→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第1巻

   010.ブギーバック

 夜になると、昼間の暑さはすっかり陰を潜めて涼しい空気に変わる。
 僕の名前は『青空』だけど、実際には晴れた日の空は好きじゃない。雲一つ無い快晴なら気分は晴れても、普通に雲が出ている晴空は逆に苛立って来る。
 外の天気一つで気分までころころ変わる脳天気な生き物、人間。空を見上げると、自らはめたくだらない足枷にもがいている自分自身が馬鹿らしく思える時もある。
 晴れた昼間が好きじゃないのは騒がしいから。閑静な場所にいればそうでもない、と言う訳じゃなく、みんなが活動して、社会が動いているのが騒がしい。目に見えない空気の上に嫌な物がたくさん飛びかっているように思えて、機嫌が悪くなる。
 だから夜の方が好き。あれほど騒がしかった昼間の空気も、夜になれば華やかな情熱に変わる。みんな仕事から解放され、羽を伸ばせる時間。過剰過ぎる人々のエネルギーも、かえって心地良く感じる。
 でも自分がその中にいるのは嫌い。少し遠目で眺めているのがいい。
 間近にいると、嫌なものまで感じてしまうことが多いから。
 だから一番好きな時間は、真夜中。
 時々、人のあまり出歩かない寝静まった時間帯に布団を出て、ふらりと街へ出かける。なるべく車の通らない道を選び、適当に散歩して家に戻る。
 すれ違う人もいない。風と海と木の葉のざわめきだけが夜の空気を包む。世界にいるのは、僕一人だけになる。
 肌に染み込む冷たい空気に浸りながら、ふらりと寄ったコンビニで買った缶チューハイを空ける。今の季節だとちょうど過ごしやすい気温で、真夜中の公園に寄って噴水の縁に寝転び夜空を見上げていると最高の気分になれる。
 もちろん未成年だけど、そんなもの気にしないでお酒を飲む。煙草は全く吸わなくても、お酒はよく飲んでいた。
 酔いが回ると、胸に抱え込んでいたしがらみや悩み、何もかも吹き飛ばしてくれる。
 真っ白になれる瞬間が欲しかった。
 どれだけ寝ても何も変わっちゃくれない。現実はどこまでも地続きで、夢はどこまで行っても夢でしかない。いい加減寝ることで何も変わらないことに気付いた僕は、代わりにお酒を覚えて意識の無くなる瞬間を欲しがった。
 眠って夢を見ている時も、夢だと感じないほど自分が自分でなくなる時間。自分の魂が身体から離れるような感覚。そんな夢を見た後の朝は頭が真っ白になっていてとても気持ちいい。日々を生きてパンクしそうになった頭を冷やしてくれる。
 そしてそんな真っ白になれる瞬間が、もう一つできた。
「青空―っ、5分前だからそれ終わったら上がっていいよー」
「あ、はーい」
 考えごとをしながら仕事をしていると、PCの前でディスプレイとにらめっこしていた叔父さんから声が飛んで来た。スタジオにかけられた壁時計を見ると、時刻は6時55分を回っていた。手に持ったケーブルをまとめ、所定の箱に直しておく。
 今月に入り、僕は叔父さんのスタジオでバイトを始めることになった。
 春に両親の希望通り大学を受験してみたけれど落ちてしまい、卒業してから今までずっと浪人生という名目で何もしないで親の世話になっていた。高3の時は『mine』に全身全霊を注ぎ込んでいたので、その後の受験のことなんてちっとも考えていなかったのも事実。書き終わったのが年末だったからまともに勉学に打ち込めるはずがなかった。
 浪人生になった後も僕が本腰を入れて勉強に励んでいないのも両親は十分感づいていたし、僕自身真面目に予備校に足を運んで大学に受かろうと思う気持ちはそれほど無かった。
 黄昏に再会してから、僕の人生は大きく変わり始めた。
 与えられたレールを進む人生から、自分で道を選んで進む人生へと。
 今からして思えば、久しぶりに黄昏と会いたくなったのも今までの人生に疑問を抱いていたからかも知れない。彼と再会することで、何か新しい刺激があればいいんじゃないかと。
