039.ぐるぐる
ぼんやりと天井を眺める。
時刻は正午を回ったところ。部屋のカーテンは全開にしてある。晴間を覗かせる太陽が雲の隙間から光を差しこんで、部屋の中は自然の明かりで満たされてる。
俺はソファに寝転がって、ぼんやりと考え事をしていた。
どういう風の吹き回しだろう。前まではカーテンも何もかも閉め切って、夜行性の生活だったのに今じゃすっかり逆転してる。カーテンの隙間から少しでも光が入りこむと気が狂いそうになってた時期が嘘のようだ。気の持ち様で、人間は生活サイクルまで変わってしまうものなのか。
ずっと頭の中で渦巻いてた疑問が一つの答えになった瞬間、ぱあっと音を立てて目の前が開けた気がした。
愁の事、バンドの事、溢歌の事、青空の事、そして自分自身の事。
今の状況に満足してるわけじゃないけど、ようやくスタートラインに立てた気がする。それまでの人生は全部マイナスで、19年かけて0に辿りついたような。
朝起きて、ぼうっとして、昼になったら飯を食べて、夜になったらまた飯を食べて寝る。そんな日々がずうっと続いてる。
愁は中間テストがあるらしくて、遊びに来れなくなった。つまり溢歌も来ないわけで、かと言って俺が向こうへ行ったところで愁の勉強の邪魔になるだけだ。だから毎晩電話で30分ぐらい二人とやり取りする。一日の楽しみはそれぐらいしかなかった。
あまりにもやる事がない。
だから俺は家で適当に時間を潰して、昔歌詞やメロディを書いてたノートを見返したり押入に入れてある数少ないCDや本を漁り返してみたりした。
ノートをめくると、六畳一間の暗闇で唄ってたのがまるで昨日のように、書きこまれた文字を見るだけで頭の中にメロディが浮かんでくる。
俺は心臓が飛び出るほどびっくりした。あれだけメロディを失くしたって言っておきながら、ノートをめくると次々に思い出すんだ。
唄ってみると、その当時の気持ちが胸に甦ってきて泣きそうになる。
――ああ、ようやく俺は唄えるようになったんだ。
そう思ったのもつかの間で、次の瞬間どん底に叩き落された。
結局、これは昔のメロディなんだ。俺が今欲しがっているメロディじゃない。
いくら唄えたところで、これはもうすでに過去なんだ。今の俺には全く必要ない。
俺が欲しいのはバンドの中で鳴ってるメロディだ。
と、そこで大きな疑問が沸いた。
俺はどんなメロディを欲しがってるんだろう?
今までバンドで唄ってきたメロディか?それとも今までに聴いた事もない全く未知のメロディなのか?
そもそも、メロディって何だ?
どうもその単語ばかり引っ張り出してるおかげで、本質が見えなくなってる気がする。自分でもよくわからなくなってきたから、ちょっと整理してみる事にした。
つまり『メロディ=自分の気持ち』だ。
心が揺れ動くたびに、奥底でその波音が音符に変わる。別に日常を過ごしてるだけじゃ何も聞こえてこないけど、ほんの少し自分の中に耳を傾けてみれば鳴り響いてるのがすぐわかる。誰だってあるだろう。想い出と一緒に胸の中に閉まってある曲が。ふとした瞬間にメロディが頭の中で流れる、そんな感じに俺は自分のメロディを聴き取れる。
それを言葉にしたのは、ノートに書きこむようになってから。そうやって自分が感じた気持ちをこの世界に遺しておくために、俺は唄い始めた。
そうする事で、自分が生きてた証を刻みつけておきたかった。
でも、青空に誘われてバンドを始めてから、俺のメロディも変質する。ただ、それは失くすまで昔と同じメロディだとばかり思ってた。
多分それは、中に篭ってるのか外を向いてるのかの違いだったんだと思う。聴かせる相手もいなくて自分のためだけに唄ってた日々、そして自分だけじゃなく青空のためにも唄ってた日々とじゃ、気付かないうちに感じる気持ちも大きく変わってたんだ。
そう。
俺が失ってしまったのは、青空への気持ちなんだ。
青空の事を信じられなくなったから。俺に何も言わずに溢歌と会ってるから。いろんな要素が複雑に絡み合って、俺はあいつを憎む事しかできなくなった。
そんな気持ちが唄いたいメロディになるはずもない。怒りだとか悲しみだとか、負の感情が奏でる音には耳を傾けられないんだ。そしてそれを唄いたいだなんて全く思わない。
唄えないのも当然だ。
じゃあ、俺は青空の事をもう一度信頼できるようになるまで、唄えないのか?
