→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第3巻

   084.ただひたすらに

 身体中が軋む。
 溢歌を連れて岩場を降りるのは、自分一人の時より更に時間がかかった。放り出した靴なんて月明かりの下じゃ到底探せるはずもなく、溢歌が足を岩場で打ち付けたり切ったりしないように、段差のある場所で逐一エスコートした。波止場に戻って来る頃にはすっかり疲弊し切って、溢歌も泣き疲れと夜の寒さに当てられたのか、横で支えないと倒れそうなほどだった。石畳の上は冷えるので、そこから溢歌の家までおぶっていく。溢歌はただ黙って俺の背中にしがみついて、肩に顔を押しつけてた。
「悪い。疲れてるんだろ?布団は敷きっぱなしだから、すぐ寝ていいんだぞ」
 玄関の扉を開ける時に、後の溢歌が寝息を立ててたのに気付かず起こしてしまった。この一日で何度も取り乱して、精神的に相当負担がかかったに違いない。だけど溢歌は布団の中に入ってもなかなか眠れないようで、俺も精神が昂って全然寝付けなかった。
 明かりの落ちた居間。橙色の光だけが静かに灯る豆球を瞼の落ちない両の目で見つめる。同じ布団で眠る溢歌は俺のほうに身体を横たえて、ぽつぽつと昔話を始めてくれた。
「私のお母さん、彩町 緑は大衆に愛された歌い手だった。小さい頃から色んな場所で歌っては、拍手を貰っていたっておじいさんが古いアルバムを見せてくれたわ。あの人の力量は狭いこの国じゃ足りないくらいで、彼女の歌い手としての素晴らしさに目をつけた海外の有名な音楽プロデューサーが、曲を提供する事になったの。それが、二人の出会いよ」
「ちょっと待った。おまえの本名は時計坂じゃなかったか?この家の表札にはそう――」
「おばあちゃんの旧姓らしいわ。私は写真でしか顔を見た事もないけれど。おじいさんも昔からここに住んでいた訳じゃないって言ってた。娘が有名になって、付きまとってくる親戚から疎遠になるために静かな場所を選んで移り住んだそうよ」
 それにしては随分と質素なところに引っ越してきたもんだ。ここが生まれ育った場所に似てるとか、何か特別な思い入れがあったのかもしれない。
「その音楽プロデューサーって?」
「グレイ・ハレー。って名前だったかしらね。彼も有名なミュージシャンをいくつも抱え持った、売れっ子だったらしいわ。私も詳しい経歴は知らない。興味なかったと言うべきかしらね。私にとっての一番の歌い手は、お母さんだったから」
 溢歌の淡い髪の色や、初めて出会った時に感じた違和感はハーフだったからだと、ようやく納得できた。瞳孔の色なんかは俺達より少し薄いくらいで、妙にバランスのいい体型を除くとその辺を歩いてる女の子と変わらない顔立ちなのは、きっと母親似だからだろう。
「私が生まれて物心ついた時には、もう二人の仲はそれほど良くなかった。何度も喧嘩している場面に遭遇したし、その頃にはお母さんは彼の元を離れて音楽活動を続けていた。私が9つの時かしら、二人は正式に離婚して、私は彼と一緒に広い家に残った」
 そこから昼間の話に繋がるわけ、か。
「音楽活動を続けて行く内に生まれた感性のずれだったのか、私には分からない。二人が離婚する時、私はお母さんを選ばなかった。選べなかった、お母さんが忙しい事を知っていたし、彼を独りにはしたくなかった。まだその頃の幼い私は、血の繋がった本当のお父さんを愛していたから」
 溢歌は視線を枕元に落として悲しそうに呟く。俺が頭に手を伸ばして優しく撫でてやると、小さく礼を言って微笑んだ。
「だけど、その頃から彼の仕事は少しずつ減り始めていたわ。きっと離婚の影響もあったんでしょうね。そして、酒とドラッグに溺れ始めた。一年もしない内に彼の顔は大きく変わって、優しかった頃の面影を残していなかったわ。生活も少しずつ荒れて行った。何度も止めさせようとしたわ。でも彼は幼い私の言う事を聞いてくれなかった。離れて暮らすお母さんにも何度も掛け合って、手伝って貰おうとしたわ。そうして親権の話が出て来る頃に、ステージの上でお母さんが倒れたのよ」
