011.犬と猫
「うーっ……」
ガンガン痛む頭を抑えながら、夕暮れの街の中を僕は歩いていた。
先週まではあんなに暑かったのに、週頭からやってきた早めの秋雨前線のせいで周りの空気が一気に冷え込んだ。おかげさまで、まだ9月の終わりだというのに夏の香りはすっかりと消え失せ、秋の到来を感じる。立ち並ぶ街路樹達が赤く色を染めて行くのも時間の問題のような気がした。
僕はここ数日の急激な気温の変化にやられ、今年に入って初の風邪を引いた。
昔から季節の変わり目、特に夏から秋、秋から冬にかけ必ずと言っていいほど一度は風邪でダウンしていた。子供の頃はガキ大将で活発だったけれど、それほど体は強くなかったと思う。よく腹を下していたし、幼稚園の頃は水ぼうそうで10日程寝込んだこともある。今でも時折あの頃の自分を夢で見るくらい、辛かった思い出があった。
そんな訳で例年のように今年も僕は風邪を引き、ついさっきまで家で布団を被っていた。一度引けば免疫が付くのかその後は何ともないのにね。
今日は大事な日。千夜さんが僕等のバンドを見に来る日。
誘った日から数日後、ライヴハウスで会ったイッコーに千夜さんがセッションのOKを出してくれた。とは言っても最終的な判断はセッション後にする訳で、まだ浮かれてはいられない。イッコーの話では、千夜さんは誘われれば『一応』そのバンドと最低一回はセッションするみたいなので、勿論僕達も軽くあしらわれる可能性だって多分にある。
僕本人としては、イッコーと同じ時のように自信があった。歌詞については誰にでも受け止められるものを書いているつもりでいるし、黄昏がその気持ちを迷うこと無く歌にしてくれる。イッコーと言う心強い味方も加わり、勝てる要素はいくつもあった。
断られる時は、僕達と波長が合わなかった時だけ。
そんな風に思っていたせいか、イッコーの時よりはゆったり構えていられた。
一時間ほど前にイッコーから電話が入り、もう千夜さんもスタジオに来ているらしい。どうやら別のバンドのセッションを同じスタジオでしているらしく、その後に僕達のバンドへ足を運ぶつもりだそう。
電話があるまでずっと寝ていたので、身だしなみを整える暇も無く電車に飛び乗った。
どうも今日は頭がぼーっとしていて、物事を上手く考えられない。何か忘れ物をしていないか何度も何度も確認しながら、いつものスタジオへ向かう。電車の窓ガラスに映る僕の顔色はあまり優れていない。右後ろの寝癖で跳ねた髪がなかなか直らなかった。
夕暮れから夜に変わるこの一時間くらいは一番、空の移り変わりを肉眼で感じられる。5分刻みで太陽が沈んで行き、紅く染まった空が紫に食い尽くされて行く。この街は海が近いから海側から風が吹けば、潮の香りがそれに絡まり優雅な一時を創り出す。
家に篭ってばかりいた時は、夕暮れ時になるとベランダに出てぼんやりと流れる雲を見ていることが多かった。夕焼けの色が世界の本当の色なのかなあ、なんて思いながら。
今は目の前がくるくる回りそれどころじゃないけれど。
背負っているギターの重みをずしりと感じながら、何とかスタジオに到着した。いつもなら途中であの女の子に出くわしている所なんだろうけれど、今日はいなかった。
「あれ?」
スタジオ前のベンチに座り、イッコーが缶コーヒーを飲んでいた。僕の姿を目に捉えると、急いで駆け寄って来る。
「あーもーよーやく来たよ青空ちゃーん」
泣き笑いのような顔を浮かべ僕にヘッドロックをかけてきた。今体を揺さ振られると吐いてしまう可能性があるので、慌ててタップして解いてもらう。
「どうしたの?」
「どうしたのってさー、まいるわほんとに」
珍しくイッコーが溜め息をつくと、ベンチに座り直した。僕もそれに倣う。
