→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第4巻

   090.繋いでいたいよ

「おつかれさん」
 岩場へと続く明かりの少ない夜の港で、溢歌が僕に労いの言葉をかけてくれた。
「寒くない?ずっとここで待ってたの?」
「夜の海なんて慣れてるわ。これくらいの寒さなら、へっちゃらよ」
 とは言うものの、いつもの薄手の黒ワンピースにジャケット一枚だけ。見ているこちらが寒い。薄暗い夜の闇に、溢歌の艶がかった豊かな髪がうっすらと浮かび上がっている。
 何も毎日同じワンピースを着ている訳ではない。最近は結構カラフル。似合わないズボン姿――おそらく黄昏に借りたのだろう――それは一度切りで、僕としては少し安心。
「じゃあ、帰ろうか」
「待って。もう少しここにいたいから」
 そう言うと溢歌は、波止場の一つへと歩いて行った。
 昨夜溢歌が僕の家を訪ねて来て、一晩泊まった。今日はライヴ前最後の練習日で、変わらず溢歌はいつものように僕がスタジオに出ている間、ここで海を眺めていたみたい。毎日毎日同じ景色を眺めていて、よく飽きないものだと感心する。
「黄昏に会わなくていいの?」
 と、今日スタジオへ行く時に誘ってみると、
「いつ会うかは自分で決めるわ。お人好しすぎるほどお人好しね」
やんわりと溢歌は断った。確かに、僕がわざわざ溢歌の件で黄昏を立てるのもおかしな話と思う。周りの人間全員に言われているから、もう落ち込む事すらなくなった。誰にも溢歌は渡さない!と言うくらいの気概があればいいのに、心の底から憎めないのは僕自身常に黄昏の事を想っているからか。
「彼女も来てるんでしょう?場の空気も悪くなるわ」
 愁ちゃんの事を溢歌が何故知っているのか疑問に思ったけれど、会った時に黄昏から話を聞いてるのかもとすぐさま納得した。
「じゃあ僕が、溢歌を――その、」
 それなら彼女として連れて行きたい、と言おうとしたけれど言葉が続かなかった。どれだけ肌を重ね合わせていても、それを口にしてしまう事で相手を縛り付けてしまいそうな気がしたから。
 結局、僕一人で練習に足を運んだ。黄昏を見守る愁ちゃんの姿を見ると、僕も同じようにそばで溢歌に見守られていたい、と思ってしまうのは正直な気持ち。
 千夜はいないものの、何とか本番に向け形はできたので、今は安堵の息をついている。
 先端まで来た所でその場に座り、靴を脱ぎ足を投げ出す。水辺は寒いので、個人的には早く引き上げたい。練習上がりの火照った体に潮風が吹き付け、身震いする。
「コーヒーでも買ってくるね」
「私、甘いのがいい」
 その言葉を胸に、走って堤防上の自動販売機まで買いに行く。肩に担いでいるギターを置いていくとその隙に海へ投げ捨てられそうな予感がしたので、あえて持って行った。
 階段を上がり行き交う車に注意して道路を跨ぎ、叔父さんの弟が経営しているコテージ風の喫茶店のそばにある自動販売機へ。今はほぼ毎日と行っていいほどこの前を通り過ぎているけれど、中で食事をした事はあまり無い。親戚の経営している所へ足を運ぶと言うのは、なかなか気が引けるもの。スタジオの叔父さんに雇われの身なのも、長年過ぎた今でも後ろめたいと言うか、喉に小骨が引っかかったような感覚はある。
 かと言って辞めた所でまた音楽関連のバイトに就けるかなんて分からないし、ギターが気軽に弾ける環境にあるのは大きい。これから先も何年も続ける事になるのかは神のみぞ知る。
 むしろ、今みたいな生活が一番肌に合っているのかも。だけどそれをいつまでも続けられない事ぐらい、勿論僕にだって解っている。
 未来の事を考えているようで、考えていない。目の前に立ち塞がる難題を一つ一つ必死に乗り越えているだけ。日に日に、大きな夢を見続ける事はしなくなっている。
 例えば遙か未来の事を思い描くとして、溢歌と僕が結婚して、子供でもできて、家庭を築く――なんて、想像もつかない。隣にいる相手を千夜やキュウや柊さんにした所で、同じ。溢歌と出会ってからか少しずつ刹那主義になっているような気もしなくもない。セックスをし過ぎるのも考えものか……目先の快楽に溺れてしまいそうになる。
