→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第2巻

   038.NA・KA・MA

 ウサギが死んだ。
 雪のように真っ白なウサギで、『ユキ』って名前をつけた。母親に誕生日に送ってもらった。たった一人のトモダチだった。
 遠く離れた母親のプレゼントだった。毎年誕生日になると母親は叔父さん叔母さんの家に電話をかけてきて、ほんの10分くらい言葉を交わす。
 そのたったの10分のために、一年を過ごしてると言ってもよかった。
 やがて声変わりを迎えると、母親は電話の向こうでびっくりしてた。でも、その時に話した電話が生前に遺してくれた最後の声だった。
 ウサギが死んだ理由はよく覚えていない。老衰だったのか、病気だったのか。ただ、庭に埋める時のユキの小さな身体がまるで生きてるみたいだったのは覚えてるから、事故じゃなかった事だけは確かだ。
 生き物が死んで涙を流したのはその時が初めてだった。
 昔から、死についてとても怖がってたのを覚えてる。初めて死を意識したのはいつの頃だったかよく覚えてないけど、暗闇の中で一人でいるのがとても怖かった。その怖さを克服するために、いつもベッドの上で明かりを消して寝転がってたのかもしれない。
 確か、子供向け雑誌の付録だったと思う。漫画で読むゲームブックみたいなのがあって、出てくる選択肢を自分で選んで進んで行くタイプの話だったんだけど、一つ間違うと死に直結する。クリアできる話の進み方は一つしかなくて、何度も出てくる選択肢のどれか一つでも間違うと死に繋がる――
 それがとてもとても怖くて、夜中になるとその本の置いてあるところから離れた位置に布団を敷いて眠ってた。その本と離れる事で、死を見なくて済むって思ったから。今にしてみればすぐに捨てればよかったんだと思うけど、あの頃はそんな事全然考えもしなかった。心のどこかで、これを捨てたら大切な何かから目を背けてしまうって思ってたんだろうか?
 一度それで布団に包まってこわくてこわくて泣いていた時、叔母さんに見つかった事がある。その気持ちを叔母さんに打ち明けると、
「そう言った気持ちを忘れようとするために、ひとは恋をしたり働いたりするのよ」
って聞かされて、抱き締めて慰めてくれた。
 でも、いつまで経っても死を見つめてるような気もする。その向こう側に映る生も同じくらいに。それどころか叔母さんに言われた通りにすればするほどそれに近づいていってるような気もする。その分、より生きてる実感がするけれど。
 ユキは裏庭の塀の片隅に埋めた。今でも叔父さん叔母さんの家に戻れば、錆びた鉄の十字架が刺さった墓が残ってるだろう。
 母親には、ユキが死んだ事を伝えなかった気がする。向こうも何も訊いてこなかったけど、きっと忘れてたんじゃなくて、訊くのが怖かったんだと思う。
 晴れた雪の日の朝起きたら、昨日まで元気だったはずのユキは冷たくなっていた。庭には昨日の夜に降った雪が一杯積もってて、銀世界に変わっていた。
 その日、学校を休んだ。今まで皆勤賞を続けてたけど、その日一日はどうしてもユキのそばにいてあげなくちゃって思ったんだ。
 昼を過ぎた時に、青空が遊びに来た。まだその頃は知り合ったばかりで、町内のガキ大将だった青空から友達になろうって誘ってくれた。でも一人でいるほうが好きな子供だったから、少し間を置いてつき合っていた。
「何で休んだの?」
「ウサギが死んじゃってかなしいから」
 俺が泣き腫らした顔を隠さずに言うと、青空は靴を脱いで家に上がった。まだユキが死んだ事を認めたくなかったから、生き返るんだって思ってたから、ユキの遺体は毛布に包めて居間に置いてあった。
 青空は冷たくなったユキの顔をやさしく撫でた。それでユキが反応してくれるんじゃないかって期待したけど、離れてしまった魂はもう二度と還らない。
「庭に埋めよう」
 そう提案した青空に、泣きわめいて殴りかかった。会社を休んでつき添ってくれた叔母さんが慌ててキッチンから飛び出してきて、仲裁に入った。理由を説明すると、叔母さんは抱き締めてきてユキが死んだ事を俺に何度も何度も言い聞かせた。そして青空の言う通り庭に埋めようって。そうしないとユキもゆっくり休めないって。
 だから言われた通りに裏庭に埋めた。穴の中に入れたユキの身体に土をかけると、白い部分が茶色に染まっていった。その安らかな寝顔をずっと忘れないように胸の中に強く刻みこんで、ユキと別れを告げた。
 しばらく寒い冬の空の下で、ユキの墓の前にずっと立っていた。気付くと叔母さんの姿はすでになくて、隣に青空が立っていた。
 顔をくしゃくしゃにして、泣いてた。
「どうして泣くの?」
 きみは、ユキの生きてる時の姿を知らないのに。
 疑問符を浮かべてると、青空が俺の顔を見てこう言った。
「たそが悲しいから、僕も泣くんだ」
 それからだ。俺と青空がトモダチになれたのは。
 うっすらと視界がはっきりしていく。目の前には、見覚えのない天井が広がっていた。
 どこだ、ここ?