 卒業してから、僕を縛るものがほとんど無くなった。学校に行かなくてもいい、人間関係に頭を悩ませることもない。家に篭って自分の好きなことをしていればいいんだから。
 そこで僕はひたすら考えた。人生の意味、自分の価値、そしてこれからのこと……。
 黄昏と共に歩むことで、音楽に触れることで、何かが解ってくるかも知れない。そう考えると、大学受験なんてもうどうでもよくなってしまった。
 ただ、面と向かって親に大学を受験するつもりがないなんて簡単に言えるはずも無かった。一人っ子の僕に両親が期待してくれているのは痛いほど解っていたし、何もしていないのに無償で養って貰っている訳だから文句なんてつけられない。一人暮らしをしようと思ったことは何回かあったけれど、そのためにはバイトをして自分でお金を稼がなきゃいけないし、浪人生の立場だと勉強どころじゃない、というのが建前としてある。
 そんな自分の想いと親へ迷惑をかけまいという気持ちとに板挟みになってもがいていると、意外にも叔父さんが助け船を出してくれた。
 何と自分の仕事場でバイトさせてみてはどうか、と直々に僕の両親に掛け合ったのだ。僕の想いを代わりに説明してくれ、一度好きなようにやらせてみてはどうか、と。
 音楽に興味を持った僕を、もっと音楽に近い場所で過ごさせてみよう。そうすることでたくさんのことを学べると思うから。叔父さんの言い分はこうだった。
 さすがに両親は悩んだらしい。でも他ならぬ叔父さんの頼みなら、と言うことで半年から一年様子を見てみよう、と言うことで落ち着いた。
 何しろ突然食卓でそのことを言われたから、さすがに驚いた。僕には何一つ訊かずに、両親は叔父さんのスタジオでバイトをさせようと決めていたから。
 どうやら僕に内緒で一週間程叔父さんと話をしていたらしい。でもその時まで、そんな素振りは一つも見せていなかった。
 戸惑っている僕に、母さんはこう言ってくれた。
「青空が、自分から何かに打ち込む事は初めてだから……」
 その時どこかでぷつっと音がして、どっと涙が溢れた。その時流した自分の涙の温もりは今でもはっきりと覚えている。
 小学校の時から、親にはいろいろと学ばされていた。ソフトボール、剣道の習いごと、そろばん、塾……。でもそれらは自分からやりたいと思ってやっていたんじゃなくて、親に言われたからやっていただけな気がする。物心がついてまだ間も無い頃だったし、嫌だと思っていても口には出さないで渋々通っていた覚えもある。
 母さんの言う通り、自分から進んで何かをしたいという気持ちはこれまでなかった。
 大きくなるにつれだんだんと口数が少なくなってきていたけれど、親はきちんと僕のことを見てくれている。そんな両親の愛情と感謝の気持ちが温かい涙になった。
 結局今年は受験を見送ることにして、両親は僕に考える時間をくれた。元々、高校生の時に真面目に受験勉強に取り組んでいなかったのもこれからの自分が一つも見えなかったから。今の自分を探すことに精一杯で、毎日を生きて行くだけで先のことなんて全く考えられなかった。高校を卒業するまで、惰性でレールに乗っていたと言っても大袈裟じゃない。
 じっくりと自分を見つめ直すいい機会だと両親も思ってくれたんだろう。
 もし音楽が駄目でも、来年の夏からなら十分に受験生に戻ることもできる。2浪までなら世間体としても大してマイナスにはならないだろうと親も納得して、こうして僕は叔父さんのスタジオで働くこととなった。ちょうど人手が足りなかったらしく、叔父さんサイドにも好都合だったみたい。
 そんな訳で、週4日、朝10時から夜19時まで、途中一時間の休憩を挟むシフトで僕は「STUDIO 『A』」の一員となった。とは言っても、早朝の部屋が空いている時間からギターの練習をしているので、半日以上はここにいることになる。残りの3日の内、2日は黄昏の家、残りの一日は完全休養に充てている。
「だんだんそのエプロンも様になってきたねー」
