→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第3巻

   083.Happy End

 波の音が聞こえる。
 気付くと俺はいつもの大海原が見える防波堤の上に立ってた。特に寒さは感じない。冬だと言うのに季節感がないのは、これが夢だからか?
 どこか落ち着かない感じで空を見上げると、陽が沈み始めてた。この夕暮れの空は、俺の記憶のどこかにある空だろうか。
 階段を下りて波止場まで出る。どこかで貨物船の汽笛が聞こえる。周りに人の姿は見あたらなくて、まるで世界に俺独りだけ取り残されたような感じだ。
 左手の岩場に視線をやると、先端にうっすらと人影が見えた。そのシルエットだけで俺はその人影が溢歌だってことが何の疑問も湧かずにわかる。岩場は特に滑りやすいこともなくて、楽に数分で溢歌のそばまで到達することができた。
 溢歌は俺に気付かず、ただひたすらに海を眺めてる。紫がかった水平線の空には多くの星が瞬き始めて、まるで宝石箱のように思えた。
「溢歌」
 名前を呼ぶと、たなびかせた長く豊かな髪を手で押さえて俺のほうへ振り向く。その目には涙が浮かんで、辛そうな表情で視線を俺に投げかけてた。
「どうしたんだ、溢歌?まだそんなに辛いのか?」
 俺がそばにいることで、溢歌は色々な過去から救われた、はずだ。なのにどうして、まるで世界が終わりを告げたような悲しい顔をするんだろう。
「ありがとう、黄昏クン」
「改めて謝られると何だかくすぐったいな」
 面と向かって言われるとちょっと照れる。溢歌は涙を拭って、大海原を細目で眺めた。
「きれい……この目の前に広がる風景を見てると、これが世界の全てに思えてくる」
「ああ、俺もそうだ」
 世界はとても醜く、汚いものでもあるけど、本当の姿はこんなにも綺麗で美しいものなんだって心の底から思わせてくれる。きっとこの場所は、俺達にそのことを教えてくれるために存在してるんだろう。
「ほんの短い間、だけど私にとってはかけがえのない素敵な時間だった」
「おいおい、いきなり何を言い出すんだ」
 まるでもう会えないようなことを言うなよ。笑ってそばに近寄って肩に手を置くと、溢歌は口元をほんの少しだけ緩ませた。
「心の底から感謝してるのよ、黄昏クンには。私がこれまで命を繋げてきた意味を教えてくれた。きっと私の人生は、あなたと出会うためにあったんだわ」
 無理に作ったその笑顔が、俺の胸に突き刺さる。溢歌は両手で俺の手を取って、掌を重ね合わせた。いつもは冷たい溢歌の肌から、心に染みこむ温もりが伝わってくる。
「でもね、私の罪は決して赦されないの。だから、ここでお別れよ」
 そう言うと溢歌は不意に俺のほっぺにキスをして、そっと両手を離した。
「溢歌?」
 戸惑う俺に背を向けると溢歌は崖の先端へと歩を進めて、大きく両手を広げた。潮風を全身で受け止めて、ウェーブのかかった髪が大きく波打つ。
 溢歌は頭だけ振り返るって俺に柔らかい目線を送ると、風にかき消されてしまいそうなほど微かな声で呟いた。
「じゃあね」
「溢歌!」
 俺が大声で叫んだのと同時に、溢歌の足が岩場から離れる。ゆっくりと溢歌の体は宙に浮いて、その背中が視界から消えて行くまで、永遠とも思えるような時間が流れた。
 懸命に腕を伸ばす。だけど俺の掌は空を切って、握りしめた拳に何も掴めなかったのを頭が理解した時には、既に溢歌の姿はどこにも見えなくなっていた。
「ああああああああああああああっ!!!!!」
 自分の喉元から発せられた絶叫が耳をつんざいて、俺は飛び起きるように目を覚ました。そして眼前に広がる視界に溢歌の家の居間が写ってるのを脳が徐々に理解して、ようやく今のが夢だったんだと盛大に息を吐いた。全身から力が抜けていく。
「最悪な夢だった……」
 心臓の鼓動がまだ高鳴ってる。夢の最後の場面を思い返すと溢歌の姿が目の前から消えた時の喪失感が襲いかかってきて、全身が震える。目を覚ます時に上げた自分の絶叫で喉が少し痛むものの、その痛みが逆に今いる場所が現実なんだとわからせてくれて、少しずつ冷静になっていった。なるべく夢の記憶を辿らないように努めて、大きく深呼吸を繰り返す。室内には石油ストーブのヒーターがいつもと変わらず低い唸り声を上げていた。
