→Rock'n Roll→  Tasogare Akane  top      第1巻

   007.嫌な気分の日にはいつも雨(とも限らないかもしれない)

 コンビニから袋片手に出る。
 外はぱらぱらと小雨が降っていた。空はここ一週間程四六時中雲に覆われていて、太陽がちっとも顔を出す気配がない。道行く人はみんな傘を差してる。時折雨足が強くなったり弱くなったり不規則な天候だからか。
 構わず小雨に打たれながら、帰路につく。傘は最初から持ってこなかった。
 昔からこの『小雨に打たれる』ってのが好きで、水滴が服に染みこんで、髪の毛が勝手に潤っていく自分の姿を見つめてるのが無性に楽しかった。
 もしかしたら、生まれる前に母親の腹の中で羊水に満たされてたころの記憶が肌に染み付いているのかもしれない。とはいえ、どしゃ降りの中を傘も持たないで歩くのは真っ平ゴメンだ。
 見慣れた街並を感慨もなく歩く。自分の家の近辺なら、目を瞑ってでも歩けるような気がする。
「腹減ったな」
 目が覚めた時からいい加減鳴り続けてる腹の虫に応えて、買ってきたばかりの肉まんを歩きながら頬張った。多少肉まんが雨に濡れるけどお構いなしに平らげる。
 学生の頃買い食いばかりしてたせいか、歩きながら飯を食うのに何の恥じらいもなかった。ひどい時には歩きながら弁当まで食べる。でも容積の大きいものを食べてると、姿勢を保つのに精一杯で前に神経が行き届かなくなる。一度それで電柱にぶつかった事があって、以来道端で食べるのはおにぎりサイズのものに控える事にした。
 わざわざ飯を買うためにコンビニに繰り出すのも久し振りだった。いつもなら愁が食い物を買い溜めしてくれてたから、外に出る必要が全くなかった。
 家の食料が尽きるまでに愁が戻ってくるのをほんのちょっとだけ期待したけど、案の定今日まで一度も連絡がない。しょうがないので、重い足を運んだというわけだった。
 けど、以前ほど全身を包む倦怠感はましになってる。
 あの女の子――黒いワンピースの少女に出会ったからか?
 とはいえ、相手の事を考えるだけで胸が熱くなったりとかする事は少しもない。他人がよく言う恋焦がれる気持ちとはどうやら違う気がした。
 何も考えようとしないでベッドの上で朝から晩まで寝転がってたのが、今は一日に数回あの時の事を思い返す。これまでとはたったそれだけの些細な変化だけど、体の重石が軽くなったようで気分的にはかなり楽になった。
 商店街近くのコンビニから脇道に入ってしばらく歩くと、小さなマンションが密集した閑静な住宅街に出る。
 俺の住んでるマンションは11階建てで、蔦が縦横無尽にからまった廃ビルの隣にある。バブル下降期に作られたビルらしく、途中で建設会社が倒産してそのまま放置されてるらしい。別に幽霊も出ないし不良の溜まり場になってるわけでもなく、今はすっかり野良猫達の住処になってる。
 そのビルを横切る時、赤錆だらけの金柵の下で一匹の黒猫がじっとこっちを見ていた。ちょうど他の木材が金柵に立てかけられてるから、黒猫が丸まってるスペースに雨は入りこんでこない。
 何か食い物でも分けてやろうかと思ったけど、あいにくすぐに食べられるものはついさっき自分の胃の中に収まってしまったばかりだった。
 威嚇してわざわざ逃がすのも何だと思ったので、ほんの少し見つめ合ってから、マンションへ入った。黒猫の小さな鳴き声が背中に届く。
 オートロック式のマンションなので、玄関に鍵を差しこんで捻る。家のポストを開けて郵便が届いてるかどうか確認しなきゃいけないけど、面倒なので後回しにした。こんなふうに外へ出るたびに面倒臭がってるから、最後にポストの中を見たのは3ヶ月以上前だった気がする。光熱費は全部引き落としだし重要な郵便が届く事もないから、あと3ヶ月ぐらい放って置いても構わないだろう。
 人1人乗るだけで窮屈に感じるエレベータに乗って、11階のボタンを押して、待つ。屋内に入ると小雨に濡れて軽く湿り気を帯びた髪や服が気になりだす。外にいると何とも思わないけど、屋根のある場所へ来ると蒸して蒸してたまらない。
 顔にかかる前髪をかき上げて、最上階に着いたエレベータから出る。俺の部屋は一番突き当たりの、空に囲まれた場所だ。
 遠くで雷の音が聞こえたけど、気にしないで玄関に鍵を差しこんで捻る。すると手応えに違和感があった。
 鍵が開いてる。
 出かける前にきちんと閉めたはずだった。愁の奴でも戻って来たのか?
