103.あなたとわたし
「デートしましょう、明日」
「え?」
最初溢歌から提案を受けた時は、何事かと思った。
「デートしようって言っているのよ。日本語で言うと、逢い引きかしら?」
「それはちょっとニュアンスが違うと思う」
どうやら、聞き間違いでは無さそう。
「でも、どうして?人混みの多い所は苦手なんじゃなかったっけ」
「勝手に行く場所決めつけないで」
エスコートするのは僕じゃないのか。
「構わないけど……また、風邪引いちゃうかも知れないよ?」
「大丈夫よ。それに、看病してくれたお礼にデートに誘っているんだもの」
なるほど、納得。それならと、行き場所を夜の内に話し合った。
「岩場はいいの?」
「いいの。わざわざデートするのにこの季節、寒くてくつろげる余裕もない場所を選ぶ人がいるの?」
確かに。寒くなる前は溢歌と毎日いた場所だし、新鮮味が無い。
「で、行きたい場所はある?」
「人の少ない場所。あと、私全然電車に乗らないから、いい場所なんて全く知らないわ」
「…………。」
仕方無いので、僕が全部決める羽目になった。
翌日、溢歌と一緒に家を出る。余計な荷物は持たず、手ぶらで。長ズボンでもいいから厚着していた方がいいと僕が忠告するも、デートにふさわしくないからと上下の揃ったベージュのロングスカートで出て来た。
また風邪を引かないように、携帯カイロを持たせている。今日は出かけるにはちょうど良く晴天で、太陽の下背筋を伸ばしたくなるほど日光が気持ち良い。気温は低いけれど、風はそれほどでも無い。何より雨の降る心配が無いのが安心できる。
「すっかり元気そうだね」
軽い足取りの溢歌を見て安堵の息を漏らす。
「風邪を引く前より元気になっているわ。青空クンのおかげよ」
大きな目をまばたきさせながら微笑む。太陽に照らされ顔の血行も良さそう。
電車に乗り、溢歌と向かうはこの街の端。以前制服姿の千夜に呼び出された駅へ。
「もう一つ隣じゃないの?」
ホームの壁に貼られている観光ポスターを指差し、溢歌が訊いて来る。
「ここでいいんだ。ニュータウンで街並も綺麗だから、そこを通って緑地公園へ向かおうかなって。閑散としていて、いい感じだよ」
少し疑心暗鬼な顔のまま、溢歌は僕の後を黙ってついて来ていた。ちょうど期末テストの時期なのか、制服姿の女生徒が電車の中から多い。千夜が着ていたのと同じ制服が多いのは、この駅付近に通う高校があるからだろう。通勤時間なので登校途中の千夜がいないかなと目で追っていると、横から溢歌に耳をつねられた。
「いたたた」
「もしかして、女子高生の制服姿を鑑賞しに来たの?」
「いや、人を探していたと言うか……はい、すいません」
言い訳できそうにないので、素直に頭を下げた。まさか千夜と遭遇する事は無いだろう。と言うか、遭遇するとまたややこしくなってしまう。
「バス、乗る?」
「歩くわ」
「開いた窓から入って来る風が気持ち良いんだけどなあ」
「今は冬よ」
それもそうか。溢歌と一緒に、煉瓦で舗装された道幅の広い歩道を歩く事にした。駅の周辺はホームタウンらしく、土地の広さを存分に活かした緑の多い公園や団地が建ち並ぶ。
4車線の大きな道路沿いに並ぶ街路樹も家の近くとはサイズも緑のボリュームも違う。以前来たのは春と夏の合間だったか、新緑真っ盛りと言う感じだったけれど、この季節になるとさすがに随分色褪せている。年を越すと歩道も枯れ葉だらけになるだろう。
「空気が、気持ちいいわね。緑が排気ガスをかき消しているのかしら」
溢歌が緩んだ顔で僕の隣を歩く。気分が余程いいのか、僕が歩をそれほど遅めなくても足取り軽く溢歌が並んで来れる。
「しばらくは住宅街になるけど、そこを抜けると景色も変わるよ。多少坂があるけど」
「大丈夫よ、普段から歩いているもの。スタミナはあるわ」
実際、その小さい体でよく何時間も歩けるものだと思う。しかしここは山の麓、山側に進めば自然となだらかな坂になる。30分程歩いた後、
