→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第3巻

   066.ベッドタウン

 千夜さんに呼び出されたのは、一度も降りた事の無い駅。
 僕が普段利用している水海から伸びる路線で急行に乗り、二つ目の停車駅で普通に乗り換え一駅、と移動し難い場所にあった。そのまま急行に乗っていれば次の停車駅は隣の都市で、そちらに行く機会は数えるほどしか無い。
 空は青く澄み渡っているものの雲が多く、宇宙船みたいな形をした大小の雲が編隊を組み海側の方面に流れて行く。ここ最近風の強い日が多い。とは言っても、南方で発生しているらしい台風の影響がまさかここまで来ているはずも無いだろう。
 季節の節目だから気候が大きく変化しているのかも知れない。雨も思ったより降らず、今年は空梅雨になるかもとTVの天気予報は言っている。
 今月中には蝉の鳴き声も聴けるかも。そう思いながら緑に囲まれた駅で電車を降りた。
 昨日電話で改札口の前で待つように言われたけれど、南北にあるらしくどちらへ降りればいいのか判らない。約束の時間も近いので、構内から見て大きな建物が多く望める南側にまず向かう事にした。知らない駅で降りるのは非常に新鮮味がある。
 階段を下り改札前で外を見回してみても、千夜さんの姿は確認できない。
 切符を入れていいものかどうか改札の前で迷っていると、反対側から制服姿の女子高生が改札の前に来たので反射的に道を譲った。
 ――のに、相手は一向に切符を入れ通り抜けようとしない。
「何をしている」
 顔を上げると、そこにはいつもの姿とは違う千夜さんが立っていた。
 驚きのあまり言葉が出なくなる。我に返り、慌てて改札口を抜けそばに駆け寄った。
「何って、いや、その格好……」
 前に私服姿の千夜さんを見ていなかったら絶対に本人と気付かなかったと思う。
「人を目の前で指差すな」
「あっ、ごめん」
 知らずの内に向けていた右手を慌てて引っ込め、素直に謝る。千夜さんは鼻息一つつくと、戸惑う僕をよそにバス停へ足を向けた。
 それにしても、制服姿の千夜さんを見る事になろうは思いもしなかった。と言うか、本当に高校生だったんだと知り、僕は今心の底から驚いている。
「バスに乗るから、ついて来て」
 千夜さんは手短に言うと、駅正面の停留所に並ぶ。平日のせいもあるのか駅前は行き交う人もまばらで、僕達が一番乗りで並んだ後もそれほど列が続かない。
「そう言えば、学校は?」
「早退した」
 先日から疑問に思っていた事を訊くと、電光石火で答えが返って来た。
「別に青空の為じゃない」
 こちらが考えを巡らせた所に矢継ぎ早に続ける。少し残念に思ったけれど、なら何か他に理由でもあるのかと気になった。
 停留所の案内の機械が3駅前に次のバスが到着したのを知らせる。唇を真一文字に閉じてよそ見もせず待ち続ける千夜さんの横顔を見つめながら、僕は次の言葉を考えていた。
 話したい事は山ほどある。しかし今の格好だとドラムを叩く時の千夜さんとは別人のように見え、怒る意志も湧かずただうろたえている他無かった。
「そんなにこの姿が似合わない?」
「え?いや、そんな事は……」
 突然の振り向きざまの質問に上手く反応できないでいると、千夜さんはまたそっぽを向いた。お世辞の一つも瞬時に浮かばなかった僕はキュウの言う通りつまらない男なのか。
 実際は似合わない所か、気が引けて後ずさりしてしまいたくなるほど輝いて見えた。
 膝丈のチェックのスカートに冬服のベージュのブレザーを着こなし、ボタンを全部留め背筋を伸ばし立つ姿は、遊んでいる女子校生とは違い気品が漂っている。ドラムを叩く時とは違う菱形の細長い眼鏡をかけているのもあってか、普段でも上品な印象がより一層強くなっていた。
 水海で時々見かける着ている制服は、いいとこのイメージがある。
 バスが到着するまで、僕はずっと千夜さんの横顔から目を離せずにいた。