「千夜が予定より早くセッションが終わったからっておれたちんとこのスタジオに入ったんだけどよー、たそがいるからすっごい空気がギシギシしてなー。でもってどっちも無言で一歩も引かずにいるもんだから、ますますいたたまれなくなってきてさー」
どうやら部屋の空気に耐えられなくなったらしく、逃げるように外に出て来たらしい。
「ほんとに千夜でやってくつもり?青空ちゃーん」
イッコーが困った顔をしているくらいだから、やっぱり二人は犬猿の仲みたい。
「それでも……千夜さんのドラムは絶対に僕達の音楽に必要だと思うから」
「そりゃあそーかもしれないけどよー……」
「ここでうだうだ言ってても始まらないよ。行こっ」
渋るイッコーの腕を取り、僕達はスタジオの中に入った。
「あれ、青空、元気になった?」
早速、仕事中の叔父さんと目が合ってしまった。風邪で昨日と今日、バイトを休んでいたから少し気まずい。でも今日は絶対に来ないといけないのも叔父さんにも話しているし、僕は苦笑いで会釈するのが精一杯で借りている部屋に急いだ。
「連休の間に、しっかりと体休めときなよーっ」
「はーいっ」
叔父さんに背中に声をかけられ、返事をした。今日は金曜だから昨日からの休みを入れると実質4連休になる。風邪をこじらせるとまずいから、なるべく無理は控えよう。
「ごめーん。遅れちゃっ……た……」
イッコーを連れ、勇んで部屋の扉を開けて入ろうとすると、中から物凄い澱んだ空気と共に千夜さんと黄昏の怒声が飛んで来た。
「何で貴様にそこまで言われなきゃならない!」
「おまえに頼んでる奴らの気持ちを一度くらい考えたことがあるか?」
「そう言う貴様だって真面目に音楽に取り組んでいるようには全然見えない」
「そんなふうに他人と自分を比較して粋がってるような奴に言われたくないね」
二人が部屋の中央で互いに顔を近づけ怒鳴り合っている。僕の挨拶する声もしぼみ、二人の声にかき消された。
「うっわ、すげーなこりゃ」
僕の後ろからイッコーが二人の怒鳴り合いを眺め、感嘆の息を漏らした。
「あそこまで真っ向勝負で千夜に立ち向かえる奴なんて今までいなかったぞ……」
「っと、眺めてる場合じゃない。二人を止めなきゃ……っ!」
僕が二人の間に割って入ろうと駆け寄ろうとしたら、突然咳がこみ上げて来てその場で咽せた。それでもこちらに気付かないほど、二人共頭に血が昇っている。
「私は貴様みたいにおママゴトでやっているつもりなんて無い!」
「かもな。でも俺はおまえみたく脳味噌まで腐っちゃいないよ」
「どうだか。あの青空とか言う奴も、貴様と同じでガキみたいに甘い夢でも見てちやほやされたいとでも思っているんだろう?くだらない」
千夜さんがそう吐き捨てた瞬間、黄昏が千夜さんの体を両手で思い切り突き飛ばした。足元にあった椅子に躓き、派手な音と共に後ろに設置してあったキーボードに体を預けるように倒れ込む。
「だっ大丈夫、千夜さん!?」
「青空……」
僕の悲鳴で黄昏がようやくこちらに気付いた。大きく肩で息をしている。
「帰るぞ青空。こんな奴と組む必要なんておまえにない」
激昂した体を鎮めるように大きく息を吐き髪の毛を掻き上げ、黄昏は立ち去ろうと僕等の横を通り過ぎて行く。
その時後ろから、強烈な殺意を感じた。
「まじかよ……?」
振り返ると千夜さんが、転がっていた椅子を手に抱え仁王立ちしていた。僕達三人とも冷や汗を垂らし、呆然と見ている。
「イッコー、そいつを押さえて。今から消すから」
抑揚の無い声でそう呟くと、彼女は一目散に黄昏目掛け駆け出した。
「ちょっ……冗談だろおっ!?」
「千夜さん駄目っ!!」
椅子が振り下ろされる前に僕は飛び出し、体を張って千夜さんを押し止めた。
「……っ!!」
まずい、と思った時にはもう遅かった。
ガッ!
