→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第3巻

   068.真夏の夜の事

「俺、燃え尽きたかもしれない」
 なんて黄昏が言ってくれたものだから、また苦悩の日々の到来。
 さすがに3度目になると、悪いけれど僕もいい加減に付き合ってられなくなってきた。
「なんか今日はやたらあちーなー。夏のせいか?冷房入れてくんないかなー」
 マイクの前、上半身裸で汗まみれのイッコーがフロアを見回して苦笑いを浮かべる。いつもと違う小さなオールスタンディングのライヴハウスで贅沢言っても仕方無い。今日は真夏日で外はうだるような暑さだから、余計に暑く感じるのもあるだろう。
 しかしそれ以上に、フロアを埋め尽くす人、人、人。
 イッコーが毎度のようにくだらないMCでお客を笑わせている間に、僕は足元に置いておいたミネラルウォーターで水分を補給した。ステージに上がる前に肺が痛くなるくらい冷やしておいたのに、曲リストの半分でもうぬるくなってしまっている。僕達の前に対バンの人達がフロアの温度を上げていたせいか、あっと言う間に喉越しが悪くなった。
 ラバーズと違いお客との距離が近いせいか、フロアの熱気を直に感じる。それほどフロアとステージに段差が無いので、激しい曲の演奏途中に興奮した人が飛んで来ないか少し心配。今日は対バンの二組がどちらもパンクバンドなので客層もそちら寄り。しかし前の方に暴れたい猛者達がいるとは言え、意外と女性客の姿も見える。千夜さん目当てかな?
 そんな千夜さんは蒸し暑い中、相変わらず黒の上下で身を包み冷静な顔を努めている。冬と違い薄手の女性物のスーツで、それでも相当暑いのかペットボトルの水を頭にかけていた。徹底的に肌を見せないスタイルに感服してしまう。
 ふとこの間のバスタオル一枚の姿を思い出し、赤くなった顔を慌てて背けた。
 その時の被害者となったイッコーは一月程湿布や絆創膏まみれだったものの幸い骨が折れるまではいかず、千夜さんに負わされた傷はとうに全快している。しぶとい。
「んじゃ、次の曲いくわ。えっと……『need』。やべ、忘れそうになった」
 失笑が起こる中、イッコーのベースが鳴り響く。重く、腸に来る音。隣にいるだけで背筋が震え上がるような、歓喜に似た感覚が襲って来る。2小節目が終わった所ですかさず僕がリフを被せ、千夜さんのドラムが列車のように地鳴りを響かせ続いて来る。
 3人の音が重なるだけで知らずの内に口元に笑みを浮かべてしまうたまらなさがある。歓声の湧き起こるフロアとステージを交互に目配せし、ライヴの温度を感じ取る。
 そのステージの上に黄昏の姿は無かった。
「じゃあ、黄昏がやる気を取り戻すまで僕は好き勝手にやらせて貰うよ」
 こう黄昏に何の気後れも無く言えた自分に、また驚いた。ベッドの上で布団に包まり言い訳を続ける黄昏の姿に若干ながら呆れを覚えていたのもある。
 いや、言っている事も黄昏の気持ちも分かる。どれだけ毎日闇に脅え苦しみ生き抜いているのかも知っている。その原因を生み出しているのが黄昏自身と分かっていても、僕は彼を責めるつもりは無い。
 止むを得なかったとは言え、ワンマンライヴを成功させたのがいけなかったのか。その後の練習から途端に黄昏は出不精になり、また引き篭もるまでに時間はかからなかった。
「青空に誘われて、言われるままにステージに立って、歌って――気持ちよかった。天使が舞い降りてくる時みたいな、上から自分に光が照らされるような感覚っていうのかな……『俺が今、物語の主人公なんだ』って感じ。完全無欠のヒーローになったような、怖いものがなくなった無敵の男になれたんだ」
 黄昏は本当に僕に感謝している。狭い箱庭から連れ去ってくれた僕を。
 ただ、自分でこの場所に踏ん張り続けていられる強さを持ち合わせていなかった。
 去年の冬、一回目。