 女性の口に合う物はよく分からないので、一番小さなそれっぽい缶を二つ選ぶ。僕も同じ物にした。自動販売機から出てきたコーヒーの缶を手にすると、熱いくらいの温もりが伝わって来る。
 急いで戻ると、海の方から潮風に乗った歌声が聞こえて来た。歩幅を縮め、ゆっくりと波止場へ歩き出す。足音を立て、溢歌の唄を途切れさせたくなかった。
 真っ暗な夜の海に向かい、異国の歌を優しく紡ぐ溢歌の後ろ姿は、まるでセイレーンのよう。漣の音が伴奏となり、一つのコンサートホールが出来上がっていた。
 頃合いを見計らい近付こうと思うも、その歌声に吸い寄せられるように歩を進めてしまう。真後ろに立つと僕の気配に気付き、驚いたように振り返った。
「悪趣味ね」
「気持良さそうに歌っているのを止めたくなかっただけだよ。はい」
 缶コーヒーを一本差し出すと、不機嫌そうに僕の手から引っ手繰る。
「聞かれるのも嫌なの?」
 僕の問いかけに、溢歌は海面目がけ缶コーヒーを持った手を大きく振りかぶった。慌てて止めようとする僕を見て、何事も無かったように腕を降ろしタブを開けた。
「海を汚すような真似はしないわ」
 その言葉に妙な重みがある。ただの善人な考えから来る言葉ではない、何かが。
「この海に、思い入れでもあるの?」
 暗闇の向こうを眺めながら、訊いてみた。
「何年も見ているもの、それはね」
 少し遅れて呟く。そう言えば、溢歌の実家や出身も僕は知らないでいた。
「今日はどうするの?自分の家に帰る?」
 やや遠回しに問いかけてみると、目を閉じ首を横に振った。
「帰りたくないから、やめておくわ。そんな、家出してずっと抜け出しているわけじゃないもの。心配されることもないわ」
「そうなの……それ以上は訊かないよ、家族の事とか」
「あら、珍しく先に宣言するのね」
「溢歌のどこに触れたらいけないのかが未だに掴めないから、それっぽいスイッチは押さないようにしているんだ」
「からだには隅々まで触れているのにね」
 悪戯っぽく笑うと、手の中で転がしていたコーヒーを口につけた。僕も同じように自分のコーヒーを飲む。普段からコーヒーはあまり飲まなくて、たまに飲む時にも砂糖は入れないようにしているので、そのせいか少し口には合わなかった。
「甘いの?」
 溢歌が僕の顔を見上げて来る。
「少し」
「私も。ちょっと甘すぎたかも」
 猫みたいに小さく舌を出す。次はもう少し甘さひかえめにしよう。銘柄が多いせいで缶コーヒーはよく分からないや。
「でも、青空クンは私の心をちくちく突っついてくるじゃない?」
 胸に刺さる言葉を溢歌が投げかけて来る。心の中で謝りながら、優しく言葉を返した。
「分かち合いたい気持ちもあるんだよ、僕の心を知って貰う為にも」
「それは素晴らしいことなの?」
 思わず顔を見つめてしまう。暗闇に浮かぶ溢歌の目が、真っ直ぐ僕を見抜いている。
「僕にとって素晴らしいものが、君にとっても素晴らしいものなのかは知らないよ。ただ、それを否定されると僕は心から君と混ざり合えるかどうか判らないんだ」
 どれだけこちらが望んでいても、向こうが手を取ってくれなければ心を通わせる事もできない。差し障りの無い、言い方は悪いけれど上辺だけの付き合いで喜びを共有する事を悪いとは思わない。ただ、自分の大切な人には自分の事をよく知って欲しいと願うのは当然だろう。
「からだだけじゃ満足しないの?」
「君は満足してる?僕をいじめて」
「それはもう。快感にもだえている時の顔なんて、物凄くかわいいんだもの」
 こちらが恥ずかしくなる切り返しをされてしまった。上手い具合に言葉を選んでいるつもりでも、向こうの方が一枚も二枚も上手。
「――まだ、心の準備ができてないの」
 顔にかかる細い髪を払い除け、溢歌が小さく呟く。
「早過ぎるって事?」
「……自信がないとかじゃないわ。ぐしゃぐしゃで、心の整理もままならないだけ」
 頭頂部の髪を鷲掴みにし、吐き捨てるように言った。全く、この子は僕に隠し事ばかりして、悩みの一つでも打ち明けてくれればいいのに。
「そんなに、僕は力になれない?」
 頼りがいのある男に見せようと、胸を張ってみる。
「今でも十分力になっているわ。ありがと。……でも、その人にしか解決できないものもあるのよ。ごめんなさい」
