044.役割
神様ってのは、本当に悪戯好きだと思う。
欲しいものはいつまで経っても手に入らないのに、ふと目を逸らした瞬間に手元にやってくる。
俺は今までひた隠しにしてた感情が一気に胸の奥から爆発するのを感じて、その名前を叫んだ。
「溢歌っ!!」
叫んだ自分が驚くくらいその声は大きくて、室内に響き渡った。
少女が振り向く。
その時の顔は、最初に会った時に感じた気持ちと同じくらい、心に焼きついた。
涙を流していた。
振り向いた拍子に、水玉の涙が目尻からこぼれて頬を伝う。妖精が自分の内面を偽りも仮面もなく曝け出したその顔は、見た者全ての胸を高鳴らせる。
少女の視線が真っ直ぐに俺の目を射抜く。その瞬間、世界は俺と溢歌の二人だけになった。と思うと、驚いた顔をすぐに隠してジャケットの袖で涙を拭うと、鉄仮面のように冷めた表情を作る。
俺の視線は溢歌の着てるジャケットに釘付けになっていた。俺が渡したジャケット。
そして理解した。
青空の奴が何もかも知ってるんだって事を。
俺がその事実に愕然と立ち尽くしてると、溢歌は何事もなかったように入口の前にいる俺達の横を構わずすり抜けて行こうとする。
「待てよ」
頭がそれを認識するよりも早く、俺の手は溢歌の腕を掴んでいた。
「あなた、誰?」
すると溢歌は突拍子もない台詞を吐き出して、俺に敵意のある視線を向ける。
「誰って、おまえ……」
俺が反論しようとすると、溢歌は俺の手を乱暴に払いのける。
「ナンパならお断りよ。じゃあね、さよなら」
「おい、待てったらおい」
早足で歩いて行こうとする溢歌の肩を強く掴むと、今度はうざったそうな表情を見せた。
「いっちゃん、どうしたの?」
俺の後ろから愁の声が飛んでくる。振り返ると、他の6人が怪訝そうな顔で俺達を見てた。
どうしたもんかと瞬時に考えを巡らした結果、溢歌の腕を強引に引っ張って外へ出る。
「ごめん、ちょっとこいつと二人で話があるから、先に見ててくれないか?愁も心配しなくていいから、すぐ戻ってくる」
「う、うん……」
「ちょっと、誰も行くなんて言ってないわよ、こら、離して、離しなさいってばもう!」
辺り構わず罵言を喚き散らす溢歌を無視して、俺は溢歌を人気の無い隣の校舎の裏庭へ連れて行った。あのままあそこにいたら余計話がこじれる。
「何よ突然!私を襲うつもり!?」
「ああ」
大木のそばで溢歌の腕を放すと、俺はいきなり顔を押さえて桃色の唇を奪った。溢歌は振り解いて逃げようとするけど、華奢な女性が力勝負で男に敵うはずがない。
しばらくそのまま唇を重ねてたけど、一向に観念する様子を見せようとしない。
そこから俺が舌を割って入れようとすると、頭の芯に電流が走った。口の中に広がる痛みで押さえつけてた手の力が緩んだ隙に、溢歌が慌てて俺から離れる。
「っつ〜っ」
「変な気起こすからよ、バカ!」
口を押さえてうずくまる俺に、溢歌は冷たく言い放つ。思いっきり舌に歯を立てられてしまった。苦い血の味が広がっていく。
「久しぶりに顔を会わせたもんだから、気を落ち着かせようと思っただけだって」
「どうだか」
溢歌は腕を組んでそっぽを向いた。人通りの無い場所を選んだからよかったものの、こんなところ人に見られたらどう思われたのかわかったもんじゃない。
「で、わざわざ力づくで私を引きとめた理由は何?」
冷めた目で溢歌は俺を睨んでくる。相当ご立腹の様子だった。
「携帯買え」
「嫌」
会話が終わってしまった。
「帰るわよ」
「いや違う、それは結論で……何から話せばいいんだろ」
言いたい事は山ほどあったのに、いざ目の前にすると頭が混乱して言葉がちっとも浮かんでこない。
俺がそのまま頭を悩ませてると、溢歌は肩をすくませて木に背中をもたれかけた。
「わかったわよ。逃げないから順に話していけば?それとも謝ってほしかったわけ?」
「謝って……ほしかったわけじゃない。ただ、一つくらい連絡入れてくれればよかったんだ。どれだけ気苦労したと思ってるんだ」
「謝れって言ってるのと同じじゃない。わかったわ、ごめんなさい。もう二度としません」
溢歌はため息をついて、体裁を整えて俺に頭を下げた。人を舐め切ってるとしか思えない態度だけど、不思議と怒りは出てこない。
「愁や和美さんだって突然いなくなったんだから心配してたんだぞ。俺だってあちこち駆けずり回っておまえの事捜したし……また変な気起こしてあそこの岩場から身投げしたんじゃないかとか思ったり」
真顔で言ってる俺の姿がおかしかったのか、溢歌は口元を押さえて笑った。
「バッカねー、人を自殺志願者みたいに扱わないでよ。第一そんなことする理由がないじゃないの」
