102.雨のち曇りのち晴れ
死ぬ。
いっその事、雪になってくれた方が遙かに良かった。気圧の関係で雨の日は意外と気温が高かったり……なんて事は無く、ざんざんに降りしきる雨が堪らない。手袋も用意してもこれだけ雨が降っているなら水滴が染み込んでしまい、余計に体が冷えてしまうので外している。背中にギターのソフトケースを背負い、傘を覆うようにしてあるので正面からの雨は防げない。一旦叔父さんのスタジオへ寄り、ギターを置いて行こう。
海沿いの道をしばらく走る。冬の夜の海、風も強くなっていて波音が堤防に当たって砕ける音が聞こえて来る。この天候で溢歌は岩場にいるなんて真似はやる訳が無い。ただの自殺行為でしか無いもの。しかし実家にはいるかも知れない。
一抹の希望を胸に、泣きそうになるのを堪えながら自転車のペダルを踏み続けた。
岩場へ続く港の前で、一旦休憩する。叔父さんの弟が経営している喫茶店隣の自販機のコーナーは雨除けがあるので、そこへ退避し温かい飲み物を買う。着替えを喫茶店に入って交換する事もできるけれど、気恥ずかしさで僕はほとんどこの店へ足を踏み入れた事は無かった。
「ダイジョーブ?」
声をかけられふと顔を上げると、赤髪の顔立ちの整った猫目気味な女の子が僕を見ていた。千夜と同じくらいの背丈で、緑のエプロンを着ている。この店のバイトの子かな?
「何とか……ほとんど濡れちゃってるけどね」
ギターを死守するあまり、自分の体は考えていなかった。溢歌を見つける頃には風邪を引いていそう……と思った途端、くしゃみが出た。
「ちょっと待ってて」
そう言って赤髪の子は店の入り口へ引き返して行く。僕はその間に買ったばかりの缶コーヒーを両手で抱え、店の壁に背を預け味と温もりを味わう。生き返る。
束の間の幸せを噛み締めていると、女の子が戻って来た。
「はい、これ」
白いタオルを渡してくれる。早速お礼を言い、雨に濡れた顔と頭と両手を拭いた。
「雨宿りしていく?コーヒーぐらいなら出してあげるよ」
「ありがと。気持ちだけ貰っておくよ。急いでいるんだ」
コーヒーを一気飲みし、かごに空き缶を捨てる。重ね重ねお礼を言い、女の子にタオルを返した。暗くてはっきりと顔は見えないけれど、僕が独り身なら、つい寄って行ってしまいそうなほど可愛い。きっと繁盛しているんだろうなと思った。
「それじゃ、叔父さんに宜しく」
そう言い残し、傘を差し急いで自転車の元へ駆け出す。またの機会に改めてお礼を言いに行こう。自転車を押し、そのまま港へ降りる防波堤の階段の前まで移動する。
岩場は想像以上に酷かった。と言うか、暗くてそちらの方はほとんど見えない。岩に砕け散る波の音が凄く、港に立っているだけでも大波に攫われてしまいそう。逃げるように堤防上の居住区の方へ移動する。湾外沿いの道路より内側で津波でも来たら一発で飲み込まれてしまいそうな場所にあるけれど、地形と周囲の自然が守ってくれているのか。
溢歌の家に辿り着くも、電気はついていなかった。遠目に見ただけで、死んだように静まり返っている。一応そばまで行ってみて、確認してからすぐに引き上げた。
まいった。
もうこれは、溢歌が僕の家に帰っている事を祈るしか無い。朝から自転車ばかり漕ぎ、夕方もスタジオに2時間入ったから体力が尽きかけている。自宅に戻った時にもう探しに行く体力は無い。明日は昼からバイトなのが唯一の救い。
とりあえず、帰ろう。力無く項垂れていると潮風が真横から当たって凍えるので、疲れた体に鞭打ち急いでその場を引き上げた。
叔父さんのスタジオのそばを通りがかり、すかさず自転車を止め転がり込む。
