067.大迷惑
「疲れた……」
黄昏が天井を見上げ、口から魂の抜けたような顔で呟く。
「本当だよね……」
かく言う自分も今、黄昏と同じ顔をしているに違いない。
「ま、初めてだから仕方無いけどね、二人とも。いいじゃない、凄くよかったわよー。久しぶりにアタシも腰が砕けるくらい汗かいたわ」
僕の隣でキュウが笑顔を振る巻いている。まだ興奮冷め止まないのか頬が上気していて、何だか酔っ払っているみたい――
「って、もう飲んでるし!」
知らない間にキュウの手元には生ビールの瓶が握られていた。
「メシできあがるまでちょい時間かかるかんな。テキトーにつまんどいてくれや」
調理場に立つイッコーから大きな声が飛んで来る。みんなが囲む丸テーブルの上には柿の種や漬物やチーズ鱈やスルメイカ……おそらく親父さんのを取って来たであろう酒のつまみが色々並べられていた。キュウだけが浮かれ気分で早速ご馳走になっている。
いつも通り、ラバーズでのライヴ後の『龍風』での打ち上げ。6人全員揃って素直に解放的な気分を味わうのが普通だけど、今日は喉に何も通らない脱力感を覚えていた。
代わってやたらと元気なのが、ライヴ後なのに鼻歌でも唄いながら威勢良く料理を始めているイッコーと、毎度のように鉄仮面みたいな変わらぬ表情でいる千夜さん。キュウは愁ちゃんと今日のライヴについて談笑しているみたいだけど、内容は耳を素通りする。
と言うか、脳が聞きたがっていないんだろう。
むしろ、前回とは違い最後まで4人揃って演奏し切れたので満足度は高く、充足感もある。お客の反応も上々だったように思う。
問題なのは、充足感があり過ぎた、と言う点。
「まさかいきなりワンマンやらされるとは思いもしなかったよ……」
今すぐにでも横になって夢も観ないほど泥沼に沈むように眠りたいくらい、疲れた。
「アタシは満足よ、だって『days』のこれまでの集大成が観れたんだもの」
「見せたくて見せた訳じゃないんだけどね」
上機嫌でグラスを口に運ぶキュウにはにかむ自分の眉が垂れ下がったままなのが分かる。
元々今日のワンマンライヴを計画していた訳ではない。最初は3バンドのイベントに頼み込んで僕達も追加で入れて貰った、おまけ程度の立場だったはずなのに。
メンバーが急病で入院したり、同日に行われる他の大きなイベントに急遽呼ばれる事になったり、当日直前で機材を運ぶバンが故障したせいでステージ立てなかったりと、他の3バンドがそれぞれ都合が悪くなってしまった為、『days』は押し出されるようにワンマンライヴを実行せざるを得なくなってしまった。
それほど大きな告知もしていなかったので僕達目当てに来ている人も少ないだろうと腹を括ってフロアを観に行ったら、とんでもない。チケットのキャンセルは受け付けていたはずなのに、予想以上に人が集まっていて血の気が引いてしまった。
そこに店長が、前回の僕のパフォーマンス(千夜さんが抜けた穴をギターで埋めた、と言う事らしい)が水海界隈で話題になっているらしく、僕のギタープレイ見たさに来ている人も多いんだろう、なんて言うものだから一瞬にして緊張がピークに達してしまった。
後はもう、その場の流れに乗せまともに演奏できる持ち曲を全て出し尽くし、何とかステージの時間を埋めた。ステージに出る前からずっとテンションが上がりっ放しで、曲順や内容、ほとんど覚えていない。覚えていてもあえて振り返りたくない。
人前で落ち着いて演奏できるようになって来たと自信が付き始めた矢先の事だから、それはもう立っている気力すら起きないほど落ち込む。演奏が駄目だからではない。どんな演奏をしていたのかさえ自分自身分からなくなるくらい、頭が混乱していたから。
「とりあえず、一から勉強し直します、ハイ」
そう答えるのが精一杯。今日の事はしばらく尾を引きそうで余計気が滅入った。
「そんな落ちこむようなデキじゃなかったってば〜。ねっ、愁?」
「え?そうだね……私はいつもと変わらないいい演奏だと思いましたよ」
キュウに促され愁ちゃんが慰めの言葉をかけてくれても、そもそも黄昏しか目に入っていないような子の言う事だから素直に受け入れていいものか判断に困る。
