→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第3巻

   081.最後の一日

「溢歌!」
 堤防を降りた波止場で見慣れた後ろ姿が目に入った時、俺の口は勝手に開いた。
 柔らかな夜風に豊かな髪をなびかせて振り返るその姿は月明かりに照らされて、まるで月から降りてきた妖精のようだ。
「こんな夜中にそんな大声出すものじゃないわ」
 本当に久しぶりに会ったと言うのに、この少女は何の感慨も見せずにしれっとした顔で俺をたしなめてくる。興奮して周囲に響き渡るくらいの大声で呼んでしまった。
「悪い。つい嬉しくなって」
 胸の鼓動が高鳴ってるのがわかる。まるで初恋の人を相手にする中学生のような感じで心の中で苦笑する。
「いつ帰ってきてたんだ?」
 抱きつきたくなるほどの興奮を抑えて溢歌に尋ねる。そんな俺とは対照的に落ち着いた態度で、いつもより比較的温かい潮風で顔にかかる長い髪を払いのける。
「今日よ。ついさっき。思っていた以上に時間がかかったわね」
 戻って来るまでの膨大な時間にため息をつく。どうしていなくなったのか、すぐにでも理由を問い質したいのを飲み込んで、気持ちを落ち着かせようと俺も深呼吸をする。
「話せば長くなるわ。もう少し夜風に当たって、家に戻ってからにしましょう」
 俺の顔を見て察したのか、向こうから切り出される。俺は頷いて溢歌の隣に立った。
 一年で一番寒い日が続くこの季節、雪が降ることも多くてバイクを走らせることすらままならない時期。冬場は向こうに見えるいつもの岩場に足を運ぶことはない。打ち付けられる海水が凍って滑りやすくなり過ぎて危険だからだ。
 それを溢歌も承知してるのか、港場から水平線を眺めてる。俺のあげたジャケットを羽織ってて、冷えた手をポケットの中に入れようともしない。溢歌は何も言わずに、ただひたすら眼前に広がる月明かりの下の薄暗闇が覆い尽くす大海原を見つめてる。
 溢歌のその目に映るものは、どれも純粋に見えるのか、濁ったものに見えるのか。
「世界が綺麗だなんて誰が言ったんだろうな」
 ふと、そんなことを呟いてみる。
「綺麗も汚いもないわ。あるのはただ、純粋な欲望だけ」
 溢歌は俺の顔を一瞥して、素直な気持ちで言った。 
「人の願いも、薄汚い強欲も、何かを求める心は同じよ。動物も人間も同じ。世の中はそれで成り立ってるの。善悪や自他を判断するのはいつだって人間」
 言われてみればそんなものだ。ただ、そんな世の中の仕組みを悟ったところで、何が変わるのかと言われると実のところ変化もない。哲学で堂々巡りな答えを探しても、現実を生きる上で何が通用するのかと言われると、とっさに出てこないのが実情だ。
「溢歌の願いは何だ?」
 とても単純で、あまり訊いたことのない質問が口を突いて出た。
「私の願いは、もう全て叶ってるわよ」
 少し間を置いて、いつになく優しい声で答える溢歌。
「ホントに?」
「ほんとよ。禊ぎも終わったし、私を縛り付けるものは全部なくなったわ。むしろ心が軽すぎて、ふわふわしてて現実感がないみたい。隣には黄昏クンもいるしね」
 いざそんなことを言われると思わず顔が赤くなる。ウブすぎるぞ、俺。
「ハッピーエンドが知りたくて、ずっと生きて来たのよ、きっと」
 北斗星の見える夜空の星を見上げて、溢歌は白い息と共に呟く。
「終わることで得られる救いってあると思うの。それは私がこれまでの人生で出会って来た人達が、教えてくれた。それがどんな悲惨な死に方だとしてもね。暗闇しか見えなくなった私も、同じ救いを求めてたのよ。だけど、今も私はここにいる。どうしてかしら?」
「そりゃ、俺が助けたからだろ」
 初めて出会った時の頃を思い出して、苦笑する。出会った瞬間崖から身を投げるなんて、あれより衝撃的な経験はないんじゃないかとさえ思う。
「そうね」
 俺の顔を見て溢歌も顔をほころばせる。