どうなんだろう?別に青空のためじゃなく、バンドやみんなのためになら唄える気もする。だけど目を閉じてそのメロディを探ってみても、何も聞こえてこない。
そう考えると、何か特別な存在がいないとダメなのかもしれない。とは言え愁のために唄えるのかと言えば、答えはNOだった。その理由は俺自身よくわからなかったけど。
なら、溢歌のために唄えないか?
ぱっと閃いて、俺は飛び起きた。でも頭はすぐに冷えて、また横になる。
かつてのベッドの上から目覚めた俺が唄いたかったのは溢歌に対してだ。溢歌さえ横にいれば唄えなくったっていいなんて思ってたけど、あいつに俺の唄を聴かせてやりたいのが本音だ。
ただ、溢歌はそれを望んでない。
俺が煮え切らない原因はそこだ。
あいつに余計なものを与えてしまうと、それが毒になってそばから消えてしまいそうな気がするんだ。大嫌いな唄ならなおさら。
100%負ける賭けだってわかってて、唄う真似なんてできない。それなら俺は唄いたい気持ちを閉じこめて、溢歌のそばにいるのを選ぶ。
どうやら、どれだけ自分が『唄いたい』って思ってても、理由がはっきりしてないと俺は唄えない性質らしい。自分一人のために唄うのはどれほど寂しいものなのかは十分理解してたし、あの場所に戻るつもりもない。
『溢歌に唄いたい』って思った気持ちが、眠りについてた俺を呼び覚ますきっかけになったのは確かだ。その時はもう唄うだけで俺は生きていけるって思ったのに、実際は唄を聴かせる相手がいないとダメだってのも滑稽な話だった。
俺はノートを閉じて、本棚にしまう。CDをかけてスピーカーから流れるメロディに合わせて口ずさむと、自分の声がひどく遠くに聞こえた。すぐさま曲を止めて、たなびくカーテンの音に耳を傾ける。このほうが何十倍も気持ちいい。
桜花美大の学園祭ライヴまであと2日、明後日だ。
先週の土日は少し時間を多めに取って練習した。今度は唄ったところで倒れる事はなかったけど、あっさりとキュウのダメ出し。まだ、完全に手探り状態のままだ。
次のライヴは持ち時間が45分だから、イッコーメインの曲順で攻める事に決めた。和美さんの前で唄えるのが嬉しいのか、イッコーはいつになくはしゃいでた。
とりあえず学園祭の後に入れてあるライヴで俺が以前のように唄えるかどうか確かめてみて、今後のライヴの組み方を考えるってキュウは言った。ラバーズのマスターにクリスマスのライヴイベントに誘われてるから、実質今年ライヴをやるのは後3,4回だろう。
来年の今頃もこんなふうにバンド続けてるのかな、俺。
ぼんやりとベランダの外を眺めてると、飛行機の音が聞こえてきた。ガラス窓を開けてるせいで少しうるさい。でも、涼しくて心地良い風に撫でられてると、普段なら耳障りな音でさえ気持ちよく聞こえてしまうから不思議だ。
耳障りで思いついて、俺は自分のバンドのテープを戸棚から引っ張り出してデッキに入れた。よくよく考えてみれば、自分でケースからこのテープを取り出すなんて初めてのような気もする。
ああ、こんな声してたんだ、俺。
じっくり聴いた事がなかったからわからなかったけど、この頃が一番伸び伸びと唄ってた気がする。多分、キュウのおかげでバンドが上手く転がり始めたからだと思う。
心の中にメロディをしっかり携えた俺の唄声は、どこまでも遠く響いてる気がした。
