→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第2巻

   051.寒い夜のぬくもり

「なんだか今日はたくさん集まっちゃってんねー」
 俺達の前に立ち並ぶ通行人の顔を眺め回して、イッコーは嬉しそうに言った。
 雨の日以外ずっと毎日樫鳥屋の前で弾き語りしてたせいか、一月も経つと俺達の唄声に足を止めてくれる人も多くなってきた。最初は誰もいなかったのに、今じゃ二十人以上の人達が俺達の演奏する姿を待ち望んでくれてる。
 樫鳥屋に背を向けて演ると通行の邪魔になってしまうから、反対の歩道橋の下に広がるスペースに移動して背を向けている。これだとちょうど、天井の歩道橋と客に囲まれた小さな小さな野外のライヴホールができあがる。
 眼鏡をかけたサラリーマン、制服を着た女子高生、近くのホームレスとか聴きに来てくれる人達の顔は様々。でも、俺達と客の間に、見せる側と見せられる側の境目はない。手拍子を取ったりサビを一緒に唄う人もいれば、激しい曲で身体を動かす人もいる。
 最初は俺とイッコー、そしてみょーの三人で輪を作って演奏してただけだった。授業のない日に来てくれる和美さんや、テストが終わって余裕のできたキュウと愁が足を運んでくれて、毎日それこそ気の済むまではしゃぎ合った。普通ならどんちゃん騒ぎしてる仲のいい集団にしか他人に見られないんだろうけど、ちゃんと演奏してたせいもあってか、一人ずつ俺達の唄に足を止め始めてくれた。そして今やこんな大所帯だ。
 今は午後十時過ぎ。ちょうど帰路につく人達で駅前がごった返す時間帯。客の中に女の子もいるから、終電には十分間に合う時間で一旦幕を下ろせるように始める時間を徐々に早くしていった。イッコーはこの忙しい時に家を手伝えないのが心残りらしいけど、おじさんおばさんは「自分の手で客が喜んでくれるなら胸張って行って来い、料理屋も弾き語りも一緒だ」って快く送り出してくれた。羨ましくなるくらい素晴らしい両親だと思う。
「こんな寒い日によく集まったなー。こら、たそ。寝るな」
 隣に座ってるみょーが俺の頭を小突く。今日は特別冷えるから、寒くて眠気がして思考回路が回らない。手がかじかんで、ギターのストロークさえままならない。
「今年の冬は特別寒い気がするな。クリスマスには雪降ってるんじゃないか?」
 俺の呟きにみんなも頷く。水海は地理的にやや北の方に位置してるから、毎年年末ぐらいから雪が降り始める。今年は全体的に寒い日が多いのか、朝になるともう車のガラスに霜が降りていた。
「ホワイトクリスマスって3年ぶりかな?」
 愁がビルに囲まれた四角い夜空を眺めて呟いた。俺もずっとこの街に住んでいるはずなのに、その辺の記憶は全くない。ずっと家に篭りっぱなしだったから曜日もわからなくて、知らない間に過ぎてたんじゃないかな。
「ねーねー、たそさんはクリスマス、何するの?」
 二人の女子高生の、背の低い赤髪の子が俺に訊いてきた。
「ライヴ」
 ぶっきらぼうに答えると、黄色い声が上がった。とはいえこの子達は俺達が『Days』のメンバーだって事も知ってる。お約束で聞きたかっただけなんだろう。
「あと何日だ?5日か。早えなー、もう」
 イッコーがギターの弦を弄びながらしみじみと漏らした。いつの間にって感じもする。
「そう思って、ポスター持ってきたぜ。あとこれ、キミらへのおみやげ」
 みょーが自分の鞄の中から、ポスターの筒を3本取り出した。一本はその場で広げて和美さんに渡してそばの壁に張り付けて、残りの二本は女子高生にあげる。前の路上ライヴで約束してたやつだ。
「何だかよくわかんない絵だな、おい」
 ホームレスのおじさんが抑揚のある声で首を傾げると、みんなから笑いが零れた。
「ダメだよおっさん、このセンスをわかってくれなくちゃ」
 みょーが笑って肩をすくめる。
 ポスターの中で黒い女性のマネキンがサンタの格好をして悩殺ポーズを、その左右で擬人化したマッチョなトナカイがボディビルダーのポージングを決めていた。
 はっきり言って、怪しい。