「青空クン、おんぶして……」
気を抜くとその場に置いていってしまいそうになるほど、溢歌の歩は遅くなった。仕方無いので、おんぶする。僕もそれほど力がある訳でもないけれど、長時間ギターケースを肩にかけるなんてザラだから、体重の軽い溢歌を背負うのはさほど苦労しない。
「でも、いい眺めね。ここまで登って来た甲斐があったわ」
溢歌が海の方を眺め、感想を洩らす。駅前は平たい場所で分からなくても、離れるとここが標高のある場所なのを実感する。ガードレールの下には街並が広がっていて、海まで続いている。勿論水平線も確認する事ができた。
「前に行った大学も山の中で緑も綺麗だけど、海が見えないからね。だから今日のデートの場所はこっちにしたんだ。溢歌もあまりこう言う景色は見ていないと思って」
「さすがね。たっぷりお礼してあげるわ」
「あの、その、あんまり胸くっつけないで……」
胸の形が潰れるほどほど背中に押し付け円を描くので、背負うバランスが崩れてしまう。
「ちょっと休憩しようか」
川沿いの道を上り、しばらく歩いた所で横長い殺風景な公園が見えたので、そこで一息入れる事にした。以前千夜に連れてこられた公園。何も変わっていなくて、懐かしい。
ブランコ前のベンチに溢歌を置き、飲み物を買いに行く。以前はバスで来た所、歩いて到着するのに一時間弱かかった。帰る頃には膝が笑っていそう。
「どう?いい眺めでしょ」
ベンチに座り眼前に広がる景色を眺めている溢歌に温かい緑茶のペットボトルを渡し、僕も一息つく。海までは随分離れていて、眼下に見える割合は街並の方が多い。
「緑地公園には展望台があるそうだから、今日の目的地はそこだね。僕も子供の頃に数回行っただけで、あんまり記憶に無いんだけど」
多分物凄い景色を観られるに違いない。今から胸を高鳴らせている。
「――どうしてみんな、あんなに狭苦しい場所に住んでいるのかしら」
溢歌が眼下に広がる街並を見下ろしながら呟く。
「もっと、自然の多い場所の方が良かった?」
「あまり贅沢言うと、それこそ日帰りできない距離になるじゃない。私は海沿いに住んでいたから気付かなかっただけで、この地域にはこんなにたくさんの人が住んでいるのね」
新しい発見に、溢歌は手槌を打つ気分のよう。僕も、そこまで考えて景色を眺めていなかった。やはり溢歌は、他の人と随分感性が違う。
「この中に、一体どれだけ幸せな人がいるのかしら」
「……また、世の中の全員不幸になればいい、みたいな言い草だね」
「そんなつもりはないけれど」
僕を横目で一瞥し、緑茶に口をつける。
「今、私の視界に入っている部分、その中に一体どれだけの人がいて、その人達がそれぞれ自分の人生を過ごしているのかと思うと、その濃密さに目眩がしてくるわ」
「――もしかして、水海とか街中にいて考える事はある?」
気になって尋ねると、躊躇う事無く溢歌は頷く。
「青空クンもうんざりしない?自分と同等の、それ以上の人生の時間を過ごしている人間がこれほどまでにいる事が。私なんて吐きそうになるわ」
「なくは無いけど――バイトでくたびれて帰る途中の電車の中でとか」
正直に答えると溢歌に大笑いされた。
「疲れた頭で人生の意味とか考えたりするわけ?」
「そんな所。第一、上手く行っている時ほど自分を顧みないもので、疲れている時ほど『今、僕は何をやっているんだろう』って思うものだよ」
「大変ね、働くのって」
「働かないとお金稼げないし、生活できないものね」
「そこまでして生きて、辛いと思った事はない?」
溢歌は僕の目を見て質問して来る。本気なのか冗談なのか測りかねつつ、正直に答える。
「溢歌に出会えたから今は辛くないよ」
「――っ。ばっ、馬鹿ねぇ、茶化さないで」
顔を赤くし溢歌は視線を外した。いつもなら軽く受け流すのに、珍しい。
