→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第4巻

   089.ふれあい

 珍しく夜中に玄関のチャイムが鳴ったので、新聞屋なら断ろうと思いつつ出てみた。
「来たわ。」
 目を丸くして呆然となっている僕に、目の前の少女はもう一度繰り返し言った。
「来たの。上がっていい?」
「え?あ、うん……。でも、何で……?」
「いつでも来ていいって言ったのはキミじゃない」
 僕の顔を見て、何事も無く溢歌は言った。
「あ、そ、そうだったね。いいよ、上がって」
 突然の来訪に戸惑いつつ、溢歌を家に招き入れる。風呂でも沸かそうかとのんびりしていた所だったので、慌てて部屋を片付ける必要も無かった。ギターを弾いている時に溢歌が来なくて良かった。玄関前で音色を耳にして引き返していたかも知れない。
「寝てたところ?」
「え?ううん、のんびりしてた所。ご飯は食べた?」
「まだ。青空クンは?」
「僕もまだ。家に帰ってきてから何か作ろうと思ってたから……」
 食費を抑える為に外食を控えていたので、お腹は空いている。連日のバイトで疲れが溜まっているし、一度寝て明日になってから食べても良かったかなと考えていた。
「じゃあ、何か作ってあげるわ」
 溢歌の予想外の言葉に、つい呆けてしまう。
「え……できるの?料理」
「できるわよ、女の子なんだから」
 驚いて相手の顔を指差していたら、頬を膨らませ怒られてしまった。普段から現実味の感じない溢歌だから、もしかすると何も食べなくても生きていけるのではとつい勘繰ったりもしていた。
「あ、じゃあお願いします」
「その代わり、お風呂沸かしてくれない?夜風に当たってちょっと体冷えちゃった」
「う、うん」
 すっかりペースを握られてしまっている。昨日の内に浴槽の水は抜いてあるので、早速靴下を脱ぎ、風呂掃除を始める事にした。
 いまいち今の状況が掴めないまま、綺麗な浴槽にしようと懸命にブラシで磨く。そのすぐ後ろの台所で、着ていたジャケットを脱いだ溢歌が料理の準備を始めていた。
「大したもの無いと思うけど……あまり買い置きしてないから」
「大丈夫、何とかなるわ」
 妙に頼もしい。その言葉を信じ、僕は風呂掃除を続けた。周囲の壁にこびりついているカビくらい落としておけば良かったと思う。大掃除する暇があるならギターを弾いておけばいいといつも考えているのがこう言う時に裏目に出る。後でトイレ掃除もしておこう。
 フライパンが音を立てる。途端に賑やかになったこの家の空間に、つい笑みが零れる。
 トイレ掃除も終わる頃に、溢歌の料理も出来上がった。お皿を並べられるように、いつもは折り畳んでいて使っていないこたつのテーブルを用意する。溢歌の作ってくれたのはソーセージや唐辛子の入ったペペロンチーノ風味のパスタと、何枚も重ねた玉子焼き、それと挽肉を使ったロールキャベツ。目の前に並ぶと、かなり壮観。
「どう?なかなかのものでしょ」
 鼻高々に胸を張る溢歌。まさか料理まで上手とは思わなかった。
「食べていい?」
「当たり前よ。青空クンに食べてもらうために作ったんだもの」
 その言葉に思わず顔を赤らめてしまう。溢歌はこたつの真向かいに座り、両手で頬杖をついて僕が食べる所を笑顔で眺めている。
 視線を気にしながら、まずはロールキャベツを一口。
「どう?」
「……何だか、落ち着く味だね」
「何それ」
 溢歌が目を細め微笑んだ。こう、人の手が通った味付けと言うか、生活の感じられる味。自分から実家に帰って食事をする事はあまりしないので、どこか懐かしい。
 食べる所を真正面から見つめられるとなかなか恥ずかしい。背中にむず痒さを覚えつつ、食事を続けながら溢歌がお皿に端をつけるのを眺めていた。きちんと正座していて、やけに庶民的。見てくれは女の子が遊ぶおもちゃの人形のようなのに。
「好物とかあるの?」
「私?私は――別に、食べられれば何でもいいわ」
「料理は結構やってるんだ?」
「外食はしない主義なの」
「電車で来たの?バス?」
「歩いて。お金がもったいないもの」
 そっけない。
