺めてくる。いくら自称彼女だからって、こんな朝っぱらからくっついて歩くカップルなんて俺達ぐらいのものだ。
 俺が困ってると、愁は周りに見せつけるように強く腕を絡めてきた。白のセーターの下に隠された小さな胸が俺の肘に当たる。嫌がれば嫌がるほど愁がくっついてくる気がしたので、俺は諦めて放っておく事にした。
 愁がポーチの中から携帯を取り出して、電話をかける。しばらくそのまま電話先の相手と談笑した後、正門入口にある校舎の案内図を見て小さな建物を指差した。
「兄貴は部室で寝てるって」
 軽くため息をついて、愁が肩をすくめる。
「クラブに入ってるのか?」
「美術部らしいよ。でも、美大にいくつ美術部があるなんてわかんないけどさ」
 言われてみれば確かに。どうせ、ジャンルによっていろいろな部活があるんだろう。
「和美さんが大学内の喫茶店で待ってるって。行こっ」
 校庭のあちこちに建ってる立看板の指示に従って、だだっ広い敷地内を歩いていく。木漏れ日の差し込む広場の下で、大勢の鳩が喉を鳴らしている。公園の中を歩いてるみたいで、ここに通う大学生達が独り占めするのはもったいないって思うくらいだ。
 遠くでチャイムが鳴り、校舎から学生達が姿を現して人気の少なかった外が賑やかになる。そんな当たり前の光景がひどく懐かしく思えた。
 俺も昔はこんなふうに、学校に通ってたんだっけ。
 中学時代はそこそこ悪い奴らと適当につるんで遊んでいた記憶しかないし、中退した高校生活の大半は屋上で過ごしていた。
 いつも一人でぼんやりと流れていく雲を眺めながら、太陽の光に包まれて昼寝していた。雨の日は人気のない適当な場所で時間を潰して。
 その間、本当に無数の事を考えた。それこそ、気が狂うくらいに。
 そして俺はそこで、世界の全てを知り尽くして悟った気分になっていた。現実なんて何も知らないくせに。開けた学校の屋上から、全てを見渡してるつもりでいた。
 今考えると、あれが俺をくたびれた人間にしてしまった原因なのかもしれない。
 俺は現実の世界を早々に見限って、空想の世界へ逃げこんだ。でも、それが何の意味もなさない事にある日突然気付いてから、俺は死体のように延々ベッドの上で転がる真似しかできなくなってしまった。
 孤独。
 叔父さん叔母さんからも逃げて、周りに誰一人知り合いのいなかった俺が腐っていくのも早かった。自暴自棄なのかどうなのか、それすらもわからないで、俺はカーテンを閉め切った暗い部屋の中でずっと唄い続けた。
 唄ってる間は、気を紛らす事ができたから。現実から逃げるための手段として、メロディを口ずさんでいた。
 最初はラジオから流れてくる最新の曲、それに飽きると本屋で立ち読みした音楽雑誌に載ってる目のついたバンドのCDを借りてきては、コンポから流れてくるメロディに合わせて唄った。その時は、四六時中コンポのスピーカーから音が流れていた。
 でも、それもある日を境にぷつりと途絶えた。
 他人の曲じゃ、自分の気持ちを全部汲み取ってくれない事に気付いてしまったから。どれだけ足掻こうが、俺は死ぬまで現実を生き続けなきゃいけないんだから。
 それからは、買ってきたキャンパスノートにありったけの思いをぶちまける日々が続いた。思いついた歌詞やメロディを口ずさんでは、次に見た時にすぐ思い出せるように書き止めた。楽譜なんて読めなかったから、俺だけがわかる記号で音を書き止めた。腹が減るまで、喉が乾くまで、用を足したくなるまで、毎日毎日書いては唄って、唄って書いて。あの時の俺を端から見れば、狂気の沙汰としか思えなかったろう。
 楽しかったのか、辛かったのか、嬉しかったのか、苦しかったのか。今じゃもうあの時の気持ちは、何も思い出せない。
 ただ、一つだけ。
 その間だけは心の底から『生きている』って思えた。
 どれだけそんな日々が続いたのか、もう覚えてない。
 俺は自分の歌を、八畳の暗闇で唄い続けた。
 青空が俺の家を訪ねてくるまで――
「へー、なかなかお洒落じゃない、学校の中にある喫茶店なのに」
 愁の言葉で、俺の意識は急速に現実に引き戻された。いつの間にか、待ち合わせ場所に到着してたみたいだ。
 坂を登った小高い丘の上に、白で統一されたコテージ風の喫茶店が見える。ただ、屋根の部分に太陽の塔みたいな変テコなオブジェがある以外は、普通の喫茶店のようだった。
「美大ってのは全部こうなのかな?」
 俺が頭を掻いて呟くと、愁はおかしそうに笑った。
 坂を登って白い階段を上がると、喫茶店のテラスに出た。昨日の雨が残っているせいか、外には一人も客の姿が見えない。愁の後をついて行って喫茶店の扉を空けると、奥のテーブルに和美さんの姿を見かけた。愁が大声で名前を呼ぶと、気付いた彼女が俺達に微笑んで手を振る。その仕草を見てるだけで、俺はどうしようもなく照れてしまった。
