→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第3巻

   087.世界がこわれそう

「まだちょっと冷えるな」
 春の海は日によってコロコロと姿を変える。昨日までは雨が降り続いてて、冬に逆戻り
したのかと思えるほどの寒さだった。今日は気温が一気に上昇して、陽気だ。春一番はす
でに吹いた後で、今日は風も比較的穏やかで潮騒が耳に心地良い。
「ここはいつ来ても落ち着くよね」
 そう言って俺の横で腰を下ろして早速コンビニの袋をまさぐる青空。まだ昼飯を食べて
なかったのか、たまごサンドイッチとレモンのチューハイを取り出した。
「酒かよ」
「花見みたいなもんだよ、僕にとってはね」
 俺に笑ってみせて、景気よくプルを上げて喉に流し込む。こんな性格だったっけ?と思
いつつ、俺も一口もらう。アルコールを飲むのは久しぶりで、すぐ頭の芯に来た。
 ライヴもすぐそこに控えた日に、朝からいきなり青空の呼び出しがかかった。と言って
も集合場所はここなので、溢歌の家にずっと寝泊まりしてる俺にとっては目と鼻の先だが。
「よっと」
 俺も青空の隣に腰を下ろす。地べたに座ると足下の岩肌の冷たさが尻に伝わるのが、ま
だ暖かくなり始めの季節なのを教えてくれる。
 そのまま10分くらい、何も言葉を交わさないでぼけーっと大海原を眺めた。ここから
見える景色は相変わらず時間の流れを忘れさせてくれるほど緩やかで、穏やかだ。雲は少
なくて太陽が真上から俺達を照らしてる。念のためコートを着てきたけど脱いでもいいく
らいだ。青空もいつもと変わらないいでたち。なのにやけに大人びて見える。
「2年前にも同じようにここで話したけど、その時からずいぶんと変わったなおまえも」
「そう?黄昏だってずいぶんと顔が凛々しくなったよ。再会した時は女の子と見間違えら
れるような髪の長さと顔の丸さだったのにね」
「そうだっけか?あの頃はずっと家に引きこもってたからかな」
 自分の顔にぺちぺちと手を当ててみるも、鏡がないからどう変わったのか実感できない。
それよりは気弱そうに見えた青空がずいぶんと身の入った振る舞いをしてる気がする。
「まあいろいろあったしな。バンド始めてから。特にこの一年は大変だった」
「お互い様にね」
 顔を見合わせて笑い合う。本当に、いろいろあった。ありすぎてあまり振り返りたくな
いくらいだ。特に昨年春から秋口まではバンドに迷惑ばかりかけすぎた覚えがあって、タ
イムスリップできるならもう一度やり直したい気持ちでいっぱいだ。バンドが休止するな
んてわかってたら、自分の尻を叩いてやる気をもっと出してたかもしれない。
「後悔、って言葉を覚えた」
「うん?」
「一人でいた頃なんて自分の人生が間違ってるだなんて思いもしなかったのにな。そりゃ
高校中退したり、ずっと引き籠もって自分のために歌ばかり唄ってたけど、それを呪った
ことはなかった。何でこんな世界に生まれてきたんだろう、なんてことはよく思ったけど」
 そもそも正解か間違いかどうかなんて、判断すらできなかった。それは今でも同じだ。
「いろいろと他人に迷惑ばかりかけてきて、罪の深さに死にたくなったことなんていくら
でもあるけど、自分が悪いなんてあんまり思わなかった。だけど親しい人間が増えてくる
と……俺のせいで傷ついてしまう人も出てくるんだってわかった。それがキツかったな」
 愁のことは思い出すと今でも胸が苦しくなる。結局和美さんの仲介で直接会って謝って
