→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第2巻

   052.二人きりの泣き顔

「クリスマスだね」
 俺の膝の上で足を伸ばしている愁が、今日何度目かの言葉を口にした。
「まさかホントに雪が降るなんてな」
 閉め切った暖房をかけた部屋から、ベランダの外を眺める。黒い空間に、ちらちらと白い雪が降ってる。勢いはそれほどでもないけど、二日前に大雪が降ったせいでベランダから見える街並は白一面に包まれてた。
「んんっ」
 喉に違和感を感じて、軽く咳をする。
「大丈夫?」
 心配そうな顔で、愁が俺を見る。一月以上夜中に外でギターを弾いてたせいなのか、少し風邪気味になったようだった。
「大袈裟なもんじゃないって。もうストリートライヴは終わったから、明日終われば家でゆっくり休んでる」
 TVの上のデジタル時計を見ると、クリスマスイヴも終わろうとしていた。
「そだね。たその声ってガラガラしてるから風邪引いててもわかんないもん」 
 素直な愁の言葉に苦笑するしかなかった。俺の普段の声はマイクを通すと、音を拾いにくいのかほとんど聴き取れないような掠れ声だ。唄う時は喉を張って、通りのいい声になってるから気にならないけど、普段はできる限り力を抜いてるから耳を立てていないと聴き取りにくいと思う。青空が俺と再会した時に言われたのがこの声だったから、おそらく唄い過ぎで変わってしまったんだろう。
 俺達は黒い背もたれつき座布団にもたれてのんびりとしていた。キッチンには使い終わった食器が水の中に浸かってる。二人だけのささやかなパーティも終わって、食べ切れなかったケーキは冷蔵庫の中にしまった。TVもコンポもつけないで、満腹感を味わいながらのんびりと眠気を楽しむ。
 こうして二人でいる時は、愁の身体のどこかが必ず俺に触れてる。それだけで俺も愁も、ひどく安心できる。言葉を交わさなくても、どこか繋がってる感覚がある。下から愛らしい目を向けてこられると、不意に笑みが零れて髪の毛をくしゃくしゃにしたくなる。怒られるから撫でるだけにしてるけど。
「お腹いっぱいだね」
「ああ」
「パジャマ、似合ってる?」
「ああ」
 他愛もない事を言い合っては、猫のように寄り添い合う。風呂上がりの愁の髪の毛はまだちょっと水気を含んでて、鼻を近づけるとシャンプーの残り香が漂ってくる。愁の着ているパジャマは俺が普段使ってない奴で、サイズが大きいから袖を捲ってる。
「いろいろあったな、今まで」
 愁の身体に回した手にほんの少し力を入れて後から抱きかかえる。こうやって全身で愁を感じてると、ずっと頭にこびりついてる不安や恐怖が和らいでいく。
「やだ、どうしたのさ?まだ年末じゃないよ」
 愁はくすくす笑って、俺の手をすり抜けて横で肩を並べた。
 俺の顔を真っ直ぐに捉えて離さない、丸々とした大きな目。ほんの少し小さくて目立たない可愛らしい鼻、口紅もつけてないのに綺麗な桃色をした小さな唇。肩まで伸びた癖のない茶色がかった髪の毛。
 今まで、この顔を一体どれだけ眺めたんだろう。その一つ一つどれもが、愛しく思える。そしてこの目は、一体どれだけ俺を見つめ続けてくれたんだろう?