 そこで溢歌は一旦話を切って、黙りこくってしまった。辛い過去を思い出して、心の中で苦しんでるに違いない。身体をくの字に曲げて、胸前で両拳を握りしめる。辛かったらもう話さなくていいんだぞ。と落ち着かせようと溢歌の髪を何度も撫でてると、大丈夫と小声で呟いて話を続けた。
「お母さんが入院したその先で、私は初めてディガーに出会った。おとぎ話の精霊みたいにひょろっとして身長が高くて、鼻が大きくて。長いブロンドの髪の向こうに一重瞼の大きな目を見た時は、で思わず脅えてしまったわ。お見舞いに来てた彼とお母さんの会話を横で眺めてるだけで、お母さんには新しい幸せが出来たんだって解った。だから私はお母さんのそばに居る事を捨てた。私がいる事で、二人の気苦労にはなりなくなかったって幼心に思ったの」
 ディガーのことを語る溢歌は嬉しそうで、宙に浮いた視線は思春期の女の子の恋心の眼差しだった。そんな表情もできたんだと少し嬉しくなる。
「お母さんはその後すぐ退院したけれど、しばらくしてまた入院した。その頃よ、あの男が私を使って商売しようと思いついたのは」
 不意に溢歌の表情が険しくなって、俺は固唾を呑んで見守った。
「物心つく前から、私は歌うのが好きだったってお母さんが言ってたわ。子守歌を聴かせようとすると、一緒に口ずさんでいたって。お母さんが倒れた焦りもあったのよ、私が代わりに歌わなくちゃって。学校や地域での集まりなんかでもよく歌ってた私が、あの男のステージへの誘いに乗るのには何のためらいも無かったわ。大勢のセレブ達の前で、おめかしをして、母親の歌を唄う――それだけで私はとても興奮したし、大人達に自分の歌声を披露して驚いて貰うのが、昔から大好きだった。だけど、あの男の狙いは違った」
「おまえを、そいつらに売ったのか?」
 俺の問いに溢歌は唇を噛みしめて、黙って頷いた。
「ステージに立って歌い終わった私は、観客の拍手喝采に包まれたわ。だけどその中には、私の事を性欲の捌け口としか見ていない大人も大勢いた。その後一晩慰み者にされた私は、あの男を殺したいくらい呪ったわ。それであの男は金を得て、自分の欲望を満たす為に使った。恨みの籠もった目を向けた私にも、好きな物を何でも買わせてくれたわ。そこでようやく気付いたの、この世界は醜く歪んだ大人達の欲望で成り立ってるって」
 思わず耳を塞いでしまいたくなるほどに酷い告白に、俺の胸は切り裂かれそうだった。千夜の過去を知った時にも感じたのと同じ、苦くてどす黒くて、心の奥底から灼熱の炎がせり上がってくる。溢歌の肩に手を乗せるととても小さく、一体この身体にどれだけの大人の欲望が刻み込まれたのかと思うと、怒りと吐き気で気が狂いそうになる。
「それから週末になると、私は人前で歌を唄っては、その晩に大人の欲望を刷り込まれたわ。歌っている間にいやらしい視線をいくつも感じても、私は構わず歌い続けた。大人達の中には裏表なく私の歌声に聴き惚れてくれる人もいたわ。だから私は逃げなかった。私に人前で歌う場所をあの男がくれたのは確かだったのよ。けれど、実の娘の私を金の為に売ったのも確か。その二つの思いに苛まれながら、何年もずっと歌い続けていたわ――」
 音楽を聴くのも歌うのも嫌って取り乱してたのは、きっとそのせいなんだと今ようやくわかった。昔の記憶を呼び覚まして拒否反応を起こすのは無理もない。そんな悪趣味な場所へ連れ出した溢歌の父親に、殺意に似た怒りを覚える。
「言わなかったのか、母親に?自分が父親に酷い目に遭わされてるって」
 俺の当然の質問に溢歌は少し考え込んでから、答える。
