→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第1巻

   009.センチメンタル外道

 会場の中は異様な熱気に包まれていた。
 まだ開演前だと言うのに、外との気温差が5℃以上あるような気がする。けれどまだ客席は5,6割程度しか埋まっていない。僕達はとりあえずイッコーに言われた通りに後の壁際辺りにいることにした。
「広いなあ……」
 思わずそう呟いてしまうほど、会場は大きかった。縦だけでも50m弱あるんじゃないのかな。オールスタンディングなのか、椅子と机は一つも見当たらなかった。それ位は一応ロック雑誌を読んでいるから僕でも分かる。
 入口の扉の横、会場の後方隅にはドリンクバーがある。どうやらチケットに付いている券と引き換えにドリンクが無料で一杯飲めるらしく、喉が乾いていたので早速交換した。
「野球場の売場みたいだ」
 黄昏が値段の一覧表を見ながらそう正直に感想を漏らした時、周りにいたお客さんの顔が一瞬蒼ざめたのは見ていて可笑しかった。こう言うイベントの場所だと、食べ物とか飲み物に関してはぼったくられているんじゃないかと思うくらいお金をせびり取られる。ライヴハウスも例外じゃないみたい。
「もっと満員だと思ってた」
 僕も黄昏の言葉に同感していた。だけど今日のイベントは10バンド出演する長丁場らしいから、トリに近づくにつれだんだん人が増えて来るに違いない。
 カウンター向こうに掛けられた壁時計の針が6時を10分ほど過ぎた頃に、今まで明るかった会場の照明が一斉に落ちた。ずっと流れていた洋楽のBGMが止み、ステージ近くから歓声が上がる。暗くて見えないけれど、どうやら最初のバンドがステージに上がって来たみたい。
 興奮して徐々に自分の血液が沸騰していくのを感じる。
「眠い」
 盛り上がっている僕の横で、黄昏はいつもと変わらない顔で目を擦っていた。チケットでビールを頼んでいたので、酔いが回ったのかもう眠くなっている。
 スティックのカウントが場内に響き渡り、一曲目が始まるのと同時にステージが一斉に照明に照らされた。一際大きな歓声が上がる。
 最初に登場したのは激しいパンクバンド。オーソドックスな四人編成(ヴォーカル、ギター、ベース、ドラム)で、Tシャツに半パンの坊主頭をした青年がハンドマイク片手に熱唱している。
 会場に鳴り響く音が、CDコンポで音楽を聴くのと全然大違いで驚いた。巨大なアンプから飛び出した音が塊になり、鼓膜だけでなく全身も揺さぶる。まるで音が実体化して目に映るようで、僕はあっさりとその魔力の虜になった。
 ――音楽って、こんなに凄いものだったんだ。
 今この瞬間、僕は初めて本当の音楽に出会ったと思った。
 あっと言う間に一曲目が終わると、間髪入れずに次の曲に雪崩れ込む。客席前方は物凄く盛り上がっていて、握り拳がシャウトに合わせ天高く突き上げられている。周りを見ると、客席後方にいるみんなもステージに釘付けになっていた。
 全身を振り乱し演奏する4人の姿は無限に湧き上がる抑えられないエネルギーを音楽に変えて放出しているように見えた。会場は埋まっていないけれど、これが今日のベストアクトなんじゃないかと言えるほど凄い。
 隣の黄昏を見ると、目を大きく輝かせて固まっていた。今まで見たことがない位、綺麗で透き通った瞳をしている。
 きっと純粋な音楽に触れている時が、一番自分でいられるんだろう。
「……ちょっと、前行ってくるね」
 胸の内に湧き上がる衝動が抑えられなくなり、僕は黄昏に一声かけてから前へ向かった。人が壁になっている所から、なるべくステージが見える位置に移動する。後はもう、体が勝手にビートに乗って動いていた。
 短い自己紹介を挟んで計6曲。時間にすれば20分程だったと思う。その間中ずっと、僕はこみ上げてくる熱い衝動のままに音の波に乗っていた。
 演奏が終わり、充実した顔でステージを降りて行く4人に拍手と声援を送ってから、ようやく僕は我に返り客席後方へ戻った。全身汗だくで、さっき飲んだばかりのドリンクが全部抜けてしまい、すっかり喉が乾いた。
「おつかれさん」