「でも、そんなものじゃないのかな。明日に希望があるから、みんな生きてるんだよ。絶望も結局、望みがあるからこそ絶たれる訳で。本当に明日が見えなくなる時は、それこそ望みが根本から失われてしまう以外無いんじゃないかな」
僕が20年生きて来たなりの結論。今まで生きて来て一番辛かった時は、何もやる事が見えなかった時。夢や希望を失っていた時は、ひたすら迷走していた。あの時に比べれば、山あり谷ありのバンドなんて続けていられるだけで幸せと心から思う。
「――私の望みは何なのかしら?」
「何?」
「え?別に……何でもないわよ」
素っ気無く誤魔化そうとするけれど、溢歌の小さな呟きは聞き逃さなかった。
「望みなんて、今は深く考えなくていいんじゃない?溢歌が家に居座って、まだ一月ちょっとしか経ってないし……のんびりと腰を落ち着けるのがいいんじゃないかな。気持ちが固まれば、家に帰って一息つくのも有りだと思うよ」
「――そうね。ありがと。そろそろ行きましょうか」
ちゃんと励ましになってくれたか、溢歌は笑顔を見せ頷いた。結局、風邪を引いてから今日まで溢歌に僕は一日家を飛び出していた理由を訊いていないし、向こうも話さない。
溢歌が僕をデートに誘ったのは何らかの意図はあるのだろう。いつ話しかけられてもいいように、心の準備だけはしていた。
ここから歩いて緑地を目指そうと思っていたら、溢歌がバスを使おうと言い出したので近くの停留所で確認すると、運良くちょうど路線があった。さすがに坂道を歩くのは疲れるし、向こうに着いてからも徒歩で移動するので体力を温存しておくのもいい。今日の目的の一つも達成されたので、5分後のバスを待って移動する事にした。
「公園に到着してから何か食べようか」
「混んでいない店がいいわ」
「混んでない店は……普通に味が落ちるんじゃないかな」
午前なので混んでいないバスに乗り、緑地公園へ。二人用の席に窓側へ溢歌を座らせた。閉じた窓を開けようとするのを懸命になだめる。車内には暖房もかかっているので。
バスに揺られ、終点の緑地公園へ。景色もマンションが少なく、一軒家が増えて来る。到着してバスを降りると、360度全てに緑が見え、随分僻地に来た印象を受ける。
「人は――少ないのね」
溢歌が周囲を見回して呟く。公園と言っても水海にあるストロベリー・パークとは違いひたすらだだっ広いので、人の姿はちらほら見かけても賑わっているようには見えない。
「春になればもっと多いんだろうけど、のんびりできていいじゃない」
まずは案内板へ向かう。展望台の位置を確かめる為。この緑地公園には各所に様々な施設があり、総合的な憩いの場と言える。花の館や植樹園、庭園や花園、展望塔やキャンプ場、果てはスポーツ施設まで。さすがに遊園地は無い。
「展望台に向かいながら、色々寄って行ってみようよ。途中に売店もあるみたいだから、そこで昼食を取るのがいいんじゃないかな」
「だんだんデートらしくなってきたわね」
「ピクニックみたいな感じだけどね。歩いてばっかりだもの」
病み上がりの溢歌に悪いと苦笑してしまう。まずは、近くの花広場を目指す事にした。
肩肘張らず、ゆったりとした気分で新鮮な空気を吸い込み、自然を満喫する。水海の周辺は緑も多く、かなり自然と人間の調和が取れている街並になっている。
手を繋ごうかと溢歌に差し出すと、笑って僕の手を取ってくれた。何だか恋人同士みたいで、言い出しっぺの自分が照れ臭い。
しかし、広い。道も木々も規模が大きく、自分が小さな存在になってしまったよう。本当に展望台に辿り着けるのか少し心配になりつつ、その広大さを楽しむ。
「これだけ広いなら、ギターでも持って来れば良かったかな。あ、そんな顔しないで」
溢歌の耳に届くくらいの声で呟いてみると、案の定反射的に苦い顔をされる。しかし、クリスマスライヴの事も考え、溢歌に僕の音楽を理解して貰いたかった。急ぐ訳では無いし、100%理解されなくてもいいから、ちゃんとライヴを観に来てくれるようにならないと、僕は本当に溢歌に依存しっ放しの人生になってしまいそうな気がするので。
