→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第2巻

   053.トモダチ同士

 自然に、足がここへ運んでいた。
 冬の海は、見ているだけで心を切なくさせる。雄大で全てを手に入れたような錯覚を与えてくれる夏の暑い海とは対照的な、取り戻せない時間の終わりを見せつけられてるような、プラスの感情が一切切り捨てられた荒涼とした場所。崖なんかがそこにあれば、ふと飛びこんでみようかって気にさせられる。
 溢歌と初めて出会った時の事を思い出した。あれだけ衝撃的な出会いもないと思う。ふと、笑いがこみ上げてきた。何はどうあれ、俺達は今日も転がりながら生きてる。
 多分、溢歌の顔を見たくなったんだと思う。かれこれ一ヶ月以上、顔を合わせてない。青空の家に行けば会える事はわかり切ってたけど、実行に移す勇気もなかったし、そこまでして顔を見たいとも思わなかった。
 でも、あいつへの気持ちが消え失せたわけじゃない。
 岩場はすっかり雪が降り積もってた。昼を過ぎると牡丹雪は止んで、雪雲の切れ間から時折地上に光が差しこむ。光を受けた岩場はとても綺麗な銀世界を作り出していた。
 首輪のない犬が、俺のそばであくびを立てた。歩道ですれ違った時俺に興味が湧いたのか、後ろをついてきた。雪の中に足を立てて、尻尾を暇そうに振ってる。
 手の中にはいつものミルクティー。二つ買って、もう一つはコートのポケットに入れてある。溢歌が来てくれたら、なんて叶わない期待を胸に抱えて。岩場に足を踏み入れるのは危険過ぎるから、港の石畳の上に立ってずっと眺めていた。息を吐くと真っ白だ。頬を突き刺す潮風が、微熱のある身体に堪える。
 懐をまさぐると、さっき買った愁へのプレゼントの入った紙袋が音を立てる。寝てる愁を起こさないように部屋を出て、メモを残してきた。すぐに戻るつもりだったのに、帰りにここへ自然と足が向いた。どう言い訳しようかなんて頭を悩ませてると、そんな自分に気付いておかしくてたまらなかった。
 俺の中にある愁への気持ちが、だんだん変わってきてる。壊れそうになる俺を支えてくれる存在から、ただそばにいてほしいって思える存在に。今までずっと受け身だった考え方が、徐々に能動的になってる自分がいる。
 愁のおかげで、俺はどれだけ成長できたんだろう。この数ヶ月の間で、まるっきり違う自分になった気がする。過去の自分がどれだけ寂しい人間だったか思い出したくもない。
 じゃあ、溢歌への気持ちは?
 缶を入れたポケットに手を突っこんでみると、まだ温もりが残ってた。
 俺はあいつに何を見ていたんだろう?零れ落ちた自分?それとも、また別の違う何か?
 考えたところで、答えは出ない。この一ヶ月間ずっと考えてたけど頭が混乱するばかりで、結論を出す事自体が間違ってるようにも思える。
 でも、溢歌の顔が心の中から消える事はない。初めて出会ったあの時から、あの目に、あの顔に、あの身体に、あの仕草に、あの声に、ずっと魅せ続けられてる。
 俺は、溢歌が好きだ。二股かけてるだとか他人に言われようと、俺は愁の事も、溢歌の事も大切な人以上に思ってる。でも、初めは違うと思ってた二人への感情も、時を重ねるごとに根は同じなんだって事に気が付いてしまった。
 ひとを好きになればなるほど、その感情がわからなくなっていく。いっそ考えるのを止めたほうが楽になれるのに、俺は延々答えを探し続けてる。
 溢歌に今の俺の唄を聴いてほしい。
 ここに来て、そんな自分の気持ちに気付いた。俺が散々迷ってようやく見つけた一つの答えを、溢歌に見て欲しい。俺に唄う喜びを思い出させてくれた溢歌に、唄を届けたい。だから、ここでできる限りの時間、溢歌を待ち続ける。
 会いたい気持ちが時間と共に強くなっていく。
 この気持ちも『愛』と呼ぶんだと思う。
 恋だとか愛だとか、他人を好きになる感情は千差万別で、訳がわからない。知ろうとすればするほど、深みにはまっていく。
 どちらを諦めるだとか、そんなのは一度も考えた事がない。ただ俺は、自分の気持ちのままに動いてるだけだ。未来の事なんて一つも考えちゃいない。
 俺は愁の事を何でも知ってる。その小さな身体から、肌の匂いから、好きな食べ物とか、何でもない些細な事まで。