 叔父さんが僕の格好を見てウンウンと頷いている。スタジオで働く従業員のみんなは緑色のエプロンがユニフォームになっていて、一見して喫茶店と勘違いしてしまいそう。
 だけどそれもそのはず、父さん達兄弟の三男は近場で喫茶店を経営していて、そこからエプロンを借りているのだそう。そのせいもあるのか、うちのスタジオは喫茶店まがいのこともやっていて、レパートリーは多くないけれど利用者相手に料理を出したりもしている。
 喫茶店の叔父さん直々に伝授して貰ったそうで、特にカルボナーラは絶品。土日の昼になると必ず叔父さんが調理台の前に立つので、それ目当てで週末のスタジオを予約する人たちもいるとかいないとか。
 僕はまだ始めたばかりなので、料理の腕はへなちょこです。
「でも、このアップリケはどうなんでしょう?」
 自分の胸についているエプロンのアップリケを見下ろし、僕は苦笑いを浮かべた。バリバリのヘビメタのイラストが刻まれているエプロンというのはある種シュール……。
 そんなこんなで談笑し合ってから手元のダンボール箱を2階の倉庫に片付けに階段を上がろうとした時、階上から練習の終わったバンドの人達がすれ違うように降りて来た。邪魔にならないように階下で通り過ぎるのを待つ。
 この人達みたいにバンドを組んでスタジオに入り、今よりもっと充実した日々を送れるのは何時になるんだろうと羨ましい目で見ていると、そこに思わぬ顔を見かけた。
「貴様は……」
 向こうも足を止め、僕の顔を見ている。
 その人達の一番後ろに、千夜さんがいた。
「それじゃあ千夜、明後日のライヴでな」
「ええ」
 先を歩いていた人達が一声かけてから、千夜さんを残しスタジオを後にした。階段が狭いので、思わず千夜さんの通路を塞いでしまう形となる。
「ごめん……邪魔した?」
 悪いことをしたと思って謝ると、僕の顔を見ないで言葉を返してきた。
「いや、初めからすぐ帰るつもり」
 軽く溜め息をついてから、ライヴの時と同じ黒髪の横跳ねしたシャギーをかき上げ、千夜さんは僕の横を通り過ぎようとする。
「それで?用が無いのならどいて。これから食べに行く所だから」
「あ、いや、ちょっと待って」
 階段の手すりに背中を張り付かせながら、僕は慌てて呼び止めた。千夜さんが冷たい目で顔だけ振り返る。
「じゃ、じゃあ僕もついて行っていい?仕事終わったばかりでお腹空いてるから」
 その迫力に上ずった声で僕が訊いてみると、
「来ないで」
千夜さんはうざったそうに僕の顔に一瞥くれ、あっさりとそう吐き捨てた。大股で早々とスタジオを出て行く。
 そんなことを言われても、一昨日のライヴでの出来事が心に引っ掛かって仕方ないから、早く弁明しておかなくちゃいけない。それともう一度、きっちりとした場で千夜さんに一対一でバンドの話を持ち掛けたかった。
 ここで逃したら次はいつどこで会えるのか分からない。だから僕は急いで手に担いだダンボール箱を階上の倉庫に片付けに行き、4段飛びで階段を駆け下りた。
 事務所に置いていた自分の鞄とギターケースを引っ手繰り、タイムカードを押す。
「そ、それじゃお先に上がりまーす!」
「あい、おつかれさーん」
 叔父さんの顔も見ないで挨拶を済ませ、僕はすっかりと暗くなった外へ駆け出した。
 周囲を見回してみるけれど、千夜さんの姿が見当たらない。とりあえず駅に続く方向へ少し走ってみると、街灯の明かりの中に黒く浮かぶ千夜さんの背中を目に捉えた。
 急いで駆け寄り、隣に並ぶ。すると千夜さんはこちらの顔を横目でちらっと見てから、眉を細めあからさまに嫌そうな顔で目線をアスファルトに落とした。
「来ないでって言った」
 凍てつくような痛みを伴なった言葉を投げつけて来る。それを笑顔で返そうと思ったら、急に走って息を切らしたせいで引きつった顔で呼吸を整えるので精一杯。そんな僕を横目で見て、千夜さんは参った顔で眉間を人差し指で押さえた。
「帰り道がこっちなんだ。駅前でご飯食べようと思ってて」