「まだ感傷に浸る時じゃないのにな、何でだろう……いろんな事が頭を駆け巡るんだ」
「ふふっ、あたしも」
 愁は身体を上に向けて、俺に身体を預けてきた。俺の顔に両手を伸ばして、首元に手を回して自分の顔を近づける。
「多分、一年の間にいろんなことがあったからだよ、きっと。去年のクリスマスと違って」
「そうかもな」
 愁にそう言われて、一年前の自分を振り返ってみた。まだその頃は愁の姿さえ見てなくて、ずっとバンドの事ばかり考えてた毎日だった。クリスマスにはライヴ後にイッコーの家に乗りこんで、無理矢理千夜を巻きこんで青空と四人で祝ってた。あの時はあの時で、毎日がひどく充実してたような気がする。まさかあの時、来年の今日に自分が好きな人と一緒に過ごせるだなんて想像さえしなかった。
 そしてそれが、どんなに有意義で幸せな時間だって事も。
 それを教えてくれたのは、全部愁だ。
 本当にこの一年で、特に愁と出会ってから、俺の周辺は大きく変わった。こんなに人を好きになれる自分にも気付かなかったし、愛される喜びも知った。そばで俺に向けてくれる目がどれだけ心の支えになったか数え切れない。
「愁と出会えて良かった」
 俺は嘘偽りなく、正直に胸の内を言葉に乗せた。ちっとも照れ臭くなんてなかった。この大きな部屋で、愁と二人で過ごせる。それがどれだけ素晴らしい事か、他人から見ればさっぱりわからなくても、例え神様にもわからなくても、俺にはわかる。
「やだなぁもう、照れ臭いじゃん」
 言われた愁のほうが顔を赤らめて、俺の耳たぶをつねってくる。それから一旦身体を起こして向き直って、俺の膝の上に頭を置いた。
「でも、あたしだって一緒だよ。たそ、最初は全然気付いてないふりしてたのにね」
「……振りだったか?」
 俺が逆に訊き返すと、愁は俺の大事な部分をズボンの上からつねってきた。
「何となくだけどわかってたよ、ずっと俺にアプローチかけてた事ぐらい」
 その手を払いのけて痛む股間を押さえると、愁は口元に手を当てて笑いながら謝った。
 俺だって鈍感だったわけじゃない。愁の視線が初めから俺にばかり向いてた事はある程度気付いてたし、俺の家にテープを持って来て初めて部屋に上がりこんで来た時にそれは確信に変わった。
「ただ、あの時はずっとうざったがってたけどな。また来たのか、一人にしてくれってばかり考えてた」
「うん、それもわかってたよ。だってたそって顔に出るタイプじゃん」
 あっさり愁に言われて、逆に俺が面食らった。表情を隠すのが下手なのはもう散々に青空や周りの奴らに言われてきたけど、愁に言われると少し落ちこむ。
「でも、そこで尻尾巻いて引っこむなんて嫌だったもん。初めて心から好きになれたひとなんだから、こっち向いてくれるまでずっとアプローチしようって決めたの」
 そう言って愁は小さく舌を出した。通りで、どれだけ怒鳴り散らして泣かせたところで懲りずにやって来たわけだ。
「まさかあんなふうにされるだなんて思ってもなかったけどさ。やっぱりずっと心の中で望んでたことだったって言っても、ね」
「……ごめん」
「やだなーもー、ちっとも気にしてないもん、今は。最初はやっぱり心残りで悔しかったけど、あのおかげでたそがあたしのこと、ちゃんと見てくれるようになったからいいんだ」
 愁は笑い飛ばして嬉しそうな顔を見せるけど、俺はどうしても心の傷が疼いて胸が痛んだ。愁の望む通りに最初から優しく抱いてやれば、全ては丸く収まったのに。でも、愁のその言葉のおかげで、幾分笑みを浮かべられる。あの時がどうあれ、それがきっかけに今があるんだから、それでよしとしよう。
「……でもあの時、どうしていきなりあんなことしたんだ?」
 俺の言葉に愁は最初首を傾げてたけど、意味に気付いて耳たぶまで顔を真っ赤にした。
「あ、あれ……キュウがやってみろって……」
 だんだんと語尾が小さくなって、最後のほうはよく聴き取れなかった。
「何となくそんな気はしてたんだけどな……」
 まさかあの頃の愁が自分の意思だけであんな行動に出ようなんて思わないだろう。裏があると思ってたけど、やっぱりキュウだった。あいつは愁と違って昔は援交を頻繁に平気でやってたらしいから(詳しくは知らないけど、相当凄かったらしい)、男を悦ばせる方法をわかってるんだろう。
「ずっとたそが振り向いてくれなかったから、キュウに相談したの。そしたらいきなり『そんなの、パアッとやっちゃって身体で向かせればいいのよ』とかなんとか……。そんなことできないって言ったら、じゃああれやってみなさいって……」
 多分キュウ本人からしたら、適当にからかってみただけなんだろう。でも愁は素直で純情な娘だから、変だなとは思いつつやってみたに違いない。
 俺が想像を巡らせてると、愁は慌てて両手を大きく振って否定した。