 そこまではっきりと言われてしまうと、引き下がってしまいそうになる。しかし、この壁を乗り越えない事には溢歌がいつ僕のそばからいなくなるかも解らない。
「話したくなったら言ってね。心の準備はしておくから」
 僕の言葉にためらいがちに小さく頷くのを見て、ほんの少し距離が近付いた気がした。あっさり拒絶されなかっただけでもいい。
 家出しているのも個人的な理由なんだろう。僕はいつでも溢歌に頼られてもいいように、隣で心構えだけしておこう。
 手の中のコーヒーを一気に飲み干し、体が火照った所で空き缶を足下に置く。夜空には所々星が浮かんでいて、雲も少ないので見晴らしがいい。冬が訪れると、馴染みのある正座もたくさん見えるようになる。
 ずっと見上げていると、星屑の海へ吸い込まれそうになる。忙しい日常を繰り返していると、自然とか星空がやけに恋しくなる。星の一生からすれば僕達も蟻みたいなもので、そのまま雄大な時の流れに埋もれて何もかもなくなってしまえばいいとさえ思う。そんな逃避じみた考えは、いつまで経っても消える事は無い。
 一度大きく上体を後ろに反らし、いい感じに血流が回った所で口を開いた。
「……音楽ってね」
 溢歌の方を見ないで、ただ、僕の心を言葉にする。
「音楽って、そんなに力のあるものだと思ってなかったんだ」
 横から口出しされないので、止められるまで喋り続ける事にした。
「昔から聞くのが好きだった訳でも無かった。自分が今みたいな道に入るなんて、ついこの間まで想像すらしていなかったよ。しばらく続けてみた今だって、これが正解とも思っていないし、自信も無い。他人がやっているのを見て始めただけだから、才能があるとも思っていないんだ。性に合わない事をやっているなって思う時もあるよ」
 頭の中に思い描いていても、あえて黄昏の名前は口にしない。
「でも、救われる瞬間ってあるんだ。誰かの心の叫びを聴いているだけなのに、胸を打たれたり。僕が心の叫びを形にしているのを見て、手を振ってくれたり。ただそのまま言葉にした所で、うざったく思われるだけなのにね。音楽になると、大きく変わるんだ」
 常日頃僕が感じている、音楽に対しての見解を述べる。後で反論されてもいいから、どうして僕が音楽を好きでいるのか、その想いを溢歌に伝えておきたかった。
「CDで音楽を聴くにしても、ライヴで誰かの演奏を聴くにしても、みんなで力を合わせて一曲創り上げた時も、好きな誰かの曲を歌っている時も、人と人との繋がりを感じるんだ。別に性善説を唱えるつもりはないけど、心が通い合った時に生まれるエネルギーは凄いんだなって。それが僕を生かす力になっているのかなって、思うんだ」
 溢歌に振り向き、誇らしく微笑みかける。
「僕にとっての音楽は、そういうもの」
 目を見開き話を聞いている溢歌に、もう一度笑顔を見せる。
「芸術の分野なんてたくさんあるけど……音楽って形が無くて、その人その人によって歌声も違うし、演奏する度に異なったものが生まれる。そんなどこかあやふやなところがいいかな。それと、誰でも自分の楽器を持っている所が。僕の楽器は音程がおかしいけどね」
 全ての人が自分の楽器を使いこなせる訳ではないけれど、いつでもどこでも我が身一つあればメロディを奏でられる。とても即効性があり、かつ相手の心を震わせる事もできる。
「歌える力のある人は、それだけで誰かに素敵なものを与える事ができるんだよ」
 使い方によると言葉以上に自分の中にあるものを相手に届けられる。それが歌。その無限大の力を僕はいつも黄昏の隣で感じていた。そして、溢歌が岩場で歌った時にも。
「私にはピンと来ないわ」
 怪訝そうな顔を溢歌は浮かべ、首を傾げている。
「あくまで僕の考えだからね」
 溢歌には溢歌の考えがあるんだろうし。それを押し付ける訳にもいかない。
「……溢歌の心の叫びを聴いてみたいと思うんだけど、駄目かな?」
 今ならいけるかもと思い、恐る恐る、頼んでみた。
「嫌よ」
 間髪入れず強く拒絶されてしまい、大きく肩を落とす。これはもうしばらく時間を置いた方がいいのかな。でも明日は学園祭ライヴがあるから、誘う口実になると思っている部分もあったのに……。
「青空クンの言う通り、私には力があるわ」
 一旦座り直した溢歌が僕を見上げ、言った。真っ直ぐ射抜くその瞳に、釘付けになる。