 俺がマスターに話をつけたところ、とりあえず絵を見てから決めるという事になったから、その旨をみょーに伝えた。そしたら3日後に持ってきた絵が、これだ。俺もイッコーもコメントのしようがなかった。ただ、とても目の引く絵でインパクトが絶大だったじゃら、何となくライヴの主旨に合ってるんじゃないかと思った。
 早速マスターに見せてみたら、大袈裟によろめいた。どうやら脳天を直撃するほどの衝撃だったらしい。井上さん達スタッフに見せても好評で、結局それ以後ポスターはこれに全部変わってしまって、前のはもうどこにも見当たらなくなってしまった。どんな絵だったかも覚えてない。
「いいじゃん、みんなに受けてんだしみょーちんの」
 キュウがケラケラ笑ってみょーの肩を揉む。女子高生の二人もポスターの絵を見て、いろいろと感想を言い合ってた。
「よっし、それじゃ身体が冷えないうちに次の曲に行きますか」
 イッコーが首を鳴らして、ギターを抱えて立ち上がる。激しい曲の時は座って演るよりもこっちのほうがしっくりくる。俺も続いて用意して、ピックを持つ手を振り下ろした。
 今日はストリートライヴ最後の日。さすがに寒くなり過ぎてしまったのと、バンドの練習が残ってるからこれ以上続けるのは無理だと判断した。みんな残念がってたけど、これまでの成果はクリスマスライヴで見せられると思う。
 頭から、持ち曲をイッコーと俺のを、激しいのと静かなのを混ぜながら進めていく。その中にみょーが唄うポピュラーな曲も混ぜてみる。これは普段のライヴじゃないんだから、俺達の曲ばかり演る必要なんてない。クリスマス前なのもあって、その辺も選曲して唄ってみたりした。客も一緒に唄うと、結構凄い事になる。
 イッコーを中心にみんなが楽しそうに唄ってるのを演奏しながら見てると、俺も一緒に唄いたい気分に駆られる。でも、横でそれを眺めてるだけ。一体何が俺の気持ちを足止めしているのかはわからない。多分まだ心の何処かに、真剣に唄わないと意味のない自分ってものが残ってるんだろう。プライドと言うか、そこを無くしてしまうとあの時の、八畳一間で独り唄ってたの時の自分が救われない気がするんだ。
「クリスマスはみんな何する?」
 曲が終わった後にみんなに訊いてみると、家族と一緒に暮らす人や恋人と一緒に過ごす人、ホームレスのおじさんのように仲間といつものバカ騒ぎをする人もいた。独りで過ごすって答える人は一人もいなかった。それは多分、特別な日には隣に誰かがいる事で、自分が孤独じゃないのを確認したいんだろう。もしクリスマスライヴがなかったとしても、俺もきっと愁と一緒にいたいって思うから。
 でも昔は、全く正反対の考えだった。本当は日常に特別な日なんてなくて、いつもと何も変わらないのにって思ってた。
 そう言えば二年前、クリスマスの話で青空に言われた事がある。
「そうやって特別な日を作る事で、日常を豊かにしてるんだよ、みんなね」
 あの時は腑に落ちなかったけど、今の俺はその言葉の意味がはっきりと理解できた。
「愁は家族といたりしないのか?」
「あたしのとこは、毎年家族と集まるよ。でも今年はクリスマスライヴに行くから、23日に済ませちゃうけどね。ね、和美さん?」
 話を振られた和美さんも頷く。どうやらすっかり、彼女はみょーの家族の一員として迎え入れられてるようだ。イッコーの視線が俺の背中を通り越してみょーに突き刺さる。
 ライヴは25日のはずだから一日空いてるって愁に言おうとしたけど、その意味に気付いて口に出さなかった。生まれて初めてイヴの日に、隣に好きなひとがいる。俺は嬉しくなって、笑いを噛み殺すので精一杯だった。
「イッコーのところは……仕事か」
「ま、仕事終わった後に軽くやるけど。別におやじもおふくろも大してこだわってないから」
 頭の中で中華料理屋で祝うクリスマスを想像してみたけど、貧相なイメージしか浮かばなかった。いや、別に中華が悪いわけじゃなくて。
「そんじゃ、次はオレがやりますか」
「あ」
 みょーに俺がギターを渡した時に、キュウが突然大声を上げた。振り返ると、人混みを割ったところに何やら大きなものを抱えた千夜の姿があった。
「本当にやっているなんて……」
 嬉しいのか呆れてるのかよくわからない表情を浮かべて、千夜は肩をすくめた。
「わー、ホントに来てくれたんだーっ♪」