 俺の家へ愁がよく遊びに来るようになってから、合鍵を作って渡しておいた。不用心だけど、取られて困るものなんて一つもない。あの時も置いて帰らなかったみたいだったから、そう考えると俺がいない間に邪魔してるんだろう。
「ただいまー」
 慣れない台詞を呟いて、ドアを開ける。玄関に見覚えのない靴が一足並べられていた。
 誰だ?
 訝しげに思いながら部屋に入ると、フローリングの冷たい床の上に寝転がってキャンパスノートにペンを走らせている一人の青年の姿があった。
「あ、やっと戻ってきた。おかえり」
 俺より一つ上なのに幼さの残るその顔を上げて、耳が半分隠れるほど伸ばした黒髪の奴は俺の姿を真っ直ぐ捉えると破顔する。
「靴変えたのか?」
 今の今まですっかり忘れてた。愁がここに来る前は、時々青空が遊びにやってきてたんだった。青空にも再会してしばらく経ってから合鍵を渡してある。
「ぼろぼろになったからね……もしかして、別の人を期待してた?」
「んなわけあるか」
 青空の含み笑いをすかして冷蔵庫の中に買ってきた酒を入れる。すると空っぽになったはずの冷蔵庫に食い物がちらほら詰め込まれていた。
「差し入れ買って来ておいたからね。さすがに全部おごりって訳にはいかないけど」
「わざわざ出かけなくてもよかったな……」
 電話の一つでも先に入れといてくれれば待ってたのにって思ったけど、よくよく考えてみればセールスの電話にいい加減ムカついて電話線を抜いたんだったか。
 青空に言われて持つようになった携帯も普段から着信音量を0にしてるし、全然留守録の確認なんてしてないし、メールも使い方がよくわからない。充電器に突き刺さったまま埃を被った携帯のディスプレイを見ると、きっと青空からの着信が入ってるんだろう。
 それにスパゲティやら冷凍食品をたくさん買いこんでるくせに、青空の奴、一つも酒を買ってない。
 さっき自分で買ってきた500mmの缶ビール二本を持って、部屋に戻る。
「……昼間っからよく飲むよね、未成年なのに」
「二十歳なのにほとんど飲まないおまえの分まで飲んでるんだ」
 呆れ顔で肩をすくめてる青空を横目に、主のいないベッドに腰掛けて缶を開ける。
「牛乳買ってきたから、先に飲んでおきなよ。かなりやられてるんでしょ?胃」
 忠告に無言を返して口をつけようとすると、青空は立ち上がってお構いなしに冷蔵庫から差し入れの牛乳をパックごと持ってくる。
「……わかったよ」
 戻ってきた青空の笑顔に負けて、乱暴にパックをひったくって適当に胃の中に注ぎこんだ。青空が言うには、これで胃腸に膜が張られて胃のムカつきが楽になるんだそうだ。
 もちろん俺はそんなうんちくなんて聞かなかった振りして毎日毎日安酒を飲むもんだから、胃の調子がかなり悪くなってるのも自分でも認識していた。愁に止められるのはわかってたから、あいつの前で飲む事は全然しなかったけど。
「まあ、煙草吸わないだけマシだって思ってくれ」
 牛乳パックを青空に返して、早速開けたばかりのビールをがぶ飲みする。これ以上何を言っても無駄だって思ったのか、青空は苦笑してから冷蔵庫に牛乳を戻した。
「ふーっ」
 アルコールが全身に染み渡っていくのを感じて、瞼を閉じて後ろに倒れこむ。
 酒を飲むと、思考回路が鈍くなって無駄な考えが消える。昔は逆に酒を飲むと普段気付かない事ばかり見えてきて、それはそれで楽しかったんだけど、今は視界が宙をさまよう一歩手前まで飲んで、ぼんやりと目に移る現実を眺めてる事が多くなった。
 端から見れば完璧に堕落しまくってるんだろうけど、当人は至ってOKなので気にしない。アルコール中毒なわけでもないからまだ大丈夫だろう。ただ、飲み過ぎで顔がむくむのは、いくら外に出ないからって言っても好きじゃない。
 ぼんやりとそのまま寝転がってから、腹筋を使って上体を起こす。俺の目の前で、青空は部屋の隅にあった座布団に座って、床に置いたノートとにらめっこしていた。
「新曲?」
 身を乗り出して、ノートを覗き込む。俺の理解できない短い文章が縦横無尽にびっしり刻まれている。言葉を成してるものもあれば、様々な単語が組み合わさったものもある。
 青空は肌身離さずこのノートを持っていて、何か思いつけばその度にペンを走らせてる。頭に浮かぶ言葉を全部覚えておくのは無理だからこうやってメモをつけて、それを見るたびに頭の引出しからその言葉が湧き上がった時の感情と気持ちを引っ張り出してるらしい。