「おや、青空……ってどーしたの、その体!?」
ずぶ濡れで店に入ってきた僕を見て、叔父さんは目を丸くした。近所にバイト先があるとこう言う時は非常に助かる。ギターを置かせて貰い、着替えも貸して貰う。
「大丈夫?風邪引かない?」
「多分……何とか……その時は電話します」
「明日は忙しくなるからできれば無理してでも来て欲しいんだけどなあ」
「努力します……一応、薬だけ下さい」
家に薬は置いていないので、適当に薬を何種類か貰う。自転車をここに残し電車で帰ろうかと思ったけれど、溢歌の事を考えると無理してでも自転車で帰った方がいい気がした。
「雨は深夜には止むらしいよ。車に気をつけてね」
気休めにもならない言葉を頂戴し、自宅を目指す。溢歌を探すよりも自分が無事帰宅できるのか不安になってきた。
しかし人間気合いと根性さえあれば何とかなるもので、雨の中1時間と少しで河川敷を遡り自宅に帰って来る事ができた。距離を考えると親の家へ帰るのも一つの手ではあったけれど、溢歌が家へ帰って来ていたらと思うと、めげる訳にはいかなかった。
家の近所、知っている場所に出ると安心する。ゆっくりペダルを踏み、へろへろになりながら自転車を漕ぐ。家のアパートの前で自転車を降り、疲れた体で玄関前まで押して行くと家の前に人影が見え、心臓が飛び跳ねた。
誰!?と心底脅えた次の瞬間、違う驚きに変わった。
「溢歌!?」
「遅かったじゃない」
扉の前にワンピース姿でもたれかかるように座り込み、僕の姿を見て腰を上げる。
「ど、どうしたの」
「どうしたのって、待ってたのよ、ずっと」
と言われても、厚着もしないでずっと外で?僕みたいに濡れてはいないのが救いか。
「鍵は?上着は?」
「ちゃんと持ってるわよ。言ってるでしょう?ずっと待ってたって」
「あ、うん……でも、そんな格好じゃ風邪引くよ、早く部屋に入ろう」
急いで自転車を置き、溢歌を連れ中に入る。部屋の中は真っ暗で、夕食の支度もしていなかった。
「ほら、溢歌も脱いで。一緒にお風呂に入ろうよ」
自分も濡れた衣服をその場に脱ぎ捨て、風呂場に飛び込む。溢歌も連れて裸になり、一緒に狭い洗い場に入る。しかし、浴槽に水も張っていない。
「どうしよう?軽くシャワーを浴びて、銭湯にでも行く?」
その方が効率良いと思い尋ねてみると、溢歌は無言で首を横に振った。一旦トイレで用を済ませてから、戻って来ると溢歌は湯気の立つシャワーの下で座り込んでいた。
「明日の朝、お風呂に入れるようにしておくね」
別の蛇口で湯船に水を張っておく。溢歌の髪の毛を洗うのを、僕も後で手伝ってあげる。何度か一緒に入った時に洗っていて、柔らかい髪の手触りが気持ち良い。
「今日はほんと、寒かったね。自転車で出かけてたんだけど、ずぶ濡れになっちゃったよ。途中で仕事場に寄って、着替えを借りたから良かったけどね。溢歌は大丈夫だった?」
豊かな髪にシャンプーを馴染ませながら尋ねてみると、無言で小さく頷く。向こうから話しそうな気配が無いので、僕が一方的に喋り続ける。
「岩場に行ってみたんだけど、凄い波で近寄れなかったよ。晴れている時はあんなに穏やかなのにね。冬の海は怖いよ」
その後も色々と他愛も無い話題を振ってみるも、元気が無いのか食いつきが悪い。髪の毛に一通りシャンプーを馴染ませた所で、後から羽交い締めにしてみた。突然の僕の行動にさすがに溢歌も反応する。
「……ちょっと、何してるのよ」
「ぎゅ〜ってしたかったから。温かいでしょ?」
シャンプーの匂いを嗅ぐだけで気分が良くなる。外で雨に打たれていた時と比べると天国にいるみたい。