「でも、俺の歌声を聴きに来る客が一体何を考えて来てるのかを考えると、一気に怖くなった。こっちがいくら全力で投げかけても、正面向いて受け止めてくれてるのかなとか、本当に俺達の曲を求めてるのかなとか、不安ばかり募ってきて逃げ出したくなった」
 外に出た事で初めて抱えた悩み。たった一人の世界にい続けた黄昏が多くの人々を前に感じた不安と恐怖。歌を通じコミュニケーションを取る事で、もし他人に否定されたら自分の存在意義が無くなってしまうと感じたに違いない。
「けどそんな事を考えてても、どうにもならないんだよな、だって他人の感情だからさ。でも俺は唄い続けていたかった。目の前の奴に自分の気持ちを伝える事で、たとえ全部を受け取ってくれなくても俺は救われてたし、何よりステージに立つのが嬉しかったから」
 長い説得もあってか、黄昏はまた戻って来てくれた。歌を唄うのが心から好きで、楽しいと言ってくれた。その気持ちが不安を消し去ってくれる事をきっと肌で感じていた。
 純粋な気持ちで歌を唄える黄昏を僕は素直に羨ましいとさえ思えた。
 今も黄昏の立ち位置は空けられていて、イッコーはベースの位置を中心に熱唱しながらシールドの伸びる範囲で右に左に動き回っている。黄昏が休養した当初はまた後々復帰する事を示す為にヴォーカル用のマイクを一本備えていたけれど、フロアからの目だとかえって気になってライヴを心から楽しめないんじゃないかと言う意見もあったので止めた。
 信じる心を疑わず、胸の中に持ち続けていればいい。
「ずっとそのまま脳天気でいられたらよかったのにな。俺、もしかして唄わなくても生きていけるんじゃないかって気付いてしまったのが間違いだったのかもしれない」
 去年の秋風がなびき始めた頃、二回目。酷い風邪で肉体が蝕まれる苦しみを味わった黄昏は、一つの可能性に気付いてしまった。
「今もその考えは心の根っこに植え付けられたままなんだ。愁やキュウがいてくれるおかげで、あんまり考えないようになってたけど。バンドが上手く回り始めたのも目に見えてわかったし、俺も居心地がよくなったから続けていきたい気持ちにはなってた。だんだんとバンドの音の繋がりが強くなってきたのも背中で感じてる」
 最初の頃は目一杯喉を張り上げる事しかできなかった黄昏も、少しずつ客とコミュニケーションを取る事を覚え始めた。ただ喚くだけの歌から聴かせる為の、伝える為の歌に変化していった。それは普段の黄昏の意識にも影響し、外を向くようになって来た。
「だから千夜が横から文句を言ってくる事以外、大した不満もないんだ。それより俺みたいなどうしようもない人間が、みんなの助けを借りてステージの上で歌えてる事自体、俺にとっては奇跡みたいなもんなんだ」
 黄昏は僕達に不満を持ちステージを降りた事は一度も無い。むしろ責めるのは自分自身で、『days』の音楽が嫌いになったとかは今の今まで一度も言っていない。
 僕が黄昏を心から何の疑いも無く信じ続けられるのは、きっとその為だろう。
「だからなのかな。これでいいのかって悩む事が多くなってきたんだ。青空なら、『悩みながらでも唄い続ければいいじゃない』とか俺に言うんだろうな。俺もその通りだと思う。けど、そうやって自分を生かすためにステージに立ち続けなきゃならないんだったら、それ自体が拷問みたいに思えてならない。薬に頼り続けてる病人みたいなさ」
 唄い続けていられるから生きていられる。それは言い換えれば唄っていないと死んでしまうのと同じ。僕も『days』に自分の存在意義を求め必死に続けて来たけれど、それは音楽をやらなければどうしようもない人間になってしまう恐怖を常に背中に感じているから、無理に追い立てられていると言って正しい。
 そしてそれは、とても心が疲弊してしまう。
「歌ってないと気が狂いそうになる俺も始めから病人と大差ないんだろうけど、ステージに立ち続けて唄うのを習慣化できるほど、強くないって言うのかな?一人だと腹の底から声を出すだけで不安は消えても、募る事はなかった。でも目の前に人がいると、不安とか恐怖とか――余計な事考えて辛くなるから、続ける事を簡単に受け入れられないんだ」
