→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第1巻

   003.セミシグレ

 梅雨が明け、初夏の陽射しが地面を照らす。空はすっかり晴れていて、太陽はあんなにも高い所で燦々と輝いている。
 手書きのメモを手に、長い間外を歩き回っている。強い陽射しに頭が眩みそうになったので、自動販売機で適当な清涼飲料水を買い、一旦街路樹へ逃げ込むことにした。
 影になった場所は同じ外とは思えないほど涼しく、頭上でそよ風に揺れる木の葉が擦れ合い、心地良い音を奏でる。見慣れない街並に四苦八苦しながら地図に描かれた目的地へ辿り着こうと指示通りに歩いて行ったものの、一向に辿り着かない。
 全身から吹き出る汗が、白地の服に絡み付く。今日はここ数日の中でも特に暑い。薄着して来たのは正解だったけれど、帽子を被らなかったのは誤算でした。
 まだ蝉は鳴いていなくても、このまま行くと今年の夏は相当暑くなりそう。蝉の大合唱が聞こえる日もそう遠くない。
 落ち着くまで、買ったジュースを飲みながら一息つく。水海の隣にあるこの街は起伏が多く、見知らぬ人間が歩くだけで一苦労する。
 目的地は海側にあるらしく、駅を出て坂を降りて行ったのはいいものの、どうやら道に迷ってしまったみたいで、困った。
「どしたの?道にでも迷った?」
 母さんに描いて貰ったメモをもう1度眺めながら頭を捻っていると、突然横から声をかけられた。振り向くと、だぶだぶのTシャツに黒地のスパッツを履いたポニーテールの女の子が笑顔で僕の顔を眺めている。
「あ……ちょっと、解らなくなって」
 屈託の無さ過ぎるその笑顔に内心びっくりしながらも、その子にメモを見せてみる。しばらく彼女は眉間に皺を寄せて唸っていると、突然大声を上げた。
「もしかしてこれ、『STUDIO A(アー)』?」
「そう……ですけど」
 顔を一寸先まで近づけて訊き返してきたので、思わず驚いて木に背中がへばり付くほど後ずさった。女の子と話すのはあまり得意じゃないから、無性に照れる。
「なーんだ、私の行き先と一緒だ!行こ行こ、一緒に行こ!」
「え、あ、ちょっと」
 その子に腕を掴まれ、思いがけない力で引っ張られて行く。善意で案内してくれるのは嬉しいけれど、ここまでしてくれなくてもいいと思うんですが。
「ねーねー、音楽やってるの?」
 ずっとピースマークのような笑顔を浮かべている彼女が訊いてくる。もう片方の手にはギターのソフトケースを持っていて、どうやらこれからスタジオに通う所らしい。
「あ、いや、叔父さんに用があって……」
「あ、てんちょー?それならいると思うよ、今日私達の録音につきあってくれるって言ってたもん」
 物凄くハイテンションに喋る彼女。それから20分間、スタジオに到着するまで相手の一方的な質問攻めに遭い、着いた頃には心身共に疲れ切っていた。
「ほーら、着いた♪入ろ、入ろ♪」
 もう受け答えする力も無くなり、彼女の思うままに引きずられ店の中に入る。木製の扉の開いた向こうには、6畳程度の狭い受付兼仕事場があった。何の用途なのか見当がつかない音楽の機材が空間を敷き詰めていて、壁際に置かれたPCに向き合っている毛むくじゃらの男性がこっちを振り返る。
「ん、遅かったね」
「この子運んでたら遅れちゃってー。ねーねー、もう入ってる?」
「ああ、先に入って102で練習してるから、とりあえず音合わせてみて」
「りょーかいっ。それじゃね、ばいばーい♪」
 椅子に座っていた人と軽くやりとりした後、黒髪の女の子はギターを担いで手前の扉に入っていった。ガラス戸の向こうに見える中で、椅子に座ってアコースティックギターを弾いていた眠気まなこの男の人とじゃれ合っている。
「で、何の用?」
 少し声の低い男の人が、僕に訊いて来る。髭も生えて髪型も変わっているけれど、顔の輪郭とか印象は正月に会った時と全く変わらなかった。
「酷いなあ、僕だよ僕。青空」