 黄昏の隣にイッコーがいた。手に紙コップを持っていたから、頼んで一口だけ貰う。氷の入ったドリンクはとても冷たく、温まっていた体にちょうど良かった。
「どうよ、今の感想?音の波に呑まれるのって気持ちいーだろ?」
「うん、ホント、全く、そう」
 近頃全然身体を動かしてなかったから、もう息切れしている。そんな僕を見てイッコーは白い歯を見せて笑っていた。
「今のバンドはおれも知んねーけど、かなりいいヤツらじゃねえ?伸びてくると思うぜ」
 ドリンクを飲み干してから、イッコーがさっきのバンドを批評した。自分がいいと思った音を褒めて貰うのは、何だか我がごとのように嬉しい。
「ま、今日は10バンドもいるし、他にもまだまだ見れるんはいると思うわ。伸び盛りのやつばっか集めたイベントだし、こん中でお目当てのやつが見つかんなくても全然楽しめるっしょ」
 ライヴハウスの楽しみ方を熟知しているのか、イッコーはゆったりと構えている。10バンド全部前に行って観ていたらそれこそ倒れてしまうから、気に入ったバンドだけ前に行って観ようと決めた。
 黄昏はまた、元の眠そうな顔に戻っている。目の輝きも収まっていて、やっぱり音楽がないと駄目なのかなあと思うと可笑しかった。家では全く他人の音楽を聴かない黄昏だけど、こう言う場所だと人のエネルギーをそのまま感じられるからいいみたい。
「イッコーはライヴハウスよく来るの?」
 僕が訊くと、イッコーはさらりと普通に返して来る。
「そーだなあ、少ないけど週に一回は誰かのライヴ観に行くぜ」
「それ多いだろう十分」
 今まで半分以上寝ていたと思われていた黄昏が突っ込みを入れて来た。変わっているからボケ役に見えるけれど本人が自覚していないだけで、何か笑いを取ろうと思っている訳じゃない。でもイッコーには予想外だったのか、目を丸くして絶句していた。
「あ」
 あまりに喉が乾いているので泣く泣く高いお金を払い、ドリンクをもう一本買い(イッコーが言うにはそれでも他の所に比べるとかなり良心的らしい)戻って来ると、、ステージの準備が終わり再び照明が落ちた。今度は一人ずつスポットライトに照らされながら、次のバンドの5人がステージに上がって来る。多少派手目な衣装をしていて、ビジュアルにも凝っているらしかった。
「あれ……?女の子?」
 3番目に出てきた背の低い人にふと目が留まり、イッコーに訊いてみた。
「ん、あー、千夜(ちよ)な」
 一つ間を置いてから、少し苦い顔をして答える。
「知ってるの?」
「この辺のヤツらなら誰でも知ってるドラマーだわ。ま、観てりゃわかるわ」
 演奏前だからかイッコーは手短に説明した。遠目で見ていても、他の男の人4人と全く違った異質な雰囲気を漂わせているのが解る。千夜さんの名前が客席からいくつかコールされているけれど、本人は全く無視してドラムの前に座った。
 全身黒づくめのスーツ姿に、丸い黒眼鏡。シャギーカットを横跳ねさせた黒髪に凛々しい顔立ちが似合っていて、横一文字の唇が気の強さを表しているように見える。
 軽く叩いて音を確かめてから、いきなり即興でドラミングが始まる。
「……っ!?」
 一瞬にして、彼女の叩き出す音世界に引きずり込まれた。
 自分の持っている全てのものを込め、楽器を演奏しているように聞こえる。黄昏の唄声を聴いた時と似たような感覚。けれどそれは黄昏の魂の奥底から全てを求める叫びとは違い、鋭角なドラミングで聴く人間に切り傷を創っていくような音。
 なのに、冷たい感じがしない。それよりももっと深い想いが詰め込まれているような、とても感傷的な演奏。
 見惚れているとすぐに終わり、客席から歓声が上がる。改めてカウントを取り直し、ドラムのイントロから続けて一曲目が始まった。
「あれ……?」
 でも、期待していたほど他の4人の演奏は凄くなかった。いいメロディーで高音のヴォーカルが唄っているけれど、全体のレベルとすれば最初のバンドよりも1、2ランク程落ちる。ドラム一人だけが突出しているから余計演奏力に目が行ってしまう。客席もそれに戸惑っているのか、やや盛り上がりに欠けていた。
「決して悪くはねーんだけどなー、やーっぱ千夜だと厳しーか」