ぼんやりとソファに寝転がってると、唄が胸の中に染み渡っていく。だけど、そのメロディは心の奥底に届く前に蒸発した。歌詞を耳にしても、その当時の気持ちは何故か思い出せない。誰か違うバンドの曲を聞いてるみたいだ。いい曲なのはわかるけど、今の俺の気持ちまでは掬ってくれない。
でも、何かいいなって思った。他のCDと違って、流してても全然嫌な気分にならない。要するに、唄ってる自分の声色さえ気にしなかったら自分に一番合ってる曲ばかりなんだ。そりゃそうだろう。流れてる音は俺がいつも囲まれてる音なんだから。
今日は晩まで、延々とテープを回し続けながら時間を潰した。
夕方になると、ベランダの外に出てみる。服を着ないと、風が冷たくて立ってられない。冬になれば、こうやってここから外の景色を眺める事もなくなる。
茜色の雲が夕焼けの空に広がっていた。今日は風が強くて、マンション下の木々が大きくざわめいてる。空気の匂い、夕日の柔らかさ。どれを取っても秋の季節だ。
海を眺めてみる。ここからだと角度的に、あの岩場のある街並は見えない。
溢歌は相変わらず、夕方になったら愁の家からいなくなる。また青空と逢瀬を重ねてるんだろう。この時間帯になると、胸がざわざわしていてもたってもいられなくなる。
でも、俺はバイクで岩場へ行く事はしなかった。家でじっと時が過ぎるのを待って、夜が訪れたら幾分気持ちは楽になる。何度か夜に気分転換で岩場まで足を運んでみたりしたけど、そこに溢歌の姿はないのは当然だった。
先週先々週と、和美さんに口裏を合わせてもらって練習に出てる事を溢歌には知られないようにしたけど、効果の程はわからない。愁は何も溢歌に話してないらしいけど、俺がバンドをやってる事をあいつは知ってるし、青空が喋ってたら何の意味もない。とは言え、青空が溢歌をスタジオに連れてくる事はないし、話題にも上げない。誘ったところで無下に返されるのがオチだろう。それならそれで、俺にとっては都合がいいけど。
明後日はどうしよう?和美さんだって学園祭に行くから溢歌がひとりぼっちになってしまう。嫌われるのを覚悟で、誘ったほうがいいんだろうか?でも、そのほうが逆に溢歌を孤立させてしまうような気もしなくもない。
しばらく考えてたけど、結論は出なかった。いつの間にか夕日は海の向こうに姿を消して、夜の帳が下りていた。
イッコーの店にでも食べに行こうかって思ったけど、週末だからきっと混んでるだろう。わざわざ今行って迷惑かけるのも何なので、素直にシチューでも作った。
愁が来てからは自分で作る事はなくなったけど、一人暮らししてるんだから簡単な料理くらいできる。ただ、本腰入れてやるわけじゃなく、外に買いに行くのが面倒だから日保ちするのを一気に作って寝かせておくだけなので、愁よりヘタクソだ。
こんなふうにのんびりする日をずっと求めてたけど、本当に何もやる事がないから刺激が足りない。物事を考えないと、クラゲみたいに延々漂ってしまう。ベッドの上で寝転んであれだけ時間が過ぎるのを望んでた昔の気持ちはどこかへ行ってしまった。
腹が膨れたら、すぐに眠くなる。部屋に戻ってベッドに潜ると、知らない間に寝てしまった。ここのところ、寝つきが良くて体調は良好だ。
夢ともつかない暗闇の中でふわふわ浮かんでると、鼓膜に携帯電話の着信音が響いた。いくら自作できるからと言っても、音自体が機械音みたいだから頭が痛くなる。