「私がステージに立って歌っている事は人づてから聞いていたわ。おそらく良くない噂も耳にしていたけれど、直接私に訊く事は無かった。離れ離れになっていても、あの男を心のどこかで信じていたのかも知れないわね。それに」
 そこで溢歌は一旦言葉を止めて、少し物思いに耽ってから続けた。
「……彼は私に暴力は一切振るわなかった。私を殴ると商品価値が落ちるとでも思ってたのかしらね。だけどそんな打算的な考え方だとしても、お父さんはまだ私を見捨ててないって、思わせるには十分だったわ。あの男に面と向かってその呼び名で呼ぶ事は、もう二度と無かったけれど」
 その辺の心境は、当事者でない俺には理解できない領域だった。父親は娘を薄汚い大人達に売る一方で、娘の人前で歌いたい望みを叶えた。飴と鞭なのか、きっと後者だけなら俺の言う通りにしてたはずだ。溢歌はどれだけ憎んでても、心の底で自分の父親のことを信じてたんだろう。
「しばらくして、お母さんとディガーが結婚したの。その頃はもうお母さんは、ステージの上で歌う事はできなくなっていたけれど、ディガーには関係なかった。あの人はお母さんの事を歌い手じゃなく、一人の女性として見ていた。羨ましかったわ。私が心の奥底で望んでいた理想の家族像がそこにあった。だから、機会があれば遊びに行っていたわ。二人とも私の事を快く迎えてくれた」
 優しい表情で話す溢歌の髪を撫でてやると、嬉しそうに微笑む。
「ディガーはとても少年みたいな大人だった。会話していて、まるで同年代の男の子と話してるような錯覚をする事もよくあったわ。アルバム作りに夢中になり過ぎて睡眠時間を忘れてギターを掻き鳴らしてたり、息抜きに別荘近くの林で虫取りをしたり、私の誕生日にハッピーバースデーの演奏を聴かせる為だけにライヴハウスを一日借り切ったり。一方で上手く行かない時は手当たり次第に周りの物に当たり散らしたり、落ち込んだ時には耳元の私の言葉すら届いてない程深く沈んでいたりしたわ」
 当時の楽しい思い出を饒舌に話す姿を見てると、こっちが嬉しくなってくる。こんな昔話ならいくらでも聞いてあげたいと思った。
「私が汚れたあの日から、世の中全てを恨んでいた私を救ってくれたのがディガーだった。ディガーは私が知ってる、ただ一人の純粋で心の綺麗な大人。汚れた現実を美しく映し出す透明な青い瞳に、私は心奪われていた。どれだけ私が大人に汚されようと堪える事ができたのは、あの人が近くにいてくれたおかげ」
 ディガーの姿を語る溢歌の目は心酔し切って、おそらく彼に本来の父親の意味を重ねてたんだと思った。俺は彼の外見はよく知らない。記憶の片隅にアルバムのライナーノーツに載ってた写真で見たのがあるだけだ。
「きっと世界中の人達も、彼を同じ気持ちで見ていたと思う。彼が産み出した楽曲と演奏は、世界はまだこんなにも美しいものだって教えてくれた」
 溢歌の言葉は、彼のアルバムの感想を正確に伝えたそのものだ。激しく切ない音でこの世界の嘘や現実を目を逸らさずに暴こうとして、それでもこの世界の素晴らしさを伝えようとした。逃げずに戦ったその姿勢が、世界中のロックファンの心を打ったんだ。
「だけど彼はフィルタでしかない事を、自分自身承知していたのよ。エアコンのフィルタだって、手入れしないでいるとだんだんと汚れてくるでしょう?」
 よくわかる例えだった。逃げないと言うことは受け入れることと同じ。それには膨大なエネルギーを使って、磨り減って、やがて枯れたところをその波に呑まれてしまう。
「汚れ続ける彼の心を磨いていた大切な人は、2年後に亡くなったわ。その時、彼の中でのバランスが崩れた。もちろん、私自身も。そして、あの男も」
 溢歌が血の繋がった父親を『あの男』と言うようにしてるのは、今でも憎しみを忘れられないからだ。いや、あえて忘れないようにするためにそう呼んでるのかもしれない。
「あの男は、お母さんが亡くなった後、いつものように酒とドラッグに溺れるのを止めに入った私を初めて殴りつけた。一体何を思って手を出して来たかなんて、今でも想像もしたくもないわ。その日、私の中でずっと理性を支えていた最後の糸が切れた音が聞こえた」