 キュウがすかさず千夜に抱きつく。その勢いで混みの中へ倒れそうになって、後で巻き添えを食らった人達に謝った。千夜がキュウを叱りつけながら、俺達の方へやって来る。
「よー、ずーっと待ってたんだぜ。遅過ぎだけどな」
「言われた通りに来てやったんだから文句を言わないで」
 憎まれ口を返す千夜を見て、イッコーは白い歯を見せて笑った。和美さんとも少し引きつった顔で二、三言葉を交わす。
「何コレ」
 千夜がその場に下ろしたギターケースのような物体をキュウがまじまじと見つめてる。
「バイオリンじゃないかしら?」
 和美さんが後から声をかけると、千夜は頷いてケースを開けた。中には艶やかなボディを持ったバイオリンが入ってて、大事そうに手に取る。十分手入れされてるのか、街灯の光を磨かれたボディに受けて不思議な存在感を醸し出していた。
「せっかくだからここで実技の練習でもしてみようと思っただけ」
 俺達と目を合わさないで、訊かれる前に自分から口にする千夜。黒で固めた衣服にバイオリンが妙に似合ってる。
「弾いて構わない?」
 千夜がギターを弾こうとしてたみょーに訊く。やや反応が遅れて、OKサインが出た。
「それじゃ、黙って聴いていて」
 曲名も告げないで、千夜は目を閉じてバイオリンを弾き始める。その瞬間、辺りの空気の色が変わるのを俺ははっきりと見た。
 繊細で情緒のあるバイオリンの音色が、歩道橋の下にこだまする。とてもいい具合に音が反響して、まるでホールの中で聴いてるような錯覚に陥る。
 みんなの視線が、演奏してる千夜に集まる。それでも弦を弾く事に全神経を集中させてるせいか、全く目に入っていない。一心不乱に演奏してる。
 押し寄せる激しい波が続いた後、やがてゆっくりと潮が引いていく。最後の音が空気に吸いこまれた後、千夜はうっすらと目を開けてお辞儀をした。
 すると、一斉に割れんばかりの拍手が巻き起こった。いつの間にか、客の数も半分近く増えていた。当の本人は目を丸くして、その場に呆然と突っ立っている。
「おねーさまー♪」
 キュウに抱きつかれて、ようやく千夜は我に返った。
「こら、バイオリンが落ちる」
 千夜に怒られて、キュウは慌てて飛びのいて舌を出した。
「凄い、完璧じゃない!こんなに上手になってたなんて」
 和美さんが興奮で顔を上気させて、千夜を褒め倒す。紅くした頬を見せて、千夜は照れ臭そうに俯いた。
「これだけ大勢の知らない人の前で一人で演奏するなんて、初めてだったんですけど……」
 終わってから今頃になって観客の存在に気付いたのか、歓声の飛ぶ人混みに千夜は何度も頭を下げた。ステージ上だと一度もファンの声に言葉を返した事もない徹底した無関心さを見せてたのに、今は対照的に顔をほころばせてる。仮面の隙間から零れた笑みは、高慢で男勝りな普段の姿より何倍も親しみが持てた。
「ねえ、これ借りていい?」
 興味を持ったみょーがケースに戻したバイオリンに手を伸ばそうとした瞬間、
「駄目!」
和美さんの厳しい一言が飛んできた。千夜も驚いたのか、目を見開いてる。 
「バイオリンはギターと違って易々と他人に貸したりするものじゃないの。その人専用に作って貰うものもあるんだから。素人が扱ったら簡単に羽根を痛める原因にもなるの」
 まるで自分の事のように怒る和美さん。
「全く、何か面白いものを見つけるとすぐに手を出したがるんだから」
「悪かったって、和美。反省するから。ほら、このとーり」
その場で土下座してみせるみょーを見て、恥ずかしさで和美さんは顔を真っ赤にして慌て止めさせようとした。みんなの笑いが歩道橋の下に巻き起こる。
「なあ、千夜。おれたちの曲、バイオリンで弾ける?」
 ケースを閉じようとしてた千夜に、イッコーが尋ねた。
「コードが解っていればできない事もない」
 イッコーの考えを読み取ったのか、千夜は再びバイオリンを手に取った。
「うっしゃ、それじゃいっちょ泣かせてみますか」
 鼻を鳴らして、イッコーが俺の曲を弾き始めた。俺もすかさず唄う準備を整える。
 俺のメロディに、千夜のバイオリンが絡みついてくる。まるで自分の感情が増幅されたような気分にとらわれて、唄う声に力が入る。自分の心の空洞にバイオリンの音色を注がれてる気がして、今なら望んでいた唄声を出せると思った。


