050.弱いひとだらけ
「ふんふんふーん♪」
適当な鼻歌を唄いながら、キュウが先陣を切って歩く。その後を、俺と愁、そして買い物袋を持ったイッコーが後に続く。
並木道を吹き抜ける風が冬の到来を告げている。あれだけ夏には大きな葉を広げてた緑も今はすっかり裸になってた。どこか霜の降りたような白みがかった空は晴れ渡ってて、雲一つ見えない。柔らかい太陽が煉瓦の歩道を照らして、どこかで子供達の遊ぶ声が聞こえる。
「ねえ、ホントにこの道で合ってるの?」
不安そうな顔で愁はキュウの背中に尋ねた。
「だーいじょうぶだって。アタシを信用してついて来なさい♪」
「それが一番信用できないんだけどな」
隣の愁にしか聞こえないくらいの小声で俺が呟くと、愁は笑いを手で隠した。
「どーでもいーけど、これ重いんだけどマジで」
一番後を行くイッコーが両手にぶらさげた買い物袋を振ってみせた。俺達も買い物袋を持ってるけど、どう見てもイッコーの分だけ量が倍以上ある。
「イッコー力あるじゃない。それぐらい頑張んなさいよ、男でしょ?」
「そーゆーおめーは何にも持ってねーじゃねーか」
「道を思い出すので必死なのよ」
今のところ道に迷ってる様子はないみたいだけど、十字路に来るたびに立ち止まって街並を見回されるとさすがに不安になってくる。イッコーはため息をついて、しぶしぶ後をついて来た。
「でもどうして、キュウが千夜の家知ってるんだ?」
「おねーさまが一人で帰る時、気付かれないように後をずっとついて行ったことがあるの」
俺が訊くと、あっさりと答えられてしまった。
「それってストーカーじゃねーか……」
げんなりした顔で呟くイッコーに、キュウはけらけら笑って手を振る。
「やだなーもう、冗談に決まってるじゃない……って、みんな引かないでよ」
無意識のうちに、キュウと俺達の間隔が広がってる。
「この前おねーさまが気分悪い時、家まで送ってあげたのよ」
「よかった……キュウならホントにやりかねないもん」
「どういう意味かね愁君」
胸を撫で下ろしてる愁に駆け寄って、キュウがヘッドロックで小突く。何だかこの二人のじゃれ合いを見るのも久し振りのような気がした。どうやらここのところ、密度の濃い毎日ばかり送ってるせいかほんの一ヶ月前の出来事ですら遥か昔に思えてしまう。
千夜の家に行こうって言い出したのは、キュウだった。
俺達が特訓(いい加減この呼び方は止めたい)している時に、話を持ちかけられた。
「最近おねーさまが電話に出てくれないの」
バンドの連絡事項を千夜に伝えようと携帯に電話をかけたところ、一向に繋がらないらしい。別に着信拒否にされてるわけでもなく、どうやら向こうが出ないだけのようだ。
「やっぱり引きずってるのかな、前のライヴ」
あれほど弱々しい千夜を見たのも、長いつき合いの中であの時が初めてだった。
「受験だからじゃねー?今頃一生懸命勉強してんのかも」
イッコーはそう言ったけど、落ちこんでるキュウは眉を細めただけだった。
それなら、というわけでみんなで直接出向いて行く事になった。俺達がついて来たのも、千夜を元気づけられたらというキュウの提案だった。愁達の学年末テストが終わったから、ようやく実行に移せたわけだ。
「でも、こんなに鍋の具買いこんで……連絡取れたのか?」
「取れてないわよ」
俺の問いに、キュウはさも当然とばかりに返してきた。
「おめ……いきなりひとん家乗りこんで、鍋つつくつもりだったんか!?」
イッコーも予想外だったのか、大声で目を丸くする。
「そうだけど、問題ある?」
「いない時のこととか考えた?家族と一緒に暮らしてるんでしょ?千夜さん」
「う」