 大きく深呼吸を整え、横から覗き込むように千夜さんに話しかける。ふと、ずっと女の子が苦手だったはずの自分が普通に話せているのに気付いた。姿格好が男っぽいから大丈夫なのかも知れない。
「一昨日はごめん。連れの黄昏が悪いことしちゃって」
 まず、一昨日のことから謝ることにした。まさかいきなり誘うなんて思ってもみなかったし、気を悪くさせてしまったのも全てこっちの責任。黄昏はああ言う性格だから仕方無いけれど、悪いのはああいう事態を予測していなかった自分だから。
「気にしていない。ああ言うのは慣れてる」
 すると千夜さんはこちらの顔も見ずにきっぱりと言い放ち、歩幅を大きくし始めた。それに合わせて僕も歩調を早くする。千夜さんの眉が確かに今、少し引きつった。
「ライヴのリハーサル?」
 相手の返事を察するに、これ以上謝り続けてもかえって怒らせてしまいそうな気がしたので、とりあえず頭にぱっと浮かんだことを口に出してみる。
「明後日に掛け持ちのバンドで叩くから」
 間髪入れずに千夜さんが言葉を返してきた。どうやら完全に僕を相手にしたくないみたいで、更に大股で、肩で風を切って歩く。
 と思ったら、目の前の信号が赤に変わった。大通りを車が音を立て横切って行く。
 千夜さんは咄嗟に横の横断歩道に目を向けたけれど、向こうに渡ると駅と別方向になるし、ここの信号は待ち時間がやや長い。よし、と思い僕が含み笑いを浮かべると、苛立つ千夜さんが物凄い形相でこちらを睨んできた。慌てて首を横に振り、作り笑いをする。
 あのイッコーが首を捻るぐらいだから扱いにくい人なんだろうと思っていたけれど、考えていた以上に難しい。本当なら踵を返し逃げたかったけれど、バンドへの想いを秤にかければそんな気持ちも抑えられた。
「でも、あそこのスタジオにほとんど来ないよね、千夜さん。記憶に無いもの」
 なるべく刺激しないように、千夜さんの方を見ないで話す。夜の街に浮かぶ車道の赤信号の明かりがやけに目に入ってくる。
「あ、いや、ほら、僕の叔父さんがあの店の店長で、バイトさせて貰ってるんだけど。千夜さんほどのインパクト強い人だったら、覚えているはずだもの」
 そうは言うけれど、実際の所千夜さんを初めて見たのは一昨日で、それ以前にスタジオに来ていたかどうかというのは正直な所分からない。でも、彼女ほど強烈な存在感を放っている人間と言うのはそうはいない。だからこそ僕は興味を示したんだろうし、ベクトルは違うけれど同じように輝いている黄昏にも惹かれたんだろう。イッコーに関してはまだ正直、よく掴めない所はあるけれど。
「別に貴様の事なんて興味無い」
 少し落ち着きを取り戻したのか、普段通りの突っ張った顔で千夜さんが言い切った。少しグサッと来たけれど、それもまあ当然。信号がようやく青に変わり、待ってましたと言わんばかりに千夜さんが勢い良く飛び出して行った。泣きたくなるのを堪え後を追う。
「あ、ごめん……。ねえ、普段はどこで練習してるの?」
「行き付けの高架下の安スタジオ。使い勝手がいいから」
 こっちの外堀を埋める戦法もことごとく返す刀で弾かれてしまう。何だか自分がナンパ師みたいに思えてきて、少しへこんだ。確かに自分でも馴れ馴れしいと思うけれど、じゃあ直球でバンドに誘った所で「嫌。」の一言で打ち返されるのはまず間違いない。
 撃沈されるのが解っていて特攻する勇気はさすがに持っていなかった。
「そうなんだ。あ、そうだ、明後日のライヴのチケット、あるかな。千夜さんの叩く所観てみたいんだけど、もう一度」
「生憎だけどあのバンドは頼まれて叩いているだけで、チケットの事までは知らない。そう言うのに関与しないのを条件にやってあげているから」
 ぶっきらぼうに返す千夜さんの言葉に、少しカチンと来た。
 『やってあげている』という相手を見下した態度が気に食わなかった。確かに一昨日のあの時でもそんな態度は言動に見え隠れしていたけれど、自分が一番上手いからと言って決して一番偉いという訳じゃないでしょう?