 家の近所のバスとはタイプの違う整理券方式で、先に乗車した千夜さんが券を取るのを下で待つ。細くてラインの綺麗な足には黒のストッキングを履いていて、多分普段から素肌を見せない主義なんだろうなと思いつつ僕も後に続き整理券を取った。
「……座らないの?」
「座りたければ勝手に座れ」
 一番最初に乗ったのに、バスが発車する時には僕達二人は空席に構わず吊り革に掴まっていた。男の僕が女の人を差し置いてくつろいでいる訳にもいくまい。
 窓の外に流れる景色は勿論見た事も無い街並で、それほど水海と距離が離れている訳でもないのにとても遠くに来てしまった印象を受ける。道幅が広く、街路樹や公園等、緑が多いのがこの街の特徴みたい。海と電車の路線が離れていて高低差があり、山際を走っているでの水平線と下の街並がはっきりと見える。
 暗い車内と太陽の光を燦々と受ける外の景色。夏になれば緑の香りが開いた窓から飛び込んで来るんだろう。しかしそんな街並がどうとか、今の僕は大して目もくれなかった。
 僕の横で千夜さんが一心不乱に窓の外を見つめている。こちらの視線に気付いていないのか無視しているのか、一度も僕の顔を見ようともしない。
 制服姿の彼女は黒髪を全部下ろし、上縁だけの銀眼鏡をかけていて、その厳しい表情がなければ僕の知っている人ではない。背筋に妙なむず痒さを感じながら、軽快に飛ばすバスに揺られ僕はその顔を何度も横目で眺めていた。
 15分程した所で、次の停留所がアナウンスされた時に千夜さんが降車ボタンを押す。川沿いの道をしばらく走るとバスが止まり、降車口が開き足早に千夜さんが降りたので慌てて僕も後に続いた。急に明るい場所に出たから思わず目が眩む。
「ねえ、どこ行くの?」
 何も言わずに先を行く千夜さんに声をかけても返事をしてくれない。仕方無く間を開け後を黙ってついて行くこのパターンはこれまで何度経験しただろう。
 参った顔をして歩幅を合わせ距離を取りながら歩いていると、不意に千夜さんが振り返り僕に尋ねた。
「ご飯は食べた?」
 その声があまりにも優しく聴こえたので、我が目を疑ってしまう。
「食べたかと訊いている」
「あ、ま、まだ……だけど」
 答えるのに手間取っていたらいつもの厳しい口調で睨まれてしまった。僕の答えに千夜さんは何も言わず、また歩き出す。一体何を考えているのか、どこに連れていかれるのかさっぱりで少し不安になってしまった。
 と、行き道の左手に見えたコンビニにそのまま入って行く。今は何も喉を通る気がしなかったので、僕は店の前で黙って待つ事にした。
 さほど待たず白い袋を手に抱えた千夜さんが出て来ると、僕を見て一旦何か声をかけようとする。が素振りだけで、そのまま無視し目の前の横断歩道を渡り始めた。後を追いかけるとちょうど信号が点滅し始め、慌てて駆け出す。渡り切った所でちょうど千夜さんと並び、怪訝そうな顔に笑って答えるとまたそっぽを向かれてしまった。
 前回手を上げてしまった事を考えれば距離が遠くなるのも当然と言える。悲しい。
 2,3分道なりに歩くと、右手に横長い公園が見えた。遊び場がある以外は大して緑もない砂地の広場で、奥手が段差になっている。シンプルな創りなのは、奥の手すりの向こうに広がる街並を見下ろす為に見晴らしを良くしているからだろう。
 千夜さんは僕を置いてブランコ前のベンチに行き、海側に向かい腰を下ろす。ここから十分水平線が望めるとは言え、潮の匂いはここまで届いていない。
 相手の真意が判らず戸惑っていると、振り向いた千夜さんが隣の席を指差した。そばに座っていいものかどうか少し迷ったけれど、素直に従いやや間を開け腰を下ろした。
 何だか校内放送で呼び出され、職員室で先生の前に立っている時と似たような気分。
 膝の上に両手を置き固まっている僕をよそに、千夜さんは袋の中からパックのゼリーとブロックタイプの栄養食、それと清涼飲料水のペットボトルを取り出し食事を始めた。全身でドラムを叩いているのでたくさん食べるのかと思っていたら、意外とそうでも無い。
 黙々と口に運び、僕とも目線を合わせようとしない。横で見ていると、せめてジュースだけでも買っておけばよかったと後悔した。近くに自動販売機があればいいけれど。