「家やスタジオだとどうしても狭いからね。ストリートで演奏してる人とか、広々とした所で歌いたい気もよく解るんだ。何にも縛られず音を放つのは、気分の良い事だよ」
周囲の自然を眺めながら話す。と言うか、溢歌の顔を見ると萎縮してしまい自分の言葉を吐き出せなくなるので、顔をそちらに向けない。
「私が邪魔?」
「そうじゃないよ。溢歌が家に来る前だって、あそこの家は黄昏の所みたいに防音にもなっていないし、近所迷惑を考えるとどうしても気遣ってしまうからね。近くの川沿いとかで演奏しても、人目が気になっちゃうし。これだけ広いと、どうでも良くなるものね」
ストレートに訊かれても、うろたえる事無く説明できる。自分の胸の内に抱えている事は、音楽の事も含め全て溢歌に伝えておきたかった。
そして今は、黄昏の名前も恐がらずに出せる。
「黄昏も、最近は夜に街角で他の仲間と歌っているようだし。置いて行かれたくない気持ちはいつもあるよ。こんな事、溢歌に言っても仕方無いんだけどね。だけどこれだけ広いなら、水筒でも持って来れば良かったかなあ。自動販売機なんてそうそう無いもの」
この風景に自動販売機があっても趣が削がれるだけだろう。舗装された煉瓦や模様入りの道や、風情を感じる作りの街灯は見事に周辺の景色と一体化している。
「先に食事する?展望台に行ってからにする?」
「後でいいわ」
途中で椅子とテーブルの用意されている売店を見つけたので尋ねてみると、溢歌はそれほどお腹を空かしていないみたい。僕はと言えば朝から何も食べていないので随分と空腹を感じていたけれど、歩き通した後の方がご飯も美味しく感じると思い我慢我慢。
そこから10分弱程歩くと、カラフルな花園が見えて来た。歩道に沿うように青赤黄色の花が芝生を埋め尽くすように植えられている。その華やかさに思わず感嘆の息が漏れた。
「凄いね」
「花粉症の人には辛そうだけれど」
「花粉症なの?」
「いいえ」
よく分からない受け答えをする溢歌は、小走りに花の前に近づくと興味深そうに眺め始めた。正直僕も花には全く詳しくないので、事細かに解説する事もできない。一目見て判別できる花の種類なんて両手で数えるほどしか無い。
「溢歌は花に詳しい?」
「全く。でも、とても綺麗だって事はわかるわ。こんなに綺麗な場所、向こうでも見た事なかった……」
意味深な言葉を呟き、その場に跪き黄色い花に手を伸ばす溢歌。優しく花びらを撫でる光景を後から何とも言えない気持ちで眺めていると、溢歌が茎の部分に手を伸ばした。
「ちょ、ちょっと」
「どうかした?」
慌てて声をかけると、怪訝そうに振り返る溢歌。
「今、摘もうとしたでしょ。駄目だよ、公共の物なんだし」
「そう?せっかくだからたくさん摘んで花飾りでも作りたかったけれど」
「悪気、無いんだね……」
「どうして?こんなに綺麗な花なんだからそばに置いておいてたくならない?」
「それは……なるけど、とにかく摘んじゃ駄目」
「ざんねん」
本当に残念そうに植えられた花を眺める溢歌は、どうやら悪気が無いみたい。気持ちは分からなくも無い。でも、他人が育てた物を横から掠め取って行くなんて駄目。僕達と同じように、花を眺めに来る人達の為にも。
「何なら、帰りに花屋にでも寄ってみる?小さい花瓶くらいなら部屋にも置けるし」
「でも、自然じゃないものって、何だか嫌。温室で人の手にかけて育てられているもの」
「そうは言うけど、ここの花も変わらないよ?単に自然の中に植えられているかどうかだけの違いだもの」
「……それもそうね」
溢歌は複雑な面持ちで頷いた。自然にこれだけの花が群生するなんて有り得ない訳で、毎日誰かが手入れしているからこそ整然と育てられている。