 イッコーがステージングに苦笑しながら感想を漏らした。黄昏も眉間に皺を寄せ、ステージを観ないようにしている。
「やっぱりそうなの?」
「あいつなー、ムチャクチャ叩けるから8つ位バンドかけ持ってんだわ。上手い下手人気あるなしにカンケーなくやってっから、今イチなバンドほど厳しく聞こえるってな」
「8つ……」
 掛け持ちって言ったってせいぜい1、2つだと思っていたのに、そんなに多くやれるものなのかな?余計な心配をしてしまう。
「でも、かなり若くない?遠過ぎてよく判らないけど」
「ああ、だってあいつまだ高一」
「ぶっ」
 思わず飲んでいたドリンクを吹き出してしまった。コップを黄昏に持って貰い、咽せながら口の周りを袖で拭く。
「高一であれだけ叩けるんだ……」
 余りの早熟さに羨ましくなる。僕が同じ年の頃なんて何もしていないただの高校生だったのに。イッコーも黄昏も僕より年下なのに凄いものを持っているから気が引けてしまう。
「でもおれがあいつを知った頃は他のヤツと大して変わんなかったぜ。ま、女がドラム叩いてるって珍しいから結構早い頃からいろんなトコから声かけられてたみてーだけど、今年の春過ぎたあたりからいきなり凄くなってきてよ。まだ1年半ぐらいしかやってねーはずだけど、ほとんど毎日叩いてる上に力のあるバンドのサポートなんかもやり始めてよ、すげー早さで信じらんねーくらいいいドラム叩くよーになったんだよな」
 顔色一つ変えずにきめ細かいドラムを叩く彼女を見て、イッコーが感嘆の息を吐く。ドラムの音が他の楽器を飲み込み、会場に反響していた。
「でもあいつ、他人と音合わせようなんてほとんどしねーんだわ。わかんだろ?」
 確かに、もっとドラムを抑えてグルーヴを出すようにすればかなり聴けるバンドだと思うのに、彼女一人だけ突っ走っているように見えた。何かに追い立てられているような感じで、他の音を寄せ付けていない。叩き方も一風変わっていて、これまでに聴いたことの無いような変則的なリズムを刻んでいる。
「いや、ちゃんと他人の音は聴いてんだけど、自分が引くってことを絶対にしないんよ。でも何だかんだ言って上手いから、みんなかけ持ちでやってもらってんだろーけど、おれは音楽に一番大切なんはグルーヴだと思ってっからなあ」
 そう言ってイッコーは音に耳を傾けた。演奏の最中だと横にいる人の話し声すら聞こえ難い。だから終わるまで僕もステージに目を向けることにした。
 最後の曲で何とか客席を熱くさせた所で終了。不完全燃焼だったけれど、持っているものは出し切れたみたいだから悪くはなかった。他の4人が手を客席に振り返しているのに、千夜さんだけは脇目も振らずさっさとステージを降りる。けれど彼女への声援が一番大きかった。観ているこっちが複雑な心境になる。
「相変わらず無愛想だなあいつ」
 イッコーが参った顔をして呟いた。ドラミングにも人となりは出ていたように思う。
「千夜さん、かあ……」
 さっきのバンドは置いておいて、彼女のドラムが凄く胸に引っ掛かった。黄昏の唄声に通じるものがあったから。音の一つ一つに凄く心が篭っていて、僕の胸を打った。
「ねえ、イッコー」
 頭の中に一つのイメージが漠然と浮かび上がって来て、僕は彼に尋ねた。
「ん、なに?」
「彼女、どうかな?」
「……、んー」
 僕の言葉の意味が掴めなかったみたいだけど、理解したのかすぐに眉を細めた。 
「おれはあんまり薦めねーけどなー……」
 珍しくイッコーが歯を見せずに悩んだ顔を浮かべている。
「いや、青空の言いたいこともわかるけど。おれもいいとは思うし」
 前置きを入れてから、苦い顔で頭を掻いた。
「あいつ、マジで天才だし。ドラムは冗談抜きで神がかってる。このまま続けてたら多分超一流になるぜ。ただ、性格がなー……」
「性格?」
 僕が訊き返すと、イッコーはため息を吐いた。
「さっきのステージ観りゃ青空もわかってんだろーけど――むっちゃくちゃ気性が荒いんよ。男なんて平気でグーでぶっ飛ばすし」
「な」
「あいつ自分が女だって馬鹿にされんのが一番腹立つらしくて、前にそれで一人病院送りにしてっからなあ、ギターケースで肋骨折って」
「…………」
 黄昏と顔を見合わせて、二人共言葉が出なかった。