 淡々と冷静な表情のまま告白する溢歌に、薄ら寒いものを覚えた。
「私を抱く大人の一人から、たくさんのハイになる薬を貰ったわ。気が狂いそうになるくらいベッドの上で乱れながら、これでようやくあの男に仕返しができるってほくそ笑んだ。周りに誰もいない静かな日曜日に、あの男に私は貰った薬を全部手渡した。この数年間で彼の身体がドラッグに蝕まれて、ボロボロだって事は判り切っていたわ。そして、その後起こる出来事も――」
 溢歌の目は見開かれて、瞬きもせずに虚空を見つめてる。唇は震えて、生気がなかった。
「私が、殺したのよ――お父さんを、私が……」
 俺は目を閉じて、溢歌の告白を唇を噛みしめて受け止めた。
「もう、いいんだ。それ以上言わなくても」
 何も溢歌を苦しめるために俺は全てを教えてもらってるわけじゃない。自分の父親の最期の瞬間なんて、語りたくもないだろう。しかも自分が手にかけたのと同然だ。その時溢歌が何を思ってたのか。それは俺が安易に踏み込んじゃいけない領域だ。
 だけど溢歌は頭を横に振った。全て言わないと懺悔もできないと思ったのだろうか。荒い呼吸を整えて涙で濡らした枕を裏返してから、目尻を拭って懸命に話を続けた。
「死因は複数の薬物摂取によるオーバードース。事件性はないって判断されたわ。子供の私が殺しただなんて警察は思うはずも無いし、私も薬の入手経路を口に出す訳も無い。それに私を犯した連中には警察の幹部クラスもいたわ。彼等が自分達の手に手錠が回る事を言うはずも無い。マスコミはかつて有名だった音楽プロデューサーの成れの果てと囃し立てて、亡くなったばかりの元妻との関係とかを推測で好き放題に垂れ流していたみたい。私にそれを鼻で笑って眺めている余裕は無かったけれど」
 死因まで聞くと、本当に溢歌は取り返しのつかないことをしてしまったんだと痛感する。だけど自首しろとか罪を償えとか偉そうなことを言うつもりにもなれなかった。溢歌の歩んだ現実を、ありのままに受け入れるだけだ。
「私を囲う大人達が逃げ出さないように鳥かごに入れようとして来るのは目に見えていた。だから連中が私にくれたドレスを売り払って手に入れたなけなしのお金を持って、ディガーの元へ行った。彼はアルバムのツアーが終わって、疲れ切った状態で自分の別荘に籠もっていたわ」
 ――そして、さっき話してくれたディガーの最期に繋がるわけか。
 溢歌は再び枕に頭を預けて、橙色の豆球を見上げた。
「彼に事情を全て話した時、とても驚いた顔をしていた。私の苦難をまるで我が事のように同情してくれたわ。そして、私の境遇に気付かないままいた事をとても後悔していた。彼が死んだのは、そんな私への償いの気持ちもあったのかしらね」
 そう言って自虐的に笑ってみせる。まるで彼の死因をわざと自分にも結びつけるような言い方で、そう思うことで少しでも彼との愛情を感じたかったのかもしれない。
「大切な人を喪って、打ちひしがれている彼を助けたかった。その為に私は彼に身体を差し出したわ。これまで心の醜い大人達に教え込まれて来たのも、きっと彼を慰める為にあったんだって思った。お母さんの娘の私なら、この小さな身体も代わりになると思ったから。でもディガーは私の事をいやらしい目で見ないで、純粋な気持ちで抱き締めてくれた。言葉で表すなら、これがきっと父娘の絆なんだって、長い腕に抱えられながら思った」
 とても幸せで嬉しいのに、でもどこかちょっぴり悔しいような、アンニュイな表情を浮かべる溢歌。溢歌の過去は辛く苦しいことがたくさんあったけれど、それでもいくつものかけがえのない想い出があったんだと知った。
「次の日、彼は私に一番大事にしていたギターをくれたわ。私には使いこなせない物だって解っていたけれど、きっとディガーにとって初めての自分の娘へのプレゼントだったのよ……本当、不器用なんだから」