「おはようございます」
 丁寧な口調で和美さんが挨拶してくる。俺達も軽く会釈して、向かいの席に座った。授業に出てない学生達がテーブルを囲んでて、昼にもなってないのに店内は結構賑わってる。壁にはいろいろな前衛芸術的な作品が額に収められて並んでて、目を飽きさせない。
「忙しいところをわざわざ来てくれて」
 ハーブの香りがするカップをスプーンでかきまぜながら、和美さんが礼を言ってくる。
「用事があるのは夜ですから全然大丈夫です」
 同年代なのに、何故か敬語を使ってしまうほど和美さんの前に立つと畏縮してしまう。俺達が笑い合ってると、横の愁がつまらなそうに頬を膨らましていた。
「ねーねー和美さん、授業は?」
「掲示を見たら今日は休講が多かったから、まとめて全部休もうと思うわ。せっかく来てくれたんですもの、いろいろ面白い場所へ案内したりお話したいじゃない?あなた達と」
 愁の問いに和美さんは嬉しそうに答える。ウェイトレスが水を持ってきたので、飲み慣れたアメリカンとカプチーノをそれぞれ頼む。昼食はみょーと合流してからという話になった。
 今日の和美さんは赤の模様が入ったカチューシャをつけて、漆黒のストレートの髪を邪魔にならない程度に分けている。クリーム色のブルゾンに、深緑のロングスカートがテーブルの横から顔を覗かせていた。寝巻き姿でも身体のラインは出てたけど、普段着姿を見ると更に線の細さが目立つ。セーターがとても似合いそうだと思った。
 思っていた通り、和美さんの姿を見ただけで暴走しかけてた心が安らぐ。このまま何気ない話をしながらずっとここで話してたいなんて思ったけど、それじゃみょーが可哀想なのでしょうがなく諦めた。
「みょーの奴、ホントに部室で寝てるんですか?」
 さっき愁が話してた事を和美さんに訊いてみる。
「ここ数日、新しい作品にとりかかっていてあまり寝てないらしいんです」
 愁に視線を送ってみたけど、こいつも知らなかったのか首を傾げてる。
「あたし、兄貴がなにしてるかなんてほとんど知らないもん。部屋にも入らないし」
 運ばれてきたカプチーノを一口飲んで、愁が頭の後ろに手を回して言った。俺のポスターが愁の部屋に貼ってるのに俺達の関係を知らなかったという事は、そこまで深く付き合ってる兄妹じゃないんだろう。それとも愁が、和美さんにみょーの事は全部一任してるか。
「でも、あいつ授業はどうしてるんですか?まさか和美さんと一緒にサボりまくってるんじゃ……」
 言ってから、余計なところまで口を出してしまったんじゃないかと反省した。でも、意外にも返って来たのは真面目な愁の言葉だった。
「兄貴休学してるんだ、今」
「えっ?」
「前期しか行ってないの。授業もほとんどまともに出てないから、留年確定」
 驚いてる俺を横目に、愁は投げやりに言葉を吐く。和美さんの方を見ると、彼女は悲しそうな目で俯いた。
「実はあの人、最初の年もほとんど単位がないまま終わってしまったんです」
「サボってるんですか?」
「ただ休んでいるわけじゃないんですけど……それで今年は、私がついてあげて授業選択を手伝ったんですけど、結局変わらず仕舞いで……」
 和美さんは大きくため息をついた。
「じゃああいつ、どうして学校に来てるんですか?」
 当然の疑問を俺が口にすると、和美さんは照れ臭そうに頬を掻く。
「私を見送ってくれてるそうです」
 思わず背中がむず痒くなってしまった。横で愁も二人の夫婦振りに肩をすくめてる。
「あ、でも部活には出てるんです。授業に出ないだけで」
 俺達の視線に気付いたのか弁解するように和美さんは手を振った。何だかこの人と話しているだけで中毒(あ)てられそうだ。
 その後しばらく和美さんにみょーとのノロケ話を聞かされて、時計の針が正午を回る前に俺達三人は喫茶店を出た。
「いいひとなんだけどねー」
 和美さんがまとめて勘定を済ませてる時に、愁が俺の耳元で小声で囁いた。
 そして、もう少しみょーを寝かせてやりたいという事で、一時間ほど和美さんに校内を案内してもらった。
 学園祭が近いせいか、あちこちの校舎の壁や通行の多い歩道の茂みに人を殴り殺せそうなほどバカでかい立看板が並んでいる。ごく普通の催し物の告示をしているものや、演劇や学園対抗のスポーツ大会や、右を向いてるもの(?)まである。
 大学に通っていた事なんてないからよくわからないけど、それらを見てるだけで胸がワクワクしてくるのは中学の頃と変わらなかった。
 そういえばバンドっぽい事をしたのは、中学最後の文化祭が最初だったような気もする。記憶の奥底に閉じこめてたのでずっと忘れてたけど、あの時初めて『唄うのってこんなに気持ちいいんだ』って思えたんだっけ。
 唄ってばかりだな、俺の人生。
 そんな事を考えながら和美さんを先頭に歩いてると、結構いろんな人に声をかけられる。挨拶程度のものだけど、男の比率がかなり高い。