「あんまり、温かくないわ……青空クンも体、冷えてるもの」
「じゃあ、暖め合おうよ」
「あ」
そのまま、雪崩れ込むように交わる。溢歌は少し嫌がる素振りを見せるも、後から口づけを交わすとあっさりと陥落した。体が十分に火照った所で、互いに体を流し合い、風呂場から出る。体の芯から疲れが滲み出て来たようで、食欲も起こらないほど眠い。
「乾かすの、手伝うよ」
溢歌も寒い空気にずっと触れていたせいか元気が無いようで、髪を乾かすのを手伝ってあげる。溢歌の髪は柔らかく、顔を埋めると天にも昇る気持ちになる。
「今日は、もう寝る?今からご飯を作って貰っても、起きていられそうにないよ僕」
僕の問いかけに溢歌も頷いた。何だか、いつも見せる芯の強さが今日は見られない。どこへ行っていたのか、何をしていたのか、訊こうと思ったけれど全て明日に回そう。
寝間着に着替え布団を敷き、溢歌と一緒に枕元に入る。漂ってくる風呂上がりの溢歌の匂いを吸い込んでいると、魔法のように一気に眠気が襲って来た。明日もまた起きた時に溢歌がいなくなるのが怖いので、眠気で力の入らない手で溢歌の手と握り合わせる。溢歌の横顔を確認した所で、僕の意識は途切れた。
よっぽど疲れていたのか、夢も見ないほどの暗闇がしばらく続いた後、電気の落ちた部屋で目が覚めた。手には感触があり、首を傾けると溢歌の姿が目に入る。反対側に首を向けると、カーテンの向こうから薄暗い光が射し込んでいた。晴天では無さそう。
溢歌の寝顔を確認してから布団を出ようとすると、突然溢歌が咳をした。
「大丈夫?」
顔色を改めて確認すると、朦朧とした表情で浅い呼吸を繰り返している。
嫌な予感がして、恐る恐る溢歌の額に手を当てると、思った以上に熱かった。
「だだだ、大丈夫!?……じゃないよね、溢歌、起きてる?」
軽く頬を叩くと、うっすらと溢歌が目を開け微笑む。
「人を病人みたいに言わないでよ」
「いや、病人だって……昨日、ずっと外で僕の帰りを待っていたからじゃない?」
「違うわよ。傘がないのに途中で雨に降られて、濡れちゃったせい」
嘘か誠かどちらにせよ、風邪を引いている事には変わり無い。
「辛かったなら起こしてくれれば良かったのに。今、薬用意するから」
「隣で幸せそうに熟睡しているんだもの、起こせるわけないじゃない」
辛そうな表情のまま笑顔を作る溢歌。隣で溢歌が苦しんでいたのを、僕は気付かずに眠りに落ちていたのかと思うと情けなくなる。急いで昨日叔父さんから貰った薬を取り出し、シロップのを溢歌に渡した。目がとろんとしていて、視界が定まっていない。
「これ上から羽織って。あんかも出しておくから」
こたつもつける事はできるけれど、布団にくるまっている方がいいだろう。押し入れの中を探し、実家から引っ越しの際に持って来ていた電気あんかを引っ張り出す。エアコンを昨夜入れていなかったせいで部屋の空気も冷えていたので、やかんに湯を沸かし暖房を入れた。
「食事は?お腹空いてるでしょ?」
「食べる気しない……このまま餓死してもいい……」
「そんな事言ってる場合じゃないよ。えーと、おじやってどう作るんだっけ……」
「米とネギと卵」
「そうそう。卵ってあったっけ……、ないか。じゃあちょっと買い出しに行って来る。自分の分も必要だし、薬屋にも寄って来るから。咳止めとのど飴でいいよね?」
溢歌の答えを聞く前に寝間着姿にジャンパーを羽織り、財布を用意し家を出る。多少空はぐずついているものの、雨は止んでいた。時刻的に正午前位か。