 どこまでも青い空の下で 僕はかなしみを感じていて
 ほのかに刺し込む陽の光りが 余計に心をさみしくさせた

 どこまでも広い海の向こうで 鳥が飛び回ってるのを見て
 優雅に見えるその姿に 未来を照らし合わせてたんだ

 羽根がなくて飛べない僕はこの足で 一歩ずつ大地を踏み締めて
 遠い自分を夢に描いて 今日もまた現実に飲み込まれた

 優しい青を見つめて 赤い涙を流した
 いつか辿りつけるはずの場所を思い描いて

 閉ざされたカーテンの向こうで 君が裏切られて泣いている
 悲しいならずっと泣いていて 声だけは僕に届くから

 突き刺すだけの痛い言葉が 赤い血を胸ににじませる
 温もりは嘘をつけないから 何も言わずに抱き締めていて

 美しいものばかり溢れてるはずなのに どうしてこんなにかなしいんだろう
 目に映る景色を眺めながら 今日も胸の痛みを堪え続けた

 痛みはどこか赤くて ほんの少し優しい
 君を信じられない僕は罰当たりかな

 求めまくって すれ違いまくって
 喜びとかなしみを胸に刻み続ける真っ赤な僕等を
 泣きたくなるほど青い空が見下ろしている

 未来にあきらめないように 赤い血をたぎらせて
 繰り返される毎日を二人で生きよう
 君がいなくなっても 僕はあの日と同じ
 透き通った青くてまぶしい景色を何度も思い描くよ