以来、今日までまた会ってもいないし電話でも言葉を交わしてない。キュウがライヴのチ
ケットを渡したらしいけど、来るかどうかはわからない。会ったところで、大した世間話
もできずに終わってしまう気もする。
「そんなもんだよ、人生なんて。僕だって黄昏を傷つけたもの」
「傷つけた、か……今思えばあれは青空じゃなくて、溢歌に裏切られた気分になってたっ
てことを認めたくなくて、おまえに八つ当たりしてたように思える。悪かった」
 時間が経つことによってわかることもある。頭を下げると、青空は困った顔を見せた。
「黄昏が謝る事はないよ。かと言って、僕も謝らなくちゃいけないのかよく分からないけ
どね……。溢歌と出会った事で僕も変われたし、君も変われた。それでいいんじゃない?」
「そんなもんか」
 単純すぎる結論だけどまあいいか。結局俺達二人ともあいつに振り回されっぱなしだ。
「まあ、大丈夫だよ溢歌は。おまえと一緒にいた時もかなり迷惑をかけてたと思うけど、
あいつの抱えてた心の問題には一応決着がついた」
「さすが黄昏だね。僕じゃどうしようもならなかったもの。あんまり心を開いてくれなか
ったし」
「あいつの過去のこと、本人から聞いてないのか?」
「少しだけね。本人にはぐらかされて。おじいさんとの昔話ぐらいかな。あとは溢歌を知
ってる人に会った位」
「誰だそれ?」
「ライヴ当日になれば分かるよ」
「?」
 青空の曖昧な答えに、俺は首を捻るしかなかった。訊き出そうとしてもはぐらかされる
ので、当日を待てば知ることができるんだろう。その理由まではわからないが。
「でもちょっと悔しいな。彼女が僕を頼ってくれなかったのは」
 量の少なくなったチューハイの缶を手で弄びながら青空が呟く。
「ずっと一緒にいたのに、溢歌は僕と一緒に溶け合う事しか望んでなかったから」
「それは俺のせいなのかもな。俺はずっと拒んでたから」
「そうなの?」
「俺としては、そんなのより一緒の時間を過ごすほうが好きだったんだ。こうしておまえ
と一緒にいる時と同じさ。何もしてなくても、そばにいるだけで安心するんだ」
「何となく、分かるよ。くすぐったいけどね」
 まんざらでもない顔で青空は笑った。気の許せる相手とそばで暮らす時間はとてもあり
がたく、かけがえのないものだ。
「黄昏は僕の何がいけなかったんだって思う?」
 青空は俺の目をまじまじと見つめながら質問して来た。真面目過ぎて思わず目を逸らす。
「何が悪いって、俺が知るわけないだろ。敷いて言えば、ムッツリスケベなところか」
「それは褒めてるのかな?」
「何となく言ってみただけだ。俺はおまえの性癖すら知らんし」
 静かな笑顔を返す青空に突き放したように言うと、大きくため息を吐いた。
「次に会った時にでも、本人に直接訊けばいい。あいつのことだ、包み隠さず話してくれ
るさ」
「相変わらず無理難題をさらりと言ってのけるね黄昏は……」
 そんなことを言われても、溢歌相手に遠慮するほうが間違ってる気がしなくもない。俺
は青空のコンビニ袋からもう一本のチューハイを取り出すと、早速開けて口をつけた。
「それよりキュウとねんごろになってるんじゃないのか、今のおまえは」
「いっ!?キュ、キュウがなんか言ってた?」
 俺の一言にのけぞるくらい驚いて、青空が引きつった顔を見せる。
「何にも。なんかあいつ凄いゾッコンって感じだったけど、それ以上は何も知らん」
「そ、そう。良かった……」
 どうしてそんなにほっとした表情で胸を撫で下ろすんだ?