「知り合い多いんですか?」
 それにしては多過ぎるだろうと思って和美さんに訊いてみると、
「去年の学園祭でミス桜花コンテストとかいう催し物があったんですけど、知らない間に出場させられて訳が解らない内に優勝しちゃった影響だと思います」
納得の行く答えがさらりと返ってきた。
「……もしかして、みょーの奴凄く恵まれてない?」
 げんなりした顔で前を歩く愁に小声で訊いてみると、愁が少し怒ったような口調で返してきた。
「だってさー、あたしがはじめて兄貴に和美さん紹介された時、ぜーったい嘘だって思ったもん」
「俺だって思う」
 二人でため息をついてると、和美さんが怪訝そうな顔で俺達を眺めていた。
「部室、ちょっと食堂から離れてますから、何か買って行きましょうか」
 和美さんの提案に乗って、食堂横に何故か存在するファーストフードのチェーン店で持ち帰りでいろいろ買っていく事にする。どうしてこんなものが校内に建ってるのかわからなかったけど、きっと学校側の懐が広いんだろうと無理矢理納得した。
「持ちましょうか?」
 和美さんはみょーの分も買ってたので、両手に袋を抱えている。
「それじゃ、お言葉に甘えて」
 すまなそうに軽く頭を下げて、俺に右手の袋を渡してきた。結構重い。大喰らいなんだろうか、みょーの奴?
 和美さんの後ろをついていって、校舎から少し外れた道を歩いていく。
「なーんかやけに親切だね、和美さんに」
 俺の背中に、愁の恨み節が飛んできた。俺が和美さんと仲良くしているのが面白くないんだろう。確かに、愁とみょーがいなかったら今にも口説きそうな勢いで話してると思う。
「美人だからな」
 正直な感想を端的に述べると、愁が袋のない手を振り回して手加減なくポカスカ殴ってきた。こっちは大変なのに、和美さんは蚊帳の外で面白そうに俺達を見てる。
「どーせあたしは美人じゃないですよーっだ」
「愁はどっちかっていうと可愛い系だって」
「ふーんだ」
 俺のフォローも無視して、口元を尖らせて拗ねながら愁は先に行く。やれやれと肩をすくめてると、俺の横へ和美さんが微笑みながら寄って来た。
「大丈夫ですか?」
「ったく、あいつ、ホントおてんばなんだからな……」
 暴れた際にコーヒーが零れてないか袋の中を確認すると、どうやら無事のようだった。愁の姿が建物の角を曲がって見えなくなったけど、部室の場所は知ってるんだろう。
「どうです?上手く行ってますか、あの娘と」
 和美さんが俺の顔を覗き込んで尋ねてくる。横に並ぶと結構背が高くて、俺とほとんど変わらなかった。ちなみにみょーは俺より鼻一つ分ぐらい背が高い。青空もみょーと同じぐらいだし、イッコーは180を優に超えている。
「ただれまくってます」
 俺は苦笑して頭を掻いた。どうせ昨日、愁が家に帰らなかったのも知ってるんだろう。
なら何も隠す必要はなかった。
「これでいいのかな……?って思いますけど。何かだんだん俺が、あいつを悪い子にしていってるみたいで」
「本人の意思で悪い子になっているのなら、それでいいんです、きっと」
 子供を見守る母親のような口調で、和美さんは愁の消えて行った先を眺めながら言った。
「俺としては……変わらないでいて欲しいんですけど、ずっと」
 祈りのような希望をこめて、俺はそう口にした。それが一番愁にとってよい事だと思うし、俺も傷つけなくて済む。
「でも、今の場所にいたくないんでしょう。このままずっと好きな人に守られていたくなくて、守ってあげたい。本当は、自分が守られている事を認めたくないんだと思います。だから世話を焼いて、一生懸命好きな人に尽くして……見て見ない振りをして、否定して」
 和美さんが、どれだけ愁の事を想っているかが、今になってはっきりとわかった。そして、必死に罪を償おうとしている事も。
「たそさん。神様って、意地悪だと思いませんか?」
 風に揺れるその長い髪を押さえながら、和美さんが自棄っぽく俺に同意を求めてきた。石畳の上を舞う木の葉に視線を落として、こう返した。
「俺が神様なら、全ての人がハッピーエンドになれるようにしてますよ」
 先に行った愁の後を追い駆けて行く。後を振り向くと、和美さんはぽかんと口を開けたまま目を大きく見開いて、その場に立ち尽くしていた。
「和美さん?」
「え、あ……ごめんなさい」
 俺に声をかけられてようやく我に返ったのか、和美さんが慌てて俺の後をついてくる。俺は別段気にする事もなく、和美さんを先に行かせて案内してもらった。
 少しずつ、少しずつ、いくつもの鎖が絡み合った石が転がって行く。
 その音に気付く事もなく、俺は紅色に変わりつつある校庭の木々を眺めていた。


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