「お風呂見て来るね」
 食べ終わるとお皿をそのままに風呂場へお湯がどれだけ張っているか確認しに行く。話題を膨らませようにもついて来ないので寂しい。一泊の宿を求めて来たんだろうか。
 丁度良い具合に貯まっていたので、蛇口を捻りお湯を止め、部屋に戻った。
「もう入れるよ」
「いいわ、もう少しゆっくりしたいから。ごはん食べて、体も温まったもの」
 溢歌は優しく答えると、食事を続けた。その隣に僕は腰を下ろす。口に箸を運ぶ横顔を眺めているだけで、不思議と心が安らぐ。黄昏の部屋に二人でいる時と似たような感覚。胸の中がほんのりと温かい。反面、僕の視線を余所に溢歌は黙々と食事を続けていた。
「ごちそうさま」
 やがて食べ終わった溢歌が手を合わせ、テーブル上の食器を片付け始めたので僕も手伝った。こたつを畳み直し、壁に立て掛ける。溢歌は畳まれた敷き布団の上に正座すると、そのまま横に倒れ猫のようにくつろぎ出した。
「あ〜ぬくぬく」
「食べた後にすぐ寝たら太っちゃうよ」
「最近あんまり食べてないから大丈夫よ、少しくらい」
 そう言い黒のワンピース姿のまま寝転がる。皺になるよと注意しようとしたけれど、『着替えさせる=裸になる』なので慌てて口をつぐんだ。
「する?」
 横になったまま、溢歌が上目遣いで僕を見る。今日もバイトの休憩時間に岩場で出会って口でして貰っていたので、今は性欲も湧いていなかった。
「今はまだいいよ。食べたばっかりだし……溢歌といるといつもそっち方面だから」
 体を重ね合わせるばかりじゃなく、心を通い合わせたい。
「いつも僕ばかり質問しているから、そちらから何か話してよ」
 カーペットの上に座布団を敷き、足を投げ出して座る。溢歌はしばらく考え込む素振りを見せると、……目を閉じ眠るふりをした。
「寝ないでよっ」
「そんな事言われても、すぐに思い付かないわよ」
 ふて腐れ、体を動かし僕に背を向けてしまう。本当に猫みたい。
「じゃあ、何しに来たの?」
 相手が怒っても仕方無いような質問を思わず投げかけてしまう。すると溢歌は首をこちらに向け、悲しげな目をして小声で言った。
「寂しくなったから……」
 潤んだ瞳に、僕の胸が高鳴る。今すぐ近づいて頭を撫でてやりたくなった。
「なんて、気まぐれよ気まぐれ。毎日同じことの繰り返しでも、面白くないもの」
 淡々と愚痴を零すと、溢歌は上体を起こし、そばにある枕を布団の上に敷くと僕と同じようにカーペットの上に眩しい素足を投げ出した。満腹感に満たされているせいか、半分眼が落ちている。
「騒がしいの、嫌いなのよ」
「何?」
「楽しいところにいるとね、足下がふわふわしちゃうの。こんなに幸せを感じちゃっていいのかしら、ってね」
 目線を落とし、首筋から流れる豊かな髪を指で絡め取りながら呟く。
「そんな時は寂しいところに行きたくなるのよ」
「僕と一緒にいて、寂しいの?」
 反射的に訊き返すと、溢歌は首を横に振った。
「一人でいたら寂しすぎるから、ここに来たのよ」
「……でも、」
 そのまま言葉を続けようか、一瞬悩む。口にしていいものかどうか。そうする事で、何かが失われる事にならないか。判断に迷いつつ、僕は口に溜まった唾を飲み込むと、意を決し溢歌に言った。
「それなら、黄昏のそばにいても良かったんじゃない?」
 少しの沈黙。部屋の戸を挟んだ台所の冷蔵庫の悲しい音が聞こえる。
「やさしいのね、青空クンって。私の思った通りの人だったわ」
 溢歌は髪を後ろに両手で振り払うと、布団の上に三角座りした。
「ずーっと待ってたのよ。青空クンが黄昏クンのことを訊いてくるの」
 妙に楽しそうに微笑みを見せる溢歌の考えている事が、僕にはよく分からなかった。
「出会ってから何週間も経つのに、一向に尋ねて来ないから興味ないのかと思っちゃった」
「そう言う訳じゃないよ。ただ、僕が臆病で訊けなかっただけ」
 足枷を外し、苦しみから解放される。しかしこれからの発言でこれまで以上に胃を痛める事になる可能性もあるので、気分は晴れなかった。
「いいわ、眠気を覚ますにはちょうどいいもの。質問タイムといきましょう」