一瞬何が起こったのか判らなかった。気付いた時には僕の体はもう吹き飛ばされていて、横の壁に顔面から激突した。
「おいおい、だいじょうぶかっ!?」
イッコーの声が聞こえる。鼻頭が熱い。手を当ててみると、どうやら鼻血が出ているらしかった。何だかそれに加えて頭痛もする。
「ん……あれ……?」
瞼を開いて見上げると、イッコーの顔と、その向こうに千夜さんの姿が見えた。
「ん、ちょっと待って……」
重い頭を振り、よろめきながらも壁に背を預けて立ち上がる。
……何がどうなっているのか全く分からない。
「おい、まじだいじょーぶか?」
心配そうにイッコーが僕の顔を覗き込んで来る。流れる血を止めようと鼻を押さえながら、何が起こったのか思い出してみると、ようやく今の状況を理解できた。
「うん、ちょっと少し記憶が混乱してただけ……」
「をいをいをいをい」
気休めで言ったら、さすがにイッコーは苦笑いを浮かべていた。
「…………。」
千夜さんが無言で僕を見下ろしている。怒りと戸惑いの混じった表情で、必死に言葉を探しているみたいに見えた。
「何とか言ったらどうなんだ」
黄昏の厳しい声が静まったスタジオに響き渡った。声の方を見ると黄昏が両拳を血が吹き出しそうなほど握り締め、千夜さんを睨んでいた。
「大丈夫だって、黄昏。悪いのは僕だから……」
千夜さんが体に触れられるのが嫌だって言うのをすっかり忘れていた。風邪を引いているせいで頭の回転が止まっていたみたい。
止めるからとは言え、いきなりしがみついた訳だから驚かないはずがない。おかげで肘をまともに鼻に貰ってしまった。
「それもあるけど、そうじゃない」
僕を見て、黄昏は首を振った。
「別に俺がいくら言われたって構いやしない。だけど青空を悪く言ったのは謝れ」
すうと息を吸い、真剣な顔で千夜さんに向かって一気にまくしたてる。
「どうせ俺たちはガキだよ。でもな、甘い夢見て何が悪い?そりゃあうまく行けば、金をたくさん稼げることもあるだろうさ。かと言ってそれ目当てでやってる奴らを悪く言う権利なんておまえにない。誰がどんな気持ちで音楽やってるかなんて、そいつら一人一人の問題だろう?前におまえがケンカした奴らもそうだけど、あんまり自分の考えを他人に押し付けて相手見下してんじゃねえよ」
黄昏の言葉に、押し黙っていた千夜さんが一瞬体を強張らせた。
「おまえがどれだけバンドやってるのかは知らねえけど、そんなふうにてめえの思想押し付けられると迷惑なんだよ。おまえみたいにつまらないプライド振りかざしていきがってるより、でっかい夢見てるバカでいるよ俺たちは。その方が何億倍も楽しいしな」
「…………」
部屋の中がしんと静まり返っていた。
黄昏が僕に向かい無言で相槌を打ってくる。彼の言葉が芯まで響き渡るその頭で、僕も小さく頷いた。千夜さんは黄昏を睨んだまま動こうとしない。
僕には持っていない黄昏の純粋さが羨ましい。けれど、それが僕の背中を押してくれる時もある。
心の中でずっと迷っていた。本当にこの道を進んでいいものなのか。
黄昏に手を差し伸べた時の気持ち。でもそれが揺るがない日は一日たりとも無かった。
自分で何かを掴み取る。そんな『夢』はこの現実じゃ叶わないんだって、無意識の内に頭に植え付けられていたから。
誰かに言われた訳じゃない。ただ18年間生きて来て、現実という自分のいるこの世界が考えている以上に思い通りにならないということを、身を持って味わってきた。特別何かあった訳じゃない。ただ、日常を繰り返している内に否が応にも見せ付けられた。
心のどこかで諦めの節を持っていた。
不安、弱音、迷い。それらが僕を夢から目を逸らせようとする。
けれど黄昏は真っ直ぐを見ていた。
揺るぎ無い絶対的な自信があるのか、言葉で不安を胸の内に閉じ込めようとしているのか、それともただ現実を知らないだけの若者なのか。
いや、きっとどれも間違っている。