「ううん、小説。でもどっちに思い浮かんだ言葉を持ってくるかはその時その時によるけどね」
 ぼうっと虚空の一点を見つめて青空が応える。こんな顔をしてる時はだいたい頭のストックを全部使い果たしてしまって、自分自身の世界を漂って新しい言葉が見つかるまで待ってるんだそうだ。
「んー、今はもうやめっ」
 ぱたん、とノートを閉じて、青空は大きく背伸びをした。俺が帰ってくるまで固い床に寝転がって書いてたのか、しばらく柔軟体操を続けて体をほぐしてる。
「飲む?」
 俺がまだ半分以上残ってる缶ビールを差し出すと、青空はやんわりと手を振った。
「でもよかった、元気そうで」
 青空は立ち上がって、ベランダのそばから外に広がる水海の街を眺める。閉め切ってたカーテンも俺が戻ってきた時には開け放たれていて、網戸を残して窓も開けて換気していた。俺一人だけだと全く気にしないけど、他人からすると息苦しく感じるんだろう。
「そうか?」
「うん、もっと腐ってるもんだと思ってた」
 何の悪気もなくさらっと言う青空。でも、俺も同じで思いついた言葉は平気で口にする人間だし、青空の言う気持ちも理解できるから一つも悪い気はしない。
「世の中が腐ってるから俺も腐るんだよ」
「でも周りが腐ってなくても、腐る事を選ぶでしょ?黄昏は」
「もちろん」
 あっさり肯定する俺の顔を見て、青空は微笑む。俺は残ったビールを無理矢理一気飲みして、空になった缶を床に置いた。視界がぐらついて一瞬嘔吐しそうになるけど、それもほんの一瞬で治まった。
「腐るの大歓迎、ってかー?」
 酔ってるせいか、言葉が頭を通らないで喉から直接吐き出されてるような感じがする。
「ヨーグルトだけどね、キミは」
 窓の外に見えるビルの谷間に生えた水海の赤い大観覧車をしばらく眺めてから、青空はベッドでうずくまる俺の横に座った。
「ビフィズス菌?」
「身体の調子がよくなる、ってね」
「……腐乱死体になりたかった……」
 俺は意味不明の言葉を吐いて、シーツを頭に被る。一缶開けただけで相当酔いが回ってきていた。だけどそれほど胃が荒れた感じはしない。青空の言う通りなんだなって、改めて実感した。当然、そんな教訓も明日には忘れてるけど。
「ホラー映画の冒頭に出て来て五分でゾンビに喰われるタマじゃないよ」
「世界は俺に不公平だ……」
 もはや会話になってるのかさえわからない二人のやりとりは続く。今日は酒が回るのが早いみたいで、俺の口が勝手に支離滅裂な言葉を唱えてる。
「欲しいものが無い世界より、欲しくないものだらけの世界の方がましだって」
「そんなもんか」
「そんなもんらしいよ」
 他人事のように答える青空。適当に受け流してるようにも聞こえるけれど、俺の叫ぶ気持ちをしっかり受け止めて返してるのはわかる。
「隙間だらけだから、みんな」
「?」
「自分に無いものを他人に求めてびっしり隙間を埋めようと動くのが人間の生態」
 青空は頭が回らなくなって理解しきれない俺を置いて席を立つと、トイレへ向かった。
「でもって、常に一人じゃ満杯にならない心を満たしてくれるのを半身だとか恋人だとか言ったりするけど、」
 ドア越しに、青空の話は続く。
「それを手に入れた所で、人生はまだまだ続くよ、ってね」
 水を流す音が聞こえて、青空がすっきりした表情で戻ってきた。
「……隙間を埋めようと他人に関わる度一喜一憂してさ、そこで軋轢が生まれて歪みが生じて腐っていくっていう、そんな仕組みだね、最初からこの世界は」
「歪んでない正常な世界ってあるのか?」
 シーツを取っ払い起き上がって、俺は青空に尋ねた。
「みんなの心の中にあるんじゃない?だから腐っても腐ってもずっと続いてるわけだしね。でなきゃとっくに人類はいなくなってるよ」
 青空は窓際の壁にある本棚から、一冊の真っ白い本を取り出しながら答える。
「普通ならそんな理想郷なんてあっさり見捨てて心の隅に追いやるんだけどね、みんな。でも、黄昏は違うじゃない」
「とっくに諦めてるんだけどな」
「だから他人と極力付き合わない事で理想郷を作ろうとしてるでしょ?自分だけのものだけど」
 どうしてこう、こいつは俺の本心まで読み取ってしまうんだろう。
「その方が手っ取り早くて、楽だもんな」
 俺の答えに、青空は大声で笑った。いかにも俺らしい答えってところなんだろうか?