「もしかして、もっと山の奥に連れて行った方が良かったかな?野生の花なら」
立ち上がり先を歩く溢歌に声をかけると、足元の花を眺めながら答える。
「この季節に、そんな都合のいいように咲いているとは思えないわ」
「……だね」
溢歌の言葉は、どこか物悲しい響きをしていた。
「――雨風吹き付ける剥き出しの岩盤に咲いた一輪の野生の花、なんて聞こえがいいわね」
歩道の中央に足を止め、周囲の花の薗を見回しながら溢歌は呟く。
「力強く、孤高で、どんな逆境にもめげない――そんな印象を持ってしまうけれど、周りに誰もいない、そんな場所から一歩も動けずに生きていかないといけないその花は、心の中で本当はどう思っているのかしら」
端から見る限りではとても逞しい生命力を持った崖下に咲く一輪の花。しかしそれが孤独だなんて事は、今まで一度も考えもしなかった。
「それが、溢歌の生き方だったの?」
恐る恐る、尋ねてみる。溢歌はその花に、自分を重ねているのかと思って。
すると溢歌は、僕の方を振り返り可笑しそうに口元に手を当てた。
「まさか。私はそんな強い生き方なんてこれまでした事もないわ。でも、それだけの強さがあるなら、私は今日まで迷いながら生きて来るなんてなかったと思うの」
羨望の眼差しを、そばに咲く花達に向ける。ここに咲く花は溢歌の話す野生の物とは違う。十分に管理され、育てられた花。僕はこの花と同じように愛情を持って育てられた。溢歌は、それすら叶わなかったのだろうか。
「そう言えば……この前、雨の日に溢歌を探しに行った時、実家を見つけたよ」
言って言いものか少し迷った後、正直に打ち明けた。避けては通れない話だし、ちょうど良いきっかけだったから。
溢歌は少し身構える素振りを見せ、僕もややためらいつつ話を続ける。
「前に着替えを取りに行った時も、まだ溢歌が岩場のそばに住んでいるのがにわかに信じられなかったんだけど。古風な家で、溢歌が妙に世帯じみているのも分かった気がしたよ」
「――そう、見たのね」
残念がちに溢歌が肩を落とす。知られたくなかったんだろう。
「なら、私が家出をした理由も薄々想像つくでしょう?」
「……うん」
あの日見つけた溢歌の実家を思い出す。あそこに人の匂いはしなかった。溢歌と一緒に住んでいた人が、今はもういなくなってしまったのだろう。出て行ったのか、亡くなったのか――そこまでは判らない。
「嫌なのよ、あそこに居るのが。もうあそこには、何も残っていないわ。私の欲しいものは何も。とても静かよ、家の中は。波の音すら聞こえないくらい、静か。死の匂いしかしないのよ、今となっては――」
苦しみを吐露するように声を絞り出す溢歌。太陽の照る日だまりの中で、溢歌の周囲の空気だけが冷えている。
「じゃあ、帰らなかったの?その日はどこへ行ってたの?」
抱き締めてやりたい気持ちを抑え、心苦しい気持ちのまま更に問い詰める。溢歌は軽く深呼吸をし、表情を平静に戻してから答えた。
「この前、知り合った人のところよ。黄昏クンに紹介してもらった、ね。青空クンのところにお世話になるまで、そこで寝泊まりさせてもらっていたの。でも、無断で出てきちゃったから、改めてお礼を言いに行っただけよ。大した事じゃないわ」
「そうだったんだ。何だか、そう言うタイプには見えないけど」
思わず失言を漏らしてしまうと、溢歌が頬を膨らませた。周囲の空気も多少柔らかくなり、つい笑みが零れてしまう。
「でも、それなら何か一言残して行ってくれれば僕も必死に探さなくて済んだのに」
僕が言うと、腕を組んだ溢歌が花畑に目を向け、呟いた。
「……怖くなったのよ。幸せ過ぎる、この状況が」
その言葉に、僕は軽く衝撃を受けた。
「この幸せに身を委ねてしまうと、また一人になった時、私はどうなるんだろうって。想像できない未来が、怖いのよ」
溢歌の言っている事の意味は分かる。でも、理解できない。第一、僕が溢歌を悲しませる事があるの?