だって今の黄昏の顔、あんなに飄々としているんだもの。
そんな黄昏の姿を見ていると、ふっと涙腺が緩んだ。頭がぼうっとしているから感情がすぐ表に出てしまった。痛みで泣いているように見せようと、鼻をさすり誤魔化す。
その僕の仕草を見て、イッコーが顔を覗き込んで来た。
「なんか腫れてねえ?薬か氷でももらってこよーか」
「大丈夫だとは思うけど……」
当たった所をさすってみても、鼻骨が折れてへこんでいるような感じはない。骨なんて一度も折ったことが無いから何とも言えないけれど。
千夜さんがばつの悪い顔でこちらを見ている。大丈夫と、僕は小さく手を振った。
「ちょっと待ってろ、店の親父たちにはテキトーにごまかしてやっから」
僕達を安心させるように言い、笑顔を残しイッコーが部屋を出て行く。この時は耳を素通りして行ったけれど、よくよく考えてみれば叔父さん達に知られたら大事になっていたかも知れないことに後になって気付き、どっと冷や汗が出た。
「あとオメーも来い、たそ」
「何だよ」
「いーからいーから。じゃ、待ってろよ」
途中で黄昏の首周りを掴み、半ば引きずるように出て行った。
黄昏が場にいなくなったことで、張り詰めていた部屋の空気が緩んだ。何とか一段落した安心感から、安堵の溜め息が自然について出る。
このままの姿勢で壁にもたれ待っているのも何だから、近くの椅子を探そうとすると、千夜さんがさっき投げつけようとしていた椅子を差し出してくれた。厚意に甘え腰を下ろすと、風邪のせいもあってか余計に疲れが出たような気がしてぐたっとなった。
「……すまない」
キーボードの台にぶつかったことで床に散らばったケーブルの束を拾い集めながら、千夜さんが僕に謝ってきた。突然のことにぽかんとしていると、もう一度、僕に顔を向け掠れるくらいの小さな声で言い直した。
「ぷっ、あはは……」
何だか無性に可笑しくなり吹き出してしまう。笑いを堪えきれずにいる僕を見て、千夜さんは固まったままきょとんとしていた。
「ごっ、ごめん。そんな顔もできるんだなーと思って」
「…………。」
ようやく僕の笑いの理由に気付いたのか、千夜さんはぷいと顔を背け台を元通りに直し始めた。何か言いたげな顔をしていたけれど、膨れっ面で黙々と作業を続けている。
こんな顔は、本当に女の子らしいのに。
熱のせいなのかぼんやりとした頭で彼女の横顔を眺めていると、鼻血が垂れてきた。顎を上に向けて軽く鼻をすすっていると、千夜さんがドラムのそばに置いてあった自分の黒い小さな鞄の中から何かを取り出し、僕に投げてよこした。
清潔感のある、市販のポケットティッシュ。
「使え」
「あ、ありがとう……」
恥ずかしいのか柄じゃないのか、すごく不器用に接してくる千夜さん。お礼を言って、ティッシュで鼻血を止める。残りを投げ返そうとしたら首を小さく横に振ったので、とりあえず自分のGパンのポケットに入れておいた。
「……何も言わないのか?」
僕に背を向けて自分のスティックをチェックしていた千夜さんが、不意に尋ねて来た。どうやら、黄昏との口論で僕を悪く言ったことを訊いているらしい。
「ん、あーでもそれは……」
言われなきゃ素通りしてしまう問題でしかなかったから、素直に胸の内を答えた。
「千夜さんの言う通りだし。僕は黄昏みたいに純粋じゃないから売れたらいいなとか、有名になれたらとか考えちゃったりするけれど……でも、それ以上に黄昏と一緒にバンドをやりたいっていう気持ちの方が断然強いから。どんなに言われたって、その気持ちがあるから逃げ出さずにいられるんだけどね」
真面目なことを言っているつもりでも、鼻声だから決まらない。黄昏はあんなに格好良かったのになあなんて内心苦笑しながら、続けた。
「それに、頭に血が昇っちゃうと思ってないこと言ったりするじゃない、人間って」