「そこまで俺が知るわけないだろ」
どうやら、俺は散々こいつに振り回されてただけらしい。全身から力がどっと抜けて、立ち眩みがする。
「まあ、いいわ。それで、どうして見つかるまで私を捜さなかったの?愁ちゃんや和美さんにはどう答えてくれたの?興味があるわ、すごく」
溢歌は小悪魔のような微笑みを見せて、俺を挑発してくる。思わず爆発しそうになるのを堪えて、俺は一言一言噛み締めるように口に出す。
「いると、思ったから……青空のところに」
俺達の間に視線が交差し合って、溢歌はくすっと微笑んで言った。
「正解」
わかってた。わかってた事だったとしても、全身の力が抜けていく。
近くの校舎の壁に拳を何度か叩き付けて気を紛らわしてから、俺は溢歌に訊いた。
「青空は俺達の事、知ってるのか?」
「どうして?青空クンが知ってたところでどうなるっていうの?あなたが」
溢歌は物分りの悪い子供をあしらうように訊き返してくる。
「いや……それ着てたからな」
俺は溢歌の着ているジャケットを指差した。もちろん、俺があげたやつだ。
「ああ……そういうこと」
納得するような表情を溢歌は見せて、風に揺れるオーバーブロウの髪の毛をかき上げた。
「あなたが信じる信じないは別として、私は何も話してないわ。青空クンも何も訊いてこない。訊かなくたってわかってるんでしょうね。私とあなたがどういう関係なのか」
という事は、青空はあえて何も知らないように振る舞ってただけだったんだ。俺からできるだけ目をそらしてたのも、俺と同じで訊きたい衝動を必死に抑えてたからなんだろう。
結局、どっちもガキだったってわけだ。
「……青空クンにはきっと関係がないのよ、そんなこと」
溢歌は何気なく言ったんだろうけど、今の言葉は俺の胸に深く突き刺さった。
「どういう、事だ?」
本当に何もわかってない俺に哀れむような目を向けて、溢歌は簡潔に説明する。
「そのままよ。青空クンにとっては私といられることが全てなの。一分でも、一秒でも長く私と一緒にいたいだけよ。そう、それだけ」
溢歌は日が傾いた晩秋の茜色の空を眺めながら、小さく息を吐いた。その白い息はすぐに消えて、大樹の上を飛び交う烏の鳴き声が不意に胸を締め付ける。
「俺だって……」
俺だって、同じ気持ちなんだ。
「そうかしら?」
最後まで言い終わる前に、溢歌は蔑んだ目を俺に向けてくる。
その目には見覚えがあった。そう、青空と抱き合ってる時に向けてきた視線と同じ。
人の心を弄ぶのを快楽にしてる者の目。他人を傷つける事に悦びを感じる奴の目。
心の奥底まで見透かされてるような感覚に、背筋を冷や汗が伝う。
「あなたが私に求めてるものは何?恋愛感情?身体?それとも、もう一人の自分自身?あなたは私から、一体何を欲しがっているっていうの?」
そんなの、言い出したらきりが無い。いや、言葉にすらできないんだろう、それは。
もしかしたら――
「そしてあなたは、私があなたのどこが欲しいのかわかってるわけ?」
溢歌の次の言葉に、俺の思考は糸が切れたように途切れた。
そして気付いた。
結局俺は、溢歌にこっちの気持ちだけ投げ続けてたんだ。
溢歌が俺に何を求めてるかなんて、そんな事、自分の考えだけで目一杯でちっとも考えなかった。自分の事を放り出してでも、相手の気持ちを汲み取ってやるなんて一度もしたことがなかった。
胸の中に、情けなさと後悔が一気に広がっていく。その気持ちをかき消そうと、俺はその場で思いついた言葉を懸命に並べ立てた。
「……そんなの、そんなのわかるわけないだろう。俺はおまえじゃないし、おまえも俺じゃない。それに……そんな事、相手に伝えたところでどうなるっていうんだ?心を満たしてやれるかもしれないけど、逆に足枷を相手にはめてしまう場合だってあるだろ。好きな相手と一緒にいたい、その気持ちだけじゃダメなのか?」
「ただの理想論ね」
ガキのお飯事にはつき合ってられないって感じに、溢歌は肩をすくめた。
「形のない恋愛感情なんて世の中で一番信用できないものだわ。優越感、劣等感、満足感、妬み、嫉み……そういういやらしい部分があってこそ、それは意味を持つの。そして相手を手に入れる事で何かを満たして、安らぐの。誰だって同じ」
俺から目をそらして、溢歌は身を削るような感じに呟く。
「そう、他人を想う気持ちなんていつだって一方的なんだから」
溢歌は世の中の全てに諦め切ったような顔で、うっすらと目を閉じた。
一体この16歳の少女は、今までどんな人生を送ってきたんだろう?一人勝手に悶え苦しんでた俺なんかには想像もつかないような体験をしてきたんだろうのか?
