104.さびしがりや
人間は一人で生きていけないとよく言う。
正しい正しくないは置いておいて、やはりそばに誰かいた方が、安らげる。そう思っているのは、僕が一人っ子だからなのかな?
隣にいても、まるで空気のように馴染んでしまう黄昏がいたのも理由だろう。学生の頃の人付き合いは並と振り返ってみて思う。小中高と上がる度に友人知人は変化していったし、学年が変わる事にリセットされたり、卒業した後はものの見事に音信不通になっている。自分から積極的に連絡を取ろうと思わないからだろうか。
情に厚い人間でもなければ、冷たい人間でもない。そう自己分析してみる。
例えば『days』を辞め、音楽を投げ出したとして、その後にイッコーや千夜、キュウと連絡を取り合う?ラバーズに足を運ぶ?おそらくしないだろう。
自分の歩んでいる道から外れている所にわざわざ顔を出し続ける人間でもない。そうなると黄昏の存在は僕にとって唯一無二であると言える。
僕はどこへ向かっているんだろう。朝目覚めた時、照明のついていない薄暗い天井を見上げ、ふと思う時がある。刹那的な考えが収まり、昔より数ヶ月先の自分まで見通せるようになっていようが、どちらにせよ息絶える事さえなければ人生は続いて行くんだから。
真っ当な社会人になるレールから逸れてしまった自分は、果たして満足に人生を終えられるの?気を抜くと現実が頭の中に入り込んで来て寒気がする時がある。
まだ僕も二十歳だから、人生をやり直せるチャンスなんていくらでもあるはず。とは言えバンドを解散させてしまったら、本当に何もやる気がしない。
それはいけない。今の僕は夢を追いかけていると言うより、夢にしがみついていると言った方がおそらく正しい。自分をレベルアップさせようと思って始めた事が、今は目的も散漫になっている感じがある。
デビューしたいとか、お金を稼ぎたいとか、そうした気持ちがあまり無い。名曲を作りたいとか、いいライヴがしたいとか、そうした普通過ぎる気持ちも目的意識として薄れている。観てくれるお客達に素晴らしいパフォーマンスを見せたい気持ちより、今はそばにいる人の為にギターを持ちたい意志が強くなっている。
溢歌や、千夜達の為に。
しかし、意気込んだ所でいきなり状態が上がる訳でもなく、今は布団の中で朦朧とした意識の中、こうした人生論についてぼんやりと考えていたりするのであった。
「暑い……」
体温なのか、暖房なのか、3枚がけの毛布なのか。額から汗が噴き出て伝うのが分かる。しかし汗をかかない事には体調を元に戻せない気がするので、我慢する。
どうやら溢歌の風邪が移ってしまったらしい。
この前二人で公園に出かけた時に、兆候はあった。よくよく考えると6畳一間に二人でずっといるんだから、片方が風邪を引くと移る可能性があるのは当然か。
幸い、バイトの後で熱が出たので仕事の心配はしないで良かった。ちょうど連休なので、気兼ねなく休んでいられる。とは言え、体調を戻す事に貴重な時間を費やしてしまうのは勿体無い。
隣では、溢歌がうたた寝をしていた。僕の看病で、こちらが寝ている間にする事が無いので寝顔を眺めていたら自分が寝てしまったみたい。
こんな風に傍で看病して貰えるのは幸せと、小さな喜びを噛み締める。身近で誰かに構って貰うなんて子供の頃以来で、こんな感覚も今までずっと忘れていた。
隣に誰かがいる事が、これほどまでに寂しさを感じさせないなんて。バンドの仲間に対する感情とはまた異なる感覚。狭い部屋なのでプライバシーがほとんど無くなるとは言え、溢歌相手なら自慰の瞬間でさえ傍で見せられる気分。勿論そんな事はした事が無い……とも言えなくも無いけれど……(以下省略)。
室内のカーテンは閉じられていた。溢歌を起こさないように起き上がり、机の上に置いてある携帯で時間を確認すると、もう正午を回っている。溢歌が眠るためにカーテンを閉めたみたい。外を覗いてみると、柔らかい冬独特の日光が差し込んで来る。
「ん……」