 何度だって思い描くよ


 こんな気持ちで唄えるんだ、と驚いた。失くしてたメロディを他人に埋めてもらえるなんて思いもよらなかった。そのおかげで一瞬だけ、昔のように自分がどこまででも無限に唄えるような感覚が全身を駆け抜けて行った。でもやっぱりそれはほんの一時の事で、曲が終わると音色が全部零れて、また胸の中が空っぽになってしまう。
 それでも、これだけ充実した時間を過ごせたのは最高だった。
 千夜に次からの曲も弾いてもらうように頼んで、調子に乗って連続で唄い続ける。バイオリンのギターの音色が胸の中にすうっと飛びこんでくるのが気持ちよくて、一人快感に酔いしれてた。
「おい、そろそろ時間じゃねーか」
 イッコーのその言葉で、ようやく我に返った。あまり幸せ過ぎて意識が飛んでたのか、何を唄ってたのかよく覚えてない。ただ、唄ってる時に見たいろいろなみんなの顔が瞼の裏にこびりついてる。
「えー、たそのせいでオレ、あんまりできなかったじゃんよー」
「まあまあ、一旦ここでお終いにしてから、後でやればいいじゃない」
 後半の出番をほとんど飛ばされて拗ねてるみょーを、和美さんがなだめてくれる。ちょっと申し訳ない気持ちになった。
「最後、何にする?」
 みんなに向かって俺が訊いてみる。本当に最後なんだから、何でもよかった。
「みんなで唄える曲がいいー」
 背の低い女子高生が手を上げた。隣の子も賛成して一緒に手を上げる。
「んー、じゃあ、みんな知ってる曲にすっか」
 手元もスコアブックをめくるイッコーに、キュウがやれやれと肩をすくめて言った。
「もー、そんなことしなくたって、クリスマスの曲でいいじゃない。もうすぐなんだから。『ジングルベル』ぐらいなら誰だって知ってるでしょ?」
「なんかこっ恥ずかしくねーか、それ」
「あ、あたしもそれ賛成」
 苦笑する俺達に、愁も横から手を挙げる。結局押し切られるような形で、イッコーがギターを手に取った。コードがわかるのはイッコーだけだから、俺は手持ち無沙汰になる。
 前奏が始まると、みょーがリズムに合わせて手を叩き出した。それをきっかけに、みんなそれぞれ足音を鳴らしたり、膝を叩いたりして波が広がっていく。千夜もバイオリンで跳ねたような音を鳴らして、その中に更に彩りを加える。それだけでもう、冷めた頭とは裏腹に胸の鼓動がだんだん高鳴っていくのを感じた。
 一番はまだ照れてる人がいるのか、唄っているのは女の子とみょーとイッコー、そしてホームレスのおじさんぐらいだった。でも、2番に入る頃にはみんなうずうずして仕方ないのか、次々とハーモニーが厚くなってくる。
 みんな、幸せそうだ。自然とほころんだ顔で唄ってる。日常で、普段の生活でどれだけ大変な思いをしてみんな生きて来てるのかなんて俺にはわからない。いや、そんなものはどうだっていい。今ここで、みんなが声を合わせて同じ方向を見てる、それが俺にはとても感動的で仕方なかった。そしてそれを、どこか羨ましく思いながら眺めていた。
 一緒に唄う気にはなれなかった。いや、本当は唄いたい気持ちで胸が一杯だ。それでも、もうとっくに諦めてた。ここでみんなを幸せにして、それを眺めていられるだけで十分だ。輪の中に自分はいなくても、別にいい。
 そう思いながら手拍子を取ってると、俺の肩の上から突然、愁が顔を出してきた。
「一緒に唄お」
 耳元で呟いたその声は、みんなの合唱にかき消されてしまうほど小さかった。
 心の内を見透かされたようで戸惑う俺に、愁は少し頬を赤らめて視線を返す。そして俺の両肩に手を置いて、俺の上で楽しそうに唄い出した。
 優しく、背中を押されたような気がした。
 扉の前で引き帰そうとしていた俺の手を握ってくれた。
 愁の気持ちが痛い程伝わってきて、恐る恐る一歩足を踏み出してみる。
 今まで出なかった一歩。
 扉の向こうがわからないから、何かと理由をつけて引き返してた。恐い?それもある。
 でも、目の前に開けた新しい風景を見ると今まで怯えてた自分が馬鹿らしく思えてくる。昔の自分に遠慮してた時間が、もったいなく思えてしまう。
 こうやって肩を並べて一緒に唄い合う事で、本当に過去の自分が救われる気がした。そう、一人きりで唄ってた時にずっと求めてたものがここにあった。唄う事にばかり神経を注いでて、いつの間にか心の奥底の気持ちさえ見落としてたんだ。
 何か温かいものが、心に流れこんでくるのがわかる。全身の隅々まで染み渡っていく。
 どうして、今までこんな簡単な事に気付かなかったんだろう。
 曲が終わった後、俺はそっと愁の髪の毛を撫でてやった。


トップページへ  前のページへ  次のページへ  第2巻