082.悲しみの果てに
「何だか……妙な感じだ」
こたつを片づけ直して、真っ昼間から改めて布団を敷いた。部屋の隅に移した石油ストーブのおかげで室内は多少暖かい。それでもくしゃみが出るので、俺の服は着たままだ。
「……見てるだけで寒い」
対照的に溢歌は上着を脱いで、下着一枚のあられもない姿になってる。こうして真正面から溢歌の裸体を見るのは初めてな気がする。心のどこかでこの状況をいつも待ち望んでたはずなのに、興奮してもおかしくないのに妙に冷静な自分でいるのが不思議だった。
「黄昏クンは脱がないの?」
「また風邪を引きたくない。喉の調子も考えてな」
喉元を指差して答えると、溢歌は少し頬を膨らませた。
「だけど何だろう……気持ちが乗らないわけじゃないんだけどな」
愁や和美さんの時とちがって、胸の内からどす黒い欲望の塊みたいなものが湧き上がってくる気配が全くない。そのせいか気が乗らなくて戸惑う自分がいる。
よくよく考えれば、これからずっと一緒にいられるんだからわざわざ溢歌の求めを避ける必要なんてないんだ。もちろん俺も今の状況で断る理由が全くないから、観念して溢歌の望むままに頷いた。
これまで何となしにかわしてきた部分もある。溢歌と俺の間にある絆は、体を重ね合わせなくても心で繋がってるって信じてたから。そのせいか2ヶ月近く経って再会した今、実際に抱き合う状況が訪れると混乱する。
「ごちゃごちゃ考えなくていいのよ」
こっちの気持ちを見透かして、溢歌は布団の上に座る俺の膝の上に腰を下ろしてくる。いきなり俺の視界が溢歌の顔で一杯になったかと思うと、次の瞬間唇で唇を塞がれた。
音を盛大に立てて唇の上からチュウチュウ吸ってくる。溢歌の長くしなやかな髪が俺の首筋にかかって、いきなり恥ずかしくなって耳元まで真っ赤になってしまった。
「黄昏クンって、ウブなのね」
顔を離した溢歌がぎこちない俺を見ておかしそうに笑う。桜色の唇はとても柔らかくて、押しつけられた感触がまだ口元に残ってる。
「固まっちゃってるなら、私がリードを取ろうかしら」
そう呟いて溢歌は俺の上体を両手で軽く布団の上に押し倒すと、腰の上に尻を圧しかけてきた。部屋の明かりに照らされた溢歌の素肌が綺麗に陰影を浮かび上がらせてる。
「……。」
黙ったまま、溢歌はもう一度俺に顔を近づけてきた。
「私のこと何度も襲おうとしたくせに、今日は随分と大人しいのね」
「緊張してるのも、ある」
声が上ずってる自分がわかる。しばらく今の体勢のまま固まってると、溢歌が俺の右手を取って自分の左胸に押しつけた。マシュマロみたいな柔らかい感触が掌を覆って、思わず俺の口から驚きの声が漏れる。
「これが私のからだよ。身長は低いけど、出てるところは出てるでしょう?」
そう言ってもう片方の手も取ると、反対側の胸に当てる。俺は後頭部を枕に押しつけて、溢歌の柔らかさが両手に伝わってるのを感じて、くすぐったい気持ちになった。
「ん……」
そのまま突起した部分も含めて、溢歌の胸を隙間なく堪能する。そうすることでようやく自分の中に微かな情熱の炎が灯っていくのを感じた。
溢歌の体はやや細身の愁より程よく肉がついてて、赤ん坊みたいな肌だと思った。ぷにぷにしてる。そのまま下腹部に腕を伸ばしてお腹の肉をつねってみると、ちょうどいい感じにつまめた。
「いてっ」
軽く握った拳が頭頂部に振り下ろされて、視界に星が飛び散った。
「全くデリカシーがないのね」
「普段全然恥じらいのない奴が言っても説得力ないぞ……」
女心と言うのは全くもってよくわからない。
「ほら、もっと色々触ってみて」
溢歌が体を寄せて来て、視界が影で覆われる。背中やうなじ、太股や尻に手を伸ばすと、その度に可愛らしい声を上げた。体中の色んな箇所に弱いスポットがあるようだ。
「撫でてるだけで面白い」
「ふにゃあああああ」
仔猫の首筋を撫でてる時と似たような気持ちになって、色んなところを指で愛撫するとへなへなとした声を上げて俺に体を預けてくる。何だか楽しくなってきた。
「〜〜〜〜〜〜」
足裏や耳たぶにまで手を伸ばしてまさぐってると、溢歌が声にもならない声を上げてへたりこんだ。一気に体重が圧しかかってきて重くなる。