「そんなに緊張するのが嫌なら、一人でステージの上で弾き語りでもしてみればいい。まず失敗するに決まっているけれど、いい経験になる」
左隣に座る千夜さんがとっくりを傾けながら助言(なのかな?)して来た。一人でステージに立つ自分の姿を想像してみたけれど、すかさず何度も首を横に振る。たとえ10人しか客席にいなくてもまともに演奏できる自信が無かった。
「このバンド以外でステージに上がるのも別に構わないと私は思う」
いくつものバンドを掛け持ちしていた千夜さんの言葉には含蓄がある。イッコーも時々パンクのイベントで即席バンドの一員としてギターを鳴らしたりマイクを取ったりしている訳で、そうした機会を自分も作るのはいい事なのかもとも思う。
とは言え自分で唄えないから黄昏にヴォーカルをして貰っている部分もある訳で、ギター一本で自分のステージを作るなんてまだまだ想像の、理想の、幻想妄想の域を出ない。
でも黄昏なら、一人でもステージに立てるだけの度胸と技量があるだろう。
そう考えるとまだまだ僕は黄昏と釣り合うだけの力を持っていない。せめて自立できるだけの力を身に付けないと隣には立てないんだろうな。なんて、今にも寝てしまいそうな黄昏の姿を見ながら思った。
「ズイブンお疲れのようね、ヴォーカリストさんは」
キュウが身を乗り出し黄昏の顔を覗き込んでみても何の反応も見せない。木製の椅子の背もたれに体を預け、小さく寝息を立てている。唄う時の切り裂く痛みを堪えているような険しい顔はどこにもなく、まだ若干あどけなさの残る可愛い寝顔。そのまま写真にでも撮って額に飾れそう……なんて思っていると、キュウが持っていた薄型のデジカメで写真を撮っていた。マネージャーの仕事なのか単なる趣味なのか。
「ステージの上であれだけ連続で唄い続けるなんて、初めて?」
「よね。いつもは対バンでよくて6曲ぐらいしか唄わないもの」
愁ちゃんの問いに頷くキュウ。普段から家で長時間唄い続けている事もあるから問題は無い――とは言え、一人で唄うのと人前で唄うのとでは疲れも段違いなのは同じステージに立つ人間には良く解る。
特に今日のは集大成とでも言うべき内容だっただけに、力の入りようも半端でなかった。
一曲だけ最後にアンコールをしたけれど、本編が終わり一旦楽屋に引き上げた時にはまともに僕達の言葉に受け答えできないほど、黄昏は疲弊していた。いくらステージに立ち続け昔よりスタミナがついて来たとは言え、フル稼動するには遠く及ばない。
どれだけいい歌い手で普段から鍛えられているおかげで声が潰れ喉がやられる事は無くても、いいステージを常に演じ続けられるとは限らない。
もう少し僕達のステージについて熟考してみる必要もありそう。
「ほら、せっかくメシ作ったってのに寝てるんじゃねえっつーの」
出来たての麻婆茄子と餃子を手にイッコーが戻って来る。その香ばしい匂いに反応して眠りかけていた黄昏も目を覚ました。まるで仔犬みたい。
「白飯が必要なやつは言ってくれな。もうすぐ唐揚げもできるからよ」
テーブルの上に毎回料理が目の前に並べられる時はイッコーの事を神と思えてしまう。僕はと言えば一人暮らしを始め一年以上経つのに、まだ基本的な料理しかできない。バイトで習っているとは言え、スタジオの叔父さんと比べるとレパートリーの数も圧倒的に劣ってしまうのだ。
「そう言えば愁ちゃんって料理できるんだよね?」
「え?まあ、一応……。アニキ――お兄ちゃんの料理とか、結構作ってますから」
「愁は親里離れてみょーちんと二人暮らししてるのよ、スゴいでしょ」
「離れてるって、1kmもないよお。それに料理は和美さんが作ってるもの」
二人のやり取りを聞き、愛妻弁当に箸を運ぶみょーさんと隣で嬉しそうに微笑んでいる和美さんの姿がすぐに浮かんだ。物凄く有り得る。
「ま、今は愁はたその料理作るのにかかりっきりだからねー」
「ちょ、ちょっと!からかわないでってば」
「あ〜らからかってなんていませんことよ〜?愁さんはこんなコトを言っていますが、実際のトコロどーなんですか黄昏さ〜ん?」