 とても静かだ。庭に続く磨りガラスの向こうは暗がりが落ちて、もう夜になってたんだと気付く。泣き疲れてた溢歌をあやしてると俺もすぐに夢の中に落ちてしまったようだ。布団は敷きっぱなしで、横に溢歌の姿はなかった。
「溢歌?」
 服を着直して、呼びかけてみる。風呂場のほうまで足を運んでみるものの、一通り家の中を探しても溢歌の姿は見当たらなかった。
 またどこかに出かけてるのか?そう思った瞬間、さっき見た夢の光景が目に浮かんできて背筋に寒気が走った。
「……おいおい」
 思わず口をつく。まさか、とは思いたくない。だけど今の夢が、何かのサインだとするなら――
 そう考えるといても経ってもいられなくなって、すかさずコートを羽織ると俺は家を飛び出した。部屋のハンガーにかけてあったはずの俺が溢歌にあげたジャンパーが見当たらなかったってことは、外に出てるはずだ。
 真冬だと言うのに、今日はかなり暖かい。数日前までは雪もちらつくくらいだったのに、季節の変わり目だからか。と言っても春一番が吹いてるわけでもなく、海から吹きつける潮風も波音も朝方より強くなく、比較的穏やかだ。
 溢歌の家の周りは小さな集落になってて、明かりが灯ってる家は数件だった。時計は確認してなかったけど、随分と夜も更けた時刻なのかもしれない。外はすっかり夜の帳が降りてて、大きな満月が水平線の上に見えた。この地域だと夕暮れに月は山側の方から姿を見せるから、日付が変わったところだろうか。
 波止場のほうへ出てみたものの、恐ろしく人の気配がない。もちろんこんな時間にこの付近で外に出歩いてる人間なんているはずもない。深夜にやってる店も海岸沿いの道路にはないし、冬場に冷たい潮風にわざわざ当たりにいくなんて真似をする人はいない。
 ただ一人を覗いて。
 周囲に明かりが少ないので月明かりしか助けにならない。幸い今日は雲が少なかった。岩場のほうに目をこらして溢歌の姿を確認しようとしたものの、誰かいるのかは確認できない。どうなってるのかさえわからない。だけど俺の足は自然とそっちに向いていた。
 波止場から岩場に繋がる部分で足が滑って尻餅をつきそうになる。潮風で岩肌が濡れてので、かなり危険だ。昼間の温かさのおかげかさほど凍ってないのが救いか。おそるおそる目をこらしながら、暗闇の中を手探りで進んでいく。腰を落として、足下の岩に手を付きながら少しずつ登れる箇所まで近づく。
 雲は少なくて、視界が極端に暗くならないので時間はかかるものの何とか先に進める。それよりも岩に触れる手がかじかんでしもやけを起こしそうだ。ポケットの中に突っ込んでおいた手袋をつけてみるものの、すぐに濡れて役に立ってるのかどうかよくわからない。とりあえず不意に滑って四肢を岩肌に打ちつけるのだけは勘弁なので、慎重に進んでいく。
 途中まで来て、岩場の先端に人影を捉えた。
「溢歌!」
 思わず大声で叫ぶものの、人影は振り返る様子も見せない。何度かその場で呼びかけてみたものの反応がなかったので、しょうがなく一歩一歩岩肌を上って行った。
 冬場の岩肌を上るのはかなりの労力で、コートを羽織った背中が汗ばんでくる。よくこんなところを溢歌は上って行ったものだと感心した。引き返すのにも倍以上の労力がかかるんじゃないか、これ。
 そこまで考えて、ふと怖い想像が脳裏に襲ってきたので慌てて頭を振って打ち消した。
 余計なことは考えずに、前へ、前へ。最後の一山を乗り越えたところで大きく息を吐いて呼吸を整える。先端付近は広く平坦になってるとは言え、滑りやすいことには変わりないのでゆっくりと目の前の溢歌の背中に近づいていく。溢歌は俺の物音にも構わず、それほど最先端に近くない場所で仁王立ちのまま、海を眺め続ける。
「やっと着いた。ここまで来るのにどれだけ骨が折れたか」
 減らず口を叩きながら溢歌の横に近づくと、ようやく溢歌は俺のほうを振り返った。特に驚いた素振りも見せずに、俺が来るのをずっと待ってたかのような態度で見てくる。