 両手を広げ、何でも来いと溢歌がジェスチャーを見せる。とりあえず、溢歌本人の事には触れないように、疑問に思っていた事を一つずつ訊いてみる事に決めた。
「溢歌は、僕と黄昏の事を出会う前から知っていたの?」
「ええ。でも、出会ったのは偶然。キミにも会ったのも、黄昏クンに会ったのも」
 おそらく『days』の事を知っているのだろう。しかし音楽の話をすると極端に不機嫌になるので、それ以上は追及しなかった。僕達のライヴを観に来た事があるのだとしたら、矛盾が生じない気もしないけれど、何か理由でもあるのかも。
「僕には偶然と言うより、必然のような感じがするね」
「ふふっ、そうかも。二人とは他人の気がしないわ」
 僕の言葉に溢歌は頷き、優しく笑いかけた。
「絡み合ってみて分かったの。鍵がはまるみたいに、ぴったり合うの。違う人間のはずなのに、私のからだと、こころに」
 両手の指でカギ括弧を作る。僕と黄昏の波長が合うのだから、溢歌の言っている事も何の疑問も無くすんなりと受け入れられた。
「僕と出会う前に、黄昏とは――」
「会っていたわ。数えるほどでしかないけれど。青空クン、いつも私の着ているジャケットを見ていたわよね?気になって仕方なかったんでしょう?」
 痛い所を突かれ、冷汗が流れ落ちる。
「分かってたのよね?本当のことおっしゃい。さあ、さあ」
「薄々……気付いてました……」
 何だか女王様になじられているような気分。
「でも、他に無かったの?僕と会う時にも、いつも着ていたけど」
「もらいものだから」
 質問するとすぐさま断定され、言葉を失う。そう言えば自分は溢歌に何もプレゼントしていなかった事に気付き、力無くうなだれてしまった。
「でも、会っている回数も、一緒にいる時間も、青空クンのほうが上よ」
「今日は?」
「会ってないわ。青空クンは自分から会いに来てくれるけど、向こうはこちらが待っても待っても一向に来ないもの。ばからしくなってくるわ」
 つっけんどんに愚痴を漏らす溢歌。胸を撫で下ろすと同時に、黄昏に嫉妬してしまう僕がいる。僕と休憩時間に会った後も、あの岩場で黄昏を待ち続けているのだろうか。
「会えなかったらから、僕の家に来たの?」
「違うわ。今は会えなくなっている理由があるもの。織姫さまと彦星、みたいな?」
 恐る恐る尋ねると、溢歌は笑って否定した。
「織姫が溢歌で、彦星が黄昏なの?」
「どうかしら。私にも、彼が何を考えているのかよくわからないわ。中身と行動がちぐはぐだもの、いつも。私が今欲しいのは、私の事をまっすぐに見てくれるひとだけ」
 視線の外せないでいる僕に、とても柔らかい笑顔を見せる。寂しげなようで、安心したような表情。僕も真っ直ぐに溢歌の事を見ているつもりでいる。一瞬、自分の周りにいる女の子達の顔が脳裏に浮かんだけれど、すぐに打ち消した。
「それがからだ目当てでもね」
「そんな……!違うよ、僕は」
「わかってるわよ」
 慌てて否定する僕を見て、溢歌が可笑しそうに笑う。
「でも、気持ちいいでしょう?一人でするよりも、何倍も」
「それは……まあ……」
 したり顔を向けられると、恥ずかしさがこみ上げて来る。余程具合がいいのか、女性はみんなこうなのかと思えるくらい、溢歌と繋がっている時は気持ちいい。少し麻薬的な所があるので、そのまま流され堕落していきそうな錯覚に陥る事も。
「結構、弾切れでもあるから……」
「精のつくもの食べないとね。私は毎日飲ませてもらってるけど」
「もう止めよう、この話……恥ずかしい……」
 キュウよりオープン過ぎて困ってしまう。背丈も低くまだ十分あどけない顔立ちだから、余計に。今時の若い子はみんなこうなのか、と勘違いしてしまいそう。
 でも、この話題の中で必ず訊いておきたい事が一つあった。
「た、黄昏のは」
「何?」
 恥ずかしさや嫉妬や苦悩等の感情が複雑に混ざり合い、妙な緊張で声が上擦る。一度大きく深呼吸してから、改めて言い直した。
「その……黄昏と……」
 正面切って女の子にセックスしたかなんて恥ずかしくて訊けない。顔面から火を噴きそうなほど恥ずかしがっている僕を見て、溢歌が助け船を出してくれた。