 声を震わせて目尻を細い指で拭って、俺の顔を見た。多分その不器用な部分を、俺と重ね合わせてるんだろう。褒められてないのに悪い気はちっともしない。
「その時にディガーは、もう覚悟を決めてたのかな。別荘に行った時から」
 残念そうに呟く溢歌に俺は頷くこともできなかった。きっとそうなんだろう。
「遺された私の気持ちも考えて欲しいってものだわ……」
 無理に笑って、涙ながらに悪態をつく溢歌がとても痛々しい。言葉通り、ディガーを想う気持ちは父娘の絆以上に深くて、少しばかり嫉妬してしまうほどだ。
「もしかしたらディガーは、最後に溢歌と会えて幸せだったのかもしれないな。自分の事を看取ってくれる人がいたんだ」
「だから、勘弁してってば……本当に……」
 慰めのつもりで言った言葉が胸に突き刺さったのか、溢歌は泣き顔を両手で覆って、何度も嗚咽を漏らした。俺は溢歌に体を寄せると、抱きかかえるように腕を回して背中をさすってやる。溢歌の体はいい感じに小さくて抱き締めやすくて、今日一日でどれだけ俺の胸で泣いたかわからない。ぐずって言葉にならない溢歌の姿がとても弱々しくて、かわいくて、守ってやりたいと強く願った。
 しばらくディガーのことを考えてるとある記憶に結びついて、ふと気付く。
「今解ったぞ。俺とおまえが最初に出会った時、いきなり崖から身を投げたのはディガーのその時の気持ちを理解したかったからじゃないのか?」
「……。」
 俺の胸から顔を上げた溢歌は黙ったままだ。どう答えていいのかわからないのか、口を横一文字にして涙を浮かべたまま困惑した表情を見せてる。
「だけど俺とおまえは出会ったばかりで、お互いのことさえ少しも理解できてない状態だったのに――」
「言ったでしょう?私は出会う前から黄昏クンの事を知っていたって。『この人は、ディガーと同じ』だって解っていたから、あの岩場で出会った時にこれはきっと必然だと思えた」
 こっちの疑問を遮って溢歌が答えた。そう言えば、俺から自己紹介する前にこいつは俺や青空のことを知ってた。歌が嫌いになったのに、わざわざバンドをやってる俺達のことをどうやって調べたんだろう?
 次の疑問を口にする前に、溢歌が乾きかけの涙を拭って身の上話を再開した。
「ディガーが亡くなった後、からっぽになった私はかつてお母さんのマネージャーだった人にかくまわれたの。その人がおじいさんに連絡を取って、身寄りのなくなった私を引き取る事になったのよ。そうして私はこの国へ来たの」
 身寄りが誰もいなくなって孤独な気持ちでこの国に降り立った時、一体溢歌はどんなことを考えてたんだろう。新しい人生に希望を持ってたんだろうか。
「おじいさんとお母さんは、外国人と結婚して海外に住むようになってから疎遠になっていたんだって。だから私の顔も知らなかったみたい。それでも実の孫の私を、亡くなるまで面倒を見てくれたわ。こちらに来た時には何もかも嫌になってずっと塞ぎ込んでいた私を、心を開くまで辛抱強く見ていてくれたわ」
 こちらに住み始めた時間はそれほど長くないのに妙に生活に染まってる感じがするのは、仲のいいおじいさんと二人でずっと暮らしてたからか。溢歌がいつもおじいさんの話をする時は、相手に対する敬意やありがたさを言葉の節々に感じる。
「だから昨年死んじゃった時は、ボロボロ泣いたっけ……。それから半年くらい、ずっと孤独でもぬけの殻だった。生きているのか死んでいるのか解らないまま、毎日あの崖から海を眺めていたわ。そして三日月の見える秋の夜に、黄昏クン、あなたに出会えた」
 目を閉じれば、あの出会いの日はいつでも瞼の裏に思い出せる。俺の人生も、あの瞬間から大きく変わり始めた。
 つくづく必然なんだなって痛感して、思わず苦笑する。
「そういやしばらくいなくなっていたのは、歌ってたからって言ってたけど……」