 僕も人前で楽器を弾く事は未だ慣れていない。でもそれはきちんと音が届いているかと言うより、上手く演奏できているか、周りのレベルについていけているかとか表面上の意識の方が強い。相手の顔を窺いながら演奏しているような感じ。
 千夜さんがステージ途中でボイコットしたあの日を境に自信がついたのか、ギターを弾く姿も堂に入って来ているのを自分でも感じてはいる。
 後少しすれば、僕も黄昏と同じ不安を感じ始めて行くのかも知れない。
「続けたらいつか俺にまとわりついてるものを振り払えるのか?このまま何年も同じ気持ちを引きずっていかなきゃならないなら、俺は絶対駄目になる。確証がないってのは辛い」
 楽になりたい。そう黄昏の目は訴えていた。
 勿論僕は反論した。歌を止めた黄昏の行く末は言わなくても解っているから。
 一つ大きく溜め息をつくと、黄昏は背中をベッドに預け天井を見上げた。
「青空の言う通りだよ。続けなかったらまた元通りになるのは目に見えてる。それはわかってる、けど――疲れた。二年以上休まずにやってきたせいか、考えるのも疲れたんだ」
 5弦が切れた。
 ピックを持つ手に余計な力が入ってしまったのか、突然の事に全身の温度が沸騰する。冷静を装いつつストロークを続けながら、次のリフを弾く手順を頭の中で組み立てた。押さえる弦を変え同じ音を出すのは慣れていなくても、どこを押さえれば何の音が出るかは十分理解しているのでさほど問題無い。昔はスケールを覚えるだけで一苦労だったのにね。
 目線を僕に向けるイッコーに心配無いとアイコンタクト。後残り3曲なら何とか乗り切れるだろう。こうした場合の為に予備のエレキを一本用意しておいた方がいいのかなと思っても、毎回徒歩で来ているから仕方無い。
 僕達のライヴはほとんど機材は借り物で、千夜さんに至ってはスティックケースしか用意していない。だから今日みたいな初めてのライヴハウスだとドラムも音色も違い違和感はあるけれど、芯の音と言うか楽器を打ち鳴らす感覚は変わらないので僕達もさほど気にせずプレイできる。今日は熱気のせいもあってかいつもより気合乗りがいい。
 指を動かす自分のギターに視線を落としながら、ぼんやりと黄昏の事を考えていた。
「一杯一杯なんだ、もう。2年かけて溜まってきたんだろうな、膿がさ。これまでずっと我慢してきて……いろいろありすぎて、言葉にできないけど……自分の気持ちを押し殺してきたツケが回ってきた感じがする。いろんな俺が自分の中にいて、四六時中せめぎ合うんだ。いい加減、頭がパンクし始めた」
 自嘲気味に黄昏は笑って言った。言葉の端々に本音が見え隠れし、心が痛い。
 疲れているのは分かっていたはずなのに、僕がここまで無理に連れて来てしまった。
「悪い。本当にすまない。ちょっと今の俺、疲れてるんだと思う。ついこないだまでは大して目も向けないようにしてて問題なかったのに。どこか緊張の糸が切れたのかな」
 きっとこれまでの集大成になったワンマンライヴで達成感に包まれたせいだろう。今まで経験した事も無かった悩みや不安を抱えながら、これまで大きな休みも取らずに走って来たんだ。その手を引っ張る僕も疲れを隠しながら続けて来たけれど、無理に僕のペースに合わせ走ってくれた黄昏の方が遙かに疲れが大きかったに違いない。
 心底謝りたいのは僕の方だった。
「じゃあ、解散する?」
 謝り合戦になるのも何なので、少し悪戯っぽく訊いてみた。僕にそんな気持ちは無いけれど、黄昏の胸の内が知りたくて。
「そこまでは……というか、あんまり俺を苦しめないでくれ、頼む。バンドに縛り付けられてるような感じがして凄く心が重いんだ。自分が歌いたい時に歌えるのがベストだけど」
 そんな都合の良い真似なんてできません。