「部屋にジャケットがなかったからな、外に出てるならここしかないと思ってた」
 溢歌の羽織ってるジャケットを指差して笑ってみせる。初めてここで溢歌と出会った時にあげた想い出のジャケットだ。
「それにしてもそんな格好だと風邪引くぞ。いくら何でも素足って…」
 ジャケットの下は厚手のワンピースで、靴もサンダルも履いてない。風邪を引くどころじゃないぞ。
「途中で脱ぎ捨てたわ。ここまで来るのに大変だったもの」
 そう答える溢歌の足下は暗くてよく見えないものの、きっと何度も岩にぶつけてアザができてるに違いなかった。
「何もそこまで……こんな寒い季節に、ここまで来る理由なんかないだろ」
 俺も冬場は岩場の先端を眺めるだけで、こうして苦労してやって来たのは初めてだ。
「この目でちゃんと確かめておきたかったのよ、久しぶりの私の海を」
 そう言って溢歌は手を広げて大海原を俺に紹介してみせる。
「私の海、か」
「そう。汚れた私を受け入れてくれた偉大な憧れの海。おじいさんとこの海がなかったら、私は今ここにいなかったわ」
 その言葉には万感の思いが詰まってて、俺も思わず胸に詰まった。
 とても静かなさざ波が眼前の崖下から聞こえてくる。溢歌が目を閉じて耳を傾けるので、俺もそれに倣った。まるでふわふわとさざ波の音に流されてるようで、浮遊感が心地いい。
「もう、大丈夫なのか?」
 布団の上で激しく嗚咽を漏らしてた姿とはうって変わって、普段通りの表情を見せてる。溢歌は両手を後に組んで、夜空に浮かぶ丸い銀色の月を見上げた。
「どうかしら。私一人じゃやっぱり、支えきれないなあって改めて思ったところよ」
「そんなに一人で何もかも背負いこまなくてもいいんだぞ、ここに俺がいるんだから」
「頼もしいわね。もっと早く出会えてればよかったわ。そしたらおじいさんがいなくなった後、あんなに悲しまずに済んだのに」
「悪い」
「そこは謝るところじゃないわよ」
 小さく笑ってみせる溢歌を隣で見れて、さっきの夢を見た時から胸の中にざわついてたものがようやく収まってきた。あんなに取り乱した姿を見たのは初めてだったから、どうなることかと心配してたので安堵する。
「黄昏クンは、ここで私を助けてくれたのよね」
 溢歌は一歩前に出て、あの時のことを振り返る。
「そういやそうだったな。もうあんな思いはごめんだ」
「ねえ、黄昏クン。あの時どうして私を助けようとしたの?」
「これまた随分と変なことを訊くもんだな」
 俺は溢歌の隣に一歩踏み出して、問いに答える。
「単に体が勝手に動いた。それだけだよ。きっとあれが溢歌じゃなくても、同じように助けたと思う。いや、溢歌だったからあんなに無茶したのかもな。落ちそうになってたもん」
 崖の先端の足場のない空間を指差して笑ってみせる。
 溢歌とここで初めて出会った時のことを思い出す。雲の隙間から顔を覗かせた三日月の光に照らされて浮かび上がった溢歌の姿を見た時は、それこそ現実のものとは思えなかった。まるでこの地に舞い降りた月の妖精のような――
「多分あの瞬間に、俺は溢歌に心奪われてたんだと思う」
 愁じゃなく溢歌を選んでしまったのも、きっとあの時に決まってたことなんだって、今になって思える。今の自分の発言に少し照れ臭くなってると、溢歌がおかしそうに笑った。
「嬉しいわ。そう言えばあの時助けてくれたお礼をまだ言ってなかったわよね。ありがとう、黄昏クン。あなたのおかげで、今私がここにいられるの」
「そうだっけか、すっかり忘れてた」
 目の前で頭を垂れられるとくすぐったくなる。
「本当に良かったわ。私を助けてくれたのが黄昏クンで。神様のプレゼントかしらね」
「溢歌は神様の存在を信じてるのか?」
「そんなもの、ずっといないと思ってたわ。黄昏クンと出会うまでね。そもそも神様なんて本当にいたら、私はずっと呪い続けたに決まってるもの」
 俺の問いに笑って答えてみせる溢歌を見てると、胸が締め付けられる。一体この少女はこんな小さな体で、一体どれだけの苦難と絶望に直面したんだろう?