愁に突っ込まれて、絶句して足を止めるキュウ。三人の冷たい視線が、白い毛皮のコートを羽織った背中に突き刺さる。
「……ま、まあ、行ってみないとわかんないわよ。もしダメだったら、たその家で食べればいいわけだし」
イッコーが眉間に皺を寄せて、頭を抱えた。ため息すら出てこないようだ。バンドに関する事なら隅々まで気を行き渡らせるのに、普段の計画性のなさには恐れ入る。
見慣れない街並を歩いて行くと、一軒家が多くなってきた。水海から電車で1時間ほどのベッドタウンで、駅から出て海を一望できる山側に向かって俺達はずっと歩いてる。
「……おい、ホントにこっちなんか?だんだん家が豪勢になってってんだけど」
左右に建ち並ぶ家を眺めながら、イッコーが心配そうに言った。どう見ても、この先は高級住宅街にしか見えない。
「こっちなんだってば。和美さんの話によると、結構お金持ちなんだって」
「はー、おれには全く関係ねー世界だわ……」
ため息しか出て来ないイッコーと一緒で、俺も歩いてるだけで気が引けてしまう。どうしてそんなお嬢様が俺達に混じってドラムを叩くのか、ちっとも見当がつかなかった。
5分ほど歩くと、キュウが一つの家の入口で足を止めた。
「ここ、ここ」
指差した表札に、『波止場』とある。確かに千夜の苗字だ。
「すごいね」
目の前の家を見上げて、愁が口を開けて感嘆した。漫画に出てくるような豪邸、とまでには行かないけど、敷地の広い3階建ての家屋を見るだけで、俺達とは別世界に住んでる事がはっきりとわかった。
「ここで、鍋か……」
「うるさいわね」
俺の呟きに、キュウが顔を赤くして言い返して来る。
「さ、みんな隠れてて。ほら、カメラあるから」
指差したインターフォンに、カメラがついている。俺達はキュウの指示通りに正面玄関から少し離れた場所で待機した。出てきたところを驚かせる算段らしい。
呼鈴を押すと、しばらくしてインターフォンから女性の声が聞こえた。
「はい、波止場ですけど」
「あのー、神楽って言うんですけど、千夜さんいますか?」
普段とは全く違う丁寧な口調で名乗るキュウ。変なところで律儀な奴だ。
「え、あ……キュウ!?ちょ、ちょっと待ってて」
中から慌てた声がしたと思ったら、音を立ててマイクが切れた。本人だったらしい。
「おねーさまが中に入っていいって言ってから、みんな出て来て」
小声でキュウが指示してくる。頷いて、門の両側にイッコーと俺達二人に分かれた。
やがて玄関の扉が開いて、千夜が出てきた。普段と違う眼鏡をかけていて、髪の毛も全部ストレートに下ろしてる。学祭の時に見たからわかるけど、何も知らずに一目見ただけじゃ絶対本人とは気付かないだろう。
「まさかここまで押しかけてくるなんて思わなかった……」
頭を押さえながら、つっかけを鳴らして千夜がやって来る。桃色のセーターにワインレッドの長ズボンの格好で、黒で統一した普段の衣装とは全く違った感じを受ける。
「だって、全然電話かけても出ないんだもん。だから直接来ちゃった♪」
「え、あ……それは悪かったわ。ごめんなさい」
素直に謝る千夜。その言葉には全然強い部分がなくて、女の子らしい。
「ううん、会えたんだからもういいの。おねーさまはなにしてるの?勉強中?」
「うん……学年末は終わったけど、受験があるから。今は筆記の勉強の途中。息抜きに実技をやる予定なの」
どこかしら、喋り方まで高圧的なものが見えない。本人に決まってるのについついどこか勘ぐってしまう。
「あ、そーなんだ……今一人?」
キュウが訊くと、千夜は少し困惑した顔を見せた。
「うん……一人、だけど」
千夜から見えない位置で、俺とイッコーは親指を立て合う。
「ねえおねーさま、少し余裕あるかな?話したいことがいろいろあるんだけどなー」