 僕一人ならともかく、他の二人まで黄昏のペースで肩を並べてなんて動けない。わざわざ他のバンドを辞めてまで僕達に付き合ってくれた千夜さんに顔が立たない。
 どうしようかしばらく悩んだ末、僕は黄昏に言った。
「分かったよ。僕のペースにずっと黄昏は懸命について来てくれたんだもの。少し休憩して、考える時間が欲しいのも当然だよね。じっくり考えるといいよ」
 二人の了承を貰う前に独断で決めた。せっかくまた順調に行き始めた所に油を注ぐ真似はしたくない。その代わり、一つ考えがあった。
「でも、黄昏が休んでいる間も『days』を止めるつもりはないからね」
 そして今こうして3人で、形の違う『days』としてステージに上がっていると言う訳。
「朝まで踊りまくって 汗飛び散らせるのがいいぜ/死にたいなんて言わせないほど 底抜けに楽しみまくるぜ/うざったい事なんて 考える前に汗に変わってく そうだろ」
 イッコーの歌声を聴いていると自然と高揚してくる自分を感じる。ソウルフル、と言う言葉がぴったり。キーの高い声をわざとがなるように出しているけれど、ストレートなパンクと言うより黒人のソウルシンガーの声を聴いている時と似たような感覚がある。独特な印象のある唄声で、黄昏の張り詰めていても胸に染み込む唄声とはまた違う趣がある。
 客席も黄昏の時とは反応が違うので見ていて面白い。まるで別のバンドで弾いているみたいな新鮮な感覚がある。実際、メンバーが同じでも別バンドと言って構わない。
 黄昏が休むと決まった後、勿論最初に千夜さんが激怒したのは言うまでも無い。しかしこの間にイッコーの曲数を増やし二本槍にしようと提案をすると、大した反論も無く受け入れてくれた。イッコーも前々から同じ考えでいたらしく、すんなり決まった。
 曲創りとライヴ活動のバランスが崩れつつあるのは前々から感じていたので、今までの黄昏の唄う曲でまだアレンジの固まっていないものを一方で固めつつ、前のワンマンで歌わなかった曲を全て没にし、イッコーの曲を詰めて行く事にした。
 黄昏の曲は僕が考えるけれど(今は千夜さんも参加してくれている)、イッコーの曲は本人が持ってきたのを練習のジャム(即興演奏)で広げ形を創って行く。なのでアグレッシブで肉体的なものに自然となり易い。ベースラインでかなり遊んでいる事もあってか、聴かせるタイプの黄昏の曲とは違い『踊らせる』感じがある。音に合わせ知らずの内に体が動いているような。
「んじゃ次でラストな。『revive』!!」
 マイクスタンドを手に持ったイッコーが力強く叫ぶと、大きな唸り声が湧き起こった。
 今のトリオの『days』はイッコーの『staygold』時代の曲もいくつか演奏している。ずっと『days』の曲ばかりやって来た僕達にも刺激になるし、何より今はイッコーがヴォーカルを取っているので客席にも受け入れられる(むしろオリジナルより歓声があるかも)。イッコーの歌声を求めている人が今でもかなり多い事を知り、改めて驚いた。
 ああ、楽しい。
 黄昏が横にいる時とはまた違う爽快感がある。パーティーを開いているような、どんちゃん騒ぎに似たライヴ。楽しさの中に希望や生きる力がある、そう言う事をイッコーの歌声は、曲は、イッコーそのものが教えてくれる。
 光のある人だ、と思う。この人の眩しさにはきっと僕は一生敵わない。
 そうして大盛況の内に今日のライヴは幕を閉じた。
「お疲れサマー♪今日は凄い人の入りだったねー。んもー暑くて暑くて」
 フロアの客引きが終わった頃に、タンクトップ姿のキュウが胸元をはためかせながら楽屋に戻って来る。ライヴでも常に最前列近くで観ているのに、終わると同時にすかさず受付に行ってビラ配りをするその根性とバンドへの愛情に毎回感服する。トリ以外の時は僕達もビラ配りをやるけれど、キュウのおかげで随分楽になった。
 何かキュウにもご褒美を考えなきゃいけないね。
「あーもーくそあちー。お、おつかれー。また明日なー」