キュウがマイク代わりにビール瓶を逆手に黄昏の前へ突き出してみる。ってもう一瓶空けちゃったのか(汗)。
「ん、わざわざ家にやって来て作ってくれるから何の文句もない。美味いし」
一人盛り上がるキュウに淡々と答え、自分の分を受け皿に取る黄昏。そのさりげなさが余計に恥ずかしく思えたのか、愁ちゃんは顔を真っ赤にして俯いてしまった。
しかし対照的なこの二人を見ていると、本当に恋人なのか良く判らない。片方が勝手に盛り上がっているだけのような気もしなくもない。
何かあれば僕の方にも話を持って来ると思うし、それまで暖かい目で見守っていよう。
華の女子高生二人と違い、千夜さんは黙々とキムチや珍味ばかり食べている。髪を横跳ねさせた黒尽くめの姿の時は、普段と好物も違ってくるのかな?髪を下ろした制服姿でお酒や煙草を口にしている姿はさっぱり想像できなかった。
あまりいい顔は見せなくても、以前ほど文句も言わず千夜さんは打ち上げに参加してくれる。次回に関するスケジュールの話し合いもあるからだろう。それでもバンドの話になると一番真剣に意見を述べてくれるのでとても有難かった。とは言え、自己中心で考える所は少しも変わっていない。
千夜さんと他のメンバーとの温度は、今のままでちょうどいいのかも。
あの後あっさり他の二人に謝ってくれたので、『days』はすぐに元通りになった。『家庭の事情でナーバスになっていた』と簡潔に理由を説明すると、素直に納得してくれた。元々イッコーは根に持たないタイプだし、黄昏もわざわざ追及し喧嘩になるのが嫌だったんだろう、前もって距離を置いていたから、その後目に付く衝突も起こっていない。
結局メンバーの中で騒いでいたのは僕一人だけ、と言うオチ。
でも、今回の事は教訓になった。次また何かが起こればもっと落ち着いて対処できると思う。千夜さんが思ったより理解のある人だと言う事も分かったし。
後はこれでバンドが軌道に乗ればいいんだけど……今考えるのは止めておこう。と言うか、頭ショートしそうだもの、今日のライヴのおかげで。
「ほいほいほい。残ったものは全部後でパックに入れとくから、遠慮なく食えよー」
疲れ過ぎて食欲の無い時でも、イッコーはお腹に入るのがやっとの量の料理をテーブルの上に並べてくれる。有り難いけれど気持ちだけで十分です。
そんな僕とは裏腹に、スイッチが入ったように黄昏は勢い良く胃の中に料理を放り込んでいる。腹筋を使うから唄い終わった後は空腹で堪らないんだろう。僕より背が低いのに大食らいなのは四六時中唄っているせいもあるに違いない。
「食べ過ぎると愁ちゃん送れなくなっちゃうよ」
「今日はもう無理」
忠告してあげるとあっさり返された。愁ちゃんに目配せすると残念そうな顔で仕方無いと肩を竦めている。いつも以上に頑張ったおかげで今日は疲れているから、バイクで送って貰うのはさすがに申し訳無いんだろう。二人乗りだから危ないし、その判断は正しい。
「遅くならない内に引き上げます。キュウも今日は一緒に帰る……って寝てる!?」
愁ちゃんがふとキュウの方を振り向くと、すでに酔っ払いテーブルに突っ伏していた。
「今日はウチに泊まりにいくって言ってたじゃない〜」
肩を掴み何度も往復ビンタを食らわせると、キュウも痛みで目を覚ます。
「アレ、アタシも疲れてんのかしら。今日は酔いが回るの早いわ」
「早いも何も、もう二本目空け終わってるじゃない」
キュウのそばにはいつの間にやら3本目のビール瓶が用意されている。
「飲み始めるとどれだけ飲んだかわからなくなるのよね〜」
「少し目を離すとこれなんだから……」
据わった目で小さくしゃっくりを上げるキュウの横で愁ちゃんが頭を抱えていた。
「じゃっ、とりあえず、シャワーでも浴びさせてもらおっかしらっ。汗臭いし、ちょっと風呂場で酔いを抜いてきますわっ」
「おいおいおい、勝手に中入るなっつーの」
席を立ち千鳥足で店の奥に向かおうとするキュウの腕をイッコーが掴むと、その場で糸の切れた人形のように膝をついた。どうやら相当目が回っているらしい。
「ねーねーおねーさまも一緒に入らなーい?」