 でもそれも、自分のストイックなまでの上昇志向を他人にも求めているからと言うのは僕にも何となく理解出来ていたので、反論せずに言葉を呑み込むことが出来た。
「どこへ食べに行くの?」
 さっきそんなことを言っていたので、先を行く千夜さんに訊いてみた。僕も今日は仕事前に食べたっきりで何も口にしていないから、せっかくだし一緒に食べて、その時にバンドの話ができればいいなと計算した。
 ……ますます持ってナンパだと思う。自分のやっていることが。
「関係無いだろう貴様には」
 逆鱗に触れたのか千夜さんが足を止め、僕に振り向き強い口調で言い返した。蛇に睨まれた蛙のように背筋が張り、固まってしまう。
 ちょっと深く踏み込み過ぎた。
 すまない気持ちで胸が一杯になって立ち竦んでいると、千夜さんは軽く溜め息一つついて踵を返した。
「……駅前のレストラン。電車で来ているから」
 すぐにその言葉の意味は判らなかったけれど、自分も駅に出ないと帰れないので無言のまま千夜さんの後ろを少し離れてついて行った。千夜さんも普通の歩調で、こっちを一度も振り返ること無く帰路を辿る。
 そして駅前。
「閉まってるね」
「…………」
 レストランは、本日定休日也。
「じゃあ。帰りに食べる」
「あわわ、待って待って」
 そっけない言葉を残し立ち去ろうとする千夜さんを慌てて呼び止めた。
「サンドイッチの店が向こうにあるから、そっちで食べない?僕のよく行く店」
 このままお腹を空かせたまま帰らせるのも可哀想だし、駄目元で誘ってみる。味は保証済みだから、これを機に是非千夜さんにも足を運んで貰えればいいなと思った。
「……まだ用があるのか?」
 疑り深い目を僕に向けてくる。けれども僕にやましい気持ちは一つも無いし、なるべく早くバンドの誘い話を持ち掛け、僕の持っているデモテープを彼女に渡したかった。
「うん。だから食べながらでも」
 TVのCMに出てくるような、満面の光輝く笑顔を見せる。
『…………。』
 ――黒トンボが横切る位、二人の間に物凄い沈黙が流れた。
 顔が引きつって崩れそうになるのを必死に耐えまくる。この笑顔は10秒と続けていられない。全身全霊を込めた笑顔が周りからどう見えるかなんてあまり考えたくなかった。
「……まあいい」
 釈然としない表情だったけれど、千夜さんが渋々折れてくれた。内心ガッツポーズ!
 こうして男はナンパ道を進むのであろうか……。
 それはともかく、千夜さんを連れサンドイッチの店に入った。
 よくよく考えればこれは俗に言うデエトという奴ではないのかと脳裏を掠め、冷や汗が大量に噴き出す。変な妄想と壊れた理性が入り混じり右脳が大暴走している僕の横を通り過ぎ、千夜さんは早々に注文を頼むと窓際のカウンター席に向かって行った。
 無理矢理脳味噌を冷却させ精神を鎮めてから、僕も注文を済ませ千夜さんの元へ向かう。今は真剣にバンドの話に集中しよう。
「向こう座らないの?開いてるのに」
 店内は夕食時と言うこともあってか賑わっているけれど、奥にも少し空席があった。狭苦しいカウンター席よりもゆったりできるテーブルの方がいいと思うのに。
「私は貴様と食事しに来た訳じゃない」
「まあ、そうだけど……」
 はっきりと断定されて、返す言葉も無くなってしまった。よく見ると千夜さんのトレイの横に、灰皿が置いてある。どうやら喫煙席らしく、それでここを選んだみたい。
 彼女は一番隅の席に座っていて、店内にいるお客さんの目を確かに引いていた。でもそれも全く気にしない様子で、ガラスのショーウィンドウから外を眺めて煙草を懐から取り出す。そんな千夜さんとの間に一つ席を挟み、座った。さすがに隣には並べません。
 自分のツナサンドを頬張りながら、千夜さんを横目で見る。黒で身を固め、端正な顔立ちで張り詰めた雰囲気を発しているその姿は素直に格好良く、見惚れた。
 トーストを千切り口に運んでいる千夜さんがこちらの視線に気付き、冷ややかな目を僕に向けてからコーヒーを口につける。その仕草が妙に色っぽく、自分の胸が不意に高鳴るのを感じた。