必要なものを近所の商店街のスーパーと薬局で購入し、急いで家に戻る。つけたまま出たやかんの火は溢歌が止めてくれていて、まな板の上に土鍋も出してくれている。忘れたまま出かけた炊飯器の準備もしてくれて、僕よりしっかりしている。
「後で食べるからのど飴は置いといて……これ、咳止め。辛かったら使って」
「ありがと」
笑顔で微笑む溢歌が、今日は一段と可愛く見える。しんどいせいか、刺々しさが無い。
「溢歌が辛いなら、今日は僕もバイト休むよ」
「そんなに酷くないから大丈夫よ。あまり寝つけなかった分、青空クンが出かけている間は大人しく寝てるから」
「そんな事言って、また昨日みたいに何も言わずに出かけたりするかも知れないじゃない」
「あはは、そうかも」
溢歌は布団の上で横たわったまま、おかしそうに笑う。その笑顔が無理に振る舞っている気がして、胸が痛んだ。
「青空クンこそいいの?昨日、ひどい顔して帰ってきたけれど」
「僕は、何とか……。半日以上眠っちゃったみたいで、疲れは無いよ」
帰宅途中でスタジオに寄ったのは正解。急に自転車を何時間も漕いだせいで足腰は筋肉痛だけど、こんなものは二日もあれば痛みも取れる。
洗い場へ行き、濡れタオルと水を貼った洗面器を用意して来る。この季節だと氷を用意しなくても水道水が冷えている。湯気の出るやかんも室内に持って来ておいた。
「私って、こんなに病弱だったかしら」
「僕に訊かれても困るよ」
「寒さには結構強いつもりでいたのに。風邪なんてここ数年引いてないわよ」
「それだけ愚痴を漏らせるならまだ元気だよ。はい」
濡れタオルを額の上に乗せてあげると、冷た過ぎたのか上体が跳ねた。僕にタオルを返そうとしたので注意すると、渋々引き下がる。
「無理をしないなら熱はすぐ引くと思うよ。咳は長引くかも知れないけどね」
溢歌を看病する事になるなんて想像もしていなかった。黄昏が風邪を引いた時も、知らなかったとは言え看病なんてしなかったから。そういや家に体温計も無い。
「何も言わずに出かけるから風邪を引いちゃうんだよ」
肩を並べるように姿勢を崩し、意地悪く言ってみせる。
「ちゃんと戻ってくるつもりだったわよ」
「なら書き置きぐらいちゃんと置いて行ってよ。一日中探し回ってたんだよ。おかげで休みも潰れちゃったし」
練習に行く為に溢歌を説得しないで済んだのは有り難かったけれど。そんな事を考えると、やはり溢歌は音楽をやる為の足枷にしかなっていないのかと、心苦しくなる。
「用を思い出して出かけていただけよ。でも、連絡の取りようがなかったもの」
「携帯の電話番号は……教えておけば良かったね」
「そんなの私が覚えておくわけがないじゃない」
「うん、だから後で財布にメモを忍ばせておくよ」
笑顔で言うと、溢歌は膨れた顔で顔を背けた。額のタオルが落ちたのでかけ直してあげると、恥ずかしそうに顔を赤らめ苦い表情を見せる。少し間の抜けている所が面白い。
「今日はあんまり深く考えずに、ゆっくり体を休めておきなよ。何なら子守歌も歌ってあげるけど?」
「それなら自分で歌うわ。頭痛がするのも嫌だから」
調子に乗ったら痛いしっぺ返しを喰らった。話術は溢歌の方が一枚上手。
念の為、訊いてみた。
「頭痛もする?頭痛薬も後で買いに行っておくよ」
「そんなに一度に服用したらかえって体調おかしくなるわよ」
それもそうだね。相手の体調の事を考えるあまり失念していた。
「ご飯が炊けるまで、しばらく目を瞑っていればいいよ。起こしてあげるから」
僕の言葉に甘え、そのまま溢歌は目を閉じる。無防備な寝顔に引き込まれ、ついキスをしてしまいたくなるけれど、菌を口移しするのと同然なので自制する。昨日の風呂場では口づけを交わしていたかどうか、疲れていたので記憶に無い。体調が悪い事に気付かず、無理にセックスしたのを後悔する。