今までずっと着信音は切っておいたんだけど、愁から来る電話を受け取るために最近はONにしておいた。そうしないと向こうが怒るし、溢歌とも話せなくなる。
夜中に電話でやり取りしてから熟睡するのが1日の終わりだった。
「はい、もしもし」
眠気まなこでベッドから転がるように出て、床に置いた充電器に刺さってる電話を取る。
「あ、たそ?」
「違います」
「番号登録してるのに間違うわけないじゃないのさ」
「それもそうだ」
毎度のように適当なかけあい漫才の後、挨拶を交わす。俺は電話を手にしたまま部屋の電気をつけて、顔を洗いに洗面所へ向かう。
「どうだ、勉強はかどってるか?」
「うん、もう月曜日の科目の復習は終わったよ。でね、これだけ電話遅くなっちゃったんだけど、そっちにいっちゃんいない?」
「来てないけど……何で?」
そう言ってから、嫌な予感がした。蛇口をひねる手を止めて、慌てて部屋に戻って時計を見る。時刻はすでに12時を回っていた。
「まさか、そっちにもいないのか?」
俺が焦る気持ちを押さえて尋ねると、愁は頷き返してくる。
「いないから心配して電話したんだよ。おかしいなあ、てっきりたそのところだと思ってた。だから勉強終らせてからかけてみたのに」
愁もよくわかってないみたいだった。
じゃあ、どこへ行ったんだ?
「家に帰ったのかな?」
「いや、それはないと思う。あれだけ嫌がってたし」
「ねえ、探したほうがいいかな?」
不安げに愁が訊いてくる。俺以外にも心配してくれる相手ができたのに、何も言わないでどこに消えたんだ、溢歌の奴は?
「心当たりがあるから、ちょっと行ってみる。拾ってからそっちに向かうから、愁は家で待ってろ。夜中に外へ女の子一人で探しに行くのは危ないから。みょーも和美さんもまだ帰ってないんだろ?」
「兄貴は明日帰ってくるって。帰宅途中の和美さんから電話があったよ」
「わかった。もし溢歌が帰ってきたなら、こっちに電話入れてくれ」
俺は返事も待たずに電話を切って、急いで出かける準備を始めた。
岩場に月夜の海でも見に行ってるんだろうか?しばらく夜に出かけてなかったから。
それとも家に帰ってるのか?何か家に帰る理由ができたとか。
色々考えを巡らせながら、俺は岩場へバイクを走らせた。最悪な考えも浮かんで来たりしたけど、それを考えると心臓が縮むほど怖かったからすぐに頭のスイッチを切り替えた。こんな時に変なビジョンを頭に浮かべると、それに向かって現実が引っ張られていくような気がしてならない。
夜の湾岸は潮風が冷たかった。凍えそうになる身体を奮い立たせて、できるだけ早くバイクを走らせる。するといつもの半分ほどの時間で岩場のある港へ辿り着けた。
ミルクティーも買わずに堤防を降りて、岩場へ向かって全力で走る。今日は雲が多くて、月があまり出ていない。
不安定な足場と前に進みたい気持ちを押さえながら、先端に向かう。遠くからだとあそこに人がいるのかさえ掴めなかった。
段差を登って行くと、先端に人影は見えなかった。
じゃあ、どこにいるんだ?
とりあえず段差を登り切って、先端に出た。風が強いせいか、いつもより下の岩礁に激しく波が打ちつけられて、獣の咆哮のような音が辺りに響いている。
……まさかな。
俺は寝そべって下を覗きこんで見たけど、暗くてよくわからなかった。
足を滑らせて落ちた、なんて事ないだろうな?