「なあ、溢歌」
 俺は溢歌の肩に手を回して、ゆっくり胸元に抱き寄せた。潮風に当たり続けた溢歌の体はとても冷たいけど、感触は腕を通して確かに伝わってくる。こうして存在を感じられることが心の底から嬉しかった。
「おまえの過去がどれほど辛いものだったか、俺は知らない。あの涙を見てるときっと一朝一夕じゃ解決しない、深い闇なんだと思う。だけどもうこれ以上、一人でその過去を背負い続けるのは止めろ。俺がそばにいる。そばにいるから、いつでも打ち明けてくれて構わない。俺がおまえを絶望の淵から助けてやるから」
 もう片方の腕も肩に回して、小さな体を抱き締める。慰めるつもりで言ったんじゃない、これは約束だ。俺がずっとそばに溢歌を繋ぎ止めておくための。
 そんな俺の真剣な眼差しを、溢歌は微笑んで受け止める。
「黄昏クンは素敵な人ね。目の前の大切な人を助けられる強さが、とても羨ましいわ」
「強くなんてないさ。それが強さって言うんなら、くれたのは溢歌、おまえだよ」
「調子の良い事言ってくれちゃって」
 俺の正直な気持ちを茶化してみせると、溢歌はそっと俺の腕から離れてその場でくるりと回ってみせた。ワンピースの裾が揺らめいて、まるで妖精のダンスみたいだ。
 溢歌はその場でため息を一つつくと、大海原に向き直って数歩足を進めた。
「私も、助けたかった。でも、できなかったの。誰も助けられなかった」
「おまえの、血の繋がった父親のことか?」
 恐る恐る問いかけると、溢歌は眉を顰めて複雑な表情を俺に向ける。
「あの人だけじゃないわ。おじいさんも、お母さんも。そして、あの人も私の目の前で身を投げた。大海原のよく見える、とても綺麗な丘だったわ」
「身を投げたって……どういう……」
 その言葉でさっき見た夢の最後の場面を思い出して、全身に寒気が走った。反射的に溢歌に詰め寄ろうとすると、真っ直ぐに俺を見つめたまま続きを話す。
「私の初めての恋の人。私のお母さんの愛人で、再婚相手。黄昏クンも知っているんじゃないかしら、彼の名前を。きっと、青空クンから聞いているはずだわ。だって、あなた達のバンドが奏でる音は、彼の姿を追い求めているものだもの」
 刹那、俺の脳裏でようやくいくつものパズルの断片が一つに繋がった。そこから導き出される単語は一つ。
「ディガー……」
 まさか、あのディガーが溢歌の義理の父親だったって言うのか?あまりの事実に明らかに戸惑う俺を見て、溢歌は小さく笑ってみせた。
「そう。ディガー・エンフィールド。『discover』のバンドのリーダー、ディガー・E・ゴールドの本名よ」
「待て……待て、待て待て待て!」
 頭の中が一気にぐちゃぐちゃになって、俺は思わず叫んだ。溢歌がきょとんと俺を見てるのをよそに、必死に記憶の断片を整理しようとした。
 イッコーが前のバンドで活動してた時から心酔してた、伝説のロッカー。世界中で人気を博したロックバンド『discover』のヴォーカル兼ギタリストで、今なおカリスマ的存在。青空もずっと尊敬してて、使ってるギターは彼の最初に使っていたブランドのレプリカだ。俺も前にイッコーにバンドのアルバムを借りて、その音と歌声に聴き惚れた。
 だけど、今はもういない。
「ディガーは数年前に自殺したって――」
 そう。彼は3枚目のアルバムを出した後に、死んだんだ。
 溢歌は自分の爪先に視線を落として、小さく白い息を吐いた。
「彼の遺体は、別荘の近くの海岸に打ち流されたのを発見された。事件性はなし。自分自身を徹底的に追い詰めた表現の行き着いた果ての死だって、マスコミは騒ぎ立てたわ。だけど私は全てを知っている。どうして彼が死んだのか」
 俺の全身に緊張が走る。溢歌は俺から目線を逸らして、ゆっくり崖下へと振り向いた。
「だってそうよ。彼は私の目の前で、崖から飛び降りたんだもの」
 後頭部を金槌でぶん殴られたような衝撃が走った。
 にわかには信じがたい。溢歌の言ってることが本当なのかどうか、俺には理解できずにいた。だけど溢歌がくれたあのギター――それが確かなら、イッコーの話と合致する。なら、溢歌はディガーの死を目の前で見てたって言うのか?