カーテンを動かす音で溢歌が目を覚ました。僕の方を振り向き、眠そうな顔で微笑む。まるで起きたての猫のような仕草で、目を軽く擦り一つあくびをする。こちらもつられあくびが出た。何だか体にだるさが付き纏っているような感じがある。
「何か食べる?」
溢歌の方から聞いて来る。
「じゃあ、こないだ溢歌を看病したのと同じメニューで」
「そうは言うけれど、最近おじや作る事多いじゃない」
この前溢歌が風邪を引いた時に作ってくれたおじやが美味しかったので、つい卵が無くなるまでおじやを作ってしまっていた。卵はいつも使い切る前に賞味期限が切れてしまう。一人暮らしだとそんなに毎日卵料理を食べたくなるような事はまず無いから。
「じゃあ、普通の料理でいいよ。麻婆茄子の具材を買っておいたはずだし」
僕が頼むと、溢歌は頷いて後髪を手早くまとめ上げ、台所へ向かった。ウェーブのかかったポニーテールもかなり似合っている。一旦僕は横になってから、歌詞を書き留めているノートを引っ張り出し、回らない頭で新しい閃きが無いかにらめっこを始めた。
思いついたものはメモ帳に書き留め、後でノートに写す。こんなもの全ページ埋まる訳無いとか思っていたら、一年に一冊ペースで今はもう3冊目。自分でもよくやっている方とは言え、さすがに黄昏には及ばない。けれど黄昏はバンドで歌うようになってから、あまりノートに書き込む事はしなくなった。向き合うものが自分一人だった時代には、ノートに鬱憤を書き留めていたんだろう。
そう言えば、黄昏の新曲って聞かないな。
この前演奏した『路地裏の天使』も、過去に書いたモノ。ノートの一ページに書かれていたのを見た記憶がある。今はもう、曲を作る気は無いのかな。
僕がいるから、必要無いのか。
けれど黄昏と距離の離れつつある今、書いていてもおかしくない。一瞬、そのままずっと書かないでいて欲しい、それなら自分もいつか抜く事ができる、だなんて嫉妬じみた事を考えてしまうも、すぐ否定した。黄昏ほどの才能のある人間が、放棄するのは勿体無い。
いつも僕が先導し『days』の曲を書いている。今後、仲が改善されれば一曲頼んでみようか。多分黄昏の事、僕から頼みでもしない限り再び自分で書く事は無いだろうから。無事年を越せたら、キュウが何度も言っているようにCDを作ってみたいと思っているので、黄昏だけじゃなく千夜にも積極的に曲作りに参加して貰うのもいいかも。
ふと、気付いた。今年に入ってからは順調に活動している期間が半分も無いと思うのに、着実にバンドが前進している事に。
それはきっと、全員がどんな状況であれ前を向いているからだろう。黄昏だって本当に僕の事が嫌ならずっと引き籠もっていればいい訳だし、『days』で何とかしようと言う気持ちを皆持っている。だからこそリーダーの僕一人、横を向いている訳にはいかない。
「できたわ」
気付くと溢歌が僕の真上から顔を覗き込んでいた。調理の音が耳に入らないくらい考え事をしていたみたい。台所からは香ばしい匂いが漂って来ていた。布団を畳み、壁に立てかけているこたつのテーブルを準備する。溢歌がお盆に料理とご飯を乗せ、運んで来た。
「いただきます」
手を洗ってから早速溢歌と食卓を囲む。換気で開けたベランダからは心地良い空気が入り込んで来ていた。
「美味しい」
「青空クンって私が料理作ると、いつも最初にその一言なのね」
「だって自分で作るより、溢歌に作って貰った方が何倍も美味しいもの……」
麻婆茄子を作る時はいつも茄子以外レトルトで済ませていた。なのでイッコーの中華料理屋で麻婆茄子定食を食べさせて貰った時はいたく感動したもの。しかしそれと比べても、溢歌のこの麻婆茄子も勝るとも劣らないいい出来。
「油っこく無いのがいいね」
「あまり油を使うのは嫌なのよ。女の子だもの」
「自分で作る時は自然に多くなってしまうものなんだよね。それで胃がもたれたり」
「何にしろ、食欲が進むのは良い事だわ。お風呂も沸かしておいたから、体だけでも流しておいたら?汗たくさん掻いたでしょう」
いやはや、溢歌の気配りっぷりには感謝する。
「どうしたの、そんな羨望の眼差しで見つめて」
「溢歌って本当に家庭的だよね。いいお嫁さんになれそう」