でも、溢歌は前に毎日夜になると来てたって言ってたから、ここの危険性ぐらい十分承知してるだろう。それに、俺達に何の言葉もなしに身投げするなんて思えない。昔の溢歌ならその可能性もあっただろうけど、今は世話になってる愁や和美さん、そして俺がいるんだからその心配はない、はずだ。
俺はジャケットの内ポケットに入れてある携帯を取り出してディスプレイを灯らせる。愁からの連絡は入ってなかった。
すると、家に帰ってるのか?
でも、俺はあいつの家なんて知らない。この近くに住んでるって言ってたけど、本当かどうかもわからない。
そこで一つ思いついて、俺は急いで岩場を降りた。膝を打ちつけたりして打ち身が数ヶ所できたけど、そんなもの気にしてる暇はない。
俺はバイクの置いてある場所まで戻って、いつもミルクティーを買ってた自動販売機の隣にある喫茶店横の電話ボックスに駆けこんだ。
電話帳でも調べれば、自宅の電話番号がわかるかもしれない。
溢歌の苗字は珍しいから、探したら一発で見つかった。この街に住んでるのは本当らしく、ほっとした。あいつ、嘘はついてなかったんだな。
すぐさま自分の携帯に番号を打ちこんでみる。出てくれる事を祈りながら、俺は繰り返されるコール音をじれったい気持ちで聴いていた。
10回以上コールが繰り返されても、一向に出る気配はない。今の時間に人がいればよほどの事がない限り受話器を取るだろう。爺さんがいるって言ってたから、すぐに起きるんじゃないか?一人じゃ動けないんじゃないかって考えてみたけど、もしそうだとしたら溢歌が世話をしないで家出するなんて絶対に変だ。住所録の発行月を調べてみるけど、どうやら最新版らしい。
どれだけ待っても出て来ない気配がしたから、俺はスイッチを切った。とりあえず番号だけは携帯に登録しておいて、電話ボックスを出る。
すっかり手がかりがなくなって、俺は途方にくれた。あいつに次会ったら絶対に携帯電話持たせてやる。嫌がったって知るか。
――いや、一つだけ心当たりが残ってた。
明確なビジョンが脳裏をよぎる。いつものあの感覚だ。こんなふうに明確な映像が頭に浮かんだ時には、物事が大体その通りに運んだりする。予知能力だとか大袈裟なものでも何でもないけど、しいて言えば業みたいなもんか。俺が生きる上で背負ってる業。
俺はぐらつく身体を両足でしっかり踏んばって、のろのろと自動販売機へ歩いていく。いつものミルクティーを買って、その場でもたれるようにしゃがみこんだ。すると今まで大して気にしなかった足の打ち身が無性に痛み出す。
「畜生……」
踏んだり蹴ったりとはこの事だ。俺が心配してるのも無視して、今頃溢歌はのうのうと幸せな気分でいるんだろう。
青空と一緒に。
どうしてこう、あいつらが抱き合ってるシーンばっかりちらつくかな、俺の頭。なあ、叩き壊していいか?
自分の頭を小突いてみたけど、返事はしてくれなかった。
手の中のミルクティーが熱くて火傷しそうだ。それでも手袋もはめてない両の掌でぎゅっと握りしめてるのはどうしてなんだろう?