 しかし……指に摘んだブロックを口元に運ぶ動作はとてもエロティックで堪らない。その唇に吸い寄せられるように目線を近づけて行くと、すかさず睨み返された。
「その目を向けるなと何度言ったら解る?」
「ごご、ごめんっ」
 横顔があまりに魅力的過ぎて無意識に顔を近づけてしまった。前にも何度か怒られているのに全く進歩していない、僕は。
「その、いつもと違う眼鏡だし、髪型も違うし、珍しいなって……」
「食べる?」
 弁明の途中に千夜さんが僕に栄養食の箱を差し出して来て、思わず目が点になった。
「いただき……ます」
 予想もしなかった出来事に放心状態のままブロックを一つ貰い、自分の口に運ぶ。思ったより口の渇く食べ物で飲み物が欲しくなる。全部飲み込むと、ようやく状況を掴めた。
 何の心変わりか、ここまで優しい千夜さんは見た事が無い。また視線が釘付けになっている僕に構わず食事を続けている。姿形がいつもと違うせいか、普段全身から放っている殺気(に僕は見える)も幾分落ち着いているように思えた。
「ちょっと飲み物買って来るよ」
 このまま横で見続けていたい気持ちを抑え、公園の周辺に自動販売機を探しに行く。意外と簡単に見つかり冷えた烏龍茶を一本買う。頬に当てると幾分冷静さも取り戻せた。
 ペースを握られっ放しなので先に切り出そうと心に決め、戻る頃には千夜さんも食事を終えていた。愛想笑いで席に座ると、また何を話せばいいのか頭が混乱して来る。
 次の言葉を必死に探していると、千夜さんの方から話し掛けて来た。
「早退した日は晴れていたら必ず、ここに寄るようにしている」
 少し身を乗り出し、遥か遠くの水平線を望む。
「ここなら学校から離れているし――そこからの眺めがとても、綺麗だから」
 鉄の手すりの向こう、眼下に広がる海沿いの街並を指差した。
 水海の近辺だと路線より海側は開発されていて結構味気無いものだけど、ここは思ったよりも緑が見え、昼間でも十分眺めが良い。太陽の沈む方向に視界を遮るものが何も無いから、夕暮れ時は凄く幸せな瞬間を感じられそう。何も海は近くで観るだけが素晴らしいものではない事を教えてくれる。
 おそらくこの場所は、僕と黄昏にとってのあの岩場と同じ意味を持つんだろう。
 しかしそんな大切な場所を僕に紹介してくれる時点で、普段の千夜さんと違う気がした。いや、その彼女の覚悟みたいな意志は、僕の前に制服姿で現れた時から薄々感じてはいる。
 落ち着かない気分で景色を堪能していると、千夜さんが僕に向き直った。
「前は――すまなかった。私のせいで……駄目にしてしまって」
 照れ臭いのか申し訳ないのか、すぐ目線を外し俯き加減で謝られる。そんな仕草に胸をときめかせながらも、僕は今の状況に目を丸くしていた。 
「どうした?」
「いや……そんなにすんなり謝られるとは思ってなかったんで……」
 つい本音を漏らすと、千夜さんにジト目で睨み返されてしまった。肩を縮めている僕を見て溜め息を一つつくと、言葉を続ける。
「あの時の事は、キュウに電話で聞いた。どんなに調子が悪くても最後まで叩き切るのが自分の身上だったはずなのに――途中で投げ出してしまって――」
 普段聞かない千夜さんの音楽への心構えが聞け、思わず得した気分になる。
「いいよ、結果的にステージは壊さずに済んだから。あっ、あの、前の練習の時はごめん。僕が悪かったよ。ついカッとなっちゃって」
 ここで前の続きで怒るのも一つの手として前持って考えてはいた。しかしわざわざここまで準備を整えておいて謝られると、怒る気なんて一つも起きない。
「あれは――私が叩かれて当然の事をしたから、怒っていない。あの時すぐに帰ったのは、青空の言葉に一つも言い返せない自分がいたから……悪いのは全部自分だと解っていたから。納得するまで、随分時間がかかってしまった」
 ああ、だから千夜さんは僕達と連絡を取らないようにしていたのか。冷静に自分のした事を見つめ直す為に。