「そんな心配しなくても大丈夫――」
「だって言える?揺るぎない意志を持って言える?――ごめんなさい、青空クンを疑っているわけじゃないのよ。ただ、私とあなたの間に、埋まらない隔たりがずっとあるから」
悲しそうに言う溢歌に、僕は躊躇わず反論してやりたい気持ちになった。でも止めた。何も言ってくれないのは溢歌の方だけど、責める事だけはしたくなかったから。
「とりあえず、行きましょう?ここでずっと立ち話をしていても何だもの」
「え?ああ、うん……」
溢歌が先の道を指差し歩いて行くので、腑に落ちないまま後に続いた。その後横を歩く溢歌に何度か話を切り出そうとするものの、僕の顔を見ないで突っ張った顔で歩いている。普通に楽しいデートもできないのかと思うと心苦しい。
そのまま、風景を眺めながら緑の多い歩道を進む。楽しむ、と言う感じでは無い。見える景色について話をすると多少食いついてはくれるものの、歯切れは悪かった。さすがにこの状況では、僕からも言いだし辛い。
「展望台だ」
やがて、丸太で組み立てられた展望台が姿を現した。ここまでの道程は両側に高い木々で覆われていたので、目の前に突然巨大な展望台が出現した感じ。高さは2,30mだろうか。戦国時代の見張り台のような印象を思わせた。
「私が話さない理由は分かる?自分の事を」
内部の螺旋状の階段を上っている所で、溢歌が話の続きを振って来た。足を止め、下にいる溢歌の方を振り返る。
「言いたくないんでしょ?辛い事を思い出したくない気持ちも分かるよ。それに、溢歌が音楽を嫌っているのも理由の一つだと思っているけど」
「何もかもお見通しなのね」
目を伏せる溢歌の表情は、ここからだと角度的に見えない。階段を駆け下りそばに行きたいのに、溢歌はそれを拒む空気を出していた。仕方無く、一歩一歩階段を上がる。
「私はね、3年前にこの国に戻って来たのよ。と言っても、それまでにここで暮らしていた記憶なんて、ほとんど無いけれど」
僕は振り返らず、溢歌の話を聞いていた。喋っている時の沈んだ表情を見られたくないだろうから。
「両親はあまり、仲が良くなくて。ほとんど別居状態だったわ。母親は別に男の人ができたから、そちらの方へ行って、私は父親と暮らす事になったの。それでもよく、母親の所へ遊びに行ったわ。それほど遠くに住んでいた訳でもなかったもの」
何だか、黄昏の境遇と似ている。黄昏の場合は死別したのか離婚したのか、最初から父親がいなかったらしい。
「私には、二つ家族があった。でも、どちらも本当の家族と呼べるものだったかどうかはよく分からないわ。普通の人達が送っているような家族の生活みたいなものは、あまり無かったと思う。でも、私は幼くて力も無かったから、それを受け入れたわ」
話せば長くなるからなのか、それともあまり思い出したくないのか、事細かに話す事はしない。気付けば螺旋階段も半分上っていた。
「でも、母親がいなくなって、また状況も変わって。結局父親も、母親の男もいなくなってしまって、私は独りぼっちになったわ。幼心で絶対的な孤独を味わうなんて、分かる?」
分かる訳ないでしょう!?と責められているように聞こえた。それほど、溢歌は辛い人生を送って来たんだろう。僕には、全く想像もできない。
「独りになった私に、色々と引き取り手が現れたわ。でも、私の心を助けてくれようとする人間は一人もいなかった。そんな中、お母さんのお父さん――これまでずっと疎遠だった私のおじいちゃんが、私を引き取ってこの国へ連れて来てくれたの。感謝してるわ」
溢歌が妙に周囲と浮いたように見えるのも、長年海外で暮らして来たからなんだろう。料理が上手なのは、二人で暮らしている間に学んだからだろうか。
「天使って言い方はおかしいけれど、その時のおじいちゃんは神様に見えたものよ」
俯いていた溢歌が、その時だけ僕の顔を見て笑顔を見せた。本当に、嬉しかったんだろう。その気持ちが僕の胸に届くと同時に、小さく痛みが走った。