「コロコロバンド変わってんだわ、あいつ。あんなセンチメンタルなドラム叩くけど結構完璧主義者で、演奏がダメならすぐイチャモンつけるん。ほとんどサポートみたいな感じで入ってっから曲の良し悪しには口出ししねーんだけど、少しでも気の抜けた演奏でもしようものならもうガシガシ言ってくるんだと。だからライヴ後にケンカして抜けるってことも多いらしーぜ」
 肩を竦めてイッコーはやれやれと言った。
「イッコーは組んだことあるの?」
「おれやってたんは今んとこ『staygold』だけ。どっちも顔は知ってっけど別に知り合いってほどでもねーし。さっきのんは全部人づての話。そりゃいっぺんあいつと合わせてみたい気もすっけど、実際んとこどーだろーなー」
 眉間に皺を寄せて唸っている。あまり乗り気じゃないみたい。
「ま、声をかけるんだったら止めはしねーけど。今日10バンド出てるうちの3バンドは千夜が叩くから。他にもドラマーはいるんだし、そんなに焦って決めるこたぁねーと思うぜ。なー、たそは千夜のドラムどうだった?」
 イッコーは黄昏のことを『たそ』と呼ぶ。間の抜けた響きで本人は嫌がっていたけれど、何回言っても止めないから仕方なくニックネームで呼ばせている。でも、僕的には凄く似合っているような気がするよ。
 突然話を振られた黄昏はきょとんとしていたけれど、すぐに憮然とした顔で答えた。
「女なのに男みたいな格好してるところが気に食わない」
『…………。』
 ちっともドラムの感想じゃないんですけど。
 5分位経つとまたまた照明が落ち、次のバンドの演奏が始まった。心なしかフロアにいる人の数が増えている。そしてドラムを叩いているのはまたしても千夜さん。
 他のメンバーはラフな格好をしているのに一人だけ着込んでいるから見た目が浮いている。でも鳴らす音はさっきのバンドよりもしっかりと固まっていて、一つのグルーヴが出来上がっていた。(多分)レゲエのような変わったビートを刻みながら、ヒップホップみたいに二人のMCが掛け合いでラップしていく。ギターとベースもいるけれど、後パフォーマーみたいな男の人が一人、ステージの上で体をくねらせながら踊っていた。
 さっきとは明らかに叩き方が違う。感傷的な部分は鳴りを潜めて激しいゴリゴリとした音が展開されているけれど、それがかえって彼女のテクニックの高さを証明していた。
 後に続くバンドもかなり粒揃いでいいものばかりだったけれど、もう完全にグルーヴが出来上がっているものや普通のドラムだったりして、目に留まる人はいなかった。違うドラマーを見れば見るほど、千夜さんへの意識が大きくなっていく。
「何だかよくわからないけど、ここにいると気持ちいい」
 黄昏が体を揺さぶる音とフロアの放つエネルギーに身を委ねながら、幸せそうな顔で近くの柱にもたれかかっている。駄目な音があるとすぐに顔をしかめるけれど、熱狂したここの空気を満喫しているように見えた。そんな黄昏を見てイッコーも口を緩めている。
「たそのヤツ、あそこに立たせたらぜってーおもしれーだろーなー」
 僕もイッコーに同感。やっぱり、黄昏ほどのヴォーカルはどこを見てもいない。あのステージの上から黄昏の声に乗せて僕達が音を鳴らす――その光景を想像するだけで、期待と興奮で鳥肌が立った。と同時に、本当に自分がそこに立てるのか不安にもなる。
 だけどそれで僕と言う人間が存在することを刻められたら、僕の生きた証になる。
 僕が僕であることを示した上で、それがみんなに受け入れられたら。
 もう死んでもいいと思える位最高だと思う。
 後半のバンドに差し掛かると、フロアがぎゅうぎゅう詰めになってきた。前の方はぎっしり人の壁が出来ていて、激しいナンバーが演奏されるとダイヴやモッシュが湧き起こる。
「滑稽だ」
 埋まった人波の上を人が転がって行く様を見て、黄昏が小さく呟いた。
「なあ、あれってトイレに行きたい人がああやって前に抜け出してるのか?」
 真面目な顔で訊かれ、僕とイッコーは顔を見合わせ爆笑した。苦虫を噛み潰したような顔をしている黄昏が面白い。
 無知とは本当に恐ろしい。
「次のバンドも千夜が出てくるぜ。あいつがやってる中で一番人気のあるバンド」