自分だってそうやって相手を傷つけてしまったことも何度かある。僕達のことをくだらないと本当に思っているのかも知れないけれど、特別怒りも沸かなかった。
「こんなことあった後に頼むのも何だけど、セッションしていってよ。じゃなきゃ僕が熱出てる体に鞭打って今日来たのが台無しになっちゃう」
だって、黄昏の唄声を聞けば全て解ると思っているから。そのためにも今日は絶対千夜さんとセッションしたかった。
自分のことはあまり信じられなくても、黄昏なら、イッコーなら信じられる。もちろん、あんな心を打つドラムを奏でる千夜さんも。
疑いも無くそう思っている僕は、本当にお人好しなんだろう。
「……貴様は」
「ん、何?」
千夜さんは振り返り、疑り深い目を僕に向けた。
「貴様は私が断ると分かり切っていて頼んでいるのか?」
言われて驚いたけれど、よくよく考えてみればこんなことがあった後でバンドに入ってくれなんて本当に馬鹿げた話だと思う。
「んー、どうだろう……」
彼女のその目を見れば、僕を嘲っているのがはっきりと解った。でも、
「頭が回らないからよくわかんないや」
断られる気は不思議としなかった。頭の痛みで物事が上手く考えられないのもあると思う。
「ただ……聴いてみたいんだ。黄昏と僕とイッコーと、千夜さん。4人で一緒に鳴らした音って言うのを。それだけだよ、うん、きっとね」
そう口にしながら、僕は自分の言葉に何度も頷いてみせた。
頭の中で想像している以上の音が、目の前で生み出される瞬間。
それを聴いた時、僕は何を感じるのか。
知りたい。
僕達4人の音で、何が変わって行くのか、何を変えて行けるのか。
千夜さんを無理強いするつもりも無いし、断られたらまた別の人を探さなきゃいけないのは解っていたけれど、絶対にこの4人でバンドが組めるという強い確信があった。
確信と言うよりも、当然に近いくらい。
だからこそ、僕はこんなにも平然としていられる。
――ふと、気付いた。
今の僕の姿は、きっと黄昏と同じくらい飄々としているのかも。
何だか可笑しくって、嬉しくって、自然と顔がほころんだ。そんな僕の顔を、千夜さんはじっと無言で見ていた。
「あ、戻ってきた」
鼻につめたティッシュを交換していると、イッコーと黄昏ががやがやと戻って来た。
「湿布と塗り薬持ってきたぜー……っと、ティッシュ持ってた?」
僕の顔を見てイッコーが気付いた。千夜さんに目を向けると、彼女は何事もなかったかのように僕から視線を外した。一人苦笑している僕を、塗り薬を手に持っているイッコーが不思議そうに見ている。
早速薬を塗って貰い、その上から湿布を貼る。鼻からひんやりとしてくると、頭痛を治す氷袋も欲しくなってくるのは贅沢かな?
「たそもそんなとこでふてくされてないでこっちこいよ。今だけの辛抱だからさ」
僕を手当てしながら、イッコーが黄昏を呼ぶ。じっとしていられないのか、黄昏は扉の前で難しい顔をしながら歩き回っていた。苛つくのには慣れていないみたい。
一分ほど椅子の上でじっとしていると、鼻血の流れもかなり引いてきた。
「じゃあ、早速初めてみようよ。こうしてる時間ももったいないし」
ゆっくりと頭を振ってから席を立ち、自分のギターを用意する。少し目眩がするけれど、何とかなりそう。足元のおぼつかない僕を、イッコーが苦い顔で見ていた。
「まじでやんのか?風邪引いてるしボロボロなんじゃねえ?」
「あー……でも、そんな時の方が余計なこと考えなくて済むからかえってうまくいくかも。ね、千夜さん?」
僕が振ると、千夜さんはムスッとした顔でこっちを向いた。
「……つくづくおめでたい奴だな、貴様は」
千夜さんはこの前の夜と同じく僕に冷たい目を一瞥くれ、スティックを手にドラムに向かって行った。勿論こっちを振り返ろうともしない。可笑しくて可笑しくて笑いを堪えるので一杯一杯の僕を、他の二人は変な目で見ていた。
「じゃあ黄昏、歌ってみせて。君の歌をさ」
――ここから、僕達のロックンロールが始まった。