「貰ってくれる?」
思わず食べていたものを吹き出しそうになり、慌てて飲み込んだせいで喉の奥におかずの熱さが広がった。急いで烏龍茶を流し込み、溜め息をつく。
「……溢歌がその気なら、ゆくゆくは……」
「そう。ありがと」
当たり障りの無い返事でも、溢歌は笑顔を向けてくれた。胸の奥が温かくなる。
「おじいさんと二人暮らししてからは、ずっと私が料理担当だったもの。向こうにいる時でも、料理は私が中心でこなしていたし――でも洋食より、和食の方が落ち着くのよ。お味噌汁と白いご飯って、心を温める感じがしない?」
「言われてみれば、確かに……」
一人暮らしを始めてからはどうしても外食が中心になりがちになってしまっていたので、食事で心を安らげると言う事はあまり考えていなかった。お腹さえ膨れればいいや、なんて貧しい考えでいたからかな。
「最近青空クン、険しい顔になっている事が多かったもの。少しは伸び伸びしないとね」
溢歌に指摘され、思わず自分の顔に手が伸びる。実際、普段の日常生活で余裕を感じる事はほとんど無い。溢歌と一緒にいても考え事の多さは減らないから、事実なんだろう。何だか少し悲しい気持ちになりつつ、箸を進めた。
「ごちそうさま」
風邪を引いているからと言い、食欲が無くなるほど気分が悪い訳でもない。溢歌の作ってくれた料理の量がちょっと少なめで、無事全て食べ切る事ができた。空の食器を運ぶその足で、風呂の水温を覗き込む。ちょうどいい案配だったので、そのまま入る事にした。
「一緒に入る?」
「風邪引いているじゃない。のぼせないように注意してね」
ごもっともと思いつつ、体を軽く流し湯船につかる。耳を澄ますと、溢歌がこたつを片付け直す音が聞こえた。この狭い家で自分以外の人間の生活臭がする事に、最初は違和感があった。けれど一月もすると次第に慣れて来る。ただ溢歌自体家事以外ではほとんど自分から動こうとしないので、少し不思議な感じはする。
そのせいか、溢歌が家からいない時は、まるでその時間が夢幻だったように感じてしまう。存在を感じ取れなくなってしまう瞬間はきついと、前に突然いなくなった時の事を思い出した。思えば溢歌も相当悩んでいたんだろう。結果的に風邪を引いてしまい、その心の中を奥底まで感じ取れなかった自分に腹立たしくもある。
とは言え、もう過去の事。今はなるべく前を向き、溢歌の力になってやりたい。湯船に唇が付くくらいまで肩を沈め、体の疲れを芯から抜く事を心がけた。
お湯の染み渡る気持ち良さに意識が朦朧とし始め、慌てて首を振り浴槽から上がる。念入りに体を拭き部屋に戻ると、溢歌がベランダを開け日向ぼっこをしていた。
「寒くない?」
「そんな事ないわ。日光が気持ちいいもの。もっとも、風は冷たいわね」
僕の体を気遣ってか、ベランダの窓を閉める。うんと背伸びをした後、敷かれた布団の上で猫のように丸くなった。着替えを済ませた後、僕も隣に腰を降ろす。
そのまましばらくぼんやり、ベランダの外を眺める。頭が回らないせいか、物凄くのんびりとした気分。溢歌も何も喋らず、布団の上で寝相を直している。何だか黄昏と二人で一緒にくつろいでいる時を思い出す感覚。幸せとはこう言う事を指すんだろうか。
頭をドライヤーで乾かした後、布団の中へ潜る。汗を洗い流したおかげで心地良い気分で横たわる事ができる。溢歌が隣で寝ようとしたので、少し体を移動させた。
「もう一眠りしていい?」
首を傾けると溢歌の顔が目の前にある。溢歌が頷いたので、僕は目を閉じた。
最近は眠っている時も、頭の中をメロディが縦横無尽に駆け巡る。捻り出すと言った方が正しいか。夢の中なのに混乱している自分を意識する。四六時中考えるとはまさにこの事。
自分でも曲作りに躍起になっているのを自覚する。『days』の事よりもこちらを優先して考えてしまうほどに。
「……ギター持っていい?」
「病人はおとなしく寝てるものよ?」
しばらくして決意を胸に勢い良く状態を起こし、ギターに手を伸ばし溢歌に問いかけると、案の定咎められてしまった。仕方無く、伸ばした手を下ろし再び枕に後頭部を預ける。