「ひどい……青空クンはもっと優しかったのに〜」
「抱き合ってる最中に萎えることを言うな」
その言葉が本当かどうかはともかく、作った泣き顔で叫ばれてもとても困る。こいつはホントに俺とSEXする気があるんだろうか。
溢歌が起き上がるまで待ってるとゆっくりと上体を起こして、俺の腰の上で自分の下腹部をさかりのついた犬のように擦りつけ始めた。
「コラ、染みがつくだろ」
「だったら脱がせましょうよ」
そう言うと溢歌は腰を離して、俺のズボンを下着ごと一気にずり下ろす。素肌が外気に晒されて寒さを感じる下腹部に、溢歌の柔らかく冷たい指が触れて背筋がぞくっとする。
「前々から思ってたけど、おまえあんまり体温高くないな」
「擦り合わせればすぐ温かくなるわよ。言ったでしょう?たいまつみたいだって」
舌舐めずりして魔性の笑みを浮かべてみせると、溢歌は手早く俺の分身を片手で擦り上げてきた。萎え気味だった俺の気持ちが肉体の接触で一気にいきり立つ。
「この固さといい肌触りといい太さといい長さといい、青空クンとそっくりね」
「だから萎えるようなことを言うなって」
俺のほうが青空より身長が低い分、比率は違うのかとアホな想像をしてしまった。
「大丈夫よ、これから精が尽きるまで萎れさせないから」
そう言って溢歌は不敵に笑うと、指で俺のを摘んで腰に全体重をかけた。愛する人と繋がっていく快感に意識が持って行かれそうになるのを懸命に堪えると、溢歌はうっすらと微笑んで俺を完全に包み込むまで腰を下ろして、切ない声を上げて全身を震わせた。
最初はゆっくりと、徐々に早く、ひねりや焦らしを加えたり腰を自在に使って、優しくそして強く俺の意識を抱き締めてくる。
溢歌と繋がってる。心の奥底でずっと望んでてとても嬉しいことのはずなのに、そんな喜びを噛みしめる暇もないほど溢歌は激しく俺を求めてくる。あまりの快楽に布団の上で身悶えてる俺を艶めかしい目で見下ろして、挑発してくる。差し出された両手の指と指を絡めて、ディープキスをせがむ。求められるままに口を開けると、すかさず舌が割り込んできて思わず息が詰まった。溢歌はぎらつかせた目を見開いたまま、唾液の味を愉しんで激しく俺の上で踊る。その姿はまさにさかりのついた雌猫そのもので、俺は抵抗する余裕も持たずに果てた。
「あら、早いのね。愁ちゃんはこんなに上手じゃなかった?」
名残惜しそうに俺の唇から顔を離すと、溢歌はつまらなさそうに俺を挑発してくる。繋がったままの腰を何度も動かすと、快感が全身を駆け上がって俺の意識と関係なく背筋が跳ね上がる。
「そうよね、私がいない間、ずっと溜まってたんでしょう?黄昏クンは一人で自分を慰めるなんて真似、あまりする人に見えないものね。いいわ、私が黄昏クンの中に溜まってたもの全部吐き出させて、飲み込んであげるから」
そんなセリフを吐く溢歌はまるで高級娼婦のようで、小柄な外見からは想像もつかないアンバランスさが俺のどす黒い部分を呼び覚まさせる。
「あっ……いきなり、激しくなったわね……」
嬉しそうに笑うと、溢歌は再びゆっくりと腰を動かし始めた。
耳元にかかる相手の吐息が暖かい。冬だと言うのにじんわりと全身が汗ばんでくるのがわかる。とても静かな広い一軒家の空間を、石油ストーブのやかんの湯気とぶつかり合う身体の音、そして甘く乱れた嬌声が支配していた。
溢歌の乱れ方は、和美さんの床上での姿を彷彿とさせる。大人の女性と言うか、性欲を満たすことに何ら恥ずかしさを感じてないような、そんなあられもない行為を目の前でいとも簡単に繰り広げる。それこそ気を抜いたら呆気なく昇天してしまいそうなほどに。
こんなに激しいSEXを俺は体験したことがなかった。リードしてるのはずっと溢歌だ。言われるがまま、なすがままに体を愛撫して、腰を振ってる。青空と一緒に過ごしてた時は、毎晩こんなふうに身体を求め合ってたんだろうかって思うと、少し青空に同情した。
ステージの上でもこれほど疲れたことはないって感じるくらい、何度も溢歌に向けて精を吐き出す。その度に溢歌はいやらしい笑みを浮かべて、指の腹を嬉しそうに舐め回すのだ。その目は燦々とぎらついて、一匹の雌猫としか言いようがなかった。
溢歌は俺とこんなSEXを望んでたのか?