 ぐるっと質素なこの部屋を一通り眺め回して、青空は感心したように呟いた。
「そう思っててもやらないし、できないのが普通だよ」 
「普通じゃないもん、腐ってるから」
「格好いい腐り方してるよね」
「どーも」
 単に呆れられてるだけな気もするけど、賛辞の言葉だと受け取っておく。
 話が終わると、水が飲みたいって胃が騒ぐ。俺は多少ふらつくのを踏ん張って部屋を出て、キッチンの流し台へ抱きつくようにもたれかかった。蛇口を捻ってがぶがぶ水道水を飲むと、幾分酔いが引いてきた気がする。すると、また頭がアルコールを欲しがりだす。
 今の酔いの回り方じゃ、もう一杯ビールを飲むと100%吐くのがわかってるから、代わりに冷蔵庫からカクテルバーを取り出して部屋に戻った。悪循環だと思いつつもやめられない。酒にとり憑かれてるんだろうか。
「愁ちゃん元気?」
 本棚から持ってきた白と黒線だけでできた絵本を膝の上で読みながら、不意に青空が尋ねてきた。
「元気って……楽屋で毎回会ってるだろ?」
 愁は俺のバンド――ここ最近俺は顔を出してないけど、青空達と組んでる――の追っかけで、ライヴ前の楽屋にもう一人と無断進入してきたのをきっかけに、俺達のライヴの日には必ず楽屋に顔を出すようになった。青空だけじゃなくてバンドの他の二人とも仲がいい。
「二月程、週一でライヴをやってるんだけど……ここ二回、顔見てないんだ」
「キュウは?」
 キュウってのは、憩(いこい)っていう愁の同級生で、愁をそそのかして一緒に無断進入したもう一人の女の子。最初はただのファンだったけど、みんなの勧めもあって今じゃバンドのマネージャーっぽい事までしてくれてる。
「さあ……用事があって行けないって言ってたらしいよ、詳しくは知らないけど」
 絵本に目を落としたまま青空は答えた。
 読んでるのは「ぼくを探しに(邦題)」っていう絵本で、その質素な外見とは裏腹に、中身は深く取れたりシンプルに受け取れたりして、読む度に見方が変わるとても身になる本。俺のスカスカの本棚に並んでいる特別な本の一つだ。元は青空の物だけど。
「ふーん、珍しいな。でも、十分元気だよ」 
 俺があんな事するまでのあいつは、だけどな。
 後の部分を飲みこんで、持ってきたモスコミュールを味わう。カクテルバーは酔いが少ないけど、十分酔ってる時に飲むにはちょうどいい酒だ。
 もう一度ベッドに座って少しずつ飲んでると、青空が何か言いたげにこっちを見てる。
「ま、いいけどね」
 一人納得して、青空は本を閉じた。絵本だから2分もあれば全部読めてしまう。
「何か食べた?」
「ほかほかの肉まんだけ」
「じゃあ外に食べに行こうよ。カルボナーラでも作ろうかと思ってたけど、久々に会ったんだから豪勢にね」
 絵本を本棚に戻して俺の返事が来る前に、メモノートを鞄に入れて出かける準備を始める青空。こいつがこんな先立った行動をする時は、いつも言いにくい事を隠してる。
 どうして青空がわざわざ俺の家に訪ねて来たのか、今ようやくわかった。
「……ヴォーカル?」
「正解」
 俺の問いに、仕度を続けながら青空はまいった顔をして答えた。


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