そんな溢歌の不相応な表情を見るたび、俺は胸が絞めつけられる思いをしてそう考えると同時に、何とかしてその苦しみからこいつを助け出してやりたいって心から思う。
でも、どうやればそれができる?
俺がおまえを助けてやりたいって思う気持ちは確かに一方的だけど、それでお互いに喜び合えるのなら、形なんてどうだっていいんじゃないのか?
気持ちだけが空回りしてるのは自分でもよくわかる。それでも、俺は言葉を投げかけずにはいられなかった。
「じゃあ、俺と出会った時の気持ちは、色褪せてるか?俺の中じゃ全然色褪せてない。それどころか日に日に大きくなってる。おまえに会えない日、ずっとその気持ちを押し殺してきたんだ。おまえは、おまえはどうだったんだよ!」
俺の声が風で揺れる木の葉の喧騒に飲みこまれる。無言の時間が続く間、俺は次の言葉を我慢して溢歌の返事を待ち続けた。
「……青空クンはね、私を必要としてくれてるの」
だけど溢歌は俺の問いには答えないで、そう呟いた。
「欲しがってるの、私の全部。嫌なところも醜い部分もひっくるめて。押しつけがましいほどに私を好きでいてくれるわ。あなたはどうなの?あなたが私の全てを知った時、それでも好きでいてくれる?」
その言葉は、祈りにしか聞こえなかった。
助けてくれる相手を心から求めてる人間にしか発せられない心の願い。
夜を怖がる子供が母親に傍で一緒に寝てくれるようにせがむような気持ち。
叶わなかったら、それこそ絶望の淵に叩き付けられるような想い。
「俺、俺は――」
安請負に頷く真似なんてできるわけがない。でも、溢歌を助けてやりたい気持ちに嘘はない。溢歌の本当の姿がどんなものであったとしても。
どう答えていいものか途方に暮れてると、溢歌は寂しがりの少女の顔から悪戯っ子の表情にころっと変えて、もたれていた身体を起こして大きく背伸びをした。
「なんて訊いたところで、返ってくる答えは目に見えてるから言わなくていいわ。……ああ、忘れてたことが一つあったんだっけ」
呆然としてる俺に、溢歌は人差し指を立てて言った。
「前の答え。私は誰だって傷つけたって構わないわ。それが私だもの。どれだけ恨まれようが、どれだけ悲しくなろうが構いはしないの。それが私なんだから」
それだけ言うと、溢歌は俺にくるりと背を向けて立ち去ろうとする。
「……帰るのか?」
「あなたのトモダチのところにね。じゃあね」
溢歌はさらりと答えて、俺に軽く手を振る。
「いっちゃん!」
さよならを言う気力もなくその後姿を見送ってると、背後からいきなり愁の声が飛んできた。走ってきたのか、息が上がってる。溢歌も足を止めてこっちを見ている。
「心配したんだよ。友達の家に泊まるなら連絡くらい入れてくれればよかったのに」
愁は溢歌に駆け寄って、表情を崩す。やっぱりどれだけ大丈夫だって聞かされてても心配してたみたいで、本人を見るとそれも吹き飛んでしまうようだ。
「ごめんなさい、さっきも黄昏クンに言われたけど、全然考えもしてなかったから」
溢歌は頭を掻いて謝る。何故かふと、電話の出ない溢歌の実家の事が脳裏をよぎった。
「もうちょっと見ていこうよ。途中だったんでしょ?兄貴も喜んでたよ、『オレの絵を見て泣いてる溢歌チャン見てるとこっちが泣きそうになった』ってさ」
まるで我が事のように喜んでる愁。それだけみょーの事を想ってる証拠だ。そしてそれが俺も幸せな気持ちにしてくれる。
溢歌はまずいところを見られたと思ったのか、顔を赤くしてつむじを巻いている。