「その、おじいちゃんって――」
溢歌の家の表札を思い出す。僕の問いかけに、溢歌はすぐ表情を曇らせた。
「ええ、亡くなったわ。最後の方は寝たきりで、ずっと看病してたけれど、結局老衰で。看病は辛かったけれど、幸せだったわ。独りじゃなかったもの」
か細い声で、言葉を紡ぐ。溢歌の想いが僕の心臓を射抜き、不意に涙が出そうになる。屋上の手前で足を止めた僕と、階段を上る溢歌の距離が詰まる。
「でも、二度目は、辛かった。私は本当に、天涯孤独の身になっちゃったから」
とてもやりきれなさそうに笑顔を作ってみせ、呆然と立ち尽くす僕の横をすり抜け溢歌は屋上へ出た。途方もない痛みが僕の心を襲い、思わず胸に手を当て前のめりになる。
まさか、他人の過去でこんなにも苦しくなるなんて。
よろめくように、階段を登り切る。展望台の屋上は想像以上に高く、360度パノラマで広大な世界を眺める事ができた。溢歌は手すりに手をかけ、柔らかい風を感じている。
話を聞いていて、溢歌が浮き世離れしている理由が分かった気がした。この現実に染まろうとしていないんだ。生きて行くのに辛すぎるこの現実から目を背けている。だから、自分を大切にしようとなんて思っていない。自分の存在なんて宙に舞う花びらのように、流されて行くものだと思っている。
僕の元に舞い降りたのも、おそらく、孤独でいて自分自身を顧みたくないからなんだ。
「人は、いないのね」
「お昼時だからね。みんなご飯を食べに行ってちょうどいい時間帯に来たみたい」
何とか冷静に振る舞おうと普段の会話を努める。微妙に声色が変わっているのが自分でも分かった。溢歌の告白に、想像以上に深い衝撃を受けている僕がいる。
これは、溢歌を他人と思っていないからここまで動揺しているのか?いや、ここまで深い関係じゃなかったとしても、同じような結果だったろう。
自分の見知った人間の過去を知る事で、これまでと同じ視線で相手を見る事ができるのか、今は凄く自信が無い。恐らく溢歌も心のどこかでそれを恐れていたに違いない。
本人が喋りたくなかった理由も今ならはっきりと分かる。
「何だか、世界を独り占めにしているような気分だね」
ふらつくようにその場で一回転し、景色を楽しむ。目に飛び込んで来る普段は見られない新鮮な光景と、動揺で混乱している心境とで、激しく三半規管が揺さ振られている。
「でも、目に映るこの素晴らしい景色も、私のものではないんだわ。キミのものでも」
憂いを帯びた目で、遙か遠くかすかに見える海を眺めながら溢歌が言った。どう言う意味なんだろう。これだけ美しい世界でも、決して自分の為に存在しているのではないと言う事なのか。世界はどこまで言っても残酷だと言う事なんだろうか。
ここから見える景色は、なだらかな丘陵の上だからか周囲が開けて見える。湾岸から徐々に山なりになっている地形とは言え、そこまで高い山が連なっている訳ではない。それでも海面との高度は離れているので、水平線が非常に遠く見える。
ゴルフコースのヘリの空撮みたいな風景の見え方とでも言うのかな?自分の立ち位置からどこまでも陸地が続いているような印象を受ける。
「こんなに広大な景色を見るとね、とても自分が小さな存在に思えるわ」
溢歌が目を細め、手すりの外に広がる景色を見つめる。風になびく長いウェーブのかかった髪が、軽く音を奏でている。
「無限に広がる世界の中にね、一人ぽつんといる気分になるの。海辺で水平線を見つめている時も同じ。世界の広さを感じると同時に、ちっぽけな自分も感じるのよ」
「孤独って事?」
僕の問いに溢歌は目線だけ向け、再び景色に視線を戻した。軽く息を吸い込み、意を固め僕は溢歌の隣に立つ。
「今は、溢歌一人じゃないよ。ここにこうして、僕がいるもの。」
精一杯の言葉。強がっているような、でも心からの想い。