 僕の言葉に叔父さんは一瞬目を丸くしてから、大声を上げた。
「なーんだ、青空かー!背伸びてたから気付かなかった」
「もうこの年じゃそんなに伸びないよ」
「いきなり来なくたって、連絡入れてくれれば迎えぐらい出してやったのに」
 叔父さんは苦笑しながら、僕に近寄り頭を軽く叩く。この叔父さんは僕の父親の弟で、もう一人下の弟がここと同じ表札の名前で海沿いにコテージ風の喫茶店を経営している。
 毎年正月になると親戚同士でお爺さんの家に集まるので、顔は良く覚えていた。
「それにしても何の用?受験で忙しいんじゃないの?」
 いきなり痛い所を突かれ、少ししどろもどろになってしまう。
「えと……一応受験はするけれど、今はそれほど大学に行く気もなくって……もう少し考えたいのが本音かな」
「ふーん……まあ、大学行くだけが人生じゃないから、じっくり考えてみなよ。兄ぃは大学出だから、息子にも同じ道を歩ませたいと思ってるのかもしれないけどね」
 手元の灰皿に置いてあった吸い掛けの煙草を口に咥え、叔父さんはPCに向き直った。
「そっか、もう夏休みなんだな。またここも賑わうよなあ」
 叔父さんはこの『STUDIO A』というミュージックスタジオを経営していて、低価格で主にアマチュアに対して部屋を貸し出している。とは言っても機材は(叔父さんの趣味で)一級品の物が揃っていて、有名なプロの人達もたまに訪れるらしい。
「そっちはどう?調子」
 店の中を見回しながら逆に尋ねてみる。中学校の頃一度遊びに来た時と全く変わっていない。部屋の奥に上へ階段があり、踊り場から二つのスタジオと地下、そして機材置場の二階に繋がっている。
「んー、相変わらず金が貯まらないね。全部機材につぎ込んでるから」
 冗談ぽく言って笑う叔父さん。趣味を仕事にして生活しているこの人を僕は昔から大好きで、よく可愛がって貰っていた。
「ねーねーてんちょー、録音はじめるよー?」
 102の扉が開き、さっきの女の子が頭だけ出してくる。
「ん、その前に音合わせしっかりしときなよ。前みたいなぐしゃぐしゃなミックスなんて聴きたくないからさ」
「はーい♪」
 叔父さんと少し会話した後、女の子は軽くこっちにウインクしてから引っ込んだ。
「……それじゃ、手っ取り早く用件済まそうか」
 席を立ち、叔父さんは受付棚の横に並んでいる冷えたジュースを持ち出すと、一本を僕に投げ渡す。礼を言ってからキャップを開け、瓶に口をつけた。
「えっと、楽器をやりたいんだけど、何がいいのかわからなくって」
 僕の台詞に叔父さんは目を丸くした後、破顔した。
「そーかそーか!青空もようやく興味を持ってくれたかー」
 満足げに何度も頷き、一人納得している。甥っ子が音楽に関心を持ってくれたことが相当嬉しいらしい。
「で、何をやるつもりなの?バンド?それとも弾き語り?」
「んーと、唄う人は目星がついてるから、バンドかなあ。でも、曲は自分で創りたい気もあるし……どうだろ、よく解らないや」
「うーん、少しぐらい調べて来なよ」
 全然そっちの知識がないから叔父さんに相談しに来たんだけれど。
 席に戻ると、叔父さんは少し考える仕草をする。
「ふむ……ベースって分かる?」
「低音」
「ドラムは?」
「太鼓?」
「……ギターだな、決定」
 何が何だか分からない内に楽器が決まってしまった。想像していたのはギターを持って黄昏の横で弾いている自分の姿だったから、全然構わないけれど。
「アコギとエレキの違いは分かる?」
「あこぎな893(ヤクザ)とエリマキトカゲ?」
「……おまえ、ホンット何にも知らないのな」
「だから分からないって言ってるじゃない」
 叔父さんは眉間を指で摘み、絶望的な表情で頭を振っている。そんな顔をされても分からないものは仕方無い。
「えーっと、ちょっと待ってろ」
 呆然と突っ立っている僕を残し、叔父さんは二階へ上がって行った。お客さんが来たらどうするのって思いつつ、戻って来るまで受付の透明な棚に並んでいる売り物を眺めて時間を潰す。5分ぐらい経ってから、ギターを2本両手に抱えた叔父さんが降りてきた。