 反対に、溢歌の事はほとんど知らない。服の下の素肌も、過去の小さな頃も、どうして子供じみた面と大人びた面を持ち合わせてるのかも。でも、そんな事なんて意味がないと思えるほど、大切なものを一つだけ知ってる。
 繋いだ手の温もり。
 初めて溢歌を人間の女の子だって思えた時のあの温もりが、今でも手に残ってる。愁の体温は離れた途端すぐに肌に染みこんでいくのに、あの時の感覚だけはずっと消える事がない。だから、ずっと溢歌と離れてても大丈夫でいられたのかも知れない。この温もりがある限り、ずっと溢歌と繋がってるんだって。
 空を見上げると、不意に胸がこみ上げてきた。いろんな感情がどっと押し寄せて来て、目尻から涙が滲み出ていく。最近、何でもない時に涙が流れて困る。そんな時は、いつも誰かの事を考えてる時だ。
「黄昏?」
 雪を踏みしめる音が背後から聞こえた。懐かしい声に反射的に振り向く。
 次の瞬間、期待に満ちた自分の顔をどうすればいいのかわからなくなった。
「……青空」
 そこに立っていたのは溢歌じゃなく、黒のジャンパーを羽織った青空だった。今まで溜まっていた悔しさや憎しみがもっと吹き出てくるのかと思ったら、それほどでもなかった。
向こうも驚いたような、困った顔を俺に見せてる。
「行って……るんじゃなかったの?」
 戸惑いながら、青空は視線をそらして訊いてきた。
「愁へのプレゼントを買った寄り道。ちょっと海を観たくなって」
「ふうん」
 生返事をして、雪の積もった岩場を眺めている。青空はそっちへ歩いて行ったけど、無理だと判断してすぐに戻って来た。
「青空は?」
「似たようなものかな。頭を冷やしたくなったんだ」
 青空は白いため息を吐いて、両手で髪の毛をかき上げる。その視線は、冬の海の更に向こうを見ていた。
「飲むか?」
 ポケットの中に入れてたミルクティーを青空に差し出すと、不思議そうな顔を見せた後、礼を言って少し温くなった缶を受け取った。手の中で転がして温もりを堪能した後、俺の横でプルタプを開けて喉に流しこむ。
 波止場に波が打ち上げられ、潮騒が薄暗い空の下で悲しげに響き渡る。海鳥の鳴き声が聞こえたら、胸を締め付けられるほど切ない気持ちに駆られただろう。俺達は言葉も交わさないまま、無言でその場に立ち尽くしていた。
 いや、お互いにかける言葉が見つからなかった。何を口にしても、溢歌の事に触れると思ったから。当たり障りのない言葉なんて一つも浮かんでこない。首輪のない犬は興味が失せたのか、俺達のそばから離れていった。
「こうして、二人で海を眺めるのも久し振りだね」
「……そうだな」
「最初の頃は、練習が終わった後にここから夕日を眺めてたっけ」
 大海原の向こうに広がる雲に覆われた低い空を見つめながら、青空が昔を懐かしんで言った。バンドを始めた頃、二人で日が暮れるまで雑談を繰り広げてたもんだ。ほんの二年ちょっと前の事なのに、物凄く昔の出来事のように思える。
「たった二年だけど、すっかり変わったね、僕等」
「そうだな」
 あの頃、今の自分達の姿なんて全く想像してなかった。ただ、毎日を転がっていくのに精一杯で、気がつけばこんなに遠くに来てしまっていた。過去を振り返る余裕も、未来を眺める余裕もなかった。
 手に入れたものはたくさんあった。なくしたものも、気付かないくらいたくさんあるだろう。泣いた事もあったし、笑った事もあった。そしてこれからも、そんな日々が土に還るまで続いていく。
 最後にここで二人で話した日なんてもう、覚えてない。それでも、あの日々は確かに俺の胸の中に大切なものとして刻まれている。次の日には忘れるような他愛もない話をしたり、今の俺を作り上げた大切な言葉もたくさん貰った。
 青空と俺は、一緒に成長してきた。これだけ自分に影響を与えてくれた人間はいない。そんな当然の事に今更ながら気付いて、涙腺が緩くなった。
「ふられちゃった」 
 先に切り出したのは、青空だった。
「ふられた?」
「うん、怒らせちゃって、溢歌を」
 青空は足元の溶け始めている雪に視線を落とす。相手を下の名前で呼ぶところを見て、溢歌との関係がどれだけのものなのか推測できた。
「わざわざ俺に言う事か?」