「確かに、こんな頭じゃ何も思い浮かばないどころかギターの音で頭痛が起こる気がする」
事実メロディが浮かんでも、さっぱりまとまらない。音を出してみれば何とかなると思ったら、溢歌に駄目出しをされてしまったのでどうにもできない。
「稼ぎ頭なんだから、無理はしないものよ」
悪戯っぽく言う溢歌。一緒に暮らし始め、生活費を全て稼ぎの少ない僕が出している事に多少罪悪感があるのかな。全然気になんてしていないのに。
目を瞑り頭を冷やそうと何も考えないようにしていると、突然咽せた。
「げほがほごほ」
喉の奥に痰が引っかかったのか、しばらく激しい咳が止まらなかった。
ようやく治まると、酷く疲れた顔で枕に頭を預ける。熱が出るだけの風邪なら我慢できても、咳が出るとなかなかきつい。自然と涙が零れ出た。
そんなに体が弱いつもりは無いのに、毎年風邪引いているのが情けない。
「苦しい?」
「しばらくは大丈夫。うがいしてのど飴でも舐めるよ」
心配そうに見つめる溢歌に微笑み一旦布団から出て、台所で大きくうがいをしてから戻り、のど飴を一つ貰い横になる。飴を舐めながら仰向けになると飲み込んでしまいそうになるので、首は溢歌の方。仰向けにならない方が痰も支えないので、この姿勢でいい。
「ねえ」
舐めたのど飴の形が随分小さくなった頃に、隣で膝を抱えた溢歌が口を開いた。
「どうしてそんなに、曲作りに夢中になるの?自分の為でも無いのに」
「……言ったでしょ。僕は溢歌を助ける為に曲を作ってるんだよ」
口の中で飴が全て溶けるのを確認してから、僕は答えを返し、上体を起こす。
「溢歌の過去を振り払えるような曲をね」
自信有り気に言ってみせるも、そこまでのものが出来上がるかどうかは半信半疑。
デートの日の翌日から、僕は家でも溢歌に断りを入れ、ギターを手にするようになった。溢歌の為にと宣誓したからには、これまでずっと我慢していた気持ちを解き放った。勿論溢歌はいい顔をしないけれど、僕の隣でじっと見つめてくれている。
浮かんだメロやリフを聞かせ、善し悪しや好みを尋ねる。いつも溢歌ははっきりと答えを言わず、僕の作業を見守っているだけで、口出しは決してしない。自分が手を貸すと、プレゼントで無くなってしまうからだろう。ただ、音楽の知識は詳しくないのか、コード進行や曲調について尋ねると、怪訝そうに首を傾げていた。
「僕の音楽にどこまでの力があるかは分からないけど……きっと、溢歌の力になると思うんだ。だから見ていてよ。今はちょっと、こんな調子だけどね」
おどけて見せ、のど飴をもう一つ口に含み、再び横になる。
たったの一曲で全てを精算できるような曲なんて作れるのかなんて、そんなのはきっとどうやっても無理だろう。だから、せめて溢歌の背中を押せる、最初の一歩のきっかけになれるようなものを作りたい。それが今、僕が目指している曲。
「……私にはよく分からない。過去を乗り越える為にはどうすればいいのかって」
悲しそうに目を伏せ、膝を抱えた溢歌が呟く。
「時間が本当に嫌な想い出を風化してくれるのかしら?まだ大人にもなっていない私には、ちっとも分からないわ。歳を取って、この世にいる時間が増えて来ると、胸の中にある記憶もその分だけ薄れて行くものなのかしら」
僕と溢歌は4つしか歳が違わないので、何とも言えなかった。自分を顧みて、子供の頃の嫌な思い出なんかはちっとも風化しておらず、目を閉じその場面を思い返すだけで口の中に苦いものが広がって行く。胸を締め付けられる。
この思いも、時を重ねるにつれ心の片隅に追いやられて行くんだろうか。
「それは……僕にもまだ分からない領域だね。ヒトの記憶と言う物は脳細胞の一つ一つに刻まれていて、決して消えはしないと聞いた事があるよ。物事を忘れてしまうのは、その細胞へ脳信号が届かなくなるから――だったかな?本当、嫌な思い出は脳細胞ごと潰してしまいたくなるよね」
日常のふとした瞬間に、苦い記憶を呼び覚ましてしまう事がある。そんな自分に腹が立つ。嫌な記憶なんて、無い方がいいに決まっている。しかしその記憶を捨て去ってしまったせいで、また同じ経験を繰り返してしまうおそれがあるのなら、教訓として心にしまっておきたい。