ほんの一口飲んでみると、急激な眠気が襲ってきて、このままここで眠りたくなった。
涙すら出ない。心の中が乾いて乾いて乾き切った感じがする。どれだけミルクティーを飲んでも、その渇きを潤す事はできなかった。
ああ、でも、一応行っておいたほうがいいか。
俺は空缶を港目がけて全力で放り投げて、バイクの場所まで戻る。アスファルトに叩きつけられた缶が港一面に派手な音を響かせた。
バイクに乗ってると、全身に広がってたミルクティーの温もりもすぐに消えて、寒さが襲ってくる。俺は真正面から吹きつける風と溢歌に裏切られた思いで凍えそうになりながら、愁の家へ向かった。岩場へ走らせた時とは大違いの鈍足で、たっぷり時間をかけて目的地に着いた。
チャイムを鳴らすと、床を駆ける音が家の中から聞こえてきて、玄関の扉が開いた。
「ただいま!ってあれ……?」
元気良く笑顔で溢歌を迎えようと思ってたんだろう。俺の隣に溢歌がいないのを見て、愁は俺に目配せしてくる。
「あいつならいないぞ」
俺はぶっきらぼうに言って肩をすくめてみせた。廊下の向こうに和美さんの姿が見える。
「でも心配すんな、他の人の家に遊びに行って泊まってるだけだから、明日になったら帰ってくるって。明日電話で連絡入れるように言っておいたから、和美さんにも伝えてて」
適当に嘘を取り繕って、俺は顔をほころばせる。すると愁は素直に俺の言葉を信じて、ほっと胸を撫で下ろした。
「じゃあ、そういうわけで俺は帰るから。また明日スタジオでな」
そのまま俺が踵を返して帰ろうとすると、いきなり強い力で愁に腕を引っ張られた。思わずこけそうになって、愁の身体にぶつかる。
「何だよ」
「せっかく来たんだから上がってってよ。いっちゃんいないんだったら、久しぶりにじっくりたそと話せるじゃない?ほらほらー」
愁は俺が止めるのも聞かずに玄関まで俺を引っ張る。腕を組まれながらどうしようか考えてると、愁の後にいた和美さんが俺達を見て少し顔を傾げて頬笑んでた。
「赤点取っても知らないからな」
「あたし頭いいんだよ。キュウと違ってちゃんとノート取ってるもん。だから心配ご無用」
俺は大きなため息をついて、お邪魔させてもらう事にした。まあ、このまま家に帰って枕元で悶々と溢歌と青空の愛の花園を想像するよりは何万倍もマシだろう。ここにいる間は、あいつらの事はできるだけ忘れるようにしよう。悩み過ぎると胃が痛くなる。
「和美さん、みょーの奴最近どうですか?」
「後少しですって、絵が完成するまで。たそさんもライヴが終わったら、観に来て下さいね。それと伝言で、ライヴ楽しみにしてるって」
「あいつからそんな言葉聞くなんて思ってもなかった」
「照れ屋さんですから、面と向かって言う事なんてほとんどないですけどね」
愁に連れられていく前に、和美さんと二、三話をする。疲れてるのか、眼の下にほんの少しクマが見えた。きっと文化祭の準備で忙しかったんだろう。
「和美さんは展示しないんですか?絵」
「大したものじゃないですけど、息抜き程度に描いたものを数点置いておきます。ちゃんとした作品は展示できませんから」
「たそ、行くよー」
和美さんの言葉に首を傾げてると、階段の上から愁が呼んできた。その疑問はまた今度という事で、和美さんに軽く会釈してから俺も2階へ上がる。
愁の部屋に入ると、机の上にノートと参考書の山が積まれてるのが目に入った。思わず拒絶反応が出て、頭がクラクラする。
はっきり言って、俺は勉強が大嫌いだった。理由は他の奴らと大差ないから言わない。片づけるように頼むと、愁は笑って本棚にそれらをしまった。
俺がベッドに腰かけようとすると、愁がいきなり飛びこんできてベッドを占領した。毛布に頭を埋めて、頬に伝わるその感触に仔猫のような顔を浮かべる。
「ねーたそー、勉強でずっと椅子に座ってたから疲れたよ〜」
手足をじたばたさせながら愁が情けない声を上げる。