 今日対バンしたバンドが先に帰るので、僕達は挨拶を返し見送った。ここの楽屋は縦長に広いのでくつろげる。酷い所だとすぐ人で溢れ返るから。
「楽屋まで暑いもんね。クーラー壊れてるのかな」
 でも換気が悪いのか、湿気が篭ったような感じで汗がべとつく。イッコーの尖ったオレンジ頭も汗と熱気ですっかり萎れていた。これだとあまりフロアと気温が変わらない。僕の着ていた半袖のストライプのYシャツも背中に張り付いていて、椅子に体を預けられない。夏場にはタオルを持ち込むのが定番になっている。
 机の上に腰を下ろし脚を組み、近くにあったうちわでキュウが涼んでいる。相変わらず今日も丈の短いデニムのスカートで、生足が眩し過ぎる。あまりそちらの方を見ないようにしながら、机の上のクーラーボックスから冷えた麦茶を取り出し喉に流し込んだ。
 あまりに気持ち良い。この一杯の為に生きている気さえする。
「あの程度の暑さでへばるなんてだらしが無さ過ぎ」
 千夜さんのお咎めが横から入った。
「そりゃ年中長袖着てるおめーにゃ敵わねーっつーの。つーか上脱げ。長袖見てるだけで暑苦しーんだわ」
 周りの人間誰もが思っている事をイッコーが代表して言うと、案の定思い切り睨み返された。勇気ある行動でした、と褒めておこう。
「あーもーしょーがねーなー。パンツまでぐっしょりだわ、とっとと着替えるか」
「ストップストップストップ!!」
 下の半ズボンに手をかけるイッコーをすかさず僕が止める。今日は愁ちゃんがいないので恥らう必要が無いと判断したんだろう。苦い顔で振り返ると、既に千夜さんは灰皿を手に持って構えていた。投げる準備万端。
「トイレに行って着替えようよ」
 前に怒鳴られた事もあり、女の子の前で簡単に脱ぐのは気が引ける。千夜さんも半分諦めたのか僕達が上半身裸で歩き回っていても文句を言わなくなったとは言え、キュウもいるから今年の夏は特に気を遣うようにしていた。
「いい、先にキュウと外へ出ている。早く仕度して」
「え?あ、じゃあアタシ先に事務所でスタッフと話してくるから。すぐ来なさいよー」
 見かねたのか千夜さんが腰を上げ、キュウを促し外へ出る仕度を始める。のんびり休んでいる僕達と違い、ライヴの後すぐ出られるようにいつも終わるとすぐ片付けに入っていた。今は一足先に帰る事も少なくなったから急がなくてもいいのにね。
 二人が出て行くと楽屋は途端に静かになった。今日は愁ちゃんもいないから少し寂しい。キュウの話だと黄昏の家に足しげく通っているそうな。
「なんか調子狂うよなー。おれのセクハラ攻撃にも文句一つ言ってこねーなんて」
「狙ってやってるの?いつも」
 どこまで本気なのか毎回よく分からない。ある種天然?
 人気の無くなった楽屋でライヴ後の余韻に浸る事無く、無駄口叩かず着替えを済ませる。後は楽器を回収するだけなので、他と違い引き上げるのにもさほど時間がかからない。
「あれ、どうしたの?」
 ステージへ行こうといざ腰を上げた所で、先に行ったはずの千夜さんが楽屋へ足早に飛び込んで来た。恨めしそうに閉じた扉の向こうを睨みつける。
「客の女達に囲まれそうになった。全く……」
「もうちょっと落ち着いてから出ようか。あ、お疲れ様です」
 汗で額に貼り付いた前髪を掻き上げ肩で息を吐く千夜さんの後ろから、僕達の楽器を持って来てくれたスタッフが顔を出した。
 イッコーが楽器の手入れを始める横で、今日の売り上げと僕達の取り分、機材のレンタル料を差し引いた儲け分についてスタッフから聞く。先にキュウが話をつけていてくれているとは言え、さすがに素人のキュウにバンドのサポートを全て押し付ける訳にもいかない。お金に関する事は任せっ切りだとトラブルの元になり易いし。
 キュウを携帯電話で呼び出し、一旦戻って来て貰う。
「来週のチケットも持ちこみ分、全部売れたわよ〜!ビラもほとんどなくなってるし、最近ホント調子いいわよね」
 2分後、全身で喜びを表現しながら楽屋に入って来た。