「溢歌にふられて千夜の件があった後、ボロボロのおまえの懐に滑り込んできた印象があ
るんだけど、実際のところどうなんだ?」
 素直な疑問をぶつけると、青空は難しそうな顔で視線を宙にさまよわせる。
「それは……否定しないよ。実際心身共に疲弊し切ってたし、そこをキュウが支えてくれ
たのも本当だし、感謝してる。ただ……」
「ただ?」
 訊き返すと、顔を真っ赤にしてしどろもどろに答える。
「何と言いますか……溢歌との日々が延長したと言うか……これはいけないな、と思いつ
つもずるずると過ごしてしまうと言いますか……」
 青空の言葉の意味するところは薄々理解できた。キュウのことだ、それこそ精魂尽き果
てるまでしっぽりずっぽりとやりまくったに違いない。我ながらオヤジ臭い思考回路だ。
「おまえ、もうちょっと相手を選んだほうがいいぞ」
「いや解ってるよ!?ただえーと、性欲に負けてしまう自分がいると言うか……だんだん爛れ
た生活をしてるなって自分がいるなって思う。バイトを辞めた理由の一つに、それもある
かも知れない……」
 どうやら本人は相当反省してるようだ。俺も男だし、気持ちは分からなくもない。
「自覚してるなら変えていけるさ。バンドだってずっとおまえが舵取りしてきたんだ。恋
人関係だってできるだろ」
「恋人!?って言われると、うーんどうなんだろう……」
 何だか本気で悩み出したぞ、大丈夫か青空。心配する目で見守りつつ手元の缶を傾ける。
「僕としては正直……今は千夜の事で頭が一杯で……」
 思わず飲んでたチューハイで咽せてしまった。涙目になりながら青空を睨む。
「いくら何でも節操がなさ過ぎじゃないか!?」
「そう言われると返す言葉もないけど……放っておけるかい?今の彼女を」
 真剣な顔で言われて、俺も呼吸を整える。確かに千夜の件に関しては周りにいるバンド
の俺達がサポートしてやらなくちゃいけない。
「でも俺はあまりあいつに手助けしてやれなかったな」
 俺のマンションの前で仔猫状態でずぶ濡れの時に拾ってやったり、復帰してからちょこ
っとアドバイスしてやったくらいだ。自分の喉の調子や、溢歌のことばかり考えてたせい
で満足できるサポートできたとは思ってない。そういやライヴも近いから、あんまり酒を
口に含むのはよくないと今更気付いて、飲みかけの缶を青空に渡す。
「そんな事ないよ。千夜は黄昏に凄く感謝してるって言ってた」
 飲み物を渡しておいて正解だった。また吹くところだった。
「あんまりしおらしくなり過ぎると、こっちが調子狂う」
「それでも事ある度に頭ごなしに怒鳴られるよりはいいでしょ?」
「俺の中にまだ警戒心が残ってるからな。なかなか消えるもんじゃない」
 これまでにあいつと何百回怒鳴り合ったかなんて思い返したくもない。
「僕としては今の方が千夜らしくていいよ。多分今の千夜が、本来の千夜なんだよ」
「そうか〜?」
 俺としては半信半疑だけど、微笑みを浮かべる青空がそう言うんだから多分間違いない。
「で、どうなんだ?あいつはステージの上でまともに叩けそうか?」
 ずっと抱えてる不安をぶつけてみる。これまで何度かマスターに協力してもらって、ラ
イヴハウスが空いてる間にリハーサルでスタッフのいる前でステージの上で叩いてもらっ
た。俺やイッコーは演奏を控えて、オケに合わせるだけの代物だったが。顔は相当強張っ
てても数曲きっちり叩けたから、かなり回復してるように見えた。
「こればっかりは、やってみないと判らないね。大勢のお客さんを相手にした時、トラウ
マが出て来なければいいんだけど。リハーサルだと大丈夫だったけど、本番は全然違うも
のだから。どれだけ平常心で演奏に入れるかにかかってるね。それを言ったら黄昏もイッ
コーも不安要素はあるもの」
「俺は……実際ならこうしてあんまり喋るのもよくないんだろうけどな」
 そう言って喉を軽く押さえてみせる。ここ数週間は家でもまともに歌を唄ってない。お
かげでずいぶんと喉の痛みは軽減された。一日だけなら保ってくれるだろう、きっと。
「イッコーは大丈夫か?ギブスも外してるみたいだけど」
「指ももう動くって言ってた。でも同じアタック音はまだ出せないから、折れた指にはサ
ムピックをはめるらしいよ」
