→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第1巻

   024.白日  

 暦の上では4月だと言うのに、まだ暖かい季節は訪れない。
「う〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜、寒い……」
 思わず口に出してしまいたくなるほど、早朝の寒さは半端じゃなかった。かと言って暖房を入れっ放しでいると光熱費がかさんでしまうので、寝る前に少しだけ部屋の中を暖かくしているけれど、すぐ効果が無くなるくらい寒い。布団を重ねていても肌寒く感じる。
 それもそのはず。カーテンの隙間から見える外は雪がぱらついていた。
 寒波が襲って来ても、4月になっても雪が降るなんて過去に無かったと思う。それくらい今年は異常気象なんだろうけれど、この調子だと果たして夏はどうなるのか。贅沢は言わないから、例年と同じでいて欲しい。じゃなかったらこちらの体が保たなくなる。
 今日は日曜日だからスタジオの仕事も休みだし、ゆっくりしていられる。暖房を入れ、もう少しこのまま布団の中にいることにした。
 でも、やたらと目が冴えて仕方が無い。
 昨日も寝る前までずっと考えていた、黄昏のこと。
 しかし上手い言葉が見つかるはずもないし、答えが出る筈も無い。そもそもどうして黄昏が悩んでいるのかも解らない訳で、それに僕は躍起になっているだけ。
 端から見れば何と馬鹿らしい光景なんだろうと自分でも思う。けれどそれだけ自分の中で黄昏の比重はいつの間にか大きくなっていた。
 これじゃまるで恋焦がれる純情少女みたい。そう考えると恋も友情も、根っこの所は一緒なんじゃないかと思ってしまう。やましい想像がある訳なんて勿論無いとは言え。
 言い換えれば、そんな馬鹿なことを考えられる余裕はまだあるみたい。
 なので今日は、決めていた通りに黄昏の家に行ってみる。そのために一応今から電話で連絡を入れておくことにした。
 案の定、出ない。電話線が引っこ抜かれているのか。
 嫌な時は何もかもを外界から遮断するその態度が、いかにも黄昏らしい。込み上げて来る笑いを噛み殺しながら、僕は通話停止のボタンを押した。
 何時に起きているか判らないから、とりあえず陽が昇り多少暖かくなってからにしようと思い、昼過ぎまでのんびりと新曲の歌詞でも考えることにした。無理に黄昏のことを考えて頭がショートするよりも、よっぽどいい。
「……太陽は?」
 布団の中でノートに向かい、頭を捻っていたらいつの間にか二度寝してしまい、時間は正午を回っていた。なのに空は分厚い雲で覆われていてまるで夕方前かと思うほど暗い。
 全然暖かくなっている気がしない。一度ベランダのガラス戸を開けてみるとその寒さに驚き、慌てて閉め直した。氷点下かと勘繰ってしまうほど寒い。
 こんな日なら黄昏も暖房をガンガンに入れて寝ているに違いないと思う。でもここで先延ばしにしたらせっかく腹を据えた自分の気持ちが揺らぎそうで、ここは寒かろうが雪が降ろうが決めた通りに行く。思い立ったら吉日、重いと感じるかギリギリの所まで厚着をして、自分の鞄の中をちゃんと確認してから家を出た。
「ひゃあっ」
 風も結構強く、素肌の見える部分に容赦無く冷気が叩きつけられる。外のアスファルトには白い雪がうっすらと積もっていて、人が歩く部分と車のタイヤが通る部分だけ、地面の色が見えていた。自転車に乗っていると、スピードも出せないし滑る。駅前までの道程がこれほどまでに辛く厳しいものだなんて思いもしなかった。
 電車に乗っている間に、外はまた雪が降り始める。窓の外には蕾のついたままの桜の木が見え、一体どんな季節なんだろうと目の前の光景を疑いたくなる。