 やましい考えを振り払うように、適当に話題を取り繕う。
「千夜さんって、ホント凄いドラム叩くよね。小さい頃からやってたんだ?」
「中2の時から」
「ぶっ」
 あまりの答えに口に含んだばかりのレモンティーを吹き出してしまった。思いっきりむせていると、周りの目がこっちを向いて気恥ずかしい。咳をしている僕を、千夜さんは変わらぬ冷たい目で興味無さそうに見ていた。
「じょ、上達早いね……」
「物心付いた時からずっと音楽はやっているもの」
 さも当然とばかりにさらっと答える千夜さん。
「じゃあ、絶対音感だっけ?それもあるんだ?」
「他人が言うほど有り難い物でもない」
「あ、そう……」
 話題に乗って来ることもなくあっさりと流されてしまい、逆にこっちが拍子抜けしてしまう。これは思った以上に、千夜さんに叩いて貰うのは難しいかも知れない。
「ずっと気になってたんだけど、どうして千夜さん、変に男言葉なの?」
 一つ目のツナサンドを平らげてから、抱いていた疑問を率直に訊いてみた。すると、
「貴様は私をナンパでもしに来たのか?」
千夜さんは喧嘩を売るような感じで一段声のトーンを上げ、僕に侮蔑の目を向けた。
「そ、そんなつもりなんてないんだけど」
 どうやら、触れてはいけない部分だったらしい。何か事情があるのかも知れないけれど、これ以上深く詮索することは止めにしよう。
 昔からこうして他人の触れて欲しくない所に悪びれもなく刃を入れてしまうことが多い自分の性格が恨めしい。悪気がないから余計性質が悪い。のは解っていてもなかなか簡単に直るものでもなく、時折こんな風に僕をブルーにさせる。
 自分の嫌な部分が見えた日には必ず布団に入ってもすぐに眠れずに、悔しい気持ちで胸を締め付けられる。昔からちっとも成長していない自分に腹が立って仕方無かった。
「その前にさっきから名乗りもしないで、失礼過ぎる」
 そう言われて初めて、僕が自己紹介していないことに気付いた。よくよく考えてみればあの時に一番目立っていたのは黄昏で、僕は彼を静める役回りだったから、印象も薄く名前も知らないのも当然か。
「ご、ごめん、つい先走りしちゃって」
 これ以上余計なことを口走り過ぎ、本来の目的を忘れてしまう前に全部話そう。
「僕、徳永 青空。今、バンドのドラムを探してるんだ。それで、千夜さんに声をかけてみようと思ったんだけど……」
 たどたどしく話す僕に千夜さんは細い目を向けて来る。
「バンドやるの、初めて?」
「え、あ……」
 唐突に質問され、どぎまぎしてしまった。喉元に溜まった唾を呑み込んでから、返す。
「今の所僕を含めて3人いて、ベースのイッコー以外は」
「通りで見た事の無い顔だと思った」
 溜め息交じりに千夜さんが吐き捨て、手元のトレイに視線を落とした。
 イッコーに最初話した時もそうだったけれど、自分のキャリアの無さがひたすら恨めしい。それだけでもう、音楽やるなと世間に言われているような気になってくる。
 どれだけ始めるのが遅かったって別にいいじゃない。僕は自分でこれを選んだんだから。
 そう何度も何度も自分の心に絶えず言い聞かせ、幻聴に押し潰されそうになるのを堪え、僕は歩いている。
 このコンプレックスは死ぬまできっと抜けない、と解っていながら。
「一昨日も言っただろう、5万円くれたらやる、と」
 千夜さんが突き放した口調で、あの時と同じ言葉を口にした。
「うん、そう言われて黄昏も怒ってたんだけど、それって絶対本心じゃないって僕は思ったんだ」
 すぐに僕がそう返すと、千夜さんが目を丸くする。
「だって、お金欲しさに叩いてる人があんな音なんて出せないよ」
 面と向かって言うのはさすがに恥ずかしいから、なるべく顔を見ないように目線を落とし、自分の気持ちを正直に話した。
「千夜さんより技術的に上手い人は一昨日のイベントで2人くらいいたけれど、観てても『ああ、上手いなあ』としか感じなくて。でも千夜さんのドラムはそうじゃなくて、何て言うのかな……凄く攻撃的で空気を切り裂くような音なんだけど、泣いている感じがしたんだ。あ、別に千夜さんが泣いているって意味じゃなくて、音が」