 次々湧いてくる疑問を戸惑いで口に出せずにいると、溢歌がぽつぽつと話し始めた。
「私のお母さんは、彼が亡くなる数ヶ月前に先立ったわ。元々体の強い人じゃなかったの。海外活動をしてるうちに、体を壊して――亡くなる前はもう、人前で歌うことができなくなっていたわ。ディガーとお母さんが知り合ったのは、まだ現役でいた頃の海外の音楽フェスティバルだって言ってた。詳しい馴れ初めまでは知らないけれどね」
 月明かりに照らされた溢歌の微笑む姿が、妙に寂しく見える。
「その頃はあの男とお母さんはもう離婚していて、私はあの男に引き取られた。お母さんと定期的に会う機会にはいつも、ディガーが隣にいたわ。海の見える別荘で、ギターを教えてもらったりした。私は飲み込みが悪いのと指が痛いのが嫌いで、すぐ逃げ出したっけ」
 俺にあのギターをくれた時、溢歌がずっと形見を眠らせてたのは自分が弾けないからだったんだろうか?
 浮かんでくる疑問を飲み込んで、今は溢歌の昔話を黙って聞くことにした。溢歌も俺の姿勢に気付いたのか、小さく頷いて話を続ける。
「でも、そんな幸せな時間は長くは続かなかったわ。ディガーのバンドは世界的に有名になっていって忙しくなった。お母さんも入院して、少しずつ私達が会える機会は減っていった。だけど、彼はお母さんの事を心から愛していたわ。死に際を看取った後も、ずっと」
 ディガーよりも先に溢歌の母親は病気で亡くなったみたいだ。
「あの男がいなくなって、ようやく一緒に暮らせると思っていたのに。だけど私はお母さんの代わりにはなれなかった。彼の心にはお母さんしかいなかったのよ。だからあの日、彼は私に自分のギターをプレゼントしてくれた。きっと形見のつもりだったのよ」
 自殺したのは、それが本当の理由だったのか。俺も溢歌がいなくなった時のことを考えるとさっきの夢を思い出して、愛する人を失った喪失感で身悶えるに違いない。
 少し強い風が海側から吹いて、俺達の素肌を冷やした。ウェーブのかかった溢歌の髪が大きく風に揺らめく。
「台風が近づいて来た夏の日だった。降りしきる雨の中、彼は大海原の見える丘の上に傘も差さず立っていたわ。窓の外に彼の姿を見かけて胸騒ぎがして、慌てて外へ飛び出した。そしてこんな風に、彼は大海原に一番近い場所で水平線の向こうを眺めていたわ」
「お、おい」
 話しながら崖の先端に一歩ずつ歩を進めて行く溢歌を呼び止める。だけど溢歌は構わずに一番先端に立つと、そこで足を止めた。見てるだけでこっちの心臓が止まりそうになる。すぐに手を伸ばせる位置まで俺も崖の先端に詰め寄った。
「懸命に走って追いかけて、大声で彼の名前を叫んで呼び止めた。失いたくなかった。だから必死に彼を説得したわ。でも、できなかった。彼は私に感謝の言葉を遺して、そのまま崖下に身を投げた。私には黄昏クンみたいに力ずくで彼を止める力もなかった。冷たい雨に打たれながら、崖下に広がる青い海に向かってどれだけ彼の名前を呼んだか分からない。私と一緒にいた短い時間が幸せだったなら、どうして簡単に手放すのよ――!」
 真っ暗な崖下を見下ろしながら、溢歌は両拳を強く握りしめる。きっと悔しい形相で、歯を食いしばってるに違いない。怒鳴る声は涙混じりで、小さな肩が大きく震えていた。
 取り乱したように俺に振り返ると、目尻に大粒の涙を浮かべたまま頭を抱えて叫ぶ。
「私はただ、一緒にいて欲しかっただけ!私が大好きな人、私の事を想ってくれる人と、一緒にいたかっただけなのに!あんなに私に良くしてくれたおじいさんだって、二年も経たずに亡くなってしまったわ……」