この場所には今、僕と溢歌の二人しかいない。周囲に人の存在は無く、まるで世界に僕達二人だけが存在しているような感覚に陥っている。だからこそ、何の迷いも無くこの言葉を言えた。
「――青空クン、あなたは、私を置いていかないと言える?」
その問いに、僕は万感の想いを込め、力強く答える。
「……言えるよ。僕は溢歌の為に、やれる事は全てやるつもりでいるよ」
柔らかい風が吹いた。溢歌は瞬きもせず、僕の目を見つめている。
この言葉が、結果的に嘘偽りになってしまうかも知れない。未来なんて、何が起こるか分かるはずが無いから。でも、僕の溢歌に対するこの想いだけは、揺るがずに胸の内に留まっているだろう。例え溢歌が、僕の方へ振り向いてくれなくなったとしても。
そして、溢歌に話しておこうと思った。
「僕が溢歌に、何か音楽でできる事はないかな?」
「え?」
「溢歌と音楽、どちらかを選べと言われても僕にはできないけれど、音楽で溢歌を助ける事ならできると思うんだ」
また怒られ機嫌を悪くしてしまうと思っても、自分の意志を曲げられない。だって、僕はそれでしか自分に存在意味を持たせられる方法が無いから。逃げ回っていたのは溢歌の方じゃなく、いつまでも自分の不甲斐無さと向き合えない僕自身の方。
「勿論、溢歌に今以上色んな迷惑をかけてしまう事になると思うけど――」
上手く行くかどうかは分からない。結果的にどちらかを捨てる羽目になってしまうかもしれない。でも。
「音楽をやっている僕を嫌いにならないで欲しい」
ありったけの想いを願いとして、僕は溢歌にぶち撒けた。徳永青空はこう言う人間だと言う事を、真正面から溢歌に見て欲しかった。
僕の中にある想いを、曲にして溢歌に届けたい。何なら溢歌に曲作りを手伝って貰うのもいい。音楽が嫌いな溢歌を納得させられる歌を、僕なら作れる気がするんだ。
真っ直ぐな瞳で僕は溢歌の目を射抜く。溢歌も、何も言わず釘付けになっていた。怒ったり、茶化したりする気配では無い事を悟ってくれたんだろう。僕の言葉を、難しい顔一つ見せず正面から受け止めてくれていた。
それはおそらく、溢歌も自分自身変わりたいと思っているから。
しばらく無言で見つめ合う。本当にこの世界には、僕達二人だけしか存在しない気がした。しかし、次の言葉が見つからない。そのまま時が止まったように感じていると、階段の下から展望台に登って来る子供達の声が聞こえて来て、二人の空気は融解した。微笑み合い、並んで手すりにもたれかかる。空気の匂いが、気持ち良かった。
「青空クンって、変わってきたわね」
「そう?」
くだけた調子で受け答えする。溢歌も何か吹っ切れたような、いい笑顔を見せている。
「出会った時はもっと、臆病だったわ」
「今も大差無いよ。変わったとしたらそれは溢歌がそばにいるからだろうし――昔から一度決めた事は頑なに捻じ曲げない所があるみたいで。信念と言うかさ」
僕みたいな人間がそばにいると、本当に大変と思う。黄昏より厄介かも。
「でも、人一倍相手の顔色を気にする癖して、結構我が強いんだよね、僕って。相手に嫌な思いをさせたくないとか思っておきながら、横で頷いているだけでいいのに一々自分の意見を押し通そうとして、ぶつかってしまったり。それはもう昔から、誰が相手でも変わらない所があるかな。鬱陶しい性格だよね、本当に」
自分で話しておきながら、どうして他のバンドのみんなや溢歌に好かれるのかがよく判らなくなってきた。それが僕の魅力なのかな?
「それで?私は青空クンに期待していいの?」
溢歌は反転し背中を手すりに預け、含みのある笑顔で尋ねて来る。軽やかな口調とは裏腹に、目だけはとても真剣に僕を見ていた。
「溢歌を悲しませる事だけはしないよ、絶対」
この展望台の柱に今の言葉を刻み込んでおいてもいい、その位の決意を持って答えた。溢歌は小さく頷き、僕の耳に届くかどうかの声で「ありがと。」と呟く。
初冬のほのかに冷たい風は、僕達の頬を緩やかに撫でた。