「今日は帰ってくるんでしょ?それなら兄貴達と一緒に帰ろ?人数は多いほうがいいじゃん、ね?」
愁は溢歌の手を引っ張って、部室に連れて行こうとする。だけど溢歌は冷めた顔を愁に向けてきっぱりと言い放った。
「……ごめんなさい、今日も帰らないわ。これからもずっと」
「え……?」
愁の顔から表情が消える。
俺も何となしにそんな気はしてたけど、あえて尋ねようとはしなかった。
溢歌はゆっくりと愁が繋いでいる手を外して、ぎこちなくはにかむ。
「今までありがと、愁ちゃん。私今日から、友達の家に泊めてもらうことにしたから」
「そっか、そうなんだ……ちょっと寂しいけど、しょーがないか……」
心底残念そうに愁が呟く。溢歌の事をまるで妹のように思ってたんだから、しょうがない。でも、無理に引き止めようともしなかった。いつかこんな日が来る事は最初からわかってたんだから。ただそれが、早く訪れてしまっただけの事だ。
愁はそう考えて、泣くのを我慢してるようだった。
「……でもさ、いつでも遊びに来ていいからね、いっちゃん。兄貴も和美さんもいるしさ。待ってるから、たそと一緒に」
愁は精一杯の気持ちを投げかけたつもりだったんだろう。だけど最後の言葉を聴いた瞬間、溢歌の顔は強張って、冷たい台詞を吐き捨てた。
「もう行かないと思うわ」
「……!」
ぱん!
乾いた音が木々のざわめきをつんざいた。
何が起こったのか理解できなくて、愁は呆然と口を開けている。
溢歌はそのまま、左頬をうっすらと手でさする。その視線は宙を泳いだまま、平手を打った俺の方さえ向こうとしない。
「……さよなら。」
呟くように吐き捨てて、踵を返して溢歌は駆け出した。俺はその背中を追い駆けるつもりはなかった。愁に酷い事を言ったあいつを。
「いっちゃん!……待ってるから!あたし待ってるからね!」
愁は大声で、去って行く溢歌の背中に叫ぶ。校舎の影に溢歌の姿は隠れて、再び烏の鳴き声が辺りに戻ってきた。
「……どうしちゃったのかな、いっちゃん……」
相当ショックだったのか、愁が泣きそうな顔で溢歌の去って行った方向を眺めてる。
「おまえが悩む事ないって。俺が何とかするからさ」
「うん……」
俺が頭を抱えこむように抱き締めてやると、愁は力を抜いて俺に身を預けてきた。キスしてやりたかったけど、ついさっき溢歌としたばかりの口でするのはためらわれた。
「じゃ、戻ろうか。早くみょーの絵を見てみたいし」
「うん……そだね。あ、でも今のは反則だよ、たそ」
「何が?」
素で訊き返すと、愁は頬を膨らませて俺を見上げた。
「女の子には手を上げちゃいけないってこと。あたしのことを想ってくれたからやったんだろうけど、傷つくのは向こうなんだから。ホントに言いたくて、あんな言葉言ったんじゃないって思うし……」
「……悪かった、ごめん」
とりあえず、口に出して謝って愁の髪の毛をくしゃくしゃに撫でてやる。別に俺は女性を殴るのに何の疑問も持ってないから愁の言う事は素直に納得できなかったけど、愁が嫌がるなら今度からはそうしよう。
「ううん、あたしは平気だからさ。今度いっちゃんに会った時に謝ってあげてよ」
愁は優しい顔で髪を手櫛で梳きながら、俺に言ってくる。
「ああ」
俺は頷いて、愁と一緒に部室へ戻った。
でも、愁は気付いてない。
俺の名前を言ってしまったから、溢歌が機嫌を損ねた事を。
つくづく、俺は罰当たりな人間だと思う。これじゃ、神様が悪戯したくなるのも当然なんだろうな。
憂鬱を乗せて吐き出した白いため息が、すうっと夕暮れに消えた。