「ちょっと待ってろ、和美さんに何か淹れてもらってくるから。コーヒーでいいよな?どうせ今寝るつもりはないんだろ」
「ミルクと砂糖少量でおねがいしますだ〜」
「婆さんかおまえは」
「50年後にはね」
溢歌とずっと一緒にいたから、ボケ方まで伝染ってしまったんだろうか?俺は苦笑しながら1階へ降りて、和美さんを捕まえてコーヒーを淹れてもらった。
「何読んでたんですか?」
机の上に広げたまま和美さんが置いてた雑誌を覗きこんでみる。そこには名前も聞いた事のないバンドの記事が載ってた。
「インディーズ専門の音楽雑誌です。たそさん達のこと載ってないかなって思って」
コーヒーを乗せたお盆を和美さんが持って来てくれる。それをテーブルに置いて、二人で雑誌を眺めながらいろいろページをめくってみた。
「ホントだ、載ってる」
半ページも取らないようなスペースだったけど、前回のライヴの記事が載っていた。この記事を書いた人は、どうやらかなり好印象を持ってくれてるようだ。誉められて悪い気はしない。たまに俺達のバンドにインタヴューさせてくれって来る人達がいるけど、そういう面倒臭い事は全部イッコーと青空に任せてある。俺や千夜が受けたところで話が円滑に進まないのは目に見えてるから。
「次は1ページですね」
和美さんは笑顔で俺に言ってくるけど、正直どれだけ大きくなれるのかはわからない、俺達のバンドは。プロ意識とはまた離れたところで音を鳴らしてる部分もあるから。
「まあ、学園祭に呼んでもらうくらいだからそこそこ人気あるんじゃないですか」
俺はとりあえず謙遜しておいて、冷めないうちにお盆を持って2階へ戻った。扉を開けると、愁は枕に顔を埋めて横になったまま、死人のように動かないでいる。
起こしていいものかどうか迷ったけど、後で怒られるのも面倒だから軽く頭を小突く。
「……うにゃ?」
眠気まなこをこっちに向けて、愁が目を覚ました。放っておいたら完璧に寝てただろう。
お盆を差し出すと、愁は礼を言ってカップを手に取った。俺もカーペットの上にあぐらをかいて、コーヒーを頂く。前に飲ませてもらった時もそうだったけど、ちゃんとした豆を使ってるのか、カフェで飲むのと大差ないように思える。
頭が上手く回ってないのか、愁は何も喋らないで俺の顔を見ながらカップに口をつけてる。だから俺も言葉を口にしないで、愁の顔をじっと見つめてコーヒーをすすった。言葉以上のものが、俺達の間に交わされた気がする。
「ごちそうさま」
コーヒーを飲み終えた愁が、カップをお盆の上に置いてまたベッドの上で横になった。飲んだところで眠いものは眠いらしい。
「ね〜たそ〜、マッサージして〜」
うつ伏せになったままの愁が、毛布の隙間から声をかけてくる。
「マッサージっておまえ……」
「勉強のし過ぎで肩が凝ってるの。あと腰。それと足と手と首と背中」
「全部じゃないか」
「う〜、どーでもいいから早く〜」
俺は苦笑しながら、愁の後にちょこんと座る。膝下まである緑のスカートの下から、生足が覗いてる。指でつっついて見ると、柔らかくて弾力があった。
「どこさわってんのへんたい〜っ」
力のない声で愁が小さな悲鳴を上げる。このまま遊んでるのも面白いけど怒られるから、愁の言う通りに肩からマッサージを始めた。
愁が俺の下で変な声を上げる。気持ち良いのか痛いのかよくわからなかったけど、凝ってるであろう個所を重点的に攻めてやった。
「痛かったら痛いって言えよ」
「初めての時には何も言ってくれなかったのにね」
「何言ってんだおまえは」
減らず口を叩く愁の頭を叩くと、蛙が潰れたような声を上げた。
上から順にマッサージしてやる。これが結構重労働で、やってるこっちが疲れてきた。全部終わると、俺はへろへろになって壁に背中を預ける。
「まだ終わってないよ」
愁が俺に顔だけ向けてくる。一瞬ベタベタな展開を想像してしまったけど、まさかその通りに事が運ぶとは思いも寄らなかった。
「次はココロを気持ちよくして」