 自分の行いが間違っていたとしても、やはりすぐには受け入れられない。特に千夜さんみたいな我が道を行く人間には、過ちを認めたくない気持ちも心のどこかにあるんだろう。
「どうも駄目だ、私は。昔から自分の事しか考えてない――」
 右手に作った握り拳で自分の頭を軽く小突く。顔には物凄く苦渋の表情が漂っていたのに、その仕草が可愛らしいと思ってしまった僕は不謹慎。
「それを言えば黄昏もイッコーも僕も、自分の事しか考えてないような気もするけどね」
 横顔を眺めているとそのまま深く沈み黙りこくってしまいそうに思えたので、場の空気を変えようとわざと明るく言ってみせた。千夜さんの顔が僕の方を向く。
「バンドの為とか言いながら、結局自分がいいようになれば良かったりするんだよね。勿論メンバーが真剣にバンドに向かってくれれば僕も嬉しいし何も文句は出ないんだけど、自己満足な部分も確かにあるから。そんな気持ちの面でいろいろ悩んだりしてさ」
 黄昏との何度とないやり取りの中で、迷いに対する処世術を学んだ。何かをするにしても、自分の為なのか他人の為なのか、毎回毎回秤にかけ悩んでいた日々が懐かしい。
 勿論今だって結論は出ていない。いや、あえて結論は出さないようにした。
 そんなものは自分の中でどうなのかであって、他人が自分の気持ち通りに言動を受け取ってくれるかどうかはまた別問題だから。自分の行動行為一つ一つに%で考えていたりもしたけれど、大して意味が無いのですぐに止めた。
 全てが良い方向に向けば。様々な選択肢の中で、僕にとっても相手にとっても後で良かったと振り返れる想い出になれば。善意を押し付けているだけなのも承知しているけれど、僕の周りにいる人達には幸せになって欲しい。
 いやはや、千夜さんの立場からすればうざったがれるのも仕方が無いとも言えた。
「前もやり過ぎたなあって。でもこうして面と向かって謝れたから、いいよ。本当にこのまま解散か!?なんて最悪の事態ばかりいつも想像しちゃってたもの。次回の練習もライヴもまだ決まってないし、これからまたどうしようか考えなきゃいけないね」
「どうしてそういつも前向きなんだ」
「何か言った?」
 今、飽きれとも取れる呟きが聴こえた気がする。
「何でも――。けれど、皆に迷惑かけた事に変わりはない……」
「千夜さんらしくないよね」
 失言、また睨まれてしまった。千夜さんはやっぱり噛み付くぐらいの方がいい。
「でも、次また同じ事をしてくれなければ問題無いよ。黄昏みたいにいろいろ理由変えてさぼられたりするとそれはそれで問題があるけど」
 少し言葉が悪いけれど、案外正直な気持ちだったりする。
 一つ乗り越えるとすぐ次の問題にぶち当たる黄昏の性格もある種不憫とも言える。ちゃらんぽらんになれとは言わないけれど、黄昏にはもう少し僕みたいにざっくばらんに考えられるようになって欲しい。
 千夜さんもかなり問題のある性格だけど、その辺は大丈夫だと……思う。多分。
「あの日は体調が悪かったのも……ある」
 僕に言い訳するように、そっぽを向き小声で付け足す。
「そうなの?それならそうと前もって言っておいてくれれば良かったのに」
 それならあんなに怒る事も無かったのにと思った所に、目を剥き噛み付いて来た。
「貴様達みたいに、私はいつでも全力で動ける訳じゃない……!女、だからっ……」
 恥ずかしさもあるのか顔を真っ赤にして叫び、肩を震わせる。一瞬何の事か判らず呆然としたけれど、すぐに思い当たった。バイト先やラバーズで女性のスタッフが生理痛で苦しんでいる姿や仕事を休むのを何度も目にしている。
「……すいませんでした」
 軽々しく言い返してしまった自分に猛省しつつ、深々と頭を下げた。男だと普通の生活で苦しむのは風邪と腹痛の時くらいなものなので、女性の生理の痛みは全くもって解らない。
 今はこの格好でも、ドラムを叩く時は女性である事を捨てているようにも見えるので、そこに触れられると必要以上にムキになってしまうんだろう。気を落ち着かせようと隣でペットボトルの水を一気にかっ食らう千夜さんの姿があった。
 喉を鳴らし全部飲み終えると、大きく息を吐き冷静さを取り戻す。