「でも、私はそれを望んでいないの。海に放り捨ててしまいたいって、思っている」
「どうして?」
「……聴いてくれる相手がもういないからよ」
「僕や黄昏じゃ駄目なの?」
 反射的に訊き返してしまうと、鋭い目をこちらに向けた。
「それとこれとは話が別なの!……ほんと、いいから口出ししてこないで……揚げ足取りは嫌われるわよ」
 頭に血が昇ったのか、取り乱すと腰を上げ、手元の靴を履くと一足先に引き上げて行く。
慌てて僕も置き捨ててあるコーヒーの缶を拾い、後を追いかけた。
「まだ半分入ってるよ」
「勝手に飲みなさいよ」
「じゃあそうするね」
 少し冷えた残り物を飲んだら、溢歌が鋭い目つきで振り返った。怖い。
「どこへ行くの?」
 大股で堤防の階段を上がる溢歌に声をかける。
「あなたの家に決まってるでしょ」
 何だ、今夜も僕と一緒にいるんだ。苦笑が漏れると同時に安堵した。
 帰り道の缶くず入れに空き缶二つを放り込む。何も溢歌は走っている訳ではないので、すぐに追い付ける。不機嫌な顔で、横にいる僕の顔すら見ようとしない。
 昔もスタジオからの帰り道で、同じように千夜にそっぽを向かれたっけ。余計な事を言って相手を怒らせ、後を追いかけるパターンが定着しているような感じもする……。
「大体ね」
 信号が赤になり、歩道で立ち止まった溢歌が振り向かずに口を開いた。
「デリカシーがないのよね、青空クンは」
 痛い。
「すいません……」
 これまでの人生の中で最大級の一言を言われた気がして、激しく落ち込む。相手の事を思いやる気持ちがそんなにも困らせるだけなのかと思うと、自棄になりたくなる。
「――自分のことを隅々まで理解している人間じゃないのよ、私は」
 溢歌は真顔で小さく呟くと、眠たそうにあくびをした。心の整理もままならないのは、何かが原因で自分自身を保てていないせいなのか。ころころと百面相のように表情を変える溢歌の性格も、それが理由なのか。
 心の奥底に抱え持っている本当の自分を、様々なもので覆い隠しているように見えた。
 そんな溢歌の状況を自分に照らし合わせてみても、どうもピンと来ない。泣き寝入りをしないからか、僕は。自分の手で状況が変えられるのなら、例え失敗しても構わないから立ち向かってみる。僕と言う人間を生かす為に。
 しかし、まるっきり僕と同じ事を溢歌に強要させる訳にもいかない。僕や黄昏みたいにバンドと言う自分の存在意義を確かめられるものがあるのかどうかも分からないし、素晴らしい歌声を持っているからと言ってヴォーカルをやらせるなんて単純な考えで解決できるほど簡単なものなら、これほどまでに溢歌は音楽を嫌ったりしないだろう。
 溢歌と出会い、相手の心が掴めない中でも一つだけぼんやりと見えてきたものがある。
 自分の事を見てくれる相手を欲しがっている。
 自分を愛してくれる存在がいれば、それが存在の証明になる。
 やはり女性は、愛が存在理由の最もたるものになるんだろうか。でも千夜みたいなストイックな人間もいるわけで、一概には言えないだろう。……とにかく難しい。
 そもそも溢歌は僕と黄昏を天秤にかけていたりするのかな?欲しいのは恋愛感情なのか、果たして別のものなのか……第一、僕達と偶然出会っていなかったら、あの岩場にいるのが全くの他人だとしても、今の僕と似たような関係になっていただろうか。簡単に他人に体を許し、心を繋ぎ止めようとするのだろうか。
「僕の代わりは、いくらでもいるんじゃないの?」
 信号が青になり、前を行く溢歌の背中に思わず問いかけた。横断歩道の真ん中で、足を止めた溢歌が振り向きもせずに答える。
「出会う前なら、そう言えたかもしれないわ。でもお互いを知ってしまった今は、代わりなんて存在しないもの。どれだけ同じ感覚を与えてくれる似た人がいたとしてもね」
 早めに信号が点滅する。駆け出す溢歌の後に続き、急いで道路を渡り切った。
 駅前に出て来た時、夕食をとるかどうか誘ってみたものの溢歌は僕の話に耳も傾けず、早々と切符を買い改札口へ向かって行く。ちゃんとお金持っているんだ、なんて今更ながらに思いつつ、僕も見失わないように急いで切符を買いに行った。溢歌は携帯電話を持っていないから、はぐれると大変な事になる。人混みの中でも一目で見分けがつくほど周囲と溶け込んでいないのが幸い。