 俺は、誰だ?
 自分の記憶の思考回路が止まってて、頭の中が虚無感に包まれてる。
 やがて我に返って、俺は身体を起こした。目の前で変なものが落下したと思うと、それは冷水を浸したタオルだった。
「気がついた?」
 寝かされてる俺の横に愁が座っていた。
 どうやらここはスタジオの休憩室らしい。通りで見た事のない天井だと思った。
「みんなは?」
「練習中。呼んでこよっか?」
「いや、まだいい」
 俺は立ち上がろうとする愁の手を取って、止めた。すると愁のほうから俺に軽く唇を合わせてくる。もう一度横になるように諭してくるから、俺は素直に従って寝転んだ。
 洗面器につけたタオルを俺の額にもう一度乗せてくる。ひんやりした感触が額から全身に伝わっていく。このままもう一回夢の中に戻りたくなるくらい気持ちいい。
「……俺、何でここで寝てるんだ?」
 今の状況がよく掴めなかった。確か歌を唄ってて、それから――
「唄ってる途中にぜーぜー言い出して、倒れたの。変な倒れ方しなかったしどこにも頭ぶつけなかったからよかったけど。イッコーなんてたその身体より借りたギターの心配してたんだよ、折れてないかって。腹立つなあ、もう」
 愁は頬を膨らましてぷんすか怒ってる。らしいと言えばイッコーらしい。
「30分ぐらいかな、意識失ってたの。詳しくはわからないけど、過呼吸の一種らしいよ。
変に息をしなかったり吸ったりしてたから、おかしくなったんじゃないかって」
「そっか。ありがとな、愁」
「別にチョコサンデーはいいよ。むちゃくちゃ心配したけどさ」
 愁の目尻に泣き腫らした跡がある。多分俺が倒れた時に一番取り乱して、他のみんなにたしなめられてたんだろう。見てたわけじゃないけどそんな光景が目に浮かぶ。
 光景と言えば、さっきの夢に出てきた白ウサギ。
 愁の家で出てきた時には思い出せなかったけど、あれはユキだったんだ。もう10年以上前の話だから記憶の奥底に埋もれていた。俺の最初のトモダチだったのに。
「――夢、見てた」
 つい数分前まで見ていた夢の内容を思い出してみる。愁は俺の顔を覗きこんできて、興味津々な顔を見せた。
「どんな?」
「昔の夢。青空とトモダチになった日の事」
「訊いていい?」
 俺が話すのが嫌ならすぐに聞くのをやめようとしてたみたいだったけど、俺は頭を振って覚えてる範囲で聞かせてやった。
「泣けるお話だね」
 愁は微笑みながら茶化してくる。今は頭がぼんやりとしてるからそんなに恥ずかしくなかったけど、普段ならこんな話絶対にしなかっただろう。
「他人の友情話なんて聞いたところで面白くもなんともないだろ?」
「ううん、全然」
 すると愁はとんでもないと首を振る。
「女の子同士にだって友情はあるんだから。きっと男の子同士のとは全然違ったものなんだろうけどさ」
「かもな。俺にはよくわからないや」
 額のタオルを押さえて俺が寝返りを打つと、愁はくすくす笑っていた。
「――でも、謝らなくちゃな」
「そうだね」
 青空を殴ってしまった右手を開いて、天井にかざしてみる。殴った時の衝撃は一週間経った今もまだはっきりと残ってる。でも、その痛みよりも心のほうが痛い。
 溢歌と寝てる事に関してはまだ許せない。かと言って、激情に任せて殴ったのは間違いだったかもしれない。まだ溢歌の件で話してないから結論づけるには早過ぎるけど、何も暴力に任せる必要なんてなかった。そんなのただのガキじゃないか。
 何にしろ、謝らなくちゃいけない。今なら、素直に青空に謝れる気がする。さっきの夢を見たせいなんだろう、きっと。
 水分が欲しくなったから身体を起こして外にジュースを買いに行こうとすると、愁は俺の代わりに席を立って、種類の違う清涼飲料水を二本買ってきてくれた。代わり代わりに二人で飲み比べ合って、味について軽く感想を言い合う。
 そんな他愛もない時間が、とても大切で幸せなものに思えた。
「どう、たそ起きたー?」
 スタジオのドアが開いて、キュウが顔を出してくる。俺達がぴったり寄り添い合って椅子に座ってるのを見て、慌てて扉を閉めようとした。