「――親が、単身赴任の父親がこの前、海外から帰って来た」
 いきなりの打ち明け話に、僕はすぐに言葉が浮かばなかった。
「もう、帰ってしまったけれど。久々だったからナーバスになっていたのかも知れない」
 目を丸くしている僕をよそに、目にかかる髪の毛を指で掻き分ける。見慣れた一つ一つの仕草が今の姿だととても新鮮に映る。
「千夜さんの父親って、何してる人?」
 当り障りの無い所から話を振って見ると、素直に答えてくれた。
「音楽家。どこかの交響楽団に移ったって言ってたけれど、興味が無いから覚えていない」
「興味が無いって……」
 自分には想像つかない言い分だったのでつい反論しそうになる。
「向こうだって、私の事に興味がある訳でも無い」
「……そう」
 言いたい気持ちを飲み込み、自分からこの話題を広げる事は止めにした。家庭円満な僕が千夜さんの家庭に口を出せる訳も無い。黄昏の両親が不在だった事もあってか、昔から他人の家庭についてはなるべく口を挟まない事にしていた。
 そう言えば、千夜さんが携帯で親と連絡を取っている場面を一度も見た事が無い。ライヴで結構遅くなる時もあるのに。愁ちゃんなんかは電話のやり取りをよく見かける。
 どうやら千夜さんは千夜さんで、複雑な家庭環境にあるらしい。
「昔から音楽やってたんだ?親がそっち系って事は」
 大分前にも訊いた事がある気がしつつ、改めて尋ねてみた。
「今は別に習い事はしていない。幼い頃からピアノやら、バイオリンやら――色々。ただ、家にドラムは無い。うちはクラシックの系統だから」
 僕の問いに頷くと、予想以上に饒舌に言葉を紡ぐ。まるで最初から心の壁なんてなかったように自分の事を話す姿を見て、『ああ、腹を括ったんだな』と頭の片隅で思った。
 千夜さんは出会った時から音楽に精通しているイメージがある。イッコーもかなり詳しいけれどそれとは違う、もっと根深い所から知識の根が出ているような。だから様々なジャンルのドラムが叩けたり、曲のアレンジに口を出せるんだろう。
 それなら『days』の曲にもピアノやバイオリンを入れたら!とか脳内で勝手に盛り上がるけれど、今それを言うと話をこじらせるだけなので止めておいた。
「でも、音楽をやっていて良かった事はほとんど無い気がする――」
 真上に広がる青い空を見上げ千夜さんが呟く。その言葉はどこか寂しく聴こえた。
「正直、『days』に入った事も自分にとって良かったのかどうか、いまだに分からない。今進んでいる道も正しいかどうか、それすらも私には判らない」
 その目線の先に一体何を見ているのだろうか。僕が見上げた空には無数の大小の雲が風に流されて行く、雄大な姿が見えた。いつもより空の色は青く、そこに未来が広がっているように思えた。写し鏡のように空は今の僕の心を照らし出している。
 対称的に、閉塞感と逃避願望を重ねているのだろうか、隣にいる人は。
「よく、笑えるな、青空達は」
「えっ?」
 水平線の向こうへ流れて行く雲を眺めながら、千夜さんが言った。
「前々から不思議に思っていた事がある。バンドの中で、何故いつも自分の意見を通そうとしてメンバー同士いがみ合っているのに、一緒に笑ったり出来る時があるのか」
 すぐにその問いの答えは僕の頭に浮かんだけれど、黙って話の続きに耳を傾けた。
「好きなら好きで、嫌いなら嫌いで構わないと思わない?最初、ドラムを始めた頃は付き合いで叩いていただけだから、ただ楽しかった。けれど真剣にバンドに取り組んでいる連中と組むと、どうしてそこまでして一緒にやる必要があるんだと、蚊帳の外からずっと思っていた。やるならもっと冷静に割り切ればいいのに」
 その疑問に、千夜さんの純粋な心が垣間見えた。
 好きとか嫌いとか、そう言ったものを超えた所にあるのがバンドのメンバーだと思う。僕もまだ一つしかバンドを組んでいないので断言はできないとは言え。
 いいものを生み出す為ならぶつかり合いはあって当然。怒り合える関係と言うのは、言い換えれば気心が知れているからこそ可能な関係でもあるだろうし、摩擦熱でいいものが出来上がれば結果的に万々歳。喜怒哀楽を共有できるのはとてもいい関係と言える。