猫撫で声でキュウが千夜の手を取る。どうしようか迷ってたようだったけど、ため息を一つついて顔にかかった髪の毛を手で払った。
「わかった、いいわ、上がって」
「ホント?やったー!おねーさま、だーい好き♪」
「わっ、こらっ、抱きつかないでっ」
いきなりキュウに抱きつかれて千夜がうろたえる。見慣れてる光景のはずなのに、どこかいやらしく見えるのは千夜の格好のせいだろうか。
「ねーねーみんなー、上がっていいんだってー!」
キュウが呼ぶと、待ってましたとばかりに俺達三人は後ろから姿を現した。
「へー、普段の千夜ってこんな感じかー」
「いつまで待たされるのかと思った」
「ごめんね千夜さん、みんなで来ちゃった」
「な」
抱きつかれたまま、千夜は目を見開いて絶句した。何が起こったのか脳に浸透するまで固まってると、次の瞬間キュウを押し退けて猛ダッシュで家の中へ戻って行く。
「どうしたの、おねーさま?」
「さあ」
玄関の扉は開けっぱなしだから、しばらく待つ事にした。イッコーは荷物を足元に下ろして首を鳴らしてる。庭を眺めてみるとそこそこの広さで、青い芝(冬だから人工芝?)が敷き詰められていた。池があったりする日本的なものじゃなく、洋風にしてあるらしい。
5分くらい待つと、足音を響かせながら千夜が戻って来た。
「き……来てるなら最初から言って……」
整髪料をつけてきたのか、髪の毛が横跳ねのいつもの千夜に戻ってる。眼鏡も普段の黒縁だ。さっきの眼鏡は多分勉強用だろう。
「上がっていいよね、おねーさま?外寒いんだ」
キュウが満面の笑顔で確認を取ると、千夜はうなだれてやけ気味に言った。
「……いいわよ、もう……」
肩をがっくりと落とした千夜に挨拶してから、靴を脱ぐ。玄関の大きさからして、愁の家より広い。壁際の棚には洋風の彫刻なんかも並べられてて、興味をそそる。
「余計な事したら消すから」
思わず手が伸びそうになった時に、背を向けたまま千夜が低い声で忠告してきた。どうやら、ここは静観してるのが正解らしい。
「こっち」
千夜に連れられて廊下を少し歩くと、木製のドアを開けて俺達を招き入れた。どうやら客用の応接間らしくて、豪華な黒のソファーがテーブルの周りを囲んでる。
「あれ、千夜の部屋じゃねーの?」
自分に当てはめて考えてたせいか、イッコーが率直な疑問を上げる。すると千夜は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「誰が女の部屋に易々と男を入れるっ!」
俺と愁とイッコーは、無言でキュウを指差した。
「へ、アタシ?……アハハハハ」
いきなり俺達に指差されて、キュウは困った顔で乾いた笑いを見せた。千夜は何も言い返す気力がないのか、がっくりと肩をうなだれる。
「ねえ千夜さん、トイレどこかな?」
「あ、ちょっと待って。こっち」
愁を連れて、千夜が部屋を出て行く。ドアに隠れて見えなくなる前に、ソファにゆったりと腰かける俺とイッコーの二人に殺意の篭った目線が飛んできたのは気のせいじゃない。
ぐるりと部屋の中を見回してみるけど、一体何畳あるのかもわからないくらい広い。この部屋だけで、俺の家より大きいんじゃないだろうか。
ガラスの戸棚の中に並んだトロフィーや酒のボトルを眺めてると、イッコーが膝の上に手を乗せてうずうずしていた。どうやらいろいろ物色してみたいらしい。もちろん、実行すれば千夜に殴られるのは目に見えてる。
しばらくして、千夜が戻って来た。無造作だった髪の毛を手櫛で整える。
「こんなに一度に人が訪れたのなんて初めて、自分の客で」
「千夜、友達いねーん?」
気軽に尋ねるイッコーに、千夜は鬼のような形相で睨み返した。もうすっかり、ドラムを叩くいつもの千夜に戻ってる。