「出会いって不思議なものよね。人生が広がるって言うのかしら、初めての経験を幾度となく与えてくれる。その人と出会って、人生の道標が大きく変わる事だってあるわ」
「当然のことだけど、よくよく考えてみると怖いよな」
 そして、とてもワクワクする。俺がバンドをやってるのも青空と再会したからで、全てはあの日から始まって、今この場所まで繋がってる。バンドを始めなければあの岩場の存在なんて知る由もなかったろうし、こうして溢歌と巡り会うこともなかった。
「何がきっかけで人生が変わるなんてわからない。そう考えると俺がここにいることさえ偶然に思える。まるで誰かが書いたドラマの脚本みたいだ」
「もし本当にそうだとしたら、私はその人を呪い殺すわよ」
 溢歌の顔は笑ってるけど、声は真剣そのもので寒気がした。
「私の苦労も知らないで……って言いたくもなるわ。でも、もういいの。過去はようやく、過去になったのよ。どれだけ目の前を記憶が横切っても、私の体と心はここにあるわ」
 胸にそっと手を当て、ここにいる喜びを噛みしめてる。その姿を見てるとこっちまで胸が熱くなってくる。
「溢歌が過去を清算するのに、何の役にも立てなかったのが残念だけどな」
「そんな事ないわ。私が私に決着を付ける事ができたのは、みんな黄昏クンのおかげよ」
 残念そうに呟いてみると、すぐに溢歌が俺を元気づけてくれる。そう言われても俺は何もしてない。した事と言えば愁と溢歌の二択で溢歌を選んだことだけだ。
 この世のどこかに平行世界とかあるとするなら、あの時愁を選んだ俺が存在するのかな。なんてくだらないことを時折考えてみたりする。
「そろそろ戻りましょう。何だか疲れちゃったわ」
 久しぶりに観た海に十分満足したのか、溢歌が一足先に早々に引き上げる。もう一度岩場の方を眺めてから、俺も溢歌の背中を追った。
 先を行くその背中に声をかけようにも、言葉が出てこなくてもどかしい。とりあえず、いつものように俺から質問を投げかけるのはなるべく控えておくことにしよう。
 しかし溢歌の姿を見ただけで、さっきまでの悩みが全て吹っ飛んでいく感じがするのが妙に面白おかしかった。今の俺は、溢歌がそばにいないと何にも上手くいかないみたいだ。
 溢歌の家の電気がつけっぱなしになってたのは、先に戻って来てから気分転換に海を眺めに行ってたのか。お邪魔させてもらって、さっそく流し台でうがいをした。
「声が少しおかしいけれど、風邪でも引いたの?」
「そんなとこ。後でちゃんと説明するよ。おまえがいない間に俺にも色々ありすぎた」
 指摘されて、口元を吹いてため息をつく。正直この二ヶ月近くはあんまり振り返りたくない。もう一度愁と話せたことが一番良かったことのように思える。
「それは明日にでも聞くわ」
 溢歌はそう言い残すと、居間のテーブルを畳んで布団を用意し始めた。
「もう寝るのか?」
「疲れてるって言ったじゃない。そう言う黄昏クンも酷い顔してるわよ」
 言われてから自分の顔をさすってみて、近場の鏡を覗きこむ。確かに、ずいぶんと疲労の色が濃い気がした。最近まともな食事もしてなかったし、精神的疲労が大きいからか。
「帰ってきてから何か食べたのか?」
「何にも。朝になったら好きなもの作ってあげるわ」
 それだけ言うと溢歌は居間の明かりを消して、敷いた布団に潜りこんだ。俺以上にマイペースすぎる。かく言う俺も今日は相当疲れてるので、溢歌が寝る以上俺も無理に起きてる必要がない。コートと靴下を脱いで素足を風呂場で洗いに行く。ボロ家でも熱いシャワーくらいはすぐ出るので、洗いながら足の裏をマッサージして多少疲れをほぐしておいた。
 居間に戻ってくると、溢歌の小さな寝息が聞こえてくる。荷造りされた手提げカバンが廊下の隅に置いてあって、戻ってきてから片づける気力すらなかったみたいだ。玄関の鍵をかけに行って、押入で適当な寝間着を探した。
 溢歌が寝てる布団へ俺も潜りこむ。普通の布団サイズだから、正直狭い。俺の部屋のベッドは少し横幅があるので、愁と一緒に寝ても特に問題ない。