 でもそんな摩訶不思議な景色に見惚れていると、気持ちは自然と落ち着いていった。駅に着いてから手頃な自動販売機で二人分の缶コーヒーを買い、ジャンパーのポケットの中で転がしているだけで随分体が暖かくなる。もし黄昏が出て来なかったら無駄になるけれど、手ぶらで行くよりはいい。多分お酒の方が喜ぶけれど。
「ん」
 雪に足を取られないように注意して歩いていると見慣れた場所に出て、ふと足を止めた。
 黄昏と一緒にバンドをやろうと、初めて誘った時のT字路。今日は雪景色で昼間なのであの時みたいに頭上には夜空も無いし、満月も無い。
 それほど大きな路地でもないので車も人通りもなく、大通りからも離れているので辺りは波を打ったように静かで、雪を踏み締める自分の靴の音がやけに大きく聞こえる。
 ちょうどT字路の真ん中に立ち、すうと大きく息を吸い込む。冷え切った空気が肺に染み込み少し痛むのを、心地良く感じる自分がいた。
 ――ああそうか、ここが僕のスタート地点なんだ。
 今日、帰り道にここをどんな気持ちで通るんだろう?考えると胸がわくわくするような、胃がきりきり痛むような、ステージに立つ時と同じ気分になる。
 昔は嫌いだったその感覚も、いつの間にか慣れ親しんでいる自分がいることに気付き、少し可笑しかった。
「……さーて、いくかっ」
 独り言をほとんど言わない僕だけど、声に出し鞄を持つ手を強く握りしめた。
 雪の積もった薄気味悪い廃ビルを横切り、マンションに到着。黄昏の家がある最上階を見上げると、その向こうに吸い込まれそうな乳白色の空が広がっていた。
 エレベーターで最上階へ。いつものように黄昏の家へ行くだけなのに、緊張していると一つ一つ階を上がって行くのさえやけに遅く感じる。ずっとここに閉じ篭められるんじゃないかと錯覚しそうで、最上階に到着してドアが開いた時には大きな溜め息が漏れた。
 黄昏の家は一番端。引き返したくなる気持ちを抑え一歩一歩確実に足を踏みしめ、辿り着いたドアの前で一つ深呼吸をした。
 どうか出てきますように。
 心の中で祈りながらインターフォンを押し、しばらく待つ。頭で数字を60まで数えてみるけれど反応がないので、今度は押してから中に呼びかけてみた。
「黄昏―っ。いるー?いるなら返事してーっ」
 電話が通じないのでこれしか方法が無い。寝ているのかも知れないけれど十九八苦中にいると思うので、ここは根気良く粘ってみる。
 でも、この寒さ。加えて最上階だから風が強く、有無を言わさず僕の顔面に冷気を叩きつけてくる。1時間位粘ってみようかと思っていたものの、10分位で出直した方がいい気さえしてきた。
「青空?」
「えっ」
 4回目のチャイムを鳴らした後、扉の向こうから黄昏の声がした。目を丸くしているともう一度、今度は大きな声で僕の名前を呼ぶのがはっきりと聞こえた。
「うん、青空だけど。黄昏?」
 返事をすると、分厚い毛布と上布団に包まった黄昏がドアの鍵を開けてくれた。どうやらチェーンはかけていなかったみたいで、それなら素直に自分で鍵を開ければ良かった。それ位身構えていたと言うことにしておこう。
「重くない?」
「ちょっと」
 わざわざ布団も一緒に玄関までやって来る黄昏のその心意気に感服。
「入る?」
「あ……うん」
 向こうから招かれるのは予想外だったので、返事がしもろどろろになってしまった。のそのそと部屋に戻る黄昏の後に連れてお邪魔させてもらう。布団を引きずりながら歩く黄昏の後ろ姿は何だかペンギンみたい。
「でも、まさかこんなに早く出て来るなんて思ってなかった」
「寝てたら声が聞こえたから。寒いだろうから待たせたら悪いなと思って」
 思いがけない黄昏の心遣いに、僕は心の中で小躍りした。
 部屋に入ると、眼鏡をかけていたらすぐ雲ってしまうくらい暖かかった。エアコンをガンガンに効かせているんだろう。それでも黄昏はベッドの上に倒れ込み、重ね布団の中でごろごろしている。そんなこたつ猫みたいな姿を見て、僕は肩から脱力してしまった。