「むちゅーってしたり、もみもみしたり、くんずほぐれつでギシギシアンアン言ったりしてないかってこと?」
 あんまりな表現に顔面からカーペットに突っ込んでしまった。
「それとも○○○○とか、××とか△△△△△△△とか――」
「わーっ!!もういい、もういいから!!」
 狙ってやっているのか、洒落にならない豪速球ばかり投げて来るので慌てて止めた。二人でいやらしい事をしている時は、それこそ自分の醜く歪んだ性欲すら相手に包み隠さずぶつけているのに、普段の生活時だと全く抵抗ができていない、僕。
 しかし、卑猥な言葉を何のためらいも無く平然と話せる溢歌もある意味凄い。
「いいわ、教えてあげる」
 そう言われた途端に室内に緊張が走り、背筋が伸びる。溢歌の唇の動きにひたすら注目し、次の言葉を冷汗垂らしながら待った。
「したわ。もうドロドロに溶け合っちゃうくらい」
 ――耳元で、何かが崩れ落ちる音が聞こえた。
 両手をカーペットにつき、大きくうなだれる。奈落の底を突き破り、そのまま落ちて行くような感覚に陥る。目の前が真っ暗になり、このまま力尽きてしまいたくなる。
「で、○○○くわえながら×××したり、△△△しながら□□□□したり――」
 ん?
 あんまりに想像を超える事ばかり口にするので、何か引っかかり顔を上げた。
「……それ、本当?」
「うそよ」
 そのままカーペットの上に身を投げ出す。よ、よかった……!
「そんなこと要求する訳ないじゃない。あのトーヘンボクの黄昏クンが」
「だよね……!あーもー、驚かさないでよ……!」
 今ので一年位寿命が縮んだ。溢歌の話す事があまりにも僕の知る黄昏のイメージとかけ離れていたので、おかしいと思った。
「ほんと、冗談に弱いのね」
「いや全くその通りで」
 心底騙されやすいタイプだと思う、僕は。
「一度もしていないわ。青空クンのお望み通り」
 言い方に少し引っかかりがあるものの、その言葉を素直に信じた。全身で沸騰した血液が冷めていくのを感じ、大きく疲れた息を吐く。
「第一、向こうがそれを望んでいないもの。だから私も、簡単にからだをあげるつもりはないの」
 胸に片手を当て、胸を張る溢歌。セックスが好きだからと言い、見境無しに自分の体を使うと言う訳ではなさそうで安心した。近くのそう言う女の子がいるので……。
 黄昏は、肉体関係に興味が無いのかな?普段から僕も黄昏と下ネタで話すなんて全くしなかったので、その影響があるのかも知れない。でも、愁ちゃんとはもう深い関係にあるようだし、溢歌の肌に触れられない理由が別にあるのだろうか。
「それに黄昏クンには、彼女がいるもの。私のからだなんて、必要ないわ」
 予想していたとは言え、直接口にされると少し驚く。
 やはり、愁ちゃんの事を溢歌は知っていたのか。その辺を深く訊こうと思うも、他人の女性の事なんて話題に揚げた所で不快な思いをさせるのが目に見えているので止めた。
「もしかして、会えない理由って、その、彼女がいるから?」
 言葉を選び問い掛けると、しばらく溢歌は考える素振りを見せ、答えた。
「そんなところかしら。……抜け駆けは嫌い。それだけの理由よ」
 手短に言葉を濁す。僕の知らない間に愁ちゃんや、『days』の他の人間にも会っていたりするのだろうか。一人一人に火薬を仕込み、後で大爆発させる――
「目的は何?」
「目的?何よそれ」
 疑り深い顔で言うと、間髪入れず呆れた顔で返された。いけないいけない、映画やTVドラマじゃないんだから。どこかのスパイとかだなんてあるはずもない。
 間抜けな考えを捨て、一旦頭の中を整理した。
「でも、僕や黄昏と、これから一体何がしたいの?」
 自分でも口にしながら変な質問をしていると思う。しかし訊かずにはいられなかった。
「一緒にいたい、それだけじゃダメ?」
 指を咥え上目遣いに、捨てられた仔猫のような目で僕を見てくる。愛くるしいその瞳に、思わず心がぐらついた。
「確かにそうだけど……」
「形のあるものを遺したいわけじゃないわ。心の中を満たしたいだけ」
 ――その言葉を耳にして初めて、考えている物事の判断が全て『何かを遺す』『形あるものを創る』になっている自分に気付いた。