 こんな例えが出てくるのも、以前小説を書いていたせいもあるだろう。ちらちらと相手の顔色を伺いながら、一番自分の気持ちを的確に伝えられる言葉を選んでいく。
「ただ叩いているって言うんじゃなくて、何か叫んでいるみたいで。それが黄昏――昨日、千夜さんに突っ掛かって行った彼――の唄声に通じるものがあったから、こうしてもう一度声をかけてみたんだけど」
 僕の求めているものは、魂の叫び、なのかも知れない。
 なあなあの表現なんていらない。自分の心を震わせてくれるような、魂の叫びに触れたい。どんなに荒削りだろうと、どんなに拙く見えていようと。
 黄昏、『discover』のディガー、イッコー、千夜さん。
 形はそれぞれ違うけれど、全員が自分の武器で戦っている。そんな風に僕には思えた。
 そして僕も、叫んでみたい。
「千夜さんがドラム叩いている所観た瞬間、『これだ!』と思って。黄昏と、イッコーと、千夜さんがいれば凄いバンドができると確信したんだ。他の二人と違って僕は全くの素人だから足を引っ張ると思うんだけど、それでもどうしても一緒にやりたくて」
 しっかりと千夜さんの目を見て僕は言った。
「一度でいいから、黄昏が唄ってる所を見てくれないかな。それで嫌だって言うんなら残念だけど僕も諦めるよ。それにもし本当にお金が必要だって言うんなら、すぐ引き下がるし」
 千夜さんの瞳の中に、これ以上無いほど真剣な僕の顔が映っている。そんな僕の気持ちを察したのか、彼女も真剣な眼差しでこちらを見ていた。
 決して僕の方から目を逸らそうとはしなかった。そうしたら自分の中にある決意が音を立てて崩れてしまうと思ったから。
 自分の抱えている無数の弱さに負けない強さが欲しい。
 自分の弱い気持ちを吹き飛ばせるように叫んでみたい。
 僕は生きているんだ!と。
「…………。」
 しばらくの間無言で視線を交わしていると、店内に流れる曲が変わった。場の空気が変わったのを見計らい千夜さんは新しい煙草を取り出すと、言葉少なに僕に訊いた。
「貴様は?」
「何?」
「楽器」
 品定めするような目で僕を見てくる。ここで嘘をついても仕方無いので、正直に話す。
「ギターだけど……まだ始めたばかり。イッコーを誘った時にはボロボロだったけれど」
 その時よりは若干上手くなったのが心の支えではある。
「ライヴは?」
 痛い所を突かれ、だんだん気持ちが参ってきた。でも顔には出さないように努める。
「まだ、全然見通しないかな。曲も少ないし」
「ライヴ中心に活動するバンドしか手伝わない事にしているの。それに、他と掛け持っているから希望通りに練習に出られるとは限らない」
 千夜さんは口に咥えた煙草に火をつけ、ガラス戸の外に目をやった。何だか面接を受けているような気がして、緊張してくる。
「歌詞は」
「歌詞は僕の担当。一応コピー持ち歩いているんだけれど」
「見せて」
 手を差し出し催促してくる千夜さんに、僕は手早く鞄の中からプリントの束を渡した。
 唯一僕が自信を持っているものとすれば、歌詞だった。
 正確には、歌詞の詩世界。
 メロディラインに載せる『歌詞』という点では黄昏には遠く及ばなくても、自分の持っている感性には揺るぎない自信があった。
 それは、あの私小説。
 歌詞を書き始め気付いたことだけど、『mine』を書き上げたことによって僕の表現はとても芯のあるものになっていた。
 どこかで見たような受け売りじゃない、自分自身のことば。
 心の底から表現したものは、こんなにもまばゆくてすばらしいものなんだ。
 そして他人の魂を揺さぶるものと言うのは、本当に魂を削って生み出したものだと。
 それを黄昏が教えてくれた。
 黄昏にあの小説を受け入れて貰えたことが、僕を支える大樹の幹になっている。
 そして思った。
 もしかすると僕が今まで抱えてきた悩みや不安、そして願い。それらはこの世に生きるみんな誰しも一度は考えたことがあるんじゃないのか?