でも、溢歌の存在をそばに感じられる事がとても嬉しい。今になって目の前に溢歌が戻って来てくれたのを実感し、思わず涙腺が緩む。寝込んでいなければ、そのまま強く抱き締めたい気持ちでいた。
横になり溢歌の寝顔を飽きもせず眺めていると、僕も眠気が襲って来る。昨日叔父さんに念を押されているので、バイトには出ないといけないのが辛い。自分が体調を崩すのではなく、同居人が風邪を引くとは。
エアコンで室温も上がり、うたた寝気分でいると炊飯器がご飯を炊けたブザーで目が覚めた。溢歌は浅い夢に落ちているのか目を開ける気配が無いので、しばらくそのままの姿勢で二人でいる幸せを噛み締める。
一度味わってしまうと、この感覚は捨て去る気にはなれない。音楽への情熱も戻りつつある状況で、溢歌とバンドを天秤にかける事はできなかった。
模索すればいいんだ、溢歌と音楽を両立できる道を。
しかし、風邪を引いてしまった今、溢歌に相談をかける事はしない。余計な話をしてまた溢歌が飛び出してしまっては話にならない。じっくりと説得していくつもり。
しばらく横になっていると眠気も取れ、自然に瞼が開いてしまうので頃合いを見計らい上体を起こした。出かける時間まではまだ一時間くらい余裕がある。ご飯を食べ、少し溢歌と話してから出かける事ができるだろう。
おじやを作ろうとまな板の前に立つ。しかし、作り方が分からない。料理の本なんて手元に一冊も無いし、たまに自炊をするにしても母親の見よう見まねでできる料理ばかり。カレーとか、野菜炒めとか、レトルトを使う中華料理とか。
仕方無くネギを切っていたら、まな板の音に気付き溢歌が起き上がって来た。
「大丈夫?」
「横になっていて味の不安な物を食べさせられるよりはマシでしょう?」
酷い言い分だけど、逆らえ無いので渋々包丁を渡す。
「後で見ておいて。やり方教えるから」
溢歌に言われ、後で作り方を習う。包丁さばきは本当に手慣れていて、風邪を引いていても危なっかしい場面は一つも無い。何だか母親の料理の仕込みを見ているよう。
「溢歌ってつくづく料理上手いよね。見惚れる位」
「これくらい当然でしょう?女の子はお母さんに一子相伝の料理の仕方を教えてもらうものよ」
そんなものだろうか。キュウがキッチンで手料理作る姿なんて全く想像できなかった。
「それじゃあ、僕も教えて貰おうかな。数えるほどしかレパートリーないもの」
「いいわよ。青空クンが覚える気ならね」
溢歌も乗り気なのか二つ返事で受けてくれた。顔色は優れなくても、勝ちん気の強い所を見せてくれるので安心する。昨日玄関前で会った時は、通路の明かりのせいもあってか真っ白に見えたから。
「ほら、簡単でしょ?」
5分も経たないうちに、おじやが完成した。溶き卵が上手い具合に鍋の中身に絡まって美味しそう。とは言え僕の食事じゃない。僕の視線に気付いた溢歌が、うっかりした表情を浮かべた。
「青空クンの分、すっかり忘れていたわ。どうしましょう」
「ん、僕の分はまた夜中に、バイトから帰って来てから作って貰おうかな。一応さっき買い出しに行った時に、僕の分のおかずも買って来ておいたし」
「……そう」
少し寂しそうに目を伏せ、溢歌は部屋へ鍋を運ぶ。家には土鍋が小さい物一つしか無いので、これからの季節を考えもう一つ大きい物を買っておこうか。
「食べさせた方がいい?」
「そこまで病人じゃないけれど……お願いしようかしら」