 感覚が狂ったりしないだろうかと思いつつも、キャリアのあるイッコーのことだ、上手
に乗り切ってくれると信じよう。
「それより青空はホントに納得してるのか、バンドを止めることを」
 今訊かなきゃタイミングを逃しそうなので、ずっと気にかかってたことをぶつけた。青
空は手元の缶チューハイをぐいと喉に流し込んでから、一息ついて足下に置く。
「どうだろう……?僕にも判らないや」
 目の前に広がる青い空を見上げて、体育座りで腕を組んで呟く。
「どっちの気持ちもあるって言えばいいのかな。ここらで一息つくのが正解だって思って
る自分もいるし、止まるなんてありえない、意地でも続けて行きたい!って自分もいる。
両方共本当の気持ちで、結論を出すまでに一週間近くかかったよ」
「そうだったのか」
「黄昏には言ってなかったけど、千夜と一杯話をしたんだ」
 青空は俺のほうを見て言った。
「今後の事とか、バンドの事とか、音楽の事とか、家族の事とか。たくさん話をしてくれ
た。驚いたのはそう言うのを親身に打ち明けられる人間がこれまで周りに誰一人としてい
なかったって事だけど……」
「それはしょうがないんじゃないか?あの性格な上に過去の事件まで重なってしまうと」
「ずっと塞ぎ込んでいたみたいだしね。皮肉な事に、年末のあの事件のおかげでこうして
千夜が心を開いてくれたんだから、やるせないと言うか……。イッコーともこれまで以上
に打ち解けてるし、それで千夜自身の心の負担が減るなら願ってもないけどね」
 こればかりは周りの人間が手助けしてやるしかない。かつての溢歌と同じだ。
「そうだな。俺が溢歌を助けたように、おまえが千夜を助けてやるんだ」
「ええっ」
 突然の言葉に青空は顔を真っ赤にしてうろたえる。
「何かおかしいこと言ったか?」
「ううん、おかしくないけど……何も僕一人に任せなくても……」
「そりゃ俺達も手助けするさ。でも三人の中で一番あいつが信頼してるのは青空、おまえ
だろ?キュウもずっと親身になって世話してるけど、同姓だからこそ話せること以外はほ
とんどおまえに頼ってるような気がするぞ」
「そう……なのかな?」
 嬉しいような困ったような複雑な顔を浮かべて青空は照れる。二人の仲がどうなのかは
実際のところ俺にはあまりわからない。でも千夜が復帰してから、青空が物凄く気を遣っ
てるのがわかるし、千夜も青空のことを信じてるのはやり取りを見てればわかる。
「千夜は復帰するのにかなり悩んでたみたいだけど、ドラムを叩き続けて少しずつ以前の
状態に戻って来てる。最初はボロボロだったのに、収録の最後は踏ん張れてたからな。誘
わないで家に閉じ籠もってたら、ずっと変わらなかったろうさ」
「そう言って貰えると肩の荷が下りるよ。本当の所、今でも千夜を無理にでも復帰させた
事を後悔してるんだ。前々からアルバムを作るとは言ってたとは言え、結局僕達の都合で
連れて来た訳だからね。もっと間隔を空けたかったのが本音だよ」
「そうしてくれたほうが俺も万全で歌入れができたかもな」
 茶化してみせると青空もつられて笑った。
「あと、あんまり千夜のことをいやらしい目で見るんじゃないぞ。あいつ普段から気にし
てたみたいだからな、イッコーやおまえのそんな視線」
「ええっ!?……そう言うつもりじゃ」
「不可抗力なのはわかってるさ。過去の経験から耐えられなかったんだろう。俺は別にあ
いつのこと憎たらしい奴としか思ってなかったから、気にならなかったみたいだけど」
「なんかずるいなあ」
 そんなことを言われても事実だからしょうがない。あいつが女である以上に小憎たらし
いあんちくしょうってのが千夜への感情だった。今はそれが崩れてしまってるので、ぎこ
ちなさが生まれてるのも事実ではある。
「あと、あいつ何日こっちにいるんだっけ?」
「えっと、一週間くらいだったかな」
 青空がジャンパーの懐から携帯電話を取り出してチェックする。ちょうど月末のようだ。
もう親父さんとこへ行くためのチケットは手配してるらしい。打ち明けられた時から数週
間経ってるものの、アルバム収録が終わってからは数えるほどしか顔を合わせてないしじ
っくり話す機会もなかった。ライヴの後にでもそんな機会を作らないとな。
「しばらくあいつともお別れか。何だか変な感じだな。これまでずっと一緒にバンドやっ