「ああっ、でもやるつもりはなかったんだから!あれは、その……男の人のがどんなふうになるのかなって、ちょっと興味を持っただけなんだから、ちょっと」
 自分で言わなくてもいい事まで言いながら慌てふためいてる。そんな仕草がおかしくって、俺は大声で笑った。笑い過ぎると愁が拗ねるから、控えめにしておく。
「いいって別に、もうお互いの裸なんて見慣れてるんだし」
「うん、でも……始めたら何とも思わないけど、服脱ぐ前と終わった後がまだ恥ずかしいかな、やっぱり……じっと見られると、恥ずかしくって」
 赤らめた顔を見せる愁の胸に、ぶかぶかのパジャマの上からそっと手を当ててやる。すると小さな悲鳴を上げて、俺の顔をじっと睨んだ。さっき風呂の中でも抱き合ったばかりなのに、初々しい表情を見せる。
「ああ、なんだかあたしばっかり言っててズルイ。たそもなんか言ってよ」
 恥ずかしさに耐えられなくなったのか、今度は俺に話を振ってくる。
「あ、そだ……たその初体験って、いつ?」
 困った顔をしてる俺に、愁が思い出したように質問を投げかけてきた。言っていいものかどうか悩んだけど、愁の期待と不安の入り混じった顔に嘘をつけなくて、しょうがなく記憶を紐解く事にした。
「愁じゃない」
 俺が答えると、愁は悲しげな顔を見せた。当然の反応だったけど、構わずすぐさま言葉を続ける。
「でも、別にそのひとが好きだったわけじゃないんだ。言い方は変になるけど……事故」
「事故?」
「だって俺が小学生の時だもの」
「ええっ!?」
 声が裏返ってしまうほど、愁は目を丸くして驚いた。これまた案の定当然の反応だった。
 きちんと一から説明してやる。
「音楽の先生で、名前は覚えてない。確かその辺にありふれた苗字だった気がするんだけど。年齢も覚えてないけど、見た目は結構若かったかな。美人で、人気のある先生だったんだ。でも俺は、その先生好きじゃなかった。何かと目をつけられてたんだ、やる事全部。俺、授業中に先生に当てられるのとか大嫌いだったからさ、音楽の授業だけはよくさぼったりしてた。出た時にはガンガン当てられて、みんなの目の前で笛吹かされたり……それが本気で嫌だった。でも、そのわりには音楽だけは3段階評価でいつも上だったんだ。よくわかんなくてさ」
「それって、楽器が上手だったからとかじゃないんだ?」
「さあ……半分半分だと思うけど。けなされた事は一度もなかったから。それで、三学期共全部A評価で、これ間違ってるんじゃないかなって思って言いに行ったんだ、音楽室に一人で。その時だな、したの。やられたって言った方が正しいか」
「学校の中で?」
「うん、音楽準備室で。鍵かけて、一回」
 愁はぽかんと口を空けて俺の顔を見ていた。さっきまでの悲しい顔はどこへやら、想像以上に凄い話が来たせいでどう言葉を返せばいいのか困った顔を浮かべてる。
「で、その先生、学年が変わってしばらく経ってから来なくなった。産休で」
 愁が大きく吹き出した。無理もないけど、俺は妙にウケて大笑いした。
「結婚してたんだよ。それにその頃の俺って11歳で、子供なんてできるわけないだろ」
「あーびっくりしたー……」
 本気で驚いたのか、愁は激しく脈打つ胸を押さえて肩で息をしてる。笑いが止まらないまま、背中をさすってやった。 
「で、それ以来その後遺症もあって、中学高校は女性には見向きもしなくなってた。つき合ってくれとかよく言われたし仲の良かった女の子もいたけど、誰ともつき合う気なんてさらさらなかった。だって、保健体育の授業よりも早く知ってしまったんだもんな」
「へえーっ……、なんだか悪いこと訊いちゃったね、ごめん」
 どう答えればいいのかわからないから、愁はとりあえず頭を下げて謝ってくる。
「俺だけ言わないのも変だから別にいいって。だから、愁を邪険に扱ってたのも多分そのせいだったんじゃないかな。ずっと胸の内に閉じこめてたつもりだったんだけど」
 もう今じゃあの日の出来事は遠い過ぎ去りし過去だ。多分これからも、訊かれる事がない限り思い出す事はないだろう。
「した事しか覚えてないし、もう。だから相手の温もりとか肌の匂いとか、そんなところまで感じられたのは愁が最初」
「へへ、なんだか嬉しいな……あ、カーテン閉めるね」
 愁は照れ臭いのかベランダの窓へカーテンを閉じに行く。時計はすでに12時を回っていた。今から、ぐっすり眠った子供達にサンタがプレゼントを届けるんだろう。雪が降ってるから、その中を駆けるトナカイの引いたソリはいい絵になるに違いない。
「たそは、サンタさん信じてた?」
 同じ事を考えてたのか、戻って来た愁が俺に訊いた。
「今でも信じてる」
 笑われるのを承知で答えると、愁は俺の横でくすっと笑って白状した。
「あたしも信じてるよ、あたしのところには毎年来てくれたし」
 膝を抱えて、俺の顔を見ながら懐かしむように言う。