「どう、元気?」
「いつもといっしょ」
 適当な場所に腰を下ろし訊いてみると、普段と変わりない返事。
「でも最近寒過ぎる。今って二月だったっけ」
「四月だよもう」
「春ってこんな季節だったか?」
「異常気象らしいよ。本当に何にも知らないんだね」
「ここ一週間は外出てないから、寒いし……」
 そう言って黄昏は寝返りを打った。布団の中から顔だけ覗かせて僕の方を見ている。最後に顔を見てから10日位しか経っていないのに、ひどく懐かしく感じる。
「外出てないって、ご飯ちゃんと食べてる?」
「さあ……最近水しか飲んでないような気が」
 ダイエットしている訳じゃあるまいし、単に面倒臭がりなだけなんだろうけれどそこまでやる気無しモードに入っている黄昏も珍しかった。
「仕方無いなあ……何かある?簡単なものでも作るよ」
「頼んだ〜」
 僕がその気になると、黄昏はだるそうな声と共に布団の中に完全に姿を隠してしまった。
「それまでこれでも飲んでいて。黄昏の分」
 買って来ておいた缶コーヒーを一つベッドの上に放ると黄昏は少し顔を出し、腕を伸ばしそれを掴むと、また頭を引っ込めてしまった。まるで何かの動物みたい。
 台所の棚と冷蔵庫を調べてみたらスパゲティが残っていたので、カルボナーラでも作ることにした。スタジオのバイトで叔父さんに作り方を伝授して貰ったおかげで自分でも出来るようになったので、ここにも材料を置くようにしている。かと言って黄昏にも教えたけれど、自分で作るよりも僕が作った方が美味しいらしいので自分では作らない。
 卵の賞味期限が少し過ぎていたけれど、軽く火を通すから大丈夫だろう。冷凍庫に入れていたベーコンを一度お湯で解凍してから、手鍋で軽く炒める。もう一つのコンロで麺を茹でてコンソメで味を付ける。料理の合間に部屋を覗いてみると、黄昏は相変わらず布団亀と化していた。ちゃっかりとベッドの横に空き缶が置かれている所が面白い。
 昨日の夕方から僕も食べていなかったので二人分作ってみた。盛りつけした皿を手に部屋に戻ると匂いに誘われ、黄昏が顔を出す。布団を汚さない為に床に皿を置くと、黄昏は布団から出て来て床の上で食べ始めた。
 寝巻き姿の上に毛玉だらけの一回り大きい白いセーター、そして足には靴下。本当に何も食べていなかったのか、無言でカルボナーラにがっついている。明かりの下でちゃんと見た黄昏の顔は以前より少しすっきりしていた。
「ごちそうさま」
 僕が半分も口にしていない間に黄昏は全部食べ終わってしまった。底に残っていたソースまで全部舐め取ったので白い皿はぴかぴか。そしてお腹が膨れ満足したのか、ベッドの上に戻るとまた布団に包まった。見ている方が気持ちの良い笑顔でごろごろ寝転がっている。一体何しに来たのか自分でもちょっと分からなくなってしまいそう。
 しばらくして自分も食べ終り、二人の皿を片付ける。別に今日だけ特別な訳じゃなく、僕が黄昏の家に来る度にいつもこんな感じ。でも自分一人で家で料理をする時は面倒に思ったりもするけれど、ここに来るとその手間さえ愛しく思えるから面白い。それは内心不安でたまらないはずの今日も変わりなかった。
 このままいつもみたいに歌を唄ったり、曲を作ったり歌詞を考えたり、他愛も無い話をしながらまったり時間を過ごしたくなるけれど、そうもいかない。途中で眠くならないように食後のコーヒーを用意し、ちゃんと腹を割って話をする準備と気持ちを整える。
 なのに僕が部屋に戻ると黄昏は目を閉じ、幸せそうに眠っていた。
「寝〜ちゃ〜だ〜め〜っ」
「ああああああああ」
 布団の上に飛び乗り肘をぐりぐりすると、下にいる黄昏が変な声を上げ呻いた。
「なにすんだっ」
「起きた起きた。はい、食後のコーヒー」
「あ、うん……悪い」
 笑顔でコーヒーを差し出すと、飛び起きた黄昏は怒っていいのか解らない顔で渋々カップを受け取った。ようやく起きてくれたので一安心。