「売り始めた時点でほとんどなくなってるしなー、持ってきてんのも余りもんだし。今日みてーな小せーハコだともう観たい客全員入れるってこともなくなってきたんじゃね?」
「対バンの中でもアタシ達が一番客集めてるもんね〜、明らかに……」
 イッコーと二人考え込む仕草を見せる。その言葉の通り、ここ数ヶ月で僕達の人気が水海界隈で急上昇しているのを肌で感じていた。今日のここも水海からは多少離れているけれど『days』の名前は伝わっているのかフロアも満員で、常連客の顔もいくつか見えた。
「黄昏がいなくても大丈夫と言うか、ここに来てますます人の数が多くなってるよね」 
 黄昏のルックスで入って来る女性客もいるけれど、イッコーが前に来ても客数は減らない。一人一人のプレイを観に来ている人、僕達の曲を聴きに来ている人、その人目当てで来ている人、様々な客がバランス良く振り分けられているような感じがする。
 しかし期待する人が増えて来ると、こうした事態に経験の無い僕には気苦労が多い。それに何より、黄昏の事と同等に頭を悩ませている事があった。
「あれ、どうしたの?嬉しいコトじゃない」
「胃が痛い……。ねえ、ホントにワンマンやるの?」
 すがるような目でキュウに尋ねると、横のイッコーと顔を見合わせた。
 9月末に行われる予定の、2度目のワンマンライヴ。
「だって今のアタシ達の状況見れば――ねえ?」
「マスターだって安く取りつけてくれたじゃねーか。今の集客数なら赤字ってことはねーと思うぜ。悪くてトイトイ、駄目元でやってみるのも経験の一つと思えばいーんだって」
 二人は口を合わせ僕に言うけれど、プレッシャーは計り知れない。前回は成り行き上仕方無くと言った面もあったし、考えている時間も無かったから乗り越えられた。次は事前に告知した上で、準備万端で迎える事になる。
 その日までに黄昏が戻って来ていなかったらと思うと、余計に気が重い。
「まだ二ヶ月ある。そんな先の事で頭を悩ませる必要も無い。赤字になろうとここ数ヶ月の売上で十分補填できるはずだから、問題無い」
 前向きに物事を捉える千夜さん。沈む僕を見て気休めの言葉をかけてくれたのかな?
 実際バンドの運営資金も積み立てた分が結構な額になって来て、変な冷や汗をかく事も多い。イベント中心とは言えライヴをこなす数が多い上に赤字になる事も少なかったし、練習や機材は自分の財布で賄っているのでかなり潤っている。
 音楽で稼げるようになるのを心のどこかで願っていたとは言え、いざ現実にそうなって来ると不思議な気持ちになる。次のワンマンを成功させれば更に軌道に乗れるのは薄々感じているので、ここが正念場。でもやっぱりまだ早い気もする。
 どうやら乗り気でないのは僕一人みたいで、その弱気も自分の臆病さから来ている所が情けないと言うか何と言うか。
 不安になる僕の顔を見て、キュウが上から覗き込んで来た。
「心配ないわよ。人が集まらない=失敗じゃないもの。アタシ達の曲を聴きたくて来てくれるお客がいるなら、ちゃんと演奏を届けてあげるのがプロってもんでしょ?」
 まだ僕達はプロでも何でもないけれど、言っている事に間違いは無い。その気持ちさえ胸にしっかりと持っていれば、きっと物事はいい方向に転んでくれる。
 しかしその……開けた胸元が目に毒過ぎ、あまり近づけないで欲しいんですけど……。
「せめて黄昏がいてくれたらなあ……」
「そりゃ言いっこなし。あいつがいねー間に力つけようって言い出したのはおめーだろ?」
「うん、そうなんだけどね……結構疲れるかな、週一って言うのは」
 最近凝り始めた肩を手でマッサージしながら答える。より僕達の演奏を強固なものにする為に集中してやろうと言い出したのは確かに僕だけど、こんなに短期間にライヴを組んだのは全てイッコーが動き回ったせい。
 ほんの少し恨みの篭った目を向けてみると、笑顔で白い歯を見せた。