 絶望と諦めが入り交じった表情で、自棄になったように力無く棒立ちになる。風が吹けば飛ばされそうなその姿に、俺も心底焦る。
「でも、当然よね」
 手を伸ばそうとすると溢歌は顔にかかった前髪を振り払おうともせずに呟いた。
「だって私が殺したんだもの、あの男を。きっと報いなんだわ。だから私は幸せになれない。死ぬまでこの苦しみは続くのよ。己の手を汚した罪と一緒に」
 わなわなと震わせた自分の両手を見つめて、恨めしそうに罪の告白するその顔は蒼白で、瞳孔は大きく見開かれていた。きっとその目には、血塗られた己の手が映ってる。
 溢歌の言葉の真意はわからない。だけど溢歌は今にでも崖下に飛び込んでしまいそうなほどに錯乱してるように見える。俺が助けないと。
「溢歌!俺を見ろ!」
 震える溢歌の両手を取って懸命に叫んで、何とか落ち着かせようとする。見開かれてた目は焦点が徐々に合って、やがて俺の姿を捉える。すると目尻から一気に涙が溢れて、顔をくしゃくしゃにした。少しの間俯いてから、もう一度顔を上げて俺の目を見る。
 その瞳はとても綺麗で澄み渡っていて、奥底に溢歌の心が映ってる気がした。
 ようやく、俺は溢歌の本当の心に触れることができた。そう思えた。
「黄昏クンのおかげでまた唄えるようになって、おじいさんとお母さんのために歌を遺す事ができた。この世界でもう、私がやり残した事はないわ。ようやく救われる時が来たの。ありがとう、あなたのおかげよ。心から感謝してるわ」
 人間は誰かに心の底から感謝する時、こんなにも笑顔になれるのか。
 なのにどうして、こんなにも切ないんだろう。まるで別れを告げるようで――
 溢歌の両手がそっと俺の手から離れる。温もりが、掌に残る。
「おい、溢歌――おまえ、まさか」
 固まる俺に溢歌はうっすらと微笑むと、全身の力を抜いて風に身を任せる。急速に嫌な予感が広がって、俺は慌てて溢歌の体を後から抱き締めると、崖から離れるように後ずさった。安全な位置まで下がったのを確かめて、どっと冷や汗が体中から吹き出る。
「ねえ、黄昏クン」
 俺の腕の中に抱き留められたままの溢歌が、ゆっくりと頭だけ振り返って呟く。
「私が死ぬって言ったら、黄昏クンは一緒について来てくれる?」
 ――全身の血が沸騰した。
「馬鹿なことを言うなっ!!」
 岩場中に響くほどの大声を張り上げる俺に驚いて、溢歌の肩が大きく跳ねる。
「どうして死ぬ必要がある!?ようやくおまえは前を向いて生きる権利を得られたんだぞ!俺や青空達のおかげで!」
 抱き締めた両腕で溢歌の体を強く揺さぶる。興奮しすぎて俺の力が入ってしまったのか、顔をしかめて溢歌が懸命に腕を振りほどこうとする。
「生きる権利――?そんなもの、最初からないわよ。私の人生は自分の身の丈の倍近くある男に組み敷かれた時に止まってしまった。その日からこの世界と自分の境遇を呪わなかった日は一日もないわ。やっとその苦しみから解放される時が来たのよ」
 鋭い口調で俺に詰め寄るその顔はとても苦しそうで、重く辛い現実に押し潰されそうで、早く楽になりたい一心でいるのが伝わって来て、俺の胸が締め付けられる。
「解放って……死んだら元も子もないだろ!?さっきおまえが言ったじゃないか!何で俺達と一緒にいた短い時間の幸せを簡単に手放そうとするんだよ!!」
「あなたには決して解らないわよ!自分の父親を殺した気持ちなんて!!」
 ――時が止まった気がした。
 耳にさざめく大海原の波の音。冷たく吹き付ける風が、俺の理性を取り戻させた。
 殺した?父親を?