僕がレンゲを手にし、息を吹きかけ冷ましてから溢歌の口元におじやを運ぶ。火傷しないように気遣い手が震えるものだから、数回の所で結局溢歌が自分で食べる事にした。
自分一人の量だけなので、溢歌は土鍋の中身を全部平らげた。作る時から量を半分程にしていたみたい。食べている途中に咳をしていたけれど、そこまで酷くは無いみたいで良かった。かく言う僕は、横のカレーパンを悲しく食していた。やっぱり手作りがいい。
食後の後片付けを終え、布団に横たわる溢歌を見守る。頭を撫でると気持ち良さそうな顔をしたので、何度も柔らかい髪の毛を撫でてやった。手触りが心地良い。
「こうして、看護されるのって子供の頃以来な気がするわ」
「僕も中学校の頃に一度インフルエンザで1週間位寝込んでいた事があるよ。小学校と違って予防接種もしないし、ただの風邪だと思って甘く見てたら長引いちゃって。僕が隣にいて良かったね」
「本当ね……。そばに誰かがいるありがたみを痛感しているところよ」
強気な口調でも顔はとても安らかで、溢歌の顔を見ていると愛情が胸の内に広がって行くのを感じる。目の中に入れてしまいたいくらい可愛いとはこの事を言うんだろう。
「――私ね――」
「無理に喋らなくていいよ。訊きたい事は帰ってからね」
そのまましばらく無言でいると、二人でいるのにとても静かな室内の空気を感じた。室内の温度も上がったのでエアコンを切り、TVもつけず、時々ベランダの向こうを通る電車の音が聞こえる。いつも溢歌といると情欲の方ばかり優先してしまい絡んでばかりいるので、こうして安らげる時間を感じるのは少なかった。
何だか、黄昏と一緒にいる時の時間の過ごし方と同じ。
ただ、一緒にいて幸せな時間を噛み締める。心が温かい。安らぐ時間が僕の疲れた心を芯から癒してくれる。改めて溢歌がかけがえの無い大切な存在と思えた。
「――溢歌?」
しばらくそのまま安らぎを感じていると、突然溢歌の目尻から一筋の涙が頬を伝った。額に乗せたタオルで涙を拭き取ってあげると、うっすらと溢歌が目を開け僕の顔を見た。
「やーね、変なところ見せちゃった。――いいものね、幸せって」
「そうだね」
はにかむ溢歌の寝顔を見て、足を運んだ無人の実家を思い出し、溢歌の手を取り軽く握ってあげる。僕がそばにいる事を体温で伝えたかった。
きっと溢歌は、自分を見てくれる相手が欲しかったんだろう。今の涙は、ずっと孤独を抱き締めていた少女が求めていた一筋の光に違いなかった。
「――出かけるの?」
少しの間の後、目を閉じたまま溢歌に訊かれ、少し戸惑う。
「――仕事だからね。普段から休みがちで迷惑かけているもの、行かないとね」
「私を置いて?」
僕の手を握り締める溢歌の力ほんの少し強くなった。柔らかい口調で返す。
「何で、そう考えちゃうかな。心が繋がっていれば、少しの間隣にいなくても大丈夫だよ」
「……そうね。何子供じみた事言っているのかしら、私」
勿論僕だって一緒にいたい。でも、隣にいる事だけが安らぎに繋がる訳じゃない。相手の事を想う心があれば、どんなに遠く離れていても繋がっているんだ。その事が解れば、溢歌も昨日みたいに何も言わずに出かける真似はしなくなるだろう。
「なるべく早く帰ってくるよ。溢歌はただ、体を治す事だけを考えて休養しておいて」
「そうね。でないと青空クンにご奉仕できないものね」
強がって言ってみせる溢歌の冗談を、僕は笑顔で受け止める。体を重ねる事以外でも、相手を感じる方法はあるんだと今回の件をきっかけに伝えられればいいなと思う。
その為に僕ができる事を、考えよう。
時間が許す限り、僕は溢歌の寝顔をずっと眺め続けていた。