 8バンド目が始まる前に、イッコーが教えてくれた。かなり長い時間ここにいるから、体力の無い黄昏はすっかり参ってそばの柱に項垂れかかっている。そう言う僕も体力切れで、もうフロア前の人混みの中で盛り上がる気力は無くなっていた。
「ペース配分をつかめない最初のうちはつれーかもなー」
 へばっている僕達を見て、イッコーが苦笑いしていた。彼は全然平気な顔でフランクフルトを食べている。食欲の無い僕等は見ているだけで気分が悪くなった。
 チョッパーベースの音が響き渡り、一斉に演奏が始まると同時にステージが照らされ歓声が上がる。最初に出てきたバンドと同じオーソドックスな4人編成で、素直なロックンロール。今までの中で一番人気があるのか、フロアの歓声も大きかった。
「んー」
 だけど調子が良かったのは最初だけで、気負っているのかだんだんと演奏がちぐはぐになってきた。イッコーも眉毛をハの字にして不満そうな顔をしている。
 結局6曲30分、いまいちのまま終わってしまった。その中でも開き直っているのか、淡々とビートを刻んでいた千夜さんが印象に残った。
「期待してたんだけどなー、やーっぱイベントの経験少ないんがモロに出たみたいな」
 辛口な批評をイッコーがしていたけれど、それも仕方無いと思う。黄昏に至っては、もう半分以上瞼が落ちていた。
「うし、じゃあちゃっちゃと行くか」
「え、どこへ?」
 イッコーが眠りこけそうな黄昏を叩き起こしながら答える。
「どこへって、楽屋。千夜誘うんだろ?あいつ打ち上げなんてほとんど出ねーから、ライヴ終わったらすぐ帰っちまうんよ。トリのバンドだけは見てーからさ、ぱっぱと済ましちまおうぜ」
「でも、入れないんじゃないの?」
 当然の疑問を訊いてみると、イッコーは白い歯を見せてさらりと答えた。
「だいじょーぶ、おれの知り合いだって言えば入れるから」
 さっきもそうだったけれど、実は相当凄い人と一緒にいるんじゃないだろうか、僕達は。
 駄々をこねる黄昏を無理矢理引っ張りながらステージ横の非常口に向かう。スタッフの人が僕達を呼び止めたけれど、イッコーが前に出て軽く言葉を交わすと快く通してくれた。こちらを見る観客達の視線を気にしつつ、非常口の扉を開けて階段を登って行く。廊下には今までステージに上がっていた人達が談笑していた。場違いな感じに少し緊張する。
 イッコーが適当にその辺の人を一人捕まえて訊いてみる。
「千夜、まだ中にいる?」
「いると思うよ」
「うし、じゃーちょっと呼んでくるわ」
 僕等を廊下に待たせ、イッコーが楽屋の扉の一つを開けようとしたその時、
「ふざけるなっ!!」
物凄く大きな怒鳴り声が中から飛んで来て、僕達の耳をつんざいた。次の瞬間部屋の中から男の人が呻き声と共に転がって来て、抱き止めたイッコーが廊下の壁までよろめく。
「おいおい、だいじょーぶか?」
「いてて……」
 男の人はさっきステージで演奏していたベースの人で、殴られたのか左頬が赤くなっていた。廊下にたむろしていた人の視線がこっちに注がれる。
「そんな考えでいるから地味な活動しかできない」
 何事かとうろたえていると、かったるそうな声と共に千夜さんが廊下に出て来た。冷ややかな視線でベースの人を見下ろしている。そして彼女に続いて血相を変えたメンバーの残り二人が部屋から出て来た。
 どうやら、千夜さんが彼を殴ったらしい。
「この……!!」
「おいおいおいおい、どーしたんだ一体」
「ぐえ」
 頭に血が昇って反撃しようとするベースの人をイッコーが固め技を食らわせて止めながら、事情を尋ねた。体格が一回り違うから平然とした顔で取り押さえている。
「あんな演奏で満足しているから殴ってやったの」
 つまらなさそうな顔で千夜さんがきっぱりと答えた。そして後の二人に振り返る。
「別に貴様達がどんなポリシーで音楽やっているのかなんて知らないし知りたくもないけれど、甘い意識で演奏されるとこっちが困る。最近人気が出始めたからって、調子づいてない?浮かれるのは構わないけれど、いい演奏してからにして」
 同じバンドのメンバーなのに、臆する所一つもなく言ってのける。相手のことを『貴様』と呼ぶのは自分でキャラクターを造っているから?