 敢えて興味なさそうに、突き放してみる。内心ひどく動揺してるのを知られたくなかった。青空は苦笑いを浮かべて、顔を上げた。
「だって、あの娘が一番好きなのは君だから」
 さらりと、それでもとてもはっきりした口調だった。その横顔にはたくさんの感情が入り混じってて、一月と少しの間溢歌と重ねた日々の大きさを物語ってた。
「でも、ずっとお前のところにいたんだろ?」
「いたよ。毎日、肌を触れ合ってたと思う」
 隠しても無駄だって事がわかってるからか、青空は照れもしないで口にする。ただ、面と向かって言われると動揺しないわけにはいかなかった。
「だけど、それで相手の全てが解る訳じゃないんだ」
 世の中の全てを悟り切ってしまったような顔を見せて、青空は岩場に目をやった。その言葉は、俺が愁と過ごした日々で手に入れた答えと正反対のものだった。
「溢歌には、何から何まで教えて貰った。女の子の身体を初めて知ったのも彼女だし、側にいて心が満たされる感じも、結局人間は一人一人違うんだって事も教えてくれた」
 青空の背中が、また一段と大きくなったように俺には見えた。
「僕達は、お互いを求め合っていた。それでもふられちゃったのは、そうだね……あの
娘の心は、僕だけじゃなくずっと君の方も見ていたからかな」
 軽くため息を吐いて、青空は俺に向き直る。その目に宿ってるものが何なのか、俺には皆目見当もつかなかった。 
「……でも、溢歌の事、好きなんだろ?お前」
 青空は俺を真っ直ぐに見据えて、頷いた。
「うん。」
 その目は、宝石のように強い輝きを放っていた。
「世界中で誰よりも、溢歌が好きだ。君よりも」
 羨ましくなるくらい、いい顔をしていた。聞いてるこっちが恥ずかしくなってくる。
「……俺に告白してどうする……」
「あわわっ、ご、ごめん」
 場の空気に耐えられなくなって茶化すと、青空も自分のクサさに今更気付いたのか顔を真っ赤にして慌てふためいた。普段から生真面目な奴だけど、俺達と全然会ってなかったせいか余計に堅苦しい奴になってる。
「それに俺、あいつのこと好きだなんて一言も言ってないけどな」
 青空と溢歌の話をするのは、今が初めてだ。それまではずっと、お互いに触れないように遠ざかってた。でも、今更逃げるわけにもいかないだろう。
「なら、どうして僕を避けてたの?」
「それは……」
 上手い言葉が出てこなかった。口篭もってると、青空が俺の顔を見て笑う。
「本当に黄昏ってすぐ顔に出るタイプだね」
「愁にも同じ事言われた」
 頬を膨らませると、青空は顔をほころばせた。ずっと見てなかったその表情が懐かしい。
「溢歌と出会ったのが、あそこだったんだ」
 青空は岩場の先端を指差した。
「あの時、見てたんだって?この前、溢歌の口から聞いたよ」
「……ああ」
 あの日の苦い記憶が甦ってくる。俺の中に流れてるメロディが止まったのもあの時からだ。今日まで生きてきて一番嫌な想い出だった。
「でも、あれのおかげで、いろいろ考えさせられたから。どうして俺が歌を唄ってるのかとか、何のために唄ってたのかとか。あんまりいい想い出じゃないけどな」
「僕もだよ」
 苦笑する青空のその言葉に、俺は驚いた。
「溢歌と出会ってから、歌詞の事とか、バンドの事とか改めて考えるようになって……煮詰まっちゃって、迷惑ばかりかけちゃって。もう一度自分を見つめ直したかったから、連絡を取らないようにしてたのもあって……ごめん」
「俺に謝らなくてもいいって。借りはステージの上で返せばいいだけだからさ」
 青空に対する憎しみはほとんど消えていた。いや、最初から青空を憎みたくて憎んでたわけじゃない。できる事なら大切なトモダチのままでいたかった。
「ねえ、黄昏」
 改まって、青空が俺の名前を呼んだ。
「黄昏にとって、歌って何?」
 考えるまでもなかった。すぐさま答えてやる。
「自分そのもの。唄う事で生きてる実感が沸くんだ。今までずっと気付かなかったけど、俺が求めてるもの全部、歌で得られると思うんだ」
 ひととひととが心で繋がれる、胸の中に抱えてた夢が唄う事で手に入れられる。一人一人違うそれぞれの心が『唄』一つで繋がれるんだ。
 だから俺は、ずっと唄い続けていたい。