 不意の溢歌の告白に動けずにいる俺の腕を解いて、溢歌はワンピースの裾を翻して振り返った。興奮した表情で、肩を大きく上下させる。
「せいせいしたわ。あの男がオーバードースで苦悶の表情で呻き声を上げる様を見た時は。他人の苦しむ所を見て心の底から喜ぶなんてどんなに酷い人間だなんて頭の片隅で思いながら、口元は歓喜で歪めていた。だけど彼が事切れて床の上に転がってるのをそばで見た時、私は自分の過ちに気付いた。その場に崩れ落ちて、涙が枯れるまで泣いたわ。だってそうよ!私だってあんな事したくなかった!!だけど仕方なかったのよ!お父さんがもう昔の優しい人に戻らないって、解ってたもの――」
 せせら笑ってた溢歌の表情が涙で崩れて、力無く膝からその場に倒れ込もうとするのを慌てて受け止めた。悲鳴は涙声で掠れて、心を切り裂く。
 溢歌がずっと独りで抱えた罪。決して許されることのない過ち。
「溢歌……」
「そんな私が、のうのうと生きていていい訳ないのよ……」
 俺の胸に頭を預けたまま、溢歌が生気のない顔で消え入りそうな声で呟いた。その姿が不憫で肩に手を回そうとすると、嫌そうに身をよじる。
「分かったでしょう?私は幸せになれない。なっちゃいけないの。だから黄昏クンお願い。この腕を離して。そうすれば全てが終わる。待ち望んでいたエンドロールが訪れるのよ」
 溢歌の心からの願い。耳元で聞いてるこっちが泣きそうになるくらい切なくて、悲しい望み。だけど俺は決して叶えてやるつもりはない。
 力を込めて溢歌の体を抱き締める。それでも溢歌は崖のほうを向いて、懸命に虚空に手を伸ばした。その手が掴もうとしてるのは絶望なんだ。だから俺は意地でも否定する。
「嫌だ。絶対離さない。離すもんか」
「分かってよ黄昏クン!!あなたが私の苦しみにこれ以上付き合う必要なんてないの!」
「おまえの望むハッピーエンドはそれかもしれないけど、俺の求めるハッピーエンドはそうじゃない。おまえが隣にいないといけないんだ」
「それはあなたの勝手じゃない!だったらこのまま一緒に飛び込んでよ……!」
「おあいにくだが、俺はまだこの世界でやり遺してることがあるんだ」
 どんなに頼まれたって、溢歌の望みは聞けない。なぜなら。
「おまえにもっともっと俺の歌を聴かせなきゃいけない。俺のすぐそばでだ。そのためだけに、俺は死ねない」
「黄昏……クン……」
 そう。
 この腕の中にいる少女を助けるために、俺は生きて行くんだ。
 これまでだらしなく絶望を抱え続けて生きてきた俺が、人生で初めてこれほど決意と覚悟を決めることはなかった。
 俺は溢歌とだったら歩いていける。そんな前を向いて生きる強い希望をこの瞬間に初めて感じた気がする。
 揺るぎない決意。自分の言葉が胸に刻みつけられて、絶対の意志に変わる。その瞬間、自分の中で何かが弾けた。
 心のどこかでいつも描いてた絶望の暗闇の壁が、音もなく崩れていく。、白く開けた空間が広がる。道筋も何もない。ただ広い真っ白な空間。だけどそこに立つ俺は、この光景の意味を知っていた。
 未来、と。
「一つだけ訊く」
 胸の中の静かになった溢歌に、優しく、そして力強く問いかける。
「溢歌、おまえは俺を愛してるか」
 小さく溢歌の肩が震えた。俺ははっきりと、自分の本当の気持ちを伝える。
「俺は愛してる、おまえのことを。溢歌のことが、死ぬほど好きだ」
 好きなんだ。
「だからこの手は離さない。おまえと一緒にいたい。いたいんだ」
 告白する俺の声は強い気持ちで震えていた。腕の中で必死に愛する人の温もりを感じようと抱き締める。そして、俺の温もりも、想いと一緒に伝わってくれ。
「私、わたしは――」
 舌足らずに溢歌が呟いて、ゆっくりと顔を上げた。淡い髪の少女の泣き顔が俺の眼に映る。何度も見てる顔なのに、今この瞬間が一番愛しく思えた。
「私も、あなたが……」
 俺から目を逸らさずに、綺麗な涙を零しながら微笑む。
「好き……。黄昏クンを、愛してるわ……」
 溢歌の嘘偽りない言葉と感情が、ゆっくりと俺の心の奥深くへと染み込んでいった。


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