 クリスマスライヴの夜、溢歌を家まで送って行った日のことを思い出す。結局こいつとは何度か体を重ねる機会があったのに、これまで一度もしたことがないんだっけ。
 よりによってみょーの彼女の和美さんと寝てしまう方が先と言うのが、俺の心をかなりへこませた。ただのスケコマシにしか見えない自分が、やっと再会できた溢歌への愛情が本物なのかどうか疑問に感じてしまうのが怖い。
 とは言え、ぐっすり眠ってる相手に手を出す真似もしたくなかった。
 起きたらいなくなってるのがこいつの常套手段だけど、ケリをつけてきたってこいつの口から出たんだ、それを俺が信じてやらなきゃどうする。
 抱き締めてやりたくなる気持ちを抑えて、明かりの落ちた部屋で溢歌の寝顔を見てると幸福感に包まれて、俺も一気に夢の中へ落ちた。
 喉の痛みなんか忘れて、夢の中だと俺は喋りまくる。自分の声が出ることを無性に喜んで、歌いまくる自分がいる。目覚めると元に戻ってることを自覚しながら、それでもスタジオに入って懸命に歌を唄う自分がいるのはひどく滑稽で、どれだけバンドのことを本気に想ってるかを自覚させる。たまに千夜もドラムを叩いてたりして、安心する。そんな思い描いた世界が現実になればいいのにって、心から願う。
 そんな想いで青空の歌を唄ってると、思わず涙がこぼれそうになる。
 暗闇の中で目が覚めて、枕を大粒の雫で濡らしてる自分に気付いた。
「!?」
 目尻の辺りに妙な感触があって、驚いて悲鳴をあげそうになった。声は出なかったものの、喉に鈍い痛みが走る。顔をしかめたまま視線を目尻の方に向けると、真っ暗で何も見えなかった。あまりに暗いのでおかしいと思って体をよじると、物音と共に薄暗い部屋が視界に飛び込む。
「大丈夫?」
 どうやら溢歌が俺の顔を覗き込んでたらしい。目の前に上体を起こした溢歌の姿が見えた。俺も布団から上体を出して、大きく息をつく。
「何だかうなされてたから。ちょっと様子を見てみたのよ」
「かと言って涙を舐めることはないだろう……」
「バレてた?」
 溢歌が赤い舌を出す。変な感触だったから推測で言ってみたものの、実際にしてたとは。大きくため息をついて枕を触ってみると、自分の涙で結構濡れてて冷たかった。これだとすぐに二度寝できないので、もう一度ため息をついて枕を畳の上にどける。
「まさか泣いてるとは思わなかった」
「悪い夢でも見たの?」
「むしろその方がありがたかったかも」
 悪夢の後だと現実に戻って来た時に救われた感じがするけど、いい夢だと現実に落胆させられる。思い通りにいかない自分を自覚させられて、余計に辛い。
「悪いな、起こしちまって」
「ううん、いいの。すっかり目が覚めていたから」
「暗いけどもう朝なのかな……?寝たのも随分早かったしな」
 強制的な夢の中断で目覚めが悪くて疲労も幾分残ってる気はするけど、眠気はそれほどでもなかった。それよりもちょっと寒い。暖房すらつけずに寝てしまったからか、布団を被ってても寒い。
「寒いな。和室だからそう感じるのかな」
「フローリングの方が床が冷たいと思うわよ」
 冷静に返されても困る。とりあえず、もう一枚被せる毛布でも出そうかと思って立とうとすると、先に溢歌が布団から出た。
「お風呂沸かして来るわ。少し時間がかかると思うけど」
 何だかすっかり二度寝する雰囲気じゃなくなってしまった。俺もトイレに行って用を済ます。トイレから出たら、ちょうど風呂場に湯を張り始めた溢歌と鉢合わせになった。
「何か食べる?」
「まだそんな気分じゃない。日が昇り始めてからでいい」
 部屋に戻って来ると、やっぱり寒い。暖房をつけてない俺の部屋よりも明らかに寒い。そのまま押入から毛布を出して、布団の上で雪ん子みたいにくるまる。
「温めてあげようかしら?」
 そんな俺を見て、溢歌が隣に座って俺の毛布を半分奪い取った。体が密着して、多少暖かい気はするけど眠気で頭が働いてないのでよくわからない。
「雪山で遭難した登山者じゃないんだから」