誘って来るキュウを千夜さんは酔っ払いの戯言と決め付け無視し、麻婆茄子を口に運んでいる。ブーイングが飛んで来ても完全無視。さすが、あしらい方を心得ている。
「あーもーくそ。ほらもー、一人でまともに歩けねーくせして無理すんな。オフクローっ!!ちょっとコイツ風呂入れさせてやってくんねーかなー!シャワーでいいからーっ」
腰砕けのキュウを立ち上がらせ、イッコーが店の奥へ大声でおばさんを呼びながら運んで行く。何だかんだ言いながら面倒見のいいイッコー、僕が女性なら好感度UP。
「ったく、次からビールの入った冷蔵庫カギつけとかなきゃいけねーなー。って、黄昏おめーほんとよく食うよな」
しばらくして戻って来たイッコーがテーブルの上を見て呆れ返る。並べた料理の半分近く、黄昏一人の胃の中に入ってしまった。さすがに食べ過ぎたのか少し苦しそう。
「これだけ食えば、明日明後日は何も食わなくていい」
満腹で眠くなって来たのか瞼が半分落ちている。
「やばい。寝そう。歩いて帰る気力すらない」
「あのなー」
上を向いて目尻を摘んでいる黄昏に呆れ仕方無い様子のイッコー。溜め息一つつくと、頭を掻き自分の席に座った。
「しょーがねーな、今日はウチに泊まってけよ。青空はどーする?」
「黄昏の家に泊まろうと思ってたから……せっかくだから、お邪魔させて貰おうかな。疲れた体を引きずって混んだ電車に乗って帰るのはうんざりだもんね」
「おめーもかよ」
僕の顔を見て苦笑している。
「愁ちゃんはキュウが戻ってくるまで待つとして……千夜は?」
「誰が泊まるものか。第一明日も学校がある」
吐き捨てるように言うと日本酒を口に含んだ。結構、酒豪。
「ああそうか、まだ学生なんだっけか。見た目からして全然そうは見えねーんだけどなー」
思わず続けて、『でもちゃんと学生だよ。僕、千夜さんの制服姿見た事もあるし』と言いそうになってしまい、言葉を飲み込む。左隣からの視線が痛い。
「んじゃ、黄昏が寝ちまう前に今日の反省とスケジュールの話し合いでもしますか。マネージャーいねーけど」
『うえ……』
あからさまに蛙が踏み潰されたような顔をする僕と黄昏。
毎度の事とは言え、ライヴの後すぐさま反省するのは辛い。失敗や気になる点がはっきりと見えてしまっているから。間隔を置いた方が冷静に話し合えるとは思うけれど、その分鮮度が落ちてしまう。細かい部分まで覚えているし、意見の交換は早い方がいいのだ。
2,30分かけ食事を摘みながら話し合う。特に今日は振り返りたくない気持ちが強いから半ば拷問に近い。意識の飛びそうになる黄昏は何度も横の愁ちゃんに小突かれ不満全開の顔を見せていた。千夜さんの文句が飛ぶ中で、間延びした合槌しか返せない。
しかし疲弊し切っている事も分かっているからか、千夜さんも怒鳴りつける真似をしなかった。普段は横に愁ちゃんがいても構わず黄昏に喧嘩を売り買いするから、ある意味凄い。
今日は特別なライヴになってしまったけれど、次回からは通常の対バンに戻る。今月末と来月下旬に二つのライヴを入れた事、再構築途上で以前のアレンジで演奏した今日の数曲を早く完成させる事を確認してミーティングは終了した。
「はーいい湯だったーっ♪あれ、みんな何してるの?」
湯上がりとお酒の抜け切っていない桃色の頬で浮かれ気分のキュウがスキップで戻って来ると、テーブルを囲んでいた全員が脱力した。
「いや……もういい……。ってか、何で寝巻き姿なんだおめー……」
疲れた顔でイッコーがキュウを指差す。前にも着ていた浴衣姿で泊まる気満々。
「汗かいたから着たくないのよ。せっかくシャワー浴びたのに」
「浴びたのにって、今日あたしと一緒に帰るって言ってたじゃない」
愁ちゃんの困った悲鳴にキュウが絶句する。アルコールで頭が回っていなかったのか、どうやらすっかり忘れていたらしい。肩を縮め、愁ちゃんとイッコーの二人を交互に見る。
「……ゴメン、アタシ今日ココ泊まってくわ」
「裏切りもの、裏切りもの、裏切りものっ」
「ああっ、おやめくださいお代官様っ」
怒った愁ちゃんに両手で叩かれ変な台詞を放つキュウ。怒る気にもなれないのか、言葉も出ないほどイッコーは呆れていた。