「……あまり人を自分の家に招き入れるのは好きじゃない。それに一人二人でやって来る奴は大抵、変な事を考えていたりするから断ってる」
そう言って、千夜はキュウに鋭い視線を送った。目を泳がせて笑っているキュウを見れば、言ってる事は何となくわかる。俺達が一緒に来てくれたほうがキュウ一人よりもある意味安心できてるのかもしれない。
「全く、いきなり来るなんて……そういえば雪森先輩は?」
「みょーとデート」
俺はイッコーのほうを見ないで千夜に答える。
「あ〜も〜、あぶれちまったからここに来るしかなかったじゃんよー」
イッコーがわなわなと声を震わせた。まあ当然と言えば当然か。
和美さんが来ないのがわかって、千夜は肩の荷が下りたのか軽く息を吐いた。あの人がいれば、今度は何をバラされるかわかったもんじゃないんだろう。それはそれで俺達は楽しめるけど、後が恐い。
「ねえおねーさま、何か淹れてくる?台所どこかなー」
キュウが台所に行こうと立ち上がって部屋を出ようとすると、
「待って!」
突然千夜が残響音が残るほどの大声で呼び止めた。三人の視線が千夜に集中する。
「あ……いや、ごめん、私が淹れる……」
千夜はキュウに差し伸べた手を引っこめて、背中を丸めて代わりに台所へ足を運んだ。それとすれ違いに愁が戻ってくる。
「?」
部屋の空気を感じ取った愁が首を傾げてる。俺達だって、何だったのかわからない。
適当に雑談して時間を潰してると、千夜が紅茶のポットとカップをお盆に乗せて戻って来た。男二人と女三人で、テーブルを挟んで向き合うように座る。キュウと愁が嫌がる千夜を無理矢理真ん中に座らせた。愁が慣れた手付きで紅茶を淹れていく。こんなふうに和美さんとみょーの前でも淹れてるんだろう。
「で、勉強の途中じゃなかったのか、千夜」
俺が訊くと、眉間に皺を寄せて顔を背けた。
「誰のせいでできなくなったと思ってる。放っておいたら絶対余計な真似しそうだから、帰るまでここで全員見張ってる」
その言葉が俺達男二人に向けて発せられてる気がするのはどうしてなんだろう。
「これで試験に落ちたら、貴様達のせいだ」
「えー、そーなのー!?」
キュウが泣きそうな顔で千夜を見つめて目を潤ませる。その視線に耐えられなくなったのか、紅茶を一口つけた後に疲れた顔で言った。
「冗談よ」
隣で胸を撫で下ろすキュウを見て、千夜は片肘をついて大きく息を吐いた。
「そういえば、日曜なのに千夜さん一人?おじさん達は出かけてるの?」
部屋を見回してた愁が疑問を口にした。さっきからずっと俺も気になってたけど、あまり人の住んでる匂いがしない、この家。広すぎるせいもあるんだろうけど、この応接間もやけに小奇麗で使われてるように見えない。大画面のTVも置かれてるのに、リモコンすらテーブルの上に見当たらなかった。
「……そんなところ」
あまり触れて欲しくない部分だったのか、微妙な言葉で千夜はかわす。また部屋の空気が重くなって、話題が途切れた。
「離婚してるわけじゃない、ただ、両方とも仕事で忙しいだけ」
沈黙に耐え切れなくなったのか、千夜がばっさりと言い切った。
「おねーさまのお父さんって、何してる人?」
せっかく千夜が割ってくれた空気を広げようとキュウが興味津々に質問すると、すぐに答えが返って来た。
「音楽家」
『音楽家ぁ?』
千夜を除く全員、素っ頓狂な声を上げる。
「どこかの国の交響楽団のメンバー。名前までは忘れた、時々楽団変わるから」
「ってゆーと……外国!?」
「別に大した事じゃない。向こうで活躍しているこの国の人間は実際はかなり多いもの。知られていないだけ」
「はえー、ちっとも想像がつかねー」