「今日はたまたま調子が悪かっただけだろ。次挽回すりゃいいだけじゃねえか」
 上着を脱いだヴォーカルの人が食ってかかると、千夜さんは見下すような視線を返した。
「客の目なんて気にしているからそんな情けない事になる。一つも満足できる演奏になっていないのに頭悪そうにヘラヘラ笑っていられると虫唾が走る」
「出た、千夜の完璧主義」
 イッコーが小声で呟くと、千夜さんは人を殺すような目つきですぐさま睨み返した。男よりも怖い。近くで見るとかなり綺麗な顔をしているのに、勿体無い気がした。
「私だって上手い訳じゃない。でも、毎回きちんと目標を見定めて叩いている。それが感じられない、貴様達には。繰り返しやっていれば自然に良くなるとでも思っているんだろう?なあなあでやっている人間を観ている客はどう思うかぐらい解らない?何よりも演奏している曲そのものが可哀想」
 矢のように言葉を次々に繰り出し、千夜さんは肩を怒らせ楽屋へ戻って行く。ギターの人が肩を掴んで止めようとしたけれど、一瞥もくれずに手を払い除けた。
 険悪な空気が漂う中で、千夜さんは黙々と自分の荷物を持って大股で部屋を出る。言い返そうとするメンバー二人を鋭い眼光で怯ませ、僕達に背を向けた。
「もう貴様達とは叩かない。続けるなり辞めるなり好きにすればいい」
「お、おい……」
 止めようとする声を無視して、黒革の靴を鳴らしながら下の階段に向かう。波を割るように廊下に群がる人達が横退いて行った。みんな、無言でその背中を見送る。
 これじゃあバンドに誘う所の話じゃない。こんな空気で話を持ちかけても断られるのは目に見えているから、イッコーには悪いけれど次の機会に回そう。
 心の中でため息をついた瞬間、いきなり黄昏が口を開いた。
「なあ、バンドやらないか?」
 静かな廊下に黄昏の大声が響く。千夜さんも含めて、ここにいる全員の視線が黄昏に向けられた。何なのか解らない顔をしている千夜さんを指差して、黄昏がもう一度言う。
「あんただよ、あんた。俺たちとバンドやらないか?今、ドラム叩ける人探してるんだ」
 何を考えてるの黄昏―っ。
 場の空気くらい読み取ってよと思ったけれど、黄昏にそれを求めても仕方が無い。周りの人も全員目を丸くしている中、イッコーだけはこみ上げる笑いを必死に噛み殺していた。
 千夜さんが直立不動のまま睨み返すと、黄昏は彼女の視線を眠そうな顔で真正面から受け止めていた。磨かれたビー玉のように綺麗な瞳が、敵意を全部吸い込んでいる。
 しばらく沈黙が走った後、千夜さんは溜め息を一つついた。
「貴様、馬鹿か?」
 そう言われて、黄昏はムッとした顔になった。
「何で。今ちょうど一つ辞めたところなんだろ?だったらちょうどいいじゃないか。あんたのその男みたいなナリは気に入らないけど、凄くいいドラム叩いてるから。そこのイッコーと、青空のこいつと俺、そしてあんた。悪くないと思うけどどうかな?」
 聴いているのかよく判らなかった黄昏も、どうやら千夜さんに目をつけていたようだ。ドラムの音に僕と同じものを感じ取ったに違いない。
 それはいいとして、正論だけど今持ちかけるのは間違いだと思う。
「5万円」
「え?」
 目を丸くしている僕達に、千夜さんはあしらうように言った。
「5万円くれたら叩いてあげる。それと一回のライヴで5千円」
「なっ、金取んのかよー!」
 イッコーが文句を返すと、冷めた目で千夜さんが答えた。
「どうやら私の腕は金になるらしいから」
 どこかで、血管が切れる音がした。
「最低だな、おまえ」