「それなら泊まっていけばいいじゃないアンタも」
「明日学校あるでしょーがっ。鞄も制服だって持って来てないんだよ。キュウみたく家も近くないし、泊まってなんていけないよ」
「じゃあおねーさまにでも送ってもらう?」
自分で言って目を丸くしたキュウと愁ちゃんが揃って千夜さんの方へ振り向く。話題に上った本人は湯気の立つ烏龍茶を飲む手を止め、二人に目線を向けた。
「――なら大丈夫。同じ路線だから、駅までは一緒に行きましょう」
路線と駅の名前を聞いた後、簡単に千夜さんは承諾した。愁ちゃんの顔がほころび、何度も頭を下げる。珍しい組み合わせと思った。
「あ〜ずるい〜。私もおねーさまと一緒に行きたい〜っ」
「キュウはここで寝てなさいっ」
愁ちゃんに叱り付けられ、まさかこのような展開になるとは思わなかったキュウは駄々をこねるのを止め渋々引き下がった。これを『身から出た錆』と言う。
「そーだ、おねーさまもシャワーだけ浴びていけば?あれだけドラム叩いたんだから、服の下は相当汗がこもってると思うけど。オバさんもいいって」
キュウが気を取り直し訊いてみる。横でイッコーが愚痴を言っているのをよそに、千夜さんは少し考え込む素振りを見せた後、答えた。
「なら、お言葉に甘える事にする」
予想外の返事に椅子からずり落ちそうになってしまった。まさかOKするとは思わなかったから。これまでの千夜さんからは想像もつかない。
「やったー♪ほらほら、お風呂場はこっちこっち」
「汗を流したらすぐ上がってくるから、少し待っていて。こら、触るなっ」
「あーもーどーにでもしれくれ、たくよー……」
愁ちゃんに一声かけ、背中を押すキュウの手を払い千夜さんは店の奥へ入って行った。
好き勝手に家をホテル代わりに使われているイッコーはライヴの後でも見せないような疲れた顔で頭を抱えている。おばさんもイッコーと同じで人がいいから。
「あの、トイレ借りますね」
「あいよ」
続いて愁ちゃんも用を足しに席を立つ。受け答えするのもうざったいと言った感じ。
残された男3人、三者三様に疲れた顔で並べた椅子の上に横たわっていた。
「なんか千夜のやつ、少し変わったっぽくねー?」
テーブルに隠れ見えない位置に寝そべるイッコーが僕達二人に訊いて来た。眠いのか黄昏は目を閉じ答えようとしないので、僕が話の相手になる。
「そうかな?」
「ほんの少し、丸くなった感じがするん。やっぱ前のこと反省してんのかなー」
「そうだと思うけどね」
「そーゆーやつじゃねーとばかり思ってたから、ちょっち意外」
「千夜さんも『days』一本に絞ってるからね、歩み寄ろうとしてるんじゃないかな」
「かと言ってあんまり丸くなられすぎると気持ち悪いけどな。愁ちゃんみたく女言葉で話されるとぜってー引いちまうし」
「それはそれで面白いかもよー?今日のキュウみたいにベアトップで叩くとか」
「全然想像できねぇー」
自分で言いながら、その光景を想像し思わず吹き出してしまった。私服姿の千夜さんを見た事が無いイッコーには絵面が思い浮かばないんだろう。
「これで彼氏でもできたら、少しはおとなしくなってくれんのかね」
「かもねー。その相手がまた全然想像できないのが笑える話ではあるけどさ」
「何だ、てっきりおめー狙っているものとばかり思ってた」
「そう言うイッコーはどうなのー?」
「おれにはもうとっくに心に決めた想い人がいるってばよ」
「何だ、残念」
その相手がどんな人か気になったけれど、今は頭が回らないので次回にしよう。
「あーそーか、青空はあの髪の長いおかっぱの子が好きなんだっけか」
「なっ……違うってばっ」
いきなり柊さんの事が話題に上がったので、反射的に寝返りを打つ。
「もうとっくに引っ越しちゃったし。その後一度も会ってないもの」
「ははー、それで歯がゆくも青空の初恋は儚く終わってしまったのだった」
「変なナレーションつけないでよ」
「その話、詳しく聞かせて欲しいものだわねー。おねーさん、興味あるなぁ〜」
気付けばキュウが戻って来ていて、にやけ顔で僕を上から見下ろしていた。
「駄目、言わない。言ったら絶対笑うに決まってるから」