もちろん俺も溢歌と繋がりたいと思ってた。だけど望んでたのは、こんな獣じみた欲望に身を任せるようなものじゃない。もっと心と心の芯同士が重なり合ってるような――
ふと愁の笑顔が脳裏に浮かんで、思わず目尻が弛んでしまった。
クリスマスイヴ、愁はあんなに幸せそうに俺を抱き締めてくれたのに。
「いきなり泣かれても困るわ」
ぼやける視界で天井を見上げてると、いきなり視界を溢歌の顔が覆った。横髪が俺の顔にかかってくすぐったい。
「そんなに主導権取られて悔しかったかしら」
「……まあ、それでいい」
おそらく溢歌も冗談で言ったつもりだろう。だけど俺も自分の胸の内を見せるつもりもなかったので、そう納得してもらうことにした。溢歌は怪訝そうな顔で俺を見下ろしてる。
近くで見るとホントに妖精みたいだ。人形みたいな円らな瞳の大きさと、白い肌が浮き世離れした印象を与える。それでもこうして繋がってて、重さも感触も直接感じる。今この瞬間が現実だと思うと、独りでいたこの二ヶ月も短く感じられた。
「ちょ、ちょっと」
上体を起こして、溢歌の体をぎゅ〜っと抱き締める。耳元で騒ぐ溢歌の顔はきっと真っ赤になってることだろう。愁よりも少し小さな体。だけど胸は押しつけると顔全体で感触を味わえるくらいある。最初は冷たかった肌も、まさにたいまつのように火照って赤みを帯びてた。この温もりが、溢歌の存在を確かなものにしてる。柔らかい髪の毛も朝に入った風呂のシャンプーの残り香なのか、とてもいい匂いでいつまでもそばで嗅いでいたい。
「ひゃう」
溢歌の首筋で鼻筋を立ててたら、耳たぶを濡れた舌で舐められて裏返った声を上げてしまった。ようやくハグから解放された溢歌がこっちを睨んでくる。
「ようやく私を抱けて嬉しいのはわかるけれど、あんまり強くされると壊れちゃうわ。本当なら噛んでやりたかったのに、舌しか届かなかった」
すまないと謝る。繋がってなかったら、きっと股間を素手で握り潰されてたに違いない。
ため息をつくと俺は枕に頭を預けて、続きを再開しようとする溢歌に声をかける。
「なあ、溢歌」
「何?こんな時に改まって」
少し悩んだものの、気になってしょうがないので正面から訊くことにした。
「どうしてこんなにSEXが上手なんだ?俺とおまえが最初に会った時から、何だか他の女の子と違う感じがしてた。子供っぽいとこも持ち合わせてるくせに、どこかやけに大人びて達観してると言うか――」
「年端に似合わず何でこんなに男を悦ばせる事に手練れているかって事かしら?」
「あんまりはっきりと答えられても、こっちが困るんだが……」
「あら黄昏クンが困る理由はどこにもないわ。あなたの言葉は事実だし、否定するつもりもさらさらないもの」
腰の動きを止めた溢歌があっけらかんと問いに答える。
「ただの好き者だって言ったら、納得する?」
「そりゃまあ、確かにそう言う一面もあるんだろうなと思う……」
でなきゃ、喜んで俺に尻を突き出して誘惑したり、今みたいに俺の上で動き回ったり、股ぐらに顔を埋めて呆けた顔で卑猥な音を立てたりしないだろう。
溢歌は首筋に両手を回して背中にかかる髪を軽く整えると、真面目な顔になった。
「気付いただけよ。襲って来る快感からわざわざ逃げる理由なんてどこにもないって事に。この行為の一体何が嫌なのかって考えるだけで馬鹿らしくなるの。自分のいくつもいやらしい所を愛撫するとお腹の下らへんが熱くなって、男の匂いを自然と求める。それのどこがいけないのか、誰にも非難される言われはないもの」