「何言ってんだ、今夏休みだからガンガンブッキング入れられんじゃねーか。わざわざチケット売れてないやつらのとことか捻じこんでもらってんだぜ?おかげで向こうも余ったチケットさばけておれらもステージに立てて。バンバンザイよ」
「いい方に解釈するしかないか……千夜さんは問題無いの?」
 訊いてみると、吸っていた煙草を灰皿に押し付け目線を落としたまま答えた。
「今年の夏は特に旅行の予定も無いから。『days』の活動に付き合う」
 返事の内容は有難かったけれど、また余計な事を言ってしまったと後悔する。千夜さんの家庭環境の事をすっかり失念していた。
「ねーねーそれなら合宿にでも行きましょーよー。海とか山とか」
「こら、抱きつくな!私の後ろに立つなと何遍言えば分かる」
 スケジュールが開いているのが余程嬉しかったのか、キュウが全身で喜びを表している。何度言っても抱き着いて来るから千夜さんも押し返すのが上手くなった。
「おめーなー、遊びに行ってどーするよ」
「だって〜、せっかくの夏休みなんだからバカンスくらいしたいわよぅ」
「んなこと言っときながらおれらといる時以外、他のやつらと遊びに行ってんだろが」
「アタシはこのメンツと行きたいの〜」
 何気無いその言葉がやけに僕の心に響く。キュウが僕達の事を本当に好きでいてくれているのを感じ、胸が熱くなった。
 でも合宿と言われても、ここ1、2ヶ月のスケジュールは決まっているし遊んでいる暇が無いと言うのが正直な所。
 しかし苦い顔を浮かべる僕達をよそにキュウは果てしない妄想を繰り広げていた。
「青い空!広がる青い海!!照りつける太陽……そこで生まれる一夏の恋」
「誰と恋人になる気だおめーは」
「花火の後、星降る夜空を二人肩寄せ合って見上げて、流れ星に願いをかけるのよー」
「想像の中の隣の相手って、千夜おめーじゃねーの?」
 イッコーが笑って指差すと、悪い物を食べた時のような顔で首を横に振っている。
「そうだ!黄昏も連れてけばいーじゃない、リフレッシュのためとか言って。愁引っ張ってくれば黄昏だってイヤイヤ言いながらついてくるわよ」
「勝手にすれば。私は行かない」
「えー何でー!?おねーさまのはしゃいでる姿が見たいのに、それがメインなのに〜」
「だから抱きつかないで……」
 いい加減諦めたのか、引き剥がす気力さえ無いみたい。
「去年の夏も合宿とかバカンスとか、そう言うのは無かったからね。あ、でも野外フェスには3人で行ったっけ。千夜さんも他のバンドで出てた」
「え、そーなの!?誘ってくれればよかったのに〜」
「いやその時、おめーいない」
 何だか何年も一緒にいるような気がするけれど、互いに知り合ってからまだ半年程しか経っていない。キュウの気持ちも少しは分かる気がした。
「今年は練習とライヴがぎっしり詰まっているから遠慮しておくけどね。近くでやる都市型のフェスには一つくらいイッコーと行こうと思ってるけど」
「あ、じゃあそれ誘って誘ってー♪アタシでっかい音楽イベント行ったコトないのよ〜。ね、おねーさまも一緒に。他人のライヴ観るのも勉強になるんだから」
 キュウが袖を掴み無理矢理説得する隣で、気乗りしない千夜さんは疲れた様子で顔を押さえていた。あまりしつこいと本当に嫌われるよ。
 黄昏も誘ってみるけれど、愁ちゃんといろいろ忙しそうな気もする。
「んじゃ、そろそろ撤収しますか」
 楽器の手入れも終わり、忘れ物が無いか確認して楽屋を出る。ライヴハウスを出た所に溜まっていた今日のお客らしい数人が僕達を見て声をかけてくれたので、会釈して手を振った。最近はこうしたやり取りも増えて来て、応援してくれているのを実感できて嬉しい。
 電車に乗る為に駅前に向かって歩く。商店街からそれほど離れていないし、夏だからかこの時間でも人の数も多い。日が落ちても蒸し暑さはさほど変わり無く、すっかり夏到来。
 行き交う人達がみんな涼しげな格好をしている中、千夜さん一人黒の長袖なので変に目立つ。しかし他人の目線も気にならないのか、黙々と僕達の後を歩いて来ていた。