 我ながらおかしな格好をしてる。横になると眠気が来そうなので、体育座りでいい。
「ふにゃ〜」
 猫のような奇声を上げて溢歌がもたれかかってくる。そのまま抱きつかれるような体勢で、敷き布団の上に身を投げ出した。
「こら、猫かおまえは」
 俺の胸元に頬を擦りつけて、気持ちよさそうに喉を鳴らしてる。多少恥ずかしいとは言え、おかげで体が温かくなる。
「わっこら、ちょっと、止めろって」
 そのまま俺の足に躰を絡めて乾布摩擦みたいに擦り合わせてくる。寝間着越しの柔らかい肌に思わず変な気分になってくるものの、溢歌は構わず体を温めようとした。
「何だ、その……おまえはもうちょっと恥じらいってものを持ったほうがいいぞ」
 おかげさまで俺のほうも一気に耳の先端まで熱を帯びてしまった。他に誰もいない自宅ですることに一々文句をつける俺も滑稽だが。
「まるでたいまつみたい」
 上気した顔で嬉しそうに溢歌が呟く。
「このまましてもいいのよ?」
「起きたばっかりでできるかっつーの」
 誘惑を振り切って、朝飯が何かないか台所へ確認しに行く。誘いはとてもありがたいけど、頭の中が最近の騒動でごちゃごちゃしててそんな気分になれない。
 あれだけ待ち望んだ溢歌が目の前にいるのに、何をためらってるんだと思う。溢歌のほうも毎回本気で誘ってるんだろう。普段の言動から冗談に見えてしまうのが玉に傷か。
「しまった、何もない」
 当たり前か。溢歌がいなくなった時に冷蔵庫の中にはほとんど何も食べる物は残ってなかったような記憶がある。戸棚にあるほっといても日持ちする白米と海苔くらいか。そう言えば書き置きと一緒に置いてあったのは俺へのおにぎりだった。こないだ愁の差し入れも食ったけど、比べると形は溢歌の握ったほうが上だった。愁のも悪くないけどまだ握り慣れてないのか、具だくさんでばらつきがあった。それが微笑ましくもある。
「……陽が昇ったらパン屋にでも行くか」
「私は和食派よ」
「――誰も聞いてない。そもそもおまえ、生まれはどこなんだ?」
「どこって、この国よ。物心ついてからはずっと海外に住んでいたわ」
「初耳だ」
「そうだったかしら?青空クンには伝えたかしらね。忘れたわ」
 何でそう大事なことをいつもあっけらかんと話すんだおまえは。
「和食好きなのはその反動か?」
「単に美味しいのよ、こっちの方が。向こうでも和食ばかり食べていた気がするわ」
 ますますこいつの育ちが謎すぎる。
 昼と晩飯の分を今の内に炊いておこうと、溢歌が流し台で白米を洗い始めた。早朝の冷や水さえおかまいなしに洗うそのたくましさは、とても母性的だと後姿を眺めて思う。
 そして風呂が沸いたら、前回と同じような一緒に入る入らないのくだらないやり取り。
「昨日は入る気力がないくらい疲れてたものね。遠出は辛いわ」
 リビングの和室で髪をドライヤーで乾かしながら呟くその姿は俺より年下とは思えない。
「どこへ行ってたんだ?」
「そういう野暮ったい事は、落ち着いた後に話しましょう?久しぶりの実家なんだからのんびりしたいわ」
 俺の問いをさらりとかわして、溢歌は布団を畳んで部屋のふすまに立てかけてあるこたつを組み立てる。肩をすくめて、俺も手伝った。
「嗚呼……平和ね……」
 暖房を入れたこたつに入って、だらしのない顔でほっぺをテーブルにくっつける。あまりに無防備すぎて見てるこっちが吹き出しそうになるけど、俺もそんな久々の平和を実感して、同じように背中を丸めてこたつでぬくぬくした。
 言葉を交わさなくても、同じ空間に一緒にいるだけで得られる幸せ。バンドを始めた時に青空と一緒に過ごした日々のことを思い出して懐かしくなる。
 昨日まであれだけ独りで悩んでたのが嘘みたいに吹き飛ぶ。何も解決してないのに。癒される感覚を味わうのは随分と久しぶりな気がした。
 落ち着いてから朝食を買いに駅前のほうへ歩いて行くと、適当なパン屋を見つけたので店内に入って色々買う。今日は幾分温かいけど風が強くて、歩いてるだけで溢歌のボリュームのある髪が顔にかかってうざったそうな表情を見せてた。