「新しく買うのも金がかかるだろうから、俺の使い古しを持って来た」
 右手に抱えているのは木製のギターで、茶色の艶のあるボディが部屋の照明を浴び、不思議な光を放っている。左手に抱えているのはTVに出ている有名ロックバンドのギタリストが持っているような独特な形のギターで、その砂色のボディは高級感に溢れていた。よく手入れされているのか、宝石のような輝きを見せている。
「こっちがアコースティックギター、そしてこのレスポールがエレキギター」
 解り易い説明の後、叔父さんはエレキの方を棚に立て掛けアコースティックギターを構える。指を弦の前で動かすと、まるで魔法のようにメロディが紡ぎ出された。景色を変える音色が壁に反響し、空気を震わす。
 そのまま即興で短いフレーズを何度か演奏する。その音の持つ魔力に僕はあっさりと魅せられ、血の気が沸き立つのを全身で感じた。
「これがアコギ。アンプに繋ぐタイプのものもあるけど、やっぱり純正の方が鳴りは段違いにいいね。これ、俺の大好きな彩町 海が生まれて初めて買ったのと、同じ型なんだよ。だから俺も最初はこれ買って。昔は形から入っていったからさ」
 自慢気に叔父さんは話し、ギターをエレキと取り換える。昔にも見せて貰ったことがあるけれど、かなり愛着のあるギターらしい。もちろん鳴りは高級な物には負けるけれど、それ以外の別なものが音に込められているみたいだと言っていた。
 床に散らばっている配線の一つをギターに挿し込み、構え直す。
「で、これがエレキ。弾き語りには向いてないけど、カッコいいリフとか弾くんなら断然こっちかな」
 言い終わると同時に、両手の指が物凄い速度で動いてギターが唸る。部屋の天井隅に取りつけられた二つのスピーカーから空気を切り裂くような音色が鳴り響き、無数の音が絡み合って螺旋を上り詰めて行く。最後にネックの部分を両手で弾き、音階が上り詰めた所で締め。素人目にも十分凄いと解る早弾きで、流石と唸らされる。
「バンドで一つのグルーヴを作り上げようとするならこっちかな、一概には言えないけど。曲の雰囲気によって使い分けるのが普通だけど、どっちも使いこなせるようになるのが一番かな?最初はエレキを使う方が弦を押さえるのも楽だから、そっちで練習すればいい」
 叔父さんは僕にエレキギターを渡して来た。戸惑いながらも受け取ると、席を交替し言われるままに弦を抑える。
「そうそう、これで右手を振り下ろしてみな」
 よく解らないまま、言われた通りにピックを持つ手を振り下ろす。
 すると、部屋の中が綺麗な和音に包まれた。自分で弾いた実感はあまり湧かないけれど、驚きと興奮で胸がどきどきする。
「ん、おまえちょっとこう押さえてみろ」
 叔父さんの指示通りに従い、何度も左手を動かしてみる。指を動かすこと自体慣れていないから、凄く息苦しい。
「ほー、もしかすると素質あるかもね」
 何とか必死に押さえている横で、叔父さんは感嘆の息を漏らした。そう言われた所で、何が何だかさっぱり解らない。首を傾げていると、叔父さんが僕の背中を叩いて来た。
「音楽やるつもりでいるんなら、この二つ貸してやるよ。確か教本も俺が使ってたものがあるから、帰る時に渡すしね」
「あ、でも……」
 これ、大切なものなんじゃないかって訊こうとする前に、叔父さんの言葉が続いた。
「何、楽器ってのは必要とされている人間の傍にいるのが一番いいのさ。ここしばらく弾く機会も少なくなって、インテリアになっちゃってたところもあったし。その代わり、大切に使ってくれな。返すのは自分の楽器を買ってからでいいから、ね」
「……ありがとうございます」
 思わず涙が溢れそうになり、精一杯の気持ちを篭めお礼の言葉を口にした。叔父さんは笑って照れを誤魔化しながら、もう一度二階へ上がって行った。