 まだ詳しくそっちの件についても聞いてなかったので、尋ねてみた。
「そのお母さんのマネージャーの人が、私を連れて行ったのよ」
 連行でもされたのかと眉を顰めてると、俺の顔を見ておかしそうに溢歌が笑う。
「言い方がおかしいわね。彩町 緑の娘の私に、歌う事のできるステージを与えたいって、そう言って来たの」
 少し安心したと同時に、俺の知らない初耳の出来事に驚いた。母親のマネージャーと言うと、年齢的にも随分なキャリアになるんだろうか。どこかのレコード会社の管理職になんかなっててもおかしくはない。
「この話が出たのはおじいさんが亡くなった時よ。その後何度も誘われたけれど、頷く気にはなれなかった。あの頃の私は自分自身の為に歌えなかったから」
 それ以前に溢歌がステージに立ってマイクの前で歌う姿が俺には想像がつかない。あまり人を信用してないようだし、人前で歌を聴かせることに情熱を保つタイプにも見えない。
子供の頃にステージ後に大人達に乱暴されてたトラウマもあるだろう。
 そんなことを考えてると、もしかしてこっちでも同じ状況になってるのかと勘ぐった。
「勘違いしないで。向こうで歌っていた状況とは違うわ。もちろんこちらにも似たような臭い匂いを放つ連中はいるけれど。お母さんの唄っていた歌を遺して――全てを録り終えるまで、その人の元で唄っていたの」
 俺の態度に気付いて、溢歌はすぐさま説明した。
「それって……」
 こっちがずっとバンドのアルバム作りしてる時に、溢歌もどこかで似たような状況だったのか?何だか滑稽に思えて、変な笑いが出てしまう。
「私が唄った歌をどうするかまでは知らないわ。もしかしたら黄昏クンのバンドみたいに、アルバムにして世に出す事もあるかもしれない。けれど私には本当にどうでもいい事なの。ただお母さんから教えて貰った歌を、自分の声で遺したかっただけなのよ」
 遠い目で溢歌が呟く。そうすることで、自分の中で全てが精算できたんだろう。だからもうやり残したことはないって言って、崖の上から身を投げようとしてたんだ。
 それこそ出発前に言ってくれれば俺だって安心できたのに。だけどその心遣いが、溢歌の俺への優しさだったんだろう。
「きっとそれが私の生きて来た証だって思いたかったのね。馬鹿みたい」
「俺も似たようなもんさ」
 冗談っぽく言う溢歌に笑ってみせる。その気持ちは決して間違っちゃいない。
「結局、誰かに歌を聴いて欲しいってことなんだ、俺達の想いは。自分の大切な人や、自分のことを見てくれる相手に。その気持ちがあったから、俺は独りでいた暗い部屋から外へ出ようと思った。そのきっかけを青空には心から感謝してるよ」
 あいつがいなかった俺はこうして溢歌とも出会えなかった。俺の歌いたい気持ちを叶えてくれた青空がいたからこそ、今の俺がいる。
 話題に青空の名前が出てきたからか、溢歌は難しい顔をして俯いた。
「青空クンは身勝手な私を赦してくれるかしら?私のせいで、彼の人生は狂ってしまった気がするの。女性を抱く悦びと愛する人に裏切られる思いを、深く覚えさせてしまった」
 胸前で両手をきゅっと握りしめる。溢歌と青空が文化祭後の夕方に岩場の先端で抱き合ってた光景を思い出すだけで今もはらわたが煮えくり返りそうな気持ちになるけど、その過去はもう赦した。当時の二人が何をしてたかなんて今後追及するつもりもない。
「大丈夫さ。青空は俺が思ってる以上に強い人間だ。一見頼りないようで、周りの人間を引っ張っていく力があるのは凄いと思う。俺には真似できないよ」
「そう言ってくれると助かるわ。次に会った時に謝らなくちゃ」
 むしろ俺も溢歌と一緒になったことを謝りたい気分だ。お人好しの青空のことだからかえって祝福してくれそうだけど、どうにも気まずい。気にしなけりゃいいだけなんだけど、いまだに面と向かって青空と会話するのが苦手になってる自分がいる。この辺は時間が解決してくれるのかな?