「嫌なら切るか後に括ればいいのに」
「髪の毛を留めるのが嫌いなのよ。いつでも自由奔放でいたいわ」
 よくわからない返しをされる。そのつかみどころのない溢歌の会話が懐かしくて、つい顔が綻び出す俺がいる。中身のないくだらないやり取りをしてるだけで楽しくて、パンを買って帰宅するまでパンの種類やら味やら最近の気候やら天候やらずっと話を続けた。
「菓子とか食わないのな」
「普段から間食する習慣がないだけよ。色んな事を考えているだけであっと言う間に時間が過ぎるもの。生き死にの事ばかり頭にある癖に、身近にある食べる喜びを無意識に求めている自分に苦笑する時もあるわ。生き物の即物的な欲望かしらね」
 再びこたつでぬくまりながら買ってきたばかりのパンを頬張りつつ、溢歌との対話の時間を楽しむ。前々から感じてたけど溢歌は俺と結構似たような考えかたをする。育ちから来る価値観の違いはあっても、根っこの部分は俺や青空と同類だ。
 だからこそ互いに求め合って、そばにいない時でも信じ続けることができたんだろう。
「食べ終わったらちゃんと歯を磨きなさいよ?」
「そんなこと言われても俺の分なんてないだろ。どうせすぐ昼食なんだし」
「取り置きの分があるわ。女の子にキスする時くらいはエチケットに気をつけないとね」
 どう反応していいのか困った。朝食を食べ終わって少し膨れたお腹をさすって、とりあえず昼飯の時間まで畳の上に寝転ぶ。冷たいフローリングの床と違って暖かみを感じるのはこの国に産まれた習慣なのかな。
「そういやおまえにもらったギター、ありがたく使わせてもらってるよ」
 不意に言ったお礼に驚いたのか、溢歌は少し驚いた顔をしてから表情を緩めた。
「私には使えないものだったから、良かったわ。本当ならあのままずっと棺の中に入れておくつもりだったけれど。……何驚いた顔してるの、例えよ例え、ギターケースのね。まさか私がお墓の中から掘り返したとか思ってなかったでしょうね?」
 溢歌のことだからやりかねないと少し思ってしまった。
「なあ、溢歌」
 一つ咳をついて体を起こすと、改めて真面目に話を切り出す。
「何よ、名前で呼んじゃったりなんかして」
「あのギターは一体何なんだ?いや、訊き方がおかしいか。一体誰のギターなんだ?それにどうしてあんなに俺達のバンドの演奏に合う音色を奏でるんだ?それこそまるで最初からお膳立てされてたみたいに、俺に用意されたんじゃないかって思えるほどしっくりするギターだった」
 少し首を傾げたままこっちの話を聞いてる溢歌に構わず続ける。
「イッコーも気になることを言ってたし……もしかして、突然いなくなったのもこのギターと関係があるのか?そのギターをくれたおまえの父親って一体何者なんだ?ギターを演奏できないおまえがどうしてこんな質の高い楽器を、ただのプレゼントのために譲り受けたのか?俺とおまえが出会わなかったら、表に出す機会もなかったんだろ?」
 矢継ぎ早に質問を浴びせかけたので、少し溢歌も混乱してるかもしれない。それでも一つでも答えが欲しくて溢歌を真っ直ぐに見据えてると、観念したようにため息を吐いて、参った顔で頭を指で掻いた。
「話したくないこともたくさんあるけれど……私がしばらく留守にしてた理由とも、少し繋がっているから、かいつまんで話しておくわ」
 その言葉に思わず身構える俺をよそに、溢歌は席を立ってお茶を急須に淹れ直しに台所へ戻って行った。相変わらずのマイペースっぷりに腰が砕ける。俺も一旦用を済ませてから、溢歌の話を聞くことにした。
「あのギターは、私のお父さんから直接手渡されたものって、前に言ったわよね」
「母親の再婚相手――だよな?」
 込み入った話になりそうで内心後悔しつつも、溢歌の話に耳を傾ける。
「ええ。あの人は、私にとても良くしてくれたわ。一緒に暮らしていた訳じゃないから、共に過ごした時間はそれほど多くはなかったけれど」
「それは海の向こうでの話か?」