 仕方の無い事なのかも知れない。明確な生きる目的を作らなければ現実を生き抜く事ができなかった僕は、着実に来た道に足跡を残し、常に夢のその先を目指していた。
 そんな僕の考え方と、溢歌の考え方が違うのは当然とも言える。むしろ溢歌自身は、形のあるものなんて何も欲しがっていなくて、心の中が満たされればいいのだろう。身なりや言動をそばで見ていると、そう思える。
「溢歌の欲しがっているものって、何?」
 抽象的な質問を投げかけてみた。明確な答えを求めている訳じゃない。溢歌の『心の中を満たす』と言う欲求のしくみが知りたかった。
 僕が心を満たされる瞬間は、何かを成し遂げた時のご褒美みたいな物と考えている。後先の違いとは言え、ただ心を満たされる事だけは考えていなかった。溢歌と出会うまで。
 すると僕が溢歌に求めているものと溢歌の欲しがっているものは、同じなのか。そんな気がして、質問してみた。
「わからないわ」
 しばらくの沈黙の後、溢歌は目を伏せ言った。
「今まで手に入れたことがないものだから。すぐに消えるものは簡単に手に入れられるけれど。……そう考えると、絶対に消えないものを欲しがっているのかもしれないわね」
 溢歌はそう答え、小さく笑った。彼女の求めているものは、僕が与える事ができるものなのか。その為に僕は一体何をすればいいのだろう。
 他人の為に何かをする、それだけの事が酷く大変に思えるのは何故だろう。そこに責任が生まれるからか。自分の事だけ考えていれば、余計なしがらみに捉えられる事も無い。僕が『days』のリーダーを続けていて重石に感じないのは、おそらく自分でそれを選び、引く気が無いからだろう。上手く行かなくてどんなに辛いと思っても、黄昏のように何度も逃げ出す事はしない。自分で掛けた梯子を外す気は一つも無かった。
 しかし溢歌と出会った事で、その基盤が崩れ始めている予感もある。このまま一緒に居続ける事で、『days』と天秤にかけた時に僕はこれまで自分が手に入れてきた大切なものを投げ捨ててしまわないか。そう考えるのが怖かった。
「一時のきまぐれみたいなものよ。私を今、動かしてるのは」
 溢歌が呟き、沈黙を割る。その言葉を僕は黙って受け入れていた。どう考えていようと、僕のそばにいてくれればいい。それだけで十分に思える。
 けれど本当は僕より黄昏のそばにいたいのか。黄昏に対し嫉妬の念を抱きたくないからなるべく考えないようにしていても、溢歌の口から直接会っている事を聞いてしまったので、この胸のざわつきは易々と消える事は無いだろう。
 そもそも、溢歌がこの後もずっと僕達のそばにいるのか、それとも出会った時のように不意に目の前から姿を消してしまうのだろうか。
 途端に不安がこみ上げて来て、僕は溢歌に近づき、柔らかなその手を取った。
「……何?」
 少し驚いた様子を見せ、上擦った声で僕の顔を見上げる溢歌に、面と向かって訊いた。
「僕の事は、好き?」
「大好きよ。もちろんじゃない」
 即答。
 しばらく考え込むかと思っていただけに肩透かしを食らう。嬉しい反面素直に喜べない。
「嘘じゃないわ。私のことを見てくれる人は、大好き。でも、」
 一呼吸置き、僕から視線を外し、言った。
「他人の愛し方は、すっかり忘れてしまったわ」
 戸惑いの表情を見せる溢歌を見て、僕は何も言えなくなってしまった。
「ただ、これだけは言えるわ」
 溢歌が身を寄せ、そっと僕の胸にもたれかかる。
「私には、青空クンが必要なのよ」
「――」
 その言葉を、何の疑いも無く信じる事にした。溢歌がそばからいなくなる時は、僕を必要としなくなった時だろう。その日がいつか訪れてしまうのかも分からないけれど、彼女が僕を求めている限り、僕も受け入れてあげよう。
「お風呂、入ろうか。……その、一緒に」
 女の子にこんな事を言うのは生まれて初めてでこっ恥ずかしい。溢歌は赤くなっている僕の顔を見上げ、妖精のような笑顔で僕の誘いに小さく頷いた。


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