 勿論僕だって怒りたくないし、怒られるのも嫌に決まっている。でも何かを生み出す為の代償と考えれば、少しは溜飲も下がる。
 そこで釣り合いが取れなくなったら、バンドを抜けて行くんだろう。
「だから千夜さんは、自分の実力だけで何もかも押し通そうとしてるの?」
 完全にいいものを生み出す為だけの作業と割り切れば、千夜さんみたいな態度で振る舞うのが一番やり易いのかも知れない。仲間意識を持たなければ余計な事に気を遣わなくて済む。その代わり、敵意を持たれる事も覚悟しなければならない……。
 僕の問い掛けに一呼吸置き、小さな声で千夜さんは呟いた。
「それだけなら、どんなにいいか――」
 空を見上げ歯を食い縛り、今にも泣き出しそうな顔を見せる。
 その表情の意味が、僕には分からなかった。
「悪い……青空の前でこんな事を言うのも、どうかと思う」
 僕の視線に気付き、冷静さを努め謝って来る。ハの字のままの眉が心情を表していて、少し胸が痛んだ。
「言ってくれた方が有り難いけどね。一人で悩まれるとどう対処していいか判らないもの」
 相変わらず微妙に相手の神経を逆撫でる言葉をつい口に出している気がする。僕の言葉に千夜さんは笑いたいのに笑えないような微妙な表情を見せ、視線を地面に落とした。
「見てくれる人がいないのはとても寂しい。それが解っているのに、私の力を必要としている人間がいる事を素直に喜ばないといけないはずなのに、私は――」
 言葉からすっかり元気が無くなっていた。絶対的な技量のせいか反省とは無縁の人だとばかり思っていたけれど、本当の千夜さんはとても傷つき易い人なのかも知れない。
 そう考えるだけで、僕の胸が一気に熱くなるのを感じた。
「父親が帰って来るだけで、あそこまで取り乱す自分がいるのかと改めて知った。まともに叩けないで、客の前から逃げ出して、キュウに心配をかけて――馬鹿だ、私は」
 自棄気味に吐き捨て、千夜さんは膝上の両手に顔を埋めた。その姿は本当に年相応の女子高生で、気丈に振る舞っている時からは想像もできないほど弱々しく見える。目の前の姿とドラムを叩く時の姿が別人に思えてしまうほど、重ならない。
 こんな時、上手い慰めの言葉の一つもかけてやれない自分の性格が恨めしい。
「結局、演奏も見せれず終い。少しは上手くなったつもりでいたのに」
 きっと、久々に会う父親に自分の曲を聴いて欲しかったんだろう。
「せめて一月くらい、家でゆっくりしていけばよかったのに。……」
 両腕を抱き、か細い声で紡がれた呟きはくぐもっていて、最後はよく聞こえなかった。でも、その言葉に篭められた感情は分かる。
 その顔を上げるまで、僕はただぼんやりとここから見える景色を眺めるしかなかった。 何をしてあげればいいのかさっぱり分からなかったから。このヘタレ。
「……すまない、変な話に付き合わせて。愚痴を言う相手もいなかったから」
 しばらくして、千夜さんは元の顔に戻った。実際は数秒程度だろう。別に泣いていた訳でも目を腫らしている訳でもない、少し感慨に耽っていただけと思う。
 しかしこれほど頭を下げる千夜さんは今まで見た事が無いので、ちょっと可笑しかった。
「構わないよ。でもこんなに饒舌な千夜さんを見るのは初めてだったから、びっくりしちゃって。普段から自分の事話す姿なんて全然見た事無いもの」
 僕の言葉に少し口を尖らせる。こちらの千夜さんも凄く好みだなあ。
「それにその、制服だし、印象も違うから僕の方もどう受け答えしていいのか戸惑ってて」
「それはっ……、だなっ……」
 不意に制服の事を指摘され、真っ赤な顔で言葉を詰まらせる。
「自分の事を知って貰うには、この格好で来た方がいいのかと――何を言わせる!」
 逆切れされてしまった( ̄▽ ̄;)
 立ち上がりやたらと慌てふためく千夜さんが可愛過ぎ、思わず笑いそうになる。
「とっ、とにかくっ!!同じバンドのメンバーなら――もう少し、互いの事を知っておいた方がいいのかも知れないと、今回の件で考え直した。でないと、言い訳もできない内に引っ叩かれてしまう」