 声のした方を見ると、黄昏がゆらりと立ちながら鋭.い眼光を千夜さんに向けている。
 数ヶ月前に再会してから、怒った所なんて初めて見た。小さい頃一度だけ僕の前で怒ったことがあったけれど、あの時は無口のまま悪戯をしてきた男の子に殴りかかって行った。
「そんな事言う奴がこいつら殴る資格なんてないだろう、この男女」
 その時と同じ、爆発寸前と言った顔で千夜さんを睨み返していた。
 黄昏の言ったことは正しい。だからなのか、千夜さんもあからさまに眉を引きつらせた。
「おまえら、そこで見てろ。何の関係もない俺が今からあいつをぶん殴ってやる」
 怒りで眠気も吹き飛んだのか、黄昏が顔を真っ赤にして大股で千夜さんに向かって行く。
「わわわ、黄昏、ストップストップ!」
 黄昏が切れたらどうなるか解っているから、慌てて体で止めに入った。僕の身体を押し退けようとするけれど、長い間運動していなかったせいもあって筋肉が落ちているのか、思ったより簡単に取り押さえられる。
「こら、離せ、青空!」
「ごめん千夜さん、変な時に誘ったこっちが悪かったから」
 僕の手の中で暴れる黄昏を押さえつけながら、千夜さんに謝る。彼女はしばらく強張った顔をしていたけれど、そっぽを向いて踵を返した。
「こっちも忙しい。嫌なら他を当たって」
 それだけ言い残し、千夜さんは階段を下りて行った。残された僕達の周りには、静かで嫌な空気が纏わり付いていた。
「あははははは、さーすが黄昏だわ」
 そんな沈黙を破るように、イッコーが大笑いした。すると緊迫した空気も和らいでいく。僕も肺に溜まっていた空気を全部吐き出し、楽になった。
「誘うタイミングが悪いよ、もう。参ったなあ、後でもう1回ちゃんと会ってみようか……どうしたの、黄昏?」
 気付くと、黄昏が僕の顔をじっと見ていた。慌てて押さえていた腕を離す。強く押さえ過ぎていたのか、僕が握っていた手首の部分が赤く充血している。大きく両腕を振って血の巡りを良くしてから、黄昏は憮然とした表情で溜め息を吐いた。
「あの男女、物凄く性格悪い」
「いや、あの状況じゃ仕方無いって」
「そーそー、もーちょっと周りの空気読むこと覚えよーぜ、たそちゃん」
 その後いくら僕達がなだめても、黄昏は膨れっ面をしていた。まだ大喧嘩にならなかっただけ幸いかも知れない。
 子供の時には、切れた黄昏が相手を泣かせるまで無言のまま延々殴り続けていた。もし止めてなかったら、同じことになっていたと思う。それか、千夜さんに返り討ちに遭うか。
 これ以上楽屋にいても意味が無くなってしまったから、残りのバンドを観にフロアへ降りる。千夜さんに殴られた人がメンバー達と愚痴を漏らし合っていたのが心の隅にまとわりついた。見ているこちらも嫌な気分は残る。
 けれども最後のバンドの演奏でそれは全部吹き飛んだ。いろんなものを吹き飛ばしてくれるから、音楽は気持ち良い。十分過ぎるほど堪能して、イベントは終わりを迎えた。
 ライヴ初体験だったから、汗のかき過ぎで全身がべとつき気持ち悪い。黄昏と僕は途中どこかでご飯を食べる気力も無かったから、黄昏の家へ直帰した。終電で自宅に帰れたけれど、電車の中で絶対に寝過ごすからこの日は黄昏の家に泊めて貰うことにした。
「千夜さん、か……」
 冷たいフローリングの床の上に座布団を敷き、毛布にくるまり眠る時まで、彼女の叩くドラムが鼓膜に貼り付いたまま離れなかった。


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