 膝の上に載せた砂色のギターを手に掴むと、ずしりとその重みを感じる。多分それは、数え切れないほどの想いがその中に詰っているからだと思う。
 叔父さんが戻って来るまで、適当に弾いてみる。メロディにもならないような雑音だったけれど、身体の中から開放的な気分になり、とても心地良い。
「今日は用事があるから構ってやれないけど、前もって連絡入れてくれれば、こっちも開けておくようにするから。直に教えてもらった方が覚えるのも早いしね」
 古びた本を数冊持った叔父さんが戻って来る。渡して貰ったその本をめくって見ると、かなり使い込んでいたのかすっかり黄ばんでいて、手書きでいろいろ書き込まれていた。
「満足するのは一向に構わないけど、他のメンバーは考えてるかい?」
 浮かれ気分でページを覗き込んでいると、横から痛い一言が飛んで来た。
「うーん……」
「メンバー募集ならほら、あそこの掲示版みたいにいろいろチラシを貼ればいいし」
 叔父さんが指差す壁際に、びっしりと様々なチラシが貼られている。初心者募集やら、プロ志向急募まで。
「むーっ……」
 一通り目を通してみてはみるものの、何だかしっくり来なかった。黄昏がマイクを持って、僕が隣でギターを弾く図は簡単に想像出来る。だけど、後や横で演奏している人はどれだけ考えたところでシルエットのまま。こうやって募集するのも何だか変な感じがしたし、それこそいっそ二人でやってみるのもいいかも知れない。
「そうだ、一人、凄腕の奴知ってるよ」
 考えごとをしていると、叔父さんが背中に声をかけてきた。
「誰?」
「んー、おまえは知らないと思うけど、『staygold』(ステイゴールド)っていう解散した人気バンドのヴォーカルで、ウチによく遊びに来てくれるんだ。今は何もやってないそうだから、一度誘ってみるのもいいんじゃない?良かったら、青空の事伝えておくけど」
「どうしようかな……じゃ、お願いします」
 しばらく考えてから、頼むことにした。でもそれは好意を無駄にしたくなかっただけで、叔父さんには申し訳ないけれど、あまり乗り気にはなれなかった。どんな音楽をやろうとか考えても無く、僕はただ黄昏と一緒に何かをしたい、それだけの想いしかなかった。
「じゃ、言っとくわ。ベースでいいんだよな?唄う奴いるんだろ」
「うん、ギターは自分がやるし、メンバーはなるべく少なくしたいから」
「了解」
 叔父さんは忙しいみたいだったので、30分もしない内に今日は引き上げることにした。外に出ると日の光が柔らかくなっていて、コバルトブルーの空がすぐそこまで夏が来ていることを教えてくれる。
 ギターケースを2本担ぎ、陽射しの強い街並を歩いて行く。そのまま駅まで直行しようと思ったけれど、風に運ばれた微かな海の香りが鼻を掠め、ふと海が見たくなった。
 なだらかな坂を降りて行き、適当に海沿いに出る。今日は日曜だから、家族連れや私服姿の若者の姿をよく見かける。端から見れば今の自分の恰好はギター少年そのままだってことに途中で気付き、少し恥ずかしくなってしまった。
 10分程度で湾岸まで降りて来て、波の静かな海を眺める。水平線がとてもよく見え、どこまでも続く青空に飛行機雲が一つ、線を描いていた。
『あの翼を背に飛んでいけたなら/今度こそ雲を掴んでやるさ……♪』
 僕の唇は勝手に、黄昏の唄を口ずさむ。
 彼は、あんな8畳一間で延々唄い続ける器じゃない。万人に届く場所で、魂の響く歌を唄うために生まれて来た人間だと僕は思う。バンドを組むことがそのきっかけになればいいと思うし、僕だって行ける所まで行ってみたい。自分の限界を確かめたい。
 そして黄昏にも、この広い海を見せてあげたい。
 黄昏なら必ず、乗ってくれる。
 だから僕はその中で、彼の為に出来る限りのことをしながら、誰にも負けない自分自身のものを手に入れる。
「ようやくスタート地点……かな?」
 石はまだ、転がり始めたばかり。


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