いや――こんな軽々しい思いでいられるのは、きっと溢歌みたいに思い詰めてしまうほど、苦しく辛い過去を持っていないからだろう。
「でもね、私、思うの」
溢歌が膝を強く抱え、言った。
「嫌な思い出と一緒に、いい想い出まで忘れてしまうんじゃないかって」
今にも泣き出しそうな表情で、強く。
「私がそれを忘れてしまうと、そこにいたはずのものまで消えてしまうんじゃないかって。今はもう、形のないもの。それを覚えていられるのは、私だけかも知れない。だから、消したくても消せないの。いつまでも、過去と向かい合ったままだわ」
「じゃあその大切な想い出を、僕の作る曲に乗せて留めておいてよ」
口の中に飴を含んだまま、溢歌に微笑んでみせる。
「今の溢歌は、自分の過去と真正面からずっと向き合ったままでいるみたいだね。目を背ける方法すら忘れてしまっているんだと思う。だからその目を、もっと違う方向――そう、例えば僕なんかに、向けてくれるような、そんな曲を作ってあげたいんだ」
自分で言ってて気恥ずかしくなる。顔の赤くなっている僕を見て、溢歌の表情が和らぐ。僕の溢歌へ捧げる曲作りへの想いを感じ取ってくれたみたい。
「一応、大まかな枠組みはできて来たんだ。聞かせてあげるよ」
場の空気が和らいだところで、僕は布団から出てギターを用意した。溢歌も声を荒げ反対する事も無く、落ち着きを取り戻した顔で準備する僕を眺めている。あえて布団は畳まず、僕は椅子を用意しギターを手に腰掛けた。
ギターの腹を軽く叩きカウントを取り、溢歌に歌を聴かせる。
試しに作った仮曲。断片的なメロの塊を、昨日のバイトが終わった後に1時間程スタジオを借り、一通り形にしたもの。家でやっても良かったけれど、驚かせたかったので溢歌の目の前でその作業を見られたくなかった。
ギターを弾いている間、溢歌の表情を見ないように心がけた。見てしまうと、途中で気持ちがぐらついてしまう気がしたから。今は歌詞も乗っていない仮歌の状態で、鼻歌に少し気恥ずかしさを覚えながら、途中間違わずに最後まで弾き通した。
集中が解けると同時に、風邪による頭痛が戻って来る。
「どう?」
恐る恐る、しかし胸の内は自信満々に、目を輝かせ溢歌に訊いた。そう言えば、じっくりと溢歌の目の前で弾き語りをするのは初めてのような。
「どうって言われても……美辞麗句でも頂きたいわけ?」
「いや、溢歌が感じ取ってくれた事をそのままコメントしてくれればいいんだけど……」
こちらの漠然とした質問がまずかったのか、喧嘩腰に問い直してくる溢歌。気に入らなかったのかな?困惑している僕を見て、溢歌が心の底から溜め息を吐いた。
「いい曲だと思うわ。仮歌でこれだもの、ちゃんと形にすればもっといいものになるはずよ。でもね……青空クンが一曲ギターを手に歌ったところで、私の心の中が劇的に変わるなんてそうありえないのよ」
そんなものなのかな。
「でも僕は、溢歌と初めて出会った時、歌を聴いてとても心を揺さ振られたよ?今でも目を閉じれば頭の中に歌声が浮かんで来るもの」
その場で目を閉じ、すかさず脳内再生してみる。黄昏の歌声を聞いた時も、僕の中で何かが大きく弾けた。その気持ちを溢歌が感じ取れないと言う事は、単に僕の力量不足でしか無いんだろう。
「そう言われても、そんなありがたみのあるものでもないわ。私ね、自分の歌を誰かにあんまり褒められても心から嬉しいとは思えないの。そうやって、下心丸見えで近づいてくる大人を山ほど見て来たから」
「そう……ごめん」
こちらに非は無いのに反射的に謝ってしまったからか、溢歌が口に手を当て可笑しそうに笑った。
「言い方が悪かったわ。青空クンに褒められて嬉しくないわけじゃないのよ。もちろん、
青空クンの歌声や演奏にケチをつけているわけでもないわ。とても嬉しい。ただ、それで私の心の黒い塊を溶かすには到底足りないと言う事だけ。――もちろん、青空クンのせいじゃない」