そんな大人の女性じみた発言があどけなさの残る溢歌の口から出ただけでもアンバランスなのに、当の本人は至って気にしてない様子だ。
「随分と自虐的なんだな」
「別に生娘である事、汚れていない事に羨望なんてないだけよ。黄昏クンだって生涯一人の女性に尽くしてる訳じゃないでしょう?」
そんなふうに言われると反論のしようがないけど、言い返す。
「そんなに自分が汚れてるのを簡単に受け入れるのか?」
もちろん人間は生きていく上でいつまでも純粋じゃいられない。年月と共に色んな経験をして、心に傷を作っていく。だけど自分が汚れた人間だなんて非難しながら生きるような年齢じゃないだろ?溢歌は。
「黄昏クンは、初めての相手は誰?」
いきなり投げかけられた不意の質問に戸惑うも、正直に答える。
「俺か?俺は……小学校の先生だった」
――今、確実にこの部屋の時が止まった。
俺の予想外の答えに溢歌は目を丸くしてきょとんとしてる。愁に話した時も同じリアクションだったのを思い出して大きくため息を吐くと、しょうがないから簡潔に説明した。
「アハハ、それって童貞奪われたのと同じじゃない」
お腹を抑えて盛大に溢歌が笑う。そりゃ当然か。溢歌と抱き合ってから今が一番恥ずかしい思いでいた。もうこの話題は二度と人に聞かせてなるものか。そう固く心に誓った。俺の一番のトラウマになりそうだ。
「ふふ、でも私も似たようなものよ。大人の力で無理矢理押さえつけられたんだから」
頭を抱える俺の上で笑って呟く溢歌の言葉に、思わず固まった。そんな俺を見て溢歌が破顔する。
「いいのよ、もう昔の話なんだもの。いつまでも引きずっていても仕方ないわ。黄昏クンだって笑い話にできてるんだもの」
いや、そんな笑って済ませられるような内容の話題じゃなかったろ、今の……。
絶句してる俺をよそに溢歌は肩をすくめて、遠くを見やった。
「名前も知らないお金持ちの初老の男だったわ。私の体を売ったのよ、あの男が。自分の欲望だけ満たすためにね」
「それって……どういう……」
その後の言葉が続かない。明らかに溢歌の深い心の闇となってる部分に、簡単に触れていいものかどうか?素早く頭の中で自問自答し続ける俺に、溢歌は視線を落とす。
「性のしくみもわからない少女が、自ら進んで男に抱かれるなんてする訳ないでしょう?変態的な嗜好の連中が、私の体を頭のてっぺんから爪先まで慰みものにしていったのよ」
その言葉を聞いた刹那、目の前に映像が映し出されて、一気に気分が悪くなった。急速に萎えて、溢歌と繋がってた部分が外れてしまう。
「千夜……みたいなもんか」
この前の千夜の事件を思い出して、胸糞悪くなる。あの時溢歌は言ってた。
『世の中には殺したいほど憎む相手も存在する。その事は覚えておいた方がいいわ』
小さな頃からそんな連中ばかり相手にしてきたとも。あれはこのことについてなのか。
「黄昏クンのバンドのその子とは違うわ。突発的に犯された訳じゃないもの。私もその状況を子供心に受け入れていた。自分の境遇を何度も呪ったけれど、思い返したところで何も変わらないのは解っていたわ。だから自分を慰めるのが癖になったんでしょうけれどね」
溢歌は冷静を努めて答える。この家で独りぼっちになった後、それこそ数え切れないくらい何度も自分の体を慰めてたんだろう。何も考えられなくなるまで。自分の過去から逃れるために、頭の中を空っぽにして。
独りで自分のために歌い続けたのとは俺とは違う形の、最後の自衛手段。もしかして歌や音楽を極端に嫌う理由も、そんな溢歌の過去と繋がってるのか?