再度寝返りを打ち顔を背ける。今でも微妙に続いている甘酸っぱい僕達の関係を全部言ってしまったら、キュウに笑われる事必至。
「教えなさいよー。どんな相手だったのー?」
甘ったるい声で右の耳元で囁くと、小さく息を吹きかけて来る。全身を震わせ思わず声を上げそうになってしまった。いけない、誘惑されてる。
「言ったらほっぺにチュ〜してあげるわよ〜」
「言わなくてもするつもりでしょうがっ」
目を閉じて眼前に近づいて来る酒臭い顔を慌てて押し退ける。ムードもへったくれも無い。相手にされなかったキュウは代わりにイッコーに話を聞きに行ったけれど、ラバーズで見た以外それ以上の事を知らないはずなので放っておいた。
「なるほど、その子がせーちゃんの初恋の人らしい、と……」
何だか知らない間にそう言う事にされてしまっていた。反論してボロを出し追及されるのも嫌なので、言いたいように言わせておこう。キュウはトイレから戻って来た愁ちゃんにも仕入れたばかりの新鮮なネタ(事実無根)を提供していた。
「ふあぁ……。眠くなっちゃった。おねーさまが出てくるまで、アタシも横になろっと。服の下、ちっとも見せてくれないんだもの。風呂上がりだけでも拝んでおかなきゃ」
はしゃぎ回った後、大きなあくびをしたキュウは僕の隣に椅子を並べ同じ体勢を取った。こちらに微笑みかけてから目を閉じると、10秒も経たず寝息が聞こえて来る。
「おめーなー、そこで寝ちまったら運ばなきゃいけねーじゃねーか、くそ……」
イッコーが背中を起こし、自分の腕を枕に寝息を立てるキュウを忌々しそうに見つめた。
「あーもー、こーなったら千夜の裸でものぞきにいってやるか」
二人の傍若無人振り(キュウが9割悪い)に癇癪を起こし、とんでもない事を口にする。
「あの……それはやめた方がよくないですか……?」
愁ちゃんに激しく同意。
「んなもんジョーダンに決まってるっしょ、ジョーダン」
僕達二人の真剣な眼差しに、イッコーは可笑しそうに笑い飛ばした。
やや沈黙。
「……やっぱりおれ、ちょっと見てくる……!」
好奇心かそれとも思春期の性欲には勝てなかったのか、落ち着かずに席を立つと素早い忍び足で店の奥に消えて行った。引きつったような表情の愁ちゃんと顔を見合わせる。興味はあっても、そんなTVスペシャルの探険隊とは比べ物にならないほど危険な目に合う可能性に命を張る真似なんて小心者の僕ができるはずも無い。
我が身を振り返らないイッコーの行動は、ある意味真の漢(おとこ)と言えた。
数十秒後。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!」
天地が引っ繰り返ったかと思った。
「待てそこの変態!!今すぐ消してやるから覚悟しておけ!!」
建物中に響き渡る、恨みの篭った千夜さんの声。
「まずいまずいまずいまずいまずい」
四足で店内に駆けて来たイッコーは冷や汗びっしょりに、化け物に遭遇した時のような脅え方をしていた。物を投げつけられたのかおでこを赤く腫らしている。
一刻も早くこの場を逃げ出そうとシャッターの半分閉じた入口から脱出しようとする。と、足元に素早く何か絡み付いた。
「千夜おねーさまの裸をのぞき見しようとするなんて、絶対許さないわよ〜」
「おいこらキュウ!離せ、離せっての!!」
体格差があるとは言え、片足一本にしがみ付けば十分相手の動きを止められる。
キュウを引き剥がすのに手間取っている間に、店の奥から巨大な邪気と共に足音が近づいて来る。僕達は息を呑んでそちらを凝視していた。
「ありがとう、キュウ。感謝するわ」
両手に巨大な中華鍋を持ち、胸元で強く結んだバスタオル一枚の千夜さんが、獲物を見つけた時のハンターのような目で僕達の前に現れた。どこかの映画で見た事がある光景。
「ちょっと待てって!!話せばわかる。人間みな平等、オーライ?OKわかった話し合おう。おれは何も見てない、ただあそこに」
「問答無用」
今日一日、凄く疲れた。
収穫があるとすれば、千夜さんのすっぴんと生肌が見れた事ぐらい?
皮膚の芯まで肌色で染まっている、頬擦りしたくなるような潤う肌が目に眩しかった。