 電車を待っている時も、到着した電車で移動している時も、相変わらず溢歌は海側のドアの窓から目を離さずにいる。常に大海原を視界の内に入れていたい、そんな感じ。日がとうに沈んでいてその姿が確認できなくても、手探りで捜すように窓の外を見つめている。
「明日は僕、用事があるから朝の内から出かけないといけないけど」
 その横顔をいつまでも眺めていたい気持ちを堪え、話を切り出す。
「溢歌はどうしよう?」
「私に訊かないでよ」
 こちらの顔も見ずに即答されてしまった。
「じゃあ……一緒に行こうよ。知り合いの学園祭なんだ」
「――人の多い所には行きたくないわ」
 どうにもこうにも頑固で困ってしまう。できるだけ溢歌と一緒にいると本人を前に口にしてはいるものの、我侭に振り回されているばかりでも良くない。
「一人で行くわけじゃないんでしょう?」
「それは、まあ……」
 視線が鋭い。おそらく薄々気付いているのだろう。ここは腹を括り、きちんと打ち明けるしか無い。結果が目に見えているとは言え……。
「明日、ライヴをやるんだ。だから溢歌にも、観に来て欲しいと思って」
「っ」
 途端に猛犬の表情に豹変した。今にも噛み付かんばかりに白い歯を覗かせている。
「い、一度でいいから観て欲しいんだよ、僕達のライヴを」
 背筋が凍える思いがする。溢歌は一度周囲を見回してから、憮然とした顔で両手を組みドアに背中を預けた。
「こんなに人の多い所で私を怒鳴らせるつもり?ひどいわね」
「そう言う思惑はないんだけど……」
 この時間は仕事帰りの人達が多い。先頭車両はそれほどでも無いとは言え、人目に付く。
「気持ちは分かるわ。でも、私にも選ぶ権利があるもの」
 何だか自分が悪い事をしているように思えてくる。黄昏や千夜も扱い難い性格をしているけれど、溢歌はそれ以上。簡単にこちらの懐に入ってくるのに警戒心が緩いかと思えばそうでもなく、どうにも掴み辛いな所もあり、猫と言う表現がぴったり合う。
 その後、降りる駅に着くまで溢歌は黙ったまま一言も発しなかった。一度怒らせてしまうと、落ち着くまでしばらく手を触れない方がいいのか。
 改札口を抜けた所で、不意に溢歌が立ち止まりこちらを向いた。
「好きとか嫌いとか、そんなことより、思い出したくないの」
 言葉の真意が解らず疑問符を浮かべている僕に、続けて言う。
「嫌な感情しか浮かんで来ないのよ。わざわざ、そんなところに飛び込みたくないわ」
 溢歌の言葉も一理ある。何かの原因で嫌っているのなら、ショック療法で治せなんて軽々しく言えない。でも自分としては、僕と言う人間を知って貰うこの機会を逃したくない。
 頭の中で様々な思惑が渦巻き、ぎこちない表情を浮かべてしまう。
 また別の事をきっかけに溢歌の心へ近づけたらいいなと思っても、その手段が見当たらない。正攻法で押して押してばかりいるから、余計に相手が警戒する。
「そんなに落ち込まなくても、ついて行ってあげるわよ」
「え?」
 肩を落としていた所に溢歌の囁きが聞こえ、すかさず顔を上げる。
「勘違いしないで。今日と同じ。一緒についていくだけよ。その大学、どこにあるの?」
「えっと、この電車でしばらく行った所。山沿いにある、綺麗な大学だよ。春に行った時には桜がたくさん咲いてて、見応えあったな〜。今なら楓が色づき始めるかな?」
 そうだ、海が好きな溢歌が自然を嫌いな訳が無い。そう勘付き、矢継ぎ早に喋る。
「終わってからでもいいよ、一緒に構内回ろうよ。美大だからか、まるで公園みたいに綺麗なんだ。確かに、純粋な自然とは言えないけど……」
「ええ、そうしましょう」
 溢歌が笑って答えてくれたので、素直に心の底から喜んだ。明日のライヴの心配もあったので、乗り切ればご褒美が待っていると思えばやる気も上がる。
「その代わり、今夜はたっぷり楽しませてね。昨日おあずけだったもの」
 舞い上がる僕に溢歌はいやらしい笑みを浮かべウインクすると、ギターを抱えていない方に腕を絡めて来た。わざと押し付けられる胸の感触が僕を赤くさせる。
 今夜もただで終わらない予感がして、引きつった笑いを浮かべてしまった。


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