てきた仲間がいなくなるってのは」
 そう思うと感慨深くなる。しばらく苦手なあいつの顔を見なくて済むのは安心すると同
時に寂しくもある。
「それでも……千夜には休養が必要なのは確かだよ。また戻って来た時に元気になってく
れるといいね」
「おまえもちゃんとサポートしてやれよ。手紙でもメールでも何でもできるだろ」
「本当に人任せなんだね黄昏は……」
「素直な気持ちを言ってるだけさ。キュウは別に他の男でもいいけど、千夜はおまえ以外
似合う男がいないからな」
「ちょっ……あんまりからかわないでったら」
「イッコーに訊いてみろ。多分俺と同じ意見を言うと思うから」
「もーっ」
 耳まで真っ赤にして照れてる。結構かわいい。こう言うところが母性本能くすぐられて
たまらないんだろうか、キュウは。
 ようやく冷静さを取り戻した青空は、昼食のゴミを全部コンビニ袋の中に詰め込んで立
ち上がると大きく背伸びをした。アルコールが回ったのか大きなあくびを出す。春の陽気
も重なって、目がしょぼしょぼしてる。多分俺も似たような目尻になってる。
「最後のライヴ……って言われても、あんまり実感が湧かないな」
 大海原を眺めながら正直な気持ちを呟く。アルバム完成後の大一番、無事乗り切れるだ
ろうかと言う不安は喉の調子やイッコーの怪我、復帰後の千夜も重なってかなりある。今
はそのことで頭が一杯でラストライヴだなんて気が回らない状態だ。
「きっと終わった後に実感するんだと思うよ。僕も同じ気持ちだ」
 青空が笑って言った。多分イッコーも千夜も同じだ。
「黄昏はどうだった?ここまで来て。バンドを始めて、ステージに上がって、ライヴをた
くさんやって、アルバムを作って――一通り、やって来た訳だけど」
 俺を見下ろして青空が尋ねててきたので、頭の中でまとまらないまま答える。
「そうだな……一人でいる部屋の中から飛び出して、いろんな人と出会って――少しずつ
だけど、未来が見えてきた。日常の中で今ここにいる自分じゃなくて、少し先の自分を思
い描くようになった。多分このまま生き続けていくと、そんな考え方が自然になっていっ
て、死ぬなんて考えもしない自分になってる。他人からすればそれが普通なんだろうけど
……それがひどく怖く感じる時があるな」
「どうして?」
「これまでの自分を失ってしまうんじゃないかって。特に俺なんかは一寸先さえ見えない
ような、考えもしない日々をずっと過ごして来たわけだから、そんなモラトリアムに満ち
た後ろ向きな生き方が芯に根付いてしまった感じでいる分、他人と同じような健康的な日
常を送れるようになると、自分が自分でなくなってしまうような感じがするんだ」
 それをずっと望んできたはずなのに、いざ手に届くところまでくると不安になる。
「自分を変えたい、そう強く念じながら毎日を生きてきて、バンドを始めて、溢歌と出会
って――あいつも俺も、変われるところまで来た。今俺達の目の前には、真っ白なキャン
パスしかないんだ。どう描いていくかは、これから決めることで。見えない未来への不安
は、暗闇ばかり見続けてた頃に比べると皆無と言っていいほどないんだけど。これまでの
俺が新しい俺になった時に、大切なものを失ってしまう気がして」
 その漠然とした思いは消えない。だけどそれが何なのか俺自身よくわからない、とても
大事なもの。
「もしかすると、失ってしばらくして振り返ってみてから気付くものなのかも。その時に
俺はどうするんだろうって不安もあるんだ」
 自分でも抽象的なことを言ってると思うし、聞き手の青空に全てが伝わってるとは考え
づらい。それでも口に出さずにはいられなかった。
「悲しみ……みたいなものかな。この現実の世界で生きていく上での悲しみ。憂い。光が
わずかに差し込んでくる、薄霧のような曇り空を見上げた時の感覚って言うか……この世
界を見つめる俺の目のフィルタとでも言うのかな?それが形を変えていきそうな感じがあ
る。今でも少しずつ変わってる気がする。それが生きる上の証なんだろうけど……」
 失ってしまうことが怖いのか。忘れてしまうことが怖いのか。見えない恐怖に心臓を鷲
掴みにされそうな感覚。切羽詰まって吐露してる自分に気付く。