「調子はどう?曲作ってる?」
 僕が前に買って置きっ放しにしてあるクッションに座って尋ねると、黄昏は目線を落として首を小さく横に振った。
「ここしばらく、何も作ってないかな……唄ったりはしてるけど、こんなの初めてだ」
「そう」
 ここに引っ越して来てから黄昏はずっと休まずに曲をノートに書き溜めて来ていて、バンドを始めてもそれは途切れることがなかった。
 不安に思うこちらの気持ちを読み取ったのか、黄昏は僕に向かい軽く微笑んだ。
「よくよく考えればずーっと作りっぱなしだったから、自分の気持ちを整理してるとこ」
 そう言ってコーヒーを冷まそうと息を吹きかける。一口つけてその熱さに軽く舌を出し、もう一度息を吹いた。
「――俺ってさ」
 手の平の中でカップを軽く回しながら、黄昏が言葉を続ける。
「昔からずっと同じ事しかほとんど歌ってないし、繰り返してばかりなんだよな。それにも気付かなかった――というか、そんな自分を外から見ようともしなかったんだなって、最近ようやく思えるようになったかな」
「まあ……でも、そんなものだと思うよ」
 上手い言葉が見つからなくて、僕は苦笑するしかなかった。
「バンドで青空の書いた歌を唄って……俺ってまだこの狭い場所でもがいてるだけなのかなって思った。ずっと自分でも書いてたけど、何か違うなって。そうだな――俺よりももっと先を見てる気がした、青空は。俺より一つも二つも先の事を唄ってるなって」
「そんな……でも――」
「何?」
「ううん、何でもない」
 言おうとした言葉を飲み込み、僕は笑顔を取り繕った。
 自分の気持ちとかもあっても結局は黄昏が唄う訳だから、僕はなるべく黄昏の気持ちや心境を考え歌詞を書いている。それでも自分の気持ちを100%込められるのは、僕と黄昏が同じ方向を向いているからに他ならない。だから黄昏が言うように僕が引っ張っているように見えるのなら、凄く嬉しい。だって曲作りも歌詞の面でも、黄昏に負けているって常日頃から思っているから。
 でも面と向かい黄昏のために書いているだなんて、そんなの恥ずかし過ぎて言えない。
「半年バンドやって、最初の頃に描いてた想いがだんだんと形になっていくのがわかる。けど俺ってただここから抜け出す事しか考えてなくて、それより先の事なんて何一つ考えてないんだ。考えられない――今も。ただ闇雲にやってるだけで……ステージに立ってる時は余計な事考えずにすむんだけど、ここで――一人でここにいると、また戻ってきたんじゃないかって、俺はまだここで鎖に繋がれたままなんじゃないかって、よく思うんだ」
 黄昏は喉を反らしコーヒーを飲むと、天井を見上げたまま大きく息を吐いた。
 何も言えなかった。
 僕は何て浅はかなんだろう。
 今まで僕が他人のことを考えられなかった本当の理由がようやく理解できた。
 相手のことをちゃんと見なきゃ、相手の気持ちなんて解るはずないじゃないか。
 そんな単純なことに気付かなかったなんて。
 ずっと一緒にいたのに、もっと早く気付いてやれなかった自分が情けない。僕がもっと黄昏のことを考えていたら、前みたいなことはなかったかも知れないのに。
 でも、へこんでいる場合でも死んでいる場合でもない。ショックを見せないように、能面みたいな顔でコーヒーをすする。味なんてちっとも解らなかった。
「ねえ、黄昏」
「何?」
 思い切って、ずっと疑問に感じていたことを質問してみる。
「どうしてそんなに一人で抱え込むの?」
 その問いに、黄昏は目を見開き固まってしまった。そして本気で首を傾げる。
 気付いてやれなかった僕も悪いけれど、黄昏も僕と一緒にいる時には一度もそんな素振りを見せなかった。だから、何か深い理由があるのかも知れない。
「どうしてって……どうしてかなあ?」
 あまりの予想外の答えにがくっと来て、ついつい手に持つコーヒーをこぼしそうになった。ひ、他人事?