 特別だと思っていた自分は、実は誰とも違わない。
 みんなそれぞれ、自分だけの人生を歩いているんだ。
 そのことを、今になってようやく気付いた。
 幸いにも、僕にはことばがある。自分自身を深く見つめ続けることによって手に入れた、飾りのない純真なことば。胸に抱く想いをストレートに表現できる術を持っている。
 僕と同じ想いを持っていながら、手段が無くてどうすることもできないひと。
 何だかよく解らないけれど、続く日常に不安を抱き続けているひと。
 僕が表現し続けることで、そんなひとたちの心を結果的に代弁出来るんじゃないか。もしかすると、僕のことばで目の前が開けるひともいるかも知れない。
 そうやって他人と手と手と繋げる。
 他人の温もりを感じ、自分の存在を確認できる。
 だからこそ、僕はここにいてもいいのかも知れない。
 そして何より、自分の発したことばが一番、僕を救ってくれるんだ。
「……どう、かな?」
 千夜さんは黙ったままプリントに軽く目を通す。どう思われているかが気になって気になって、喉を通ったツナサンドの味がちっとも解らなかった。
「考えておく」
 さっと一通り読み終えた後、千夜さんは口の中に残りのトーストを放り込むと、鞄とトレイを手に席を立った。
「あ、まだ……」
「やるかどうかは後でイッコーに連絡する。それじゃ」
 それだけ言って、千夜さんはさっさと引き上げようとする。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 まだ話したいことがあるのに。
 そんな気持ちが、僕の体を動かした。
 千夜さんの右腕をぎゅっと掴む。その瞬間、
「触るなっ!!」
店内に物凄い怒号が響き渡った。
 ワンテンポ置いた後、千夜さんの持っていたトレイが音を立て床に転がった。一斉に客達の視線が僕達に集中する。
 恥じらいなんてない、怒りや焦りの混じった引きつった顔で、千夜さんが殺気立った眼を僕に向けていた。肩で大きく息をしながら真っ赤な顔で。
「ご、ごめん……」
 まさかここまで過敏に反応するとは思わなかった。
 すまない気持ちを胸に一言謝り床に落ちたトレイに手を伸ばすと、千夜さんは背中を見せて逃げるように大股で店を出て行く。その姿を、僕はぽかんと口を開け見ていた。
 張り詰めた空気がほぐれ、すぐ店内に活気が戻って来る。何が何だかよく解らないけれど、慌ててトレイの残りを口に掻き込み彼女の後を追い駆けた。
 店の外は入る時よりも冷え込んでいて風が冷たい。千夜さんも電車に乗る筈だから、僕は急いで駅の方へ走った。
 今のうろたえ振りは何だったんだろう?
 いくら僕が男だからって、普通あそこまで反応しない。触られたのが僕だからという理由ならさすがに泣けて何も言えないけれど、あの素振りは尋常じゃなかった。
 あれは……怯え?
 いろんな感情が入り混じっている中に含まれていたものを、僕は見逃さなかった。
 切符売り場にはたくさんの人がいて混雑している。人混みを掻き分けていると、改札口に向かう千夜さんの後姿を見つけた。
「ねえ、千夜さんっ」
 大声で呼ぶとこちらに気付き一旦足を止めたけれど、彼女は知らん顔をして歩を早めた。人にぶつからないようにフットワークで避けながら、千夜さんの元に駆け寄る。
「一昨日喧嘩したバンド、本当に辞めたの?」
 その背中に尋ねると、改札口の前で足を止め、うざったそうに振り返った。
「――だから?」
 もう関わらないでくれ、と顔が言っている。それでも僕は、千夜さんにこれだけは言っておきたかった。
「あ……、辞める辞めないは千夜さん本人の問題だからあれだけど……向こうの人達に悪気はなかったと思うんだ。そんな中途半端な気持ちでステージに立つ人なんていないと思うし――第一、誰もなあなあでやってるはずないんだから」
 別にあの人達を弁護しているつもりはない。けれど、音楽に、表現に携わっている人達も僕と同じく真剣な気持ちで取り組んでいるんだと思いたかったから。
「おめでたい奴だな、貴様は」
 だけどそんな僕の考えを嘲笑うかのように鼻で笑い、千夜さんは一瞥くれ改札口を通って行った。もちろん、こちらを振り返ろうともしない。
「……万事尽くして、天命を待つ、か」
 千夜さんの後姿を見送り、僕は疲れた顔で駅構内の天井を見上げた。


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