感嘆の息を漏らして、ソファに身を預けるイッコー。俺にも皆目見当のつかない話だけど、おかげでこんな大きな家に住んでいる理由がよくわかった。
「ああ、だからバイオリンなんだね、千夜さん」
「小さい頃、教えてもらってたから染み付いてるの」
頷く愁の横で、千夜は自分の掌に視線を落とした。英才教育って奴か。
イッコーと言い千夜と言い、音楽に恵まれた環境で育ってる。それに比べると、俺や青空のハンデはあまりにも大きい。よくこの二人の演奏についていってるもんだと我ながら思う。歌を唄い続けてたと言っても、俺だって5年も唄ってない。密度の濃い時間を過ごしてるのだけが、唯一の救いか。
「じゃあさ、お母さんは?」
千夜のほうへ少しにじり寄って、またキュウが訊く。少し身を遠ざけながら、そっぽを向いて答えた。
「知らない」
「知らないって……自分の親じゃねー?」
「そんな事言われたって、知らないものは知らないんだから。子供が親の事を全部知ってるだなんて思ったら大間違いだ」
少し語尾を強めて千夜がイッコーに反論する。イッコーは両親ともすぐそばで働いてるもんだからあまり納得できない様子だけど、言ってる事はわかるみたいで頷いてる。
「それ言ったら俺だって、どこで何してたか知らないままいきなり死に顔見せられた」
対抗するつもりなんて毛頭ないけど、千夜の側に回って俺は言葉を付け足した。
「アタシだって離婚してるわよ親。それも3回」
ちょっとそれは例外と見なしていいんじゃないか、キュウ?
「親なんて、子供に何かあった時ぐらいしか見てくれないの」
千夜は俺達のフォローを無視して小声で呟いて、カップに残る紅茶を飲み干した。
「あー、んじゃオレんとこってもしかしなくても、すっげー恵まれてんのかなー」
天井を見上げて、イッコーが間延びした声で呟いた。
「あたしのところも家庭円満だよ。家すぐそばだしさ」
続いて愁も胸を張って答える。こうやって並べてみると、一人一人全く違った環境で育ってきてる事がわかる。親の子供への愛情の注ぎ方も千差万別だ。
「もし……もし、結婚して子供を産んだなら」
空のティーカップに目線を落として、千夜がきっぱりと言った。
「その時は絶対、親バカって言われてもいいからずっとそばで可愛がりたい」
瞼を落としたその真剣な顔には、女の子らしい優しさよりもどこか決意のようなものが見て取れた。言葉もないままその顔を眺めてると、俺達の視線に気付いて肩が跳ねる。
「何だか雪森先輩に会ってから、ずっと調子が狂ってる……」
千夜は頭を振って黒縁の眼鏡を外して、眉間を指でつまんだ。
「なんかさー、無理してねー?おめー」
そんな千夜を見て、上体をのけぞらせたイッコーが細い目で突っかかった。
「な……何が?」
眼鏡をかけ直した千夜が、鋭い目で睨み返す。イッコーは顔をそらさずに、冷めた表情で千夜を見下ろしている。
「男の真似したところでどんだけやっても男にはなれねーのに」
「一体どこの誰がいつそんな真似をしたっ!」
千夜が激怒して腰を上げて、拳をテーブルに振り下ろした。愁の肩がびくっと震える。
「わりーわりー、言葉間違えちまったかな?んと、だからよ……わざわざ男勝りなキャラクター作ってドラム叩かなくてもいいってこと」
イッコーは全く驚く様子も見せないで、淡々と言葉を返した。
「さっきのキュウと二人きりん時とか学祭ん時のおめー見てっと、なんか今までおれたちが持ってたイメージと全然違うっしょ?そりゃー女だからってナメられるのはヤだろーけどさ、ビジュアルバンドが化粧して上がってるわけじゃねーんだから素のままでいーじゃん。おめーのドラミング見たら誰も文句言わねーのに」
「貴様ごときに文句を言われる筋合いはない!」