肩を落としている僕を慰めようとしてくれているのか、溢歌は自分の気持ちをはっきりと口に出して説明してくれている。
「他人の奏でる音に身を任せる感覚なんて、拒絶してばかりですっかり忘れていたもの」
その悲しそうな言葉が胸に響く。受け入れたくても受け入れられない、そんなもどかしさを感じる。
溢歌は僕の前に立ち、ギターを取り上げケースの上に置いた。
「一緒に、そばにいて、安らげる――それだけでいいのかも知れないわ。何も多くを望まなくても、幸せは手元にあるものよ」
微笑むその笑顔の中に、僕への感謝の念を感じ取る。
「私が私である限り、過去なんて消せやしないわ。でも、その過去は今も続いている訳じゃない。私自身が変わる事ができれば、脅えるものなんて何もないわ。でも、それができないから、こうして青空クンに身を委ねている」
溢歌は憂いを帯びた仕草で空いた僕の膝の上に腰を下ろし、真下から見上げる。
「過去に負けないために青空クンは私に音楽と言う武器を手渡そうとしてる。でもそれが、本当に武器に成り得るのかしら?……私にとって音楽は、憎しみの対象でしかないから。安らぎを得られるものでもない、逃避の道具でしかなかったわ」
ああ、そうか。
溢歌は、僕がギターを手に取り歌を聴かせる事よりも、手を取り抱き締めてくれる事を望んでいるんだ。直接的に安らぎを感じていたいから。
すると僕のやろうとしている事は、ただの独り善がりでしかない?
「でも、それだと――」
考えを巡らせていると、ふと疑問の一つに辿り着く。
「どうして僕と初めてあの岩場で出会った時、溢歌は歌っていたの?」
真下にある溢歌の両の目が、悲しげに視線を逸らした。
「……私の母親は、私に歌を教えてくれたわ。あの人の手料理の味なんて覚えてないから、残っているものと言えば私の頭の中にある歌だけ。でもね、本当はこんなもの、捨ててしまいたいの。忘れられるものならそうしたい。なのに手放せずに、すがる事しかできないでいるのよ。どうしてかしらね」
前に溢歌は、歌を聴かせる相手がいないと言っていた。それでも一人岩場で歌っていたのには、そばにいない母親や祖父に届ける為だったんだろうか。
僕は溢歌の背中をそっと抱き、額にかかる柔らかな髪を撫でる。
「それは多分……溢歌にとって、最も大切なものだからじゃないかな。家族との、産みの親との想い出なんて、捨てる事はできないよ。それがどんなに辛く哀しいことだったとしても、いつまでも消えないものだと思うよ。僕は両親が健在だから、言い切れないけど」
「……なんてもう、辛気臭い話は止めにしましょう?二人でいる時に、辛い事なんて思い出したくも無いわ。何かお菓子でも作ろうかしら?」
溢歌は僕の手をすり抜け、笑ってみせる。空元気なのがありありと分かり、こちらが余計に気遣った笑みを浮かべてしまう。
「溢歌って、心の底から笑っていても、儚い感じがつきまとうよね」
「――そうかしら。青空クンだって、笑っていてもいつも眉間に皺を寄せている感じは変わらないわよ」
上手い事切り返され、僕は思わず肩を竦めた。どちらも性格と言う事で。
溢歌は小さく笑ってみせると、肩にかかる髪を輪ゴムで束ね、台所で以前買って来ていたドーナツの材料を準備し始めた。僕は布団を畳み、お菓子が出来上がるまで曲作りの続きでもしようかと考える。
一曲歌ったのと口内に残るのど飴の感じを消そうと、台所へ行き溢歌の邪魔にならないようにやかんに貯めてある烏龍茶をコップに注ぎ、飲む。
手慣れた仕草で料理を始める溢歌の横顔を眺めていたら、思わずキスしたくなった。
「溢歌」
「ちょ、ちょっと」
刃物を使っていない事を確認し、呼び掛けこちらを振り向いた所に唇を当てようとすると、慌てて溢歌が体を捩り遮った。
「キスはダメよ。また移っちゃったらどうするの?」
「溢歌から移されたんだから抗体できてるでしょ?」
自分で言ってて少し苦しいと思った通り、首を横に振られやんわり断られた。確かに、風邪を引いている相手から口内感染するおそれもある。残念がる僕に、溢歌が首を伸ばし耳元で囁く。
「気分の問題よ。代わりに、ほっぺにキスしてあげるわ」