「おおっと、愛の巣に入りこんでしまったようでこりゃ失礼」
「どあほう」
 俺はため息一つついてから、立ち上がった。少し立ち眩みがして愁に支えられる格好になったけど、すぐに回復するだろう。
 一つ背伸びしてから中に戻ろうとすると、キュウが扉の前に立ち塞がった。
「今日は帰ったほうがよくない?やっぱり顔色悪いよ」
「そうか?」
 俺は自分の頬を撫でてみて、愁に視線で訊いてみる。するとあっさりと頷かれた。自分じゃ平気なつもりでも、周りから見ると今にも倒れそうに見えるのかもしれない。
「でも、来週にならないとまた練習できないし、俺がいないと意味ないだろ?」
 キュウの身体を押しのけてドアのノブを掴もうとする俺の顔を、キュウは目を丸くして見てる。そしてため息を大きくついて、いきなり俺をドアから引き剥がした。
「たそがようやく本腰入れてバンドに精を出そうって思ってるのは嬉しいけど……」
 そこでもう一つ大きなため息。
「何だよ」
「今のたそじゃ使いモノにならない」
 キュウは俺の目を見据えて、ぴしゃりと言い切った。
「使いものにならないって……何だよ、おい」
 気付かれてた。俺が唄えないって事が。
 すぐさま自分の焦りを否定するように、俺はキュウに食ってかかった。それでもキュウは吊り上げた眉を崩さないで、俺から視線をそらさない。
「愁だって気づいてるでしょー?」
 俺が凄んだせいで間に割って入れなくて縮こまってる愁を横目に、キュウが言った。
「いろいろ私情があるんでしょうけど、完全にスタジオに持ちこんじゃってるから全然唄えてない。いきなり倒れたから唄声は聴けてないけど、コーラスを耳にしただけで前のライヴみたく唄えないのはわかっちゃったもん。でしょ、愁?」
 俺とキュウに睨まれて愁は小さくなってたけど、上目遣いにキュウの顔を見て頷いた。
「だから、来週の練習まで待つから、それまでゆっくり休もうよ、たそ。今はせーちゃんも調子悪いみたいだし、上向きになってからでいいじゃん。焦るコトないんだしさ」
 キュウは俺の事を考えてくれて言ってるんだろう。それだけメンバーの事を、このバンドの事を考えてくれてる。
 でも。
「でも、それでもステージに立ちたいんだ。ここにいたいんだ」
 俺は手の中にある冷水タオルを握り締めて、答えた。
 そう。
 意識の薄れるあの瞬間、俺は確かに叫んだ。
「唄いたいんだ」
 もう一人の自分が俺に何を伝えたかったのか、今ならはっきりとわかる。
 俺は唄いたかったんだ。
 溢歌がいる、いないなんて関係ない。そんなのただ、俺が俺自身に唄う理由を与えたかっただけだ。そうする事で、部屋の天井を眺める日々から抜け出せるって思って。目に見えるものとして自分の唄う理由をそばに置いておきたかっただけなんだ。
 今まで自分の支えになってきたものを失くして、すぐに他のものに依存するなんてできっこない。多分このまま二度と唄わなくたって、横に溢歌がいれば生きていけるだろう。
 でも違うんだ。そこで諦めるより、今までのように唄えて、それで溢歌がそばにいれば最高じゃないか。そしていつの日か溢歌が唄を好きになってくれたら、それこそ天にも昇る気持ちになれる。
 もちろん、そんなに簡単に上手く行くなんて思っちゃいない。でも、消えてしまった俺の中に流れてたメロディはこのバンドの曲だったんだから、取り戻すためにはここにいるしかない。みんなに囲まれてるしかない。だから俺はバンドに戻る。
「唄えなくったってステージには立てる。今じゃなきゃダメなんだ。ここで引き下がったら、それこそ二度と唄えなくなってしまう。俺がどうしてこのバンドにいるのか、このバンドにいたいのか、ここで俺が何をしようとしてるのか、掴めそうな気がするんだ」
 まだ、自分自身の気持ちが上手くわからない。半ば切羽詰ってる部分もある。失ってしまったものがどれだけ大切だったのか、やっと気付いた。
 これ以上失っちゃいけない。いらないものはくたびれた過去の自分だけで十分だ。