「もう子供じゃないから会えなくなったけど、今日もサンタさんは子供達にプレゼントを届けてるんだよ、きっと」
 愁はそう言うけれど、俺はこの大切な時間を届けてくれたサンタに感謝した。
「唄でもプレゼントできればよかったんだけどな」
 俺は残念な気持ちで、壁に立てかけてるイッコーに借りたギターに目をやった。もう一度唄える自信はついたとは言え、メロディがまだ浮かんでこないから曲を作れなかった。適当にギターを鳴らしながらならできるかも知れないけど、そんなものを愁にプレゼントしても意味がない。
「いいよ、明日のライヴを最高のプレゼントにしてくれれば」
 愁は笑顔でそう言ってくれた。とても嬉しくて力になるけど、やっぱり形あるものをきちんとプレゼントしたい。だからせめて明日、リハーサルの前にでも目星のつけていたものを買いに行くつもりだ。
「どう?唄えそう?」
 俺の顔を覗きこんで、愁が訊いてきた。
「正直、まだ不安はあるけど……それでも、十分みんなを満足させられるものは届けられると思う。イッコー達の期待に応えたいっていうのもあるし……負けるわけにはいかない」
 自分の手を覗きこんでみる。左の指は弦の抑え過ぎで、すっかり先端がごつごつしていた。右の指もピッキングの跡がしっかりと刻まれてる。慣れないアコースティックギターばかり弾いてたせいだ。でもこれは、俺の勲章だと思った。
「よかった……最初たそに泣きつかれた時は、びっくりしたもん。でも、見守っててよかった。見つかったんだ、なくしたもの」
 とてもとても優しい目で、愁は俺の顔を見てる。その顔は俺の胸で泣きじゃくってた時の愁とは違う。大好きな人をしっかりと見守ってる強さが窺える。
 変わったのは俺だけじゃない。俺と出会った事で、愁も変わったんだ。和美さんが心配してた部分も杞憂に終わってしまうぐらいに、愁も強くなったんだ。
 ずっと気付かなかった。苦しんでいる俺のそばにいつだっていたいって思ってたのは誰よりも愁だったはずなのに。でも我慢して、俺が一人でなくしたものを再び見つけるまで背中に視線を送り続けてくれたんだ。多分俺と同じくらい愁も辛かったに違いない。
 感謝の気持ちがダムを決壊したように、一気に溢れて来た。緩む涙腺から涙が零れるのを堪えて、愁を真正面から見る。
 俺よりも一回りも二回りも低い小さな身体。この身体で、愁はずっと俺を支えてくれた。
 胸を張って言える。愁は俺の一番大好きで、一番尊敬する人間だ。そしてその愁が好きになってくれた相手が俺だって事をとても誇りに思う。
「どうしたの?うるうるしちゃってさ」
 顔を覗きこんできた愁に言われて、俺は涙を止める事ができなくなった。気持ちが抑えられなくなって、愁の身体を強く抱き締める。
「わ、ちょ、ちょっと」
 戸惑う愁。抱き締めた身体は俺が思ってた以上に小さくて、柔らかくて、女の子だった。そこでまた愛しさを感じて回した手に力をこめる。
「いた、いたいよ、たそ……」
「ありがとう」
 俺はありったけの想いをこめて、愁に感謝の言葉を告げた。
 今までずっと言えなかった言葉。強く強く抱き締めて、俺の気持ちを全身で伝える。
 強張ってた愁の身体から力が抜けるのを感じて、俺もゆっくりと手を緩めた。
 愁の顔には、大粒の涙がいくつも零れていた。多分俺達は今、同じ顔をしてると思う。
「よかった、よかったよお、たそぉ……」
 その涙は嬉しさや温かさ、安堵から流したものだろう。俺の胸にくしゃくしゃになった顔を擦り付けて、子供みたいに大声で泣きじゃくる。俺は何度も何度も感謝の言葉を繰り返した。愁はそのたびに頷いて泣き続ける。
 こんなにひとと心が通い合ってる瞬間を感じたのは初めてだった。ストリートライヴでジングルベルを唄った時に感じたのと同じ気持ち。ステージで唄ってる時にも、これほど強い心の結び付きを感じる瞬間なんてなかった。
 この気持ちを俺に教えてくれたのも、愁だ。
 愁の事を考えるだけで、頭の中が一杯になる。今だけは何もかもから解放されて、世界で愁と二人きりになった気分がした。
 そっと、愁の唇にキスしてやる。ほんのりと温かくて、とても幸せな気持ちになれた。
「よかった、ずっとたそのこと信じ続けてて、ホントによかった……」
 潤んだ愁の目に俺の泣き顔が映る。笑ってしまうくらいに情けない顔をしてたけど、それだけ俺の心が愁に見えてるのなら、全然構いやしない。
 もう一度、キス。お互いに指と指を絡めて、長いくちづけをする。胸の中が幸せで満たされていく。温かいような、くすぐったいような薄桃色の感覚が全身を駆け巡る。
 これが『愛』なのかな、なんて頭の片隅でぼんやり考えた。
「こうやって、たそと抱き合いたかったんだ、ずっと」
 部屋の照明を落とす前、愁が小声で呟いた。


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