「ほら、どーしてそんなに固い言葉使っちまうのかなー」
イッコーに指摘されて、千夜は言葉を詰まらせる。
「そーよそーよ。おねーさまは好きでやってるんだから別にいーじゃない」
形勢不利になった千夜を庇うように、キュウが横から口を挟んで来た。
「どんな姿勢で音楽やろうなんて、そんなのその人の勝手じゃん。おねーさまも、今みたいに髪の毛跳ねさせて黒づくめのスーツでドラム叩くのが、一番しっくり来てるんだから」
「だからんなこと言ってるわけじゃねーっつーの」
やれやれと、イッコーはため息を吐いて身体を捻った。
「そんなんおれだってわかってるって。そーじゃなくてよ、おれたちと会ってる時ぐらい役者作らないで話してもいーじゃんか。かれこれ2年以上なんのに」
「それは……」
「わざわざおれたちの前でもキャラ作ってよ、そのせいでおめーの腹ん中がいつもどーなってんのかさっぱわけわかんねー。見せたくないんなら別にいいぜ、でもよ、なんか無理にてめーをそう見せることで居場所作ろうとしてるよーに見えんだよ、おれにはさ」
口調を荒げるイッコーを、キュウも千夜本人も唇を噛み締めて見ている。
「たくさんのバンドかけ持ちしてた頃ならわかるけどよ、なんか意味合いがあって『Days』一本に絞ったんだろ?受験も目の前に控えてんのにライヴやろーとしてんだから、バンドにかける意気ごみはおれたち4人の中でもピカ一だと思うぜ、おめーは。んじゃあなんで、ってこと。おれの言ってること、間違ってる?違ってたら謝るわ」
イッコーはソファから身を起こして、千夜と面と向き合う。立ち尽くしてる千夜の顔を、キュウは心配そうな表情で見上げている。
しばらく間を置いて、千夜が困惑の表情で呟いた。
「そんなの……そんなの、言えるわけない」
出てきたのは曖昧な言葉だった。疑問符を浮かべてる俺達に千夜は凛々しい表情を見せて、迷いのない目で言った。
「言えるわけない。でも、これだけははっきりしてる。私は自分の意思で、これを選んでる。どれだけ無理に見えた所で、止めるわけにはいかない。絶対。絶対」
自分に言い聞かすように、最後の言葉を口の中で繰り返した。真っ黒なその眼には強い光が宿ってる。それが俺には、どこか儚げな黒真珠の輝きに見えた。
「もしかすっと、この前のやつらの言ってたこととなんか関係あんのか?」
イッコーは頭にふと浮かんだ疑問を口に出したに過ぎなかったんだろう。だけど千夜はそれを聞いた途端、あからさまに動揺した。
「ないっ!!」
鼓膜が破れるかと思うほどの千夜の大声が部屋に響き渡った。そばにいたキュウは厳しい顔で耳元を押さえてる。
「……帰ってくれない?」
全身の力が抜けたようにソファに崩れ落ちた千夜が、小声で言った。
「え、まだ来たばかり……」
言葉を返す愁に、千夜は瞼の落ちた瞳を向けた。その目には僅かだけど涙が見える。
「そーそー、イッコーの言葉なんで気にしなくていいって。おねーさまちょっと疲れてるようだし、少し部屋で休んで来たら?アタシもついていってあげる」
「……そうね、悪かったわ」
俺達に謝って、千夜は席を立つ。ふらついた足取りで扉に向かう千夜に、キュウが慌てて駆け寄った。愁もついて行こうと腰を上げるけど、キュウが曖昧に断る。
「わりーこと訊いちまったんは謝るけど、これだけは言っとくな」
「イッコー!」
怒鳴るキュウを無視して、部屋を出て行く千夜にイッコーは柔らかい顔で言った。
「周りに仲間がいるってこと、忘れんなよ。全部一人で抱えこもうとしなくたっていーんだし。言ってくれればいつだって力になってやっからさ」
千夜は何も言わないで、扉の向こうに消えた。扉の閉まる音が、やけに耳障りだった。