「それは、多分今の黄昏に見えている世界がとても純粋で美しいものだからだよ」
 そんな俺を横で見てた青空は、柔らかな口調で答えた。
「昔、黄昏がずっと家に引き籠もっていた頃、きっとこの世の中は、主人公の俺が腐って
るからどうしようもなく腐ってるんだろうって思っていたと思う」
 その意見は否定できない。世の中が腐るから俺が腐る、そんな当たり前のことは常日頃
感じてたけど、むしろ俺がダメだから何もかもダメなんじゃないかと考えることもあった。
「結局の所、素晴らしいものにも醜いものにも見えてしまうんだ、現実なんてものは。実
際人間の二面性と全く同じで、汚れた人間が集まって汚れた部分が出来ていて、綺麗な部
分は人の綺麗な願望が集まって出来てる。もちろん僕も綺麗な方にずっと居座っていたい
けど、自分自身から知らない間にどろっとした部分が滲み出てるのも感じる。一生、真人
間になんてなれないって思うよ」
 青空は苦笑して、空に向かって右手をかざした。
「見えている世界なんて、見てる人の目によって変わる。この掌の指の合間から差し込む
太陽の光の色もね。黄昏の目に見えてる世界は、醜い部分で溢れかえっていても、それで
も美しいもので満ち溢れてると思う。そう思えるのは、黄昏自身が自分の目に見えている
ものを正しいと心の底から信じてるからだよ。言ってる事、解るかな?」
「なんとなく」
 俺の見てるものは絶対的に正しい――
「その審美眼は黄昏がこれまでの人生で身に付けて来たもの。でも、これから進む道はこ
れまでと大きく違う、未知なるステージ。だからこそ、そこで自分のレンズが大きく狂っ
てしまう――きっと黄昏はそれに脅えてるんだと思う」
 ずっと俺が胸の内で抱えてた形のない不安を、青空は見事に言い当てる。
「でも、それは大丈夫だよ。黄昏なら」
 ゆっくりと手を下ろすと、青空は俺に振り向いた。
「黄昏が望んでる事は変わらない。これまでも、これからも。言わなくても分かるよね?」
「――歌いたい、気持ち――」
 すぐに思いついた答えを俺が呟くと、にっこりと笑ってみせる。
「そう。その歌いたい感情は、ひたすら自分の現実と見つめ続けて出てきた想い。現実と
戦い続ける事で生まれてくる思い。それを無くさない限り、黄昏は黄昏のままだよ」
「――何だか、狐につままれたような感じだ」
 今の言葉で、憑きものがすっと落ちたように思えた。
「結局、自分を信じ続ける事だよ。それで現実が変わるかどうかは分からない。世界を疑
う事はいくらでもある。自分が間違ってると気付く事も山程ある。その中で、どうやって
生きて行くのか――答えを出すのは、その目を通して見た自分自身だよ」
「ふ」
 あんまりに青空がかっこいいことを言うので、思わず笑いがこぼれた。柄にもないこと
を言ってると自覚したのか、青空も照れくさそうに笑う。
「おかげさまで、次のライヴは気持ちよくステージへ上がれそうだ」
「それは良かった」
 本当に、青空ほど頼りになる男はいない。俺の大切なトモダチだ。
「ご飯食べたらちょっと眠くなってきたよ。少し横になるかな」
「寝相が悪いと崖から落ちるぞ」
「せっかくだから岩場の隙間で寝ようか」
「おーい」
 二人で冗談を言い合ってると、後から溢歌の呼び声がした。揃って振り返ると岩場の段
差からひょこっと溢歌の小さい頭が顔を覗かせる。
「青空クン、来てるなら言ってくれればいいのに」
「だっておまえに知らせたら絶対について来るって言ったろ」
「や、やあ溢歌」
 隣にいる青空の笑顔がぎこちない。きっと愁に再会した時の俺を端から見れば同じ顔を
してたに違いない。
「何話してたの?私も混ぜて」
「男同士の秘密」
「何それ?ゲイ的なもの?」
「それは直球過ぎるよ……」
「まあいいわ。せっかくだから3人でお話しましょ」
 そう言うと溢歌は俺と青空の合間に割って入って、岩場に腰を下ろした。俺達も顔を見
合わせてそれに倣う。何だか妙な展開になってしまった。
 でも、こんな状況を心のどこかで待ち望んでたのかもしれない。無邪気に笑う溢歌と、
照れ臭そうに戸惑う青空の笑顔を間近で見ながらそんなことを考えたりした。


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