「黄昏〜」
「いや、悪い……でも、何でだろ?考えた事もなかったな」
 天然なのか直球過ぎるのか、ある意味凄い。
「多分、ずっと一人で考えてきたからじゃない?ずっと家に閉じ篭もってたなら、相談する相手なんていない訳だしさ」
「――かもな。じゃあちゃんと青空に言うようにする」
 いきなり自分の名前を出されたので、思わずどきりとしてしまう。
「そうか、どうして一人で悩んでたんだろ……」
 僕が赤面しているのをよそに、黄昏は顎に手を当て一人考え込んでいた。
 でもおかげで少し肩の荷が降り、気持ちも幾分落ち着いた。これから本題に入ろうと冷めかけのコーヒーを一気に飲み干し、そのままの勢いで尋ねてみる。
「あの……黄昏が苦しんでるのって、僕のせいかな」
 尋ねる僕の顔がよほど真剣だったのか、突然黄昏が吹き出した。
「なっ、何がおかしいの」
 しばらく大笑いした後で、笑い涙を拭き取りながら黄昏が答えた。
「そんな事なんて考えた事ない。そりゃあ青空のペースについていけなくなってるとこはあるけど……それでライヴで唄いたくなくなるなんて事ないって。ああやって唄える場所を作ってくれたのは青空なんだから。感謝してる」
「…………」
 何気ないその言葉から黄昏の気持ちが伝わって来て、僕は言葉を無くした。ほっとして、もう今日はこれでOKだと思えるくらいに。
「プレッシャーとかも俺にだってあるけど、重荷にはなってないし。前に青空がさ、ドアの前で言っただろ?『俺がいなきゃ始まらない』って。マジで嬉しかった。必要とされてるって事が。でもそれで逆にプレッシャーを感じるなんてない」
「……そう」
 僕は自分の気持ちを整理していくので精一杯で、相槌しか打てなかった。
「バンドにだって何の不安も問題もない。上手く回ってると思うし……客もだんだん多くなってきてるみたいだし。イッコーも凄くいい奴だろ?千夜だっていけすかない奴だけど、実力もあって『days』には欠かせないメンバーだって事もわかってるし。青空だって徐々に上手くなってきてるおかげで、俺も歌いやすくなってるところだってあるしさ」
 同じバンドのメンバーにそう言って貰えるだけで、救われる気がする。自分一人じゃ上達しているかなんて解るようで実際解らないもの。
 黄昏は空になったカップを足元に置き、両足を組んでベッドにもたれかかった。
「それに何より、あそこで唄ってると気持ちいいんだ。まるで背中に翼が生えたみたいに、自由な気持ちで唄えるから。ここで一人で唄ってるのとは全然違う。ここだと闇しか見えないけど――あそこだと、光が見えるんだ。ステージのライトもちょうどいい感じに光って、辛い事とか苦しい事とか唄ってても救いが見えるっていうか、太陽に照らされてるような感じがするんだ」
 そう話す黄昏の顔から幸せそうな笑みが零れる。唄っている時の厳しい顔とか難しい顔のイメージが強いけれど、笑う時は本当に心の底から笑う。今の笑顔なんてあのT字路で見せてくれた時と変わり無いくらい、いい顔をしていた。
 けれど黄昏の話を聞いていると、どこにも悩む理由なんて見えない。
「じゃあ、何で――」
 恐る恐る訊いてみる。するとうって変わって眉間に皺を寄せ、険しい表情を見せた。
「――何のために唄ってるのか、わからなくなってきた」
 そして一呼吸置き、小さな声ではっきりと言った。
「怖いんだ」


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