 俺の問いに溢歌は小さく頷いて、手元の湯飲みから湯気の立つ緑茶をすする。室内には石油ストーブの音と、その上に乗せてるやかんの蒸気音が響く。
「お母さんが前の男と離婚する時に、私は後者の方に引き渡されたのよ。母親は私をそばに置いておきたかったけれど、とても忙しい人だったからほとんど一緒にいられないことも子供心に解っていた。それに、あの頃はあの男の事が私も大好きだったし、一人にしたくないと思っていたから」
 溢歌の瞳は切なさに満ち溢れて、遠くを見つめてる。
「その3人は、今は?」
 俺の問いに溢歌は静かに首を横に振った。
「いないわ、もう。誰も引き取り手が無くなった私を囲い込もうとする下賤な連中も何人もいたけれど、海の向こうから会った事もない私のおじいさんから連絡が来て、救われたの。その橋渡しをしてくれた人への恩返しが、昨日まで私のいなくなった理由よ」
 また新しい登場人物が出てきて、俺は少し面食らった。
「それくらいのことなら先に言っておいてくれてもよかったのにな」
「理由はその一つだけじゃないけれど。ねえ、黄昏クン」
「ん?」
 突然溢歌が俺の名前を呼んだのでドキリとする。
「彩町 緑(あやまち みどり)って、知っているかしら?」
「人の名前か?」
 聞いたことがあるような、ないような……。頭の片隅に引っかかるものを感じたけど、しばらく悩んでそれ以上何も思い浮かばなかったので考えるのを止めた。
「私のお母さんよ。有名な歌手だったの。と言ってもこの国より向こうでの方が知名度はあったのかしらね。亡くなる数年前に歌う事は止めてしまっていたけれど」
「……悪い、思い出せない。元々チャートのランキングに入るような音楽に興味がないのもあるからかな」
「黄昏クンらしいわ」
 困った顔で謝ると、溢歌は気にしてない素振りで笑った。
「歌うのを止めてたのは、病気か何か?」
「そんなところ。まだ幼かった私は、歌わなくなったお母さんにいつもせがんで困らせてたわ。代わりに、私がお母さんの歌を唄って聞かせてあげていた。その度にあの人は嬉しそうに微笑んでくれたわ」
 その光景を思い描くだけで、胸が締め付けられる思いがする。
「私には、歌がとても上手だったその人の血が流れているのよ。母親似でよかったとつくづく思うわ。もっとも、その分同年代の女の子達とは比べ物にならないほど、色々な経験も味わって来たけれど」
 優しかった口調が、話の途中で辛辣になる。
「泣き言を言っても仕方ないのにね。でもこうして紆余曲折の末にここにいられるのだから、私を産んでくれたお母さんには感謝しているわ」
 すぐに気持ちを切り替えて笑顔を見せると、空になった湯飲みに急須で湯を注ぐ。
「恩返しって言うのは、その母親のためか?」
 俺が尋ねると、両肘をこたつの上について重ね合わせた指に顎を乗せる。
「私がいなくなったのは、身寄りがなくなった一人ぼっちになった私の存在をこっちに住んでいたおじいさんに教えてくれた、お母さんが現役だった頃にずっと影で支えていた人への義理返しでもあるのよ。つまり、しばらく歌いに行っていたの」
「歌って……」
 おまえ、自分が歌うことをあんなに嫌がっていたのに。そう口に出そうとする俺を見て溢歌はおかしそうに微笑む。
「黄昏クンが、私に歌うことへの勇気をくれたおかげよ。感謝してるわ」
「よせよ、くすぐったい」
 面と向かって礼を言われるのには慣れてない。だけどその言葉に嘘がないのは目を見ればわかる。
「何しろ初めての経験だったから大変だったわ。本当ならもっと早く戻って来たかったけれど、終わるまで時間がかかったの。でも、これが最初で最後だから、もう過去の事よ」
「え?」
 最後の言葉が耳に引っかかって声を上げると、溢歌はこたつから出て立ち上がった。対面に座る俺を見下ろしながら、素っ気なく口を開く。
「黄昏クン、私を抱いて」
 逃げる理由は、特にもう思い浮かばなかった。


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