 珍しく面白い返し方をしてくる。口元がにやけているのを必死で手で隠している僕をよそに、ベンチに座り直し息を整えた。
「せめて青空とキュウだけには、黒尽くめの姿でドラムを叩いている時以外の私がいる事を、きちんと知っていて欲しいと、思った」
 足元を見つめながら、一字一句丁寧に紡いでいく。その言葉の表情に千夜さんの真剣な気持ちが伺い知れ、僕も真剣な面持ちで頷いた。
「あとの二人には?」
「絶対嫌だ!!断る!!こんな姿を見られたら、何を言われるか分かったものじゃない……」
 念の為訊いてみると、うって変わり大袈裟な反応を見せる。制服を着ているから地の千夜さんが少し出ているのかも知れない、今日の色々な姿を見ていると。
「だから今日の事を他の人間に言い触らしたりすれば、問答無用で消すから覚えておいて」
「はい」
 ここで逆らったりすればゲームオーバーになるのは目に見えている。キュウに言うのも止めておこう。あの娘絶対口が軽そうだから。
「でも良かった。千夜さんがまだやる気でいてくれて」
 今朝の時とは正反対に、僕の心は今とても晴れ晴れとしている。何かあるとすぐに暗雲が立ち込めるから結構厄介な性格ではある。
「辞めるつもりなら、青空を今日ここに呼んでいない」
 それもそうか。
 仲直りできた事はとても嬉しい。でもそれ以上に、千夜さんが様々な一面を見せてくれたのが良かった。結果論になるけれど、一悶着あったおかげで千夜さんの方から歩み寄ってくれたんだから。約二年、ずっと閂の掛かっていた扉がほんの少し開いた、それだけでもう僕は天にも昇る気持ちになった。
 これまでずっと孤軍奮闘で物事を解決していたのに、今回は向こうから解決策を出してくれたのでやや拍子抜けな所はあっても、むしろその方が有り難い。
「それに……私には叩き続けないといけない理由があるから」
 浮かれ気分でいると、千夜さんが僕から目線を逸らし低い声で呟いた。
「え?」
「話はそれだけ。悪かった、わざわざ遠くまで付き合わせて」
 振り返る僕の疑問を遮ると、千夜さんは席を立ち背筋を伸ばすとスカートの尻を叩いた。
「これだけ?ここに来てまだ30分も経ってないよ」
 まだ太陽の位置もほとんど変わっていない。もっと長々と話し合いでもすると覚悟して来ていただけに、せっかくだから長話していたい気分でもある。
「落ち着いて話せる場所がいいと思ったから、ここを選んだだけ」
 そんな僕の気持ちになんて全く気付かずに、しれっとした顔で言い返された。
「と言われても……ここからだと一人じゃ帰れないよ。千夜さん、この後用事あるの?」
 案の定、『またか』とあからさまにうざったい顔をされた。キュウの時にしても、自分のペースを乱される相手にはあまりいい顔を見せない。いい顔がどんなものかは別にして。
「水海にでも行ってスタジオに入るつもり。個人練習はやれそうだから」
 それでもきちんと答えてくれる所が千夜さんらしい。真面目な性格から来るのか、嘘をつくような事もしないし。知らず知らず騙されている可能性も有り得るけれど。
「じゃあ、一緒に行っていいかな?ギターは黄昏の家に置いてあるのを回収して来るから」
「……勝手にしろ」
 僕の声を渋々受け入れ、食べかけのブロックを口に放り込んだ。
「まずその前に、全部食べちゃいなよ。待っててあげるから」
「余計なお世話」
 急かすように言うとあっさり突っ撥ねられた。仕方無いので腰を上げ、柵の前から街並を眺める事にする。隣で黙って食べる所を見ていれば絶対に嫌な顔をされるから。
 季節はまだ春の終わり。今年の梅雨は遅れていて、まだ初夏とは言えない微妙な時期。桜はとうに散ってしまい緑の色も日々濃くなって行くのを普段行き交う道の立ち並ぶ街路樹で知る。
 海の色は今日も青い。快晴なら行き交う貨物船の姿まで確認できたに違いない。風が運ぶ雲の列が水平線の上を流れて行く。
 あの空の向こうに未来が繋がっているとするなら、辿り着くのはいつの日だろう?