詮索したくなる気持ちを懸命に堪えて、俺は上体を起こす。溢歌もSEXを続けるムードじゃないとわかったのか、俺の上から退いてそばにある毛布を肩から羽織った。
「そのおかげで、こんなにすれた女の子に育った訳。あ、だからと言って近親相姦とかそーゆーのはナシよ。そこまでされてたら、とっくに自殺してるわ」
おちゃらけて言うその顔から悲壮感は感じないものの、聞いてるこっちが顔をしかめる。
「……今思えば、そこがあの男の最後の一線だったのかしらね。それでも私を人間不信にするには十二分過ぎる程だったわ。私の人生は、あの男に狂わされたようなものよ」
あの男――
きっとそれは、溢歌の本当の父親のことなんだろう。これまで溢歌は少しずつ俺に自分の育ちを教えてくれたものの、その人に対しては極力話題にしないように努めてた素振りだった。そこまで憎んでる――本当の理由は俺にはわからない。
溢歌は俯き加減に膝元に視線を落として、ぽつぽつと言葉を続ける。
「欲しいものは何でも買ってくれた。好きな歌だってたくさん歌わせてくれる場所をくれた。でもあいつらが欲しかったのは小さかった私の体よ。有名な歌手の娘を自分の思い通りにしようと思って、私をお人形か何かと思って弄んだわ」
「溢歌……」
敷き布団の毛布を両手で強く握りしめる。歯ぎしりがここまで聞こえてきそうなほど、険しい表情で両目を見開く。その瞳はとても濁り切って、俺の姿は映ってなかった。
「だからあの日、仕返ししてやったの。私の体を薄汚い大人達に売ったあの男を。いい気味だわ。あの男が苦悶の表情で呻き声を上げるのを、私は扉の隙間から冷ややかな目で眺めていた。最期にあの男は扉の向こうにいる私に気付いて名前を呼んだわ。だけど私は何もしないでただ苦しむ姿を見ていた。事切れた時、とても清々しい気持ちだったわ。やっと解放されたと思った。でも、私の帰る場所はもうなかったのよ」
「溢歌!!」
俺の呼び声で、ヒステリックに言葉を並べ立てる溢歌の体が跳ねた。我に返ったようで、頭を上げたその顔に乱れた髪がいくつもかかる。蒼白になったその顔に血の気は流れてなくて、まるで一気に何十歳も年を取ってしまったような、老婆みたいな印象さえ受けた。
そばに近寄って、顔にかかった髪を後に梳いてやる。安心するように肩に手を置くと、溢歌は背中を丸めて両肩を軋むほど強く抱き締めた。
「ごめんなさい……。でも、抑えきれないの」
折り曲げた膝の上に、涙の雫が零れ落ちる。ひとつ。ふたつ。生足を伝ったその涙は毛布を濡らして、染みを作る。溢歌の口から漏れる言葉は震えて、涙が交じっていた。
「どんなに辛くたって、あの人がいれば何とかなると思ってた。だけどどうして、私を置いて行っちゃったのよ……そんなにお母さんを愛していたの?私じゃお母さんの代わりにならなかったの?どうして、私の目の前でどうして……ねぇ、ディガー……」
そのまま足下に額をつけるほど崩れ落ちて、溢歌は大声で泣き出した。まるで赤ん坊のように純粋で、堪りきった感情の堰を切って出た想いが止まらなくなって、洪水のように広がっていった。
「おい、今の名前……」
最後に呟いた言葉の意味を尋ねようと、布団に顔を埋めて言葉にならない声で泣き喚く溢歌の肩に手を置くと、ほんの少し嗚咽が収まった。しょうがなく俺は溢歌の後に回り込んで、背中を優しくさすってやる。そのまましばらく泣きじゃくった後、溢歌はようやく上体を起こして俺のほうを向いた。目元が真っ赤で、涙が伝うほっぺが泣き腫れてる。
「ごめんなさい、このまま少し眠らせて……そばにいてくれるだけでいいから……」
とても疲れた様子で溢歌は泣き声で呟くと、俺に肩を預けて目を閉じた。精も根も尽き果てたようなひどい顔で、見てるだけで俺は何としてもこの少女を絶対に守らなきゃいけないと心に誓った。
「ああ、わかったよ、溢歌」
気になることは一杯ある。でもそれらは一つ一つ解決していこう。溢歌が打ち明けてくれるその時を待って、俺も泣き疲れて眠った溢歌と一緒に布団の中へ潜り込んだ。