「今日はどーする?さすがに汗かいてる体でどこかの店入ってミーティングする気にもなれねーしなー。銭湯でも近くにあればいーんだけどこの辺さっぱり知らねーんだわ」
 先頭を歩くイッコーが夜の街を見回しながら呟く。今から水海に戻り『龍風』に行くと終電が無くなるし、ファミレスで長々と反省会をする訳にもいかない。
「明後日の練習の時に一緒にやればいーんじゃない?アタシは問題ないわよ」
「あ、キュウには言い忘れてたけど練習は明々後日に変更してるよ。僕ちょっと用事が入っちゃったから」
「あら、そうなの?じゃあ明日集まって……それも辛いか。しょうがないわねー」
 僕の言葉に残念そうにキュウが呟いた。最近は一週間の間に何度も顔を合わせているから2、3日会わないだけでも寂しく感じるんだろう。
「みんなも都合が悪くなったら早めに言っておいてね。夏休みだとスタジオ入るのも予約が必要だから、あんまり咄嗟にスケジュールを変えられないんだ」
 急用なら仕方無いけれど、なるべく管理しておきたいので前もって言っておく。これで黄昏がいてくれたらもっと強気に活動ができると思う。でも、今は十分英気を養って貰おう。あまり休み過ぎてだらけてしまうとまた問題になるかもしれないので、一日でも早く復帰してくれる事を待ち望んでいる。
「何、せーちゃん、バイトのシフト?」
「ううん、ちょっと個人的な用件」
「あやしいわね」
 したり顔でキュウが詰め寄って来て思わず心臓が飛び出そうになる。
「そこはかとなく女の匂いがするわ。アタシ達に内緒でつき合っているファンの女の子とでもデートするつもりでしょー?」
 どうしてこう、鋭いのか。と言うか、口から言っているでまかせがほぼ的を得ている。ある意味恐ろしい。いや、別にデートじゃない。勘違いしないように。
 すぐ態度や顔に出てしまうのでずっと考えないようにしていたけれど、何と明後日柊さんが水海にやって来る。夏休みに地元の友達数人と水海に遊びに行くと、一月程前に手紙を貰った。まさか再会できるとは思っていなかっただけに、飛び上がりたくなるほど嬉しい。
 いけないいけない。考えているだけでにやけてくるので慌てて話を別方向へ振った。
「そ、そんな事無いってば。第一ファンがいるとすれば黄昏でしょ?」
「いーや結構おめー目当てでも来てる連中もいるみてーよー?この前だって出待ちの女の子にサインしてるとこおれ見たし」
「あー!どうしてイッコーはいつもそんな根も葉も無い事を言うのー!!」
「あ、アタシもこないだライヴ後受付で話してたら女の子二人が青空の話題してたの聞いたわよ。もうステージを踏みしめてギターかき鳴らす姿に腰砕け、濡れちゃうって」
「そんな事ある訳無いでしょうっ!あんまりからかうといい加減怒るよ!」
 僕が純情なのをいい事に、すぐからかって来るんだから。イッコーとキュウがタッグを組むと、僕一人じゃ手をつけられなくなってしまう。
 路上で騒いでいる僕達三人を見て千夜さんは付き合ってられないと言った顔で一瞥すると、一人先に歩き始める。嗚呼、また嫌われモード。
「千夜さん待ってってば、誤解、誤解ですよっ!?」
「どうして私に弁明する必要がある。好きにしてればいいだろう」
 慌てて追いかけるとこちらも見ずに切り捨てられた。関わりたく無いのか僕達から間隔を開けようと大きな歩幅で足早に離れて行く。
『あーやーしーいー』
 せめて誤解だけでも解こうと手を伸ばそうとすると、両肩から二人がいやらしい目で顔を出して来た。僕が千夜さんを狙っているとでも思っているんだろうか。
「ああもう違うんだってば!僕は真っ当に生きてるんだって!助けて黄昏―っ!」
 真夏の夜に叫んだ悲鳴は真上に広がる夜の闇に吸い込まれて行った。


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