「俺は最初、自分のためだけに唄ってて……バンド始めてからは、青空の歌詞を、気持ちを、俺が感じたままに唄ってた。でも、そこに繋がりだとか、他人に届けるだとかそんな思いはなくて、気持ちを再現するのが一番大事――って言うか、そこしか見てなかったように思うんだ。実際、それで満足してたし。だから、お前が溢歌と抱き合ってたところを見た時、それが全部崩れて……唄う理由がなくなったんだ。ずっと青空に依存してたせいで、本当に自分が唄いたいものを見失ってた。それは悪い事じゃなかったけど、あのまま行ってたら、いつか絶対行き詰まってたと思う。皮肉な話だけど、溢歌のおかげで自分を再確認できるようになったんだ」
 俺の話を、青空は真剣な表情で聞いてくれてる。
「この一ヶ月ぐらい、ずっと考えてた。誰のために唄うのか、何のために唄ってるのか。聴いてくれるひとのため、想いを届けたいひとのため、自分のため。他人を満たしてやるため、繋がりが欲しいため、自分を救うため。理由なんてたくさんあるけど、行きつく結論はいつも『俺が唄いたいから』になるんだ。唄うといろんなものを見つけられる。楽しいし、俺が俺なんだってことを一番感じられる。俺が生きてる意味なんてどれだけ考えたところでわからないけど、唄ってる時は『ここにいていいんだ』って思えるんだ」
 そこまで話して、今まで見つからなかった言葉が脳裏に浮かんだ。
「そして、自分が唄いたいのは何なのかを、これから探して行きたい」
 それを口にすると、風が俺の全身を吹き抜けていった。
「自分が唄いたいのは何なのか」
 もう一度、噛み締めるように声にしてみる。新しい扉が目の前に開かれた気がした。
 今までそんな事、一度も考えもしなかった。八畳一間の暗闇で唄ってた時は、何も考えてなかった。自分の中にあるものをがむしゃらに吐き出してただけだった。バンドを始めてからは、それからわざと目を背けるようにしていた。
 でも、今なら。
 考えるだけで興奮して胸が昂ぶってくる。心の奥底で新しいメロディが息づくのを確かに感じていた。俺の目は今、きっと強く輝いてるに違いない。
 そんな俺を見て、青空は驚いた顔をしていた。
「……何だかこっちも、それを聞いてとても楽になれたよ」
「何が?」
「ううん、こっちの話」
 青空は足元に積もってる雪の塊を掴んで、海に放り投げた。派手な水音が上がる。
「そろそろ行こう。電車で来たんだよね?」
 背伸びをして岩場に背を向ける青空に、俺は戸惑った。溢歌と会えずじまいで行くのは嫌だったから。
「溢歌には頼んだよ。観に来てって」
 俺の気持ちを察して、青空が背中を押してくる。それでも足は動かなかった。
「彼女を信じられないのかい?」
 ――後から、頭を金鎚で殴られたようだった。
 青空は溢歌を信じてる。あいつの事が好きだから。それに引き換え俺は疑ってばかりだった。側から離れるとすぐに不安になったり。溢歌の事を何も信じてやれなかった。
 悔しさがこみ上げてくるのと同時に、青空の溢歌に対する想いの強さを目の当たりにして、羨ましく思えた。
「なあ、青空」
 先に行こうとする青空の背中に、胸に抱えてた疑問をぶつける。
「俺の事、憎んでる?」
 青空は雪を踏み締める足を止めて、振り返った。
「全然って言ったら嘘になるけど、今会って吹っ切れたよ。僕だって、トモダチを憎みたいだなんて思ってなかったから」
 思いがけない言葉に、俺ははっとなった。
「それでも、溢歌を簡単に諦めるわけにはいかないけどね」
 青空はそう付け足して、歯を見せて笑う。その顔には強い意思が漲っていた。
 俺と同じ想いを青空も抱えてただなんて思ってもみなかった。それがとても嬉しくて、胸が震える。心の底から青空を本当のトモダチだと、今初めて思えた。
 空を見上げると、霞がかった太陽が顔を見せていた。ほんのりと温かい陽射しが心地良い。この調子なら夕方にも少しは雪が溶けてるだろう。
 コートを羽織り直して、かじかんだ手に息を拭きかける。青空を追い抜いて先に行く。
「最高のクリスマスにしような」
 俺が呟くと青空は口元を歪ませて、悪戯っぽく言葉を返した。
「最高のものじゃないと溢歌、絶対怒るよ」
 その通りだなって、二人で笑い合った。
 海から吹く風が、優しく頬を撫でた。


トップページへ  前のページへ  次のページへ  第2巻