 やっぱり唄うのが好きなんだ。前のライヴで感じた気持ちは本当だ。そばで応援してくれる愁のためにも、もう一度唄いたい。
 こいつらといたいんだ。俺と肩を並べて歩いてくれる奴らと。大切なトモダチと。
 溢歌、愁、バンド、メロディ、仲間、トモダチ。一度に全てを望んで手に入れるなんて想像もつかないくらい大変だと思う。でも、それで俺が心から満たされるのなら茨の道だろうが全然構わない。
 そんな事を考えなんてホントに、昔と物凄い変わり様だなって俺自身びっくりする。
「頼む」
 魂を削るように自分の気持ちを言葉にすると、キュウは肺の空気を全部吐き出すくらい長い長いため息をついて、横にいる愁の肩に手を回した。
「えらいっ!愁がいなかったら、きっと惚れてたわ」
「たそはあたしのなんだからキュウは取っちゃダメ」
「いーよ、アタシには千夜おねーさまがいるもん〜」
「でもキュウが引っつくたびに困った顔してるよ」
「照れてるだけ照れてるだけ、人前だもん」
 二人は取っ組み合いながら俺を無視してじゃれ合ってる。まあ、こんなトモダチの形もあるんだろう。一瞬目の前の二人を俺と青空に置き換えてみたけど、気色悪い光景しか想像できなかった。ファンの子達から見たら意外とウケるかもしれない。
「このまま美少女二人のスキンシップをタダで見せてるのもなんだから、たそに忠告」
 キュウは愁から離れて、乱れた髪の毛を手櫛で整えながら一つ一つ言い聞かせてくる。俺も気を引き締めて、耳を傾ける。
「こっちが唄えないって判断したら、すぐにやめさせるからね。また倒れられたら他のメンバーにも心配させちゃうだけだし。それと今日はコーラスもやめにして、たそは楽器だけ演奏するコト。みんなとのグルーヴを取り戻すコトだけを専念して。不満ならアタシと愁が代わりに唄ってあげるから。あと、せーちゃんと仲直りするコト」
「……努力はしてみる」
 最後の内容が守れるかどうかは不安だったけど、俺はとりあえず頷いた。
 俺と青空と溢歌の三角関係は、本人達にもよくわからなくて形をころころ変える。すぐ仲直りする事もあるかもしれないし、二度と会いたくないって思う時もあるかもしれない。
 だから今、謝れるうちに謝っておこう。できるだけフラットな状態に戻すんだ。
「んじゃ、入りましょっか。中のみんなに説明してくるから、二人はちょっち待っててね」
 キュウはウインク一つして、中に戻って行った。取り残された愁と顔を見合わせて、俺達は苦笑する。どっちも何を言っていいのかわからなかった。
 愁は今の時間を利用して、借りてた洗面器とタオルを受付に返しに行く。
「あいつってばホント、俺達の事見てくれてるよな」
「『Days』のお母さんだもんね、キュウ」
 全く愁の言う通りだ。俺達の中で一番バンドの事を想ってくれてるんじゃないか?
 愁が戻ってくると同時に、キュウが中から出てきて俺達を手招きした。スタジオに入ると、みんなの視線が一斉に俺の顔に集中する。
「顔色悪い」
 千夜はそれだけ言うと、ドラムセットへ戻って行った。相変わらず可愛げのない奴だ。
「そんじゃま、たそも戻ってきたところで頭からやり直しますか」
 イッコーが歯を見せて笑った。その笑顔を見ているだけでどこまでも頼りになる。
「…………」
 視線を落としてギターのチューニングを確かめている青空に近寄っていくと、はっとなって顔を上げた。俺よりほんの少し背丈の高い首周りに手を回すと、心臓が高鳴ったように青空の肩が跳ねる。
「ごめんな」
 その後頭部を押し下げて俺は耳元で囁くと、手を離して自分の立ち位置へ戻った。ギターの用意をしてると、青空と目が合って少し照れた顔を見せてくる。俺はほんの少しだけ口元を緩ませて、視線をそらした。
 また次に会う時には、余計ぎこちない関係になってると思う。でも、それがわかってるからこそ俺は今だけでも優しい気持ちでいたかった。
 結局練習が終わるまで俺は一度も唄うことができなかったけど、この仲間達に囲まれてるだけでほんの少し楽になれた。
 ありがとう。


トップページへ  前のページへ  次のページへ  第2巻