 また余計な考えをしてしまいそうなので頭の回転を止めて、さっき聞きそびれた疑問を溢歌に投げかける。
「ずっと気になってたけど、どうやって俺達のことを知ったんだ?出不精で音楽そのものを嫌ってたおまえが、わざわざ俺達のライヴに足を運んだなんて思えない」
 そんな長年の謎に溢歌はすぐに答えてくれる。
「あなた達が音楽をやっているのを、お母さんのマネージャーだった人が教えてくれたの。この近くで、ディガーが奏でていた音楽を彷彿とさせるバンドがいる事を。まだ、おじいさんが生きている頃だったわ。きっと歌う事のできなかった私を元気づけようとして、チケットをくれたのね」
 一体いつ頃なんだろう?溢歌ほど周囲に溶け込んでない人間なら、ステージの上から見ても覚えてそうな気もするのに。だけど俺達のバンドはイッコーのおかげで最初の頃から観客も多かったので、歌に集中してる上に人波の後だとさすがに気付かないか。
「初めてステージの上であなた達二人を見た時、ディガーと同じ匂いがした。黄昏クンの魂を絞り出すような歌い方に、青空クンの夢中でギターを掻き慣らすに、私の思い出の中にあるディガーの姿を自然と重ね合わせた。けれど、私が感じたものは嬉しさや喜びよりも、もう戻って来ない彼との想い出から来る苦しさや悲しみだったわ。だから、一度観た限りでその後ライヴを観に行く事はしなかった」
 何だか悪いことを聞いてしまった気がする。物思いに耽る溢歌に謝ると、笑顔を返してくれた。
 俺や青空はそんなにディガーに似てるのかな。俺は彼の人となりや実体を全く知らないから、くすぐったい気分だ。フォトアルバムか何か持ってないのかと尋ねたら、こっちに来る時はディガーの形見のギターしか手にしてなかったと答えた。ちょっと残念だ。
「他に訊きたい事はあるかしら?もうさすがに、疲れたわ……」
 布団にくるまったままの溢歌が疲れた表情で枕に顔を沈めた。もう時刻的には早朝になってる頃合いだ。俺もずっと聞きたかったことをほとんど溢歌の口から聞けたので、緊張の糸がほぐれて大きなあくびが出た。つられて溢歌もあくびが出て、何とか噛み殺そうとするその表情がおかしくてつい吹き出してしまった。
 生きてる。俺達は生きてるんだって、そんな些細な仕草で心底実感した。
「溢歌はこれから、どうする?」
 寝る姿勢を取って、肩を並べて同じ布団に入る溢歌に顔だけ向けて訊く。
「そんなの、まだ何も分からないわ。目の前にレールも何も描かれていなくて、どうすればいいのかさえ思いつかない。だから黄昏クン、あなたが手を取って連れて行って」
 同じように俺に顔を向けた溢歌が、布団の中で俺の左手に右手を強く重ねた。いつもは冷えてて感じづらい体温が、掌からじわっと伝わってくる。
「俺がか?むしろ俺も青空の手に掴まって連れてってもらってるようなもんだしなあ」
 空いた手を布団から出してひらひらとさせながら素っ頓狂に呟くと、溢歌がおかしそうに笑った。そして不意に顔を近づけてきて、唇同士が軽く重なる。
「私をこの世界に繋ぎ止めた責任、最後まで取って貰うわよ」
 意地悪っぽく言う溢歌はとても笑顔で、俺の目には本物の妖精に見えた。


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