「そう言えば、千夜さんがさっき少し言っていた事だけど」
 空を見ていたら先程の話で気になった所を思い出し、言葉にしてみた。
「もうちょっと笑ってみれば?今は掛け持ちをしていた頃とは違うんだし、そんなに肩肘張って攻撃的にならなくてもいいと思うよ。黄昏やイッコー相手にいきなり仲良くなれなんて無理だけど、千夜さんが疑問に思っていた事も、一緒にやって行くうちに答えも見えてくると思うんだ。無理にとは言わないけど、せめてキュウぐらいには笑ってあげれば?」
 残りの食べ物を口に運ぶ手も止めず、黙々と僕の話を聞いている。また心の中じゃ余計なお節介と言われているに違いない。僕は肩を竦め、下に広がる景色に目線を泳がせた。
「前々から疑問に思っている事がもう一つある」
「どうぞ」
 食事を終えた千夜さんが片付けをしながら尋ねて来たので、手のジェスチャーで促す。
「どうしてあの娘は私にばかり付き纏うの?」
 また答え難い所を突いて来る。断定するのも何だし、わざとうやむやに答えた。
「それは……単に、好きなんじゃないかなあ。乙女心は良く解らないですけど」
「その気持ちを誰か他の人に向けて、頼む……」
 額を押さえ困った顔を浮かべる姿が面白い。おそらく千夜さんの事だから、似たような経験を学校でもしているんだろう、と勝手な妄想をしてみる。
 それはともかく本人には悪いけれど、キュウは絶対譲らないと思うよ。
 でも、あの娘がいると千夜さんの笑顔を見られるのも大して遠くない未来の事のような気がする。張り詰めた感じが少しずつ柔らかくなっているのを、僕も隣にいて感じるから。
 片付けを終えた千夜さんが鞄を手に席を立ったので柵から背を離し、置いていかれないようその後をついて一緒に公園を出る。すっかりこの構図が定着してしまい何だか寂しい。
 停留所までの道で試しに大股で隣に並んでみたら、早足で突き放されてしまった。確かに恋人でも何でもない訳で当然とは言え、男の自尊心がとても傷つく。
 肩を並べて歩ける日は一体いつの事になるのやら。一人空に問い掛けてみた。
 戻りのバス停までそれほど離れていなくて、タイミング良く到着したバスに乗り込む。かなり空いていて右手の窓側一つだけの席に千夜さんが座ったので、その後の空席に座る事にした。鋭い目を向けられても、もう慣れっこになってしまったので気にしない。
 バスに揺られている途中、窓の外に千夜さんと同じ制服を着た女の子が歩道を歩いているのを見かけたので、小声で質問してみる。
「千夜さんの学校って、ここのすぐ近く?」
「電車で二駅先の、樫之木女学院、女子高。隠していても仕方無いから、先に言っておく」
 ん?どこかで聞いた名前のような気もするけれど、記憶の底に隠れすぐに思い出せない。
「じゃあ、住んでいる場所もこの近くなんだね」
「それ以上変な詮索をすれば、問答無用でスマキにして海に沈める」
 背中から巨大なオーラが出ているのが見える。知っていい事といけない事があるらしい。考え事をするのは別れた後にでもしよう。
 道も全然混んでいないので、気付けば駅前に到着。かなり緑と風が気持ちのいい街なので、また千夜さんと二人で来てみたいと思った。
「それと」
 バスを降りた所で千夜さんが険しい顔で忠告して来る。
「私が着替えるまでは間隔を開いて歩け。慣れ親しく話し掛けられると、同じ学校の生徒に見られたらどこでどんな噂が立つか分からないから」
 確かに、まだ放課後には早いとは言えお膝元だからどこで誰が見ているか分からない。
 そう言う訳でまともに話の一つもできないまま、着替えの入った袋をロッカーから回収した千夜さんと水海行きの電車に乗り込んだ。勿論その中でも一定の距離を取っている。まるで生殺しされているようで、これだと以前と大差無い気がした。悲しい。
「もう一つ」
 急行へ乗り換える為に列車を降りた所で、面倒そうに口出しされた。
「青空のお節介を焼き過ぎるその性格をどうにかして」


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