→Rock'n Roll→  Aozora Tokunaga  top      第2巻

   031.Spirited go away

 季節を一つ乗り越える度に、良くやったと自分を褒めたくなる。
 黄昏と再開してバンドを結成してから、季節は4度巡った。幾多の難題を乗り越え、『days』は現在進行中でいる。何度も思うけれど、これだけ長く続けられるなんて正直思ってもみなかった。
 僕は人よりも飽き易い性格だと思うし、何かを始めても長続きしない。黄昏みたいな真性の面倒臭がりとは違うけれど、与えられたものをやるのも昔から嫌いでそのために親にもかなり迷惑をかけた。ゲームみたいにただ楽しむためだけのものならいくらでも続けていられても、終わった後に形として残るものは何一つ無いから空しくなるだけ。
 そんな僕が投げ出さずに続けられているのも、命を賭けているからと本気で思う。
 言葉にすると大袈裟だけど、『mine』を書いた時に感じたんだ。
 僕は何かを表現し続けないと、生きて行けない人間なんだって。
 いや、正確に言えば何もしなくたって生きて行ける。けれどただ何てことの無い繰り返すだけの日々の中だと、僕は死人と変わらない生活を送るだけの人間になってしまう。『mine』を書き終えてから黄昏と再開するまでの半年以上の間は、本当に何も無かった。
 音楽を始めてから、僕は甦った。
 まるで生まれ変わったような感覚さえした。それ位『days』は、僕に息を吹き込んでくれた。そしてこの1年、できる限りのことをやってきたつもりでいる。
 でも、僕の心の中に何か焦りのようなものが生まれ始めているのを最近感じる。
 曲を作り、練習で4人で合わせ、ライヴでみんなに聴いて貰う。
 その中には毎回何かしら新しい発見がある。家でギターをほんの少し弾いているだけでも、今まで気付かなかったものが見えて来たりする。その度に僕は心の中で大はしゃぎして、発見したものを自らの糧にして次に繋げる。
 そうして少しずつだけど、着実に階段を上っている実感はあった。
 ――けれど、その先に一体何がある?
 誰かに耳元でそう囁かれているような気がして、足を止めてしまう。
 何だかんだで今の自分も、ルーチンワークで生きているんじゃないか?
 上に登るための作業をコツコツと続けるだけの毎日。広い目で見るとどうしてもそう見えてしまうのは仕方の無いことだけど、僕には我慢できない。
 何も考えず、ただがむしゃらにギターを弾きまくっていた日々が懐かしい。経験を積んで心に余裕が出来たことで、苦しむ羽目になるなんて思いもしなかった。
 先週の火曜に千夜さんに指摘されたことで、改めて自分と向き合って考えてみた。確かにバンドを引っ張るはずの僕がそう考えてしまうことで、ここ最近の『days』は以前より停滞気味になってしまっている。
 新曲を書くペースも結成当初に比べ、落ちてしまった。最初は曲のストックが足りないので躍起になってたくさん書き溜め、その中でいいものを厳選してライヴで演奏して来た。
 でも最近は曲数も増え、受けのいい曲を中心にセットリストを組んでいるのでなかなか新曲を発表し難い。バンドのポテンシャルを上げる為に新曲は絶対に必要だけど、どうしても既出のものを選びがちになってしまう。
 お客のことを無視して自分達が気に入っている曲ばかり選ぶのも一つの手だろう。でもそれでもついて来てくれる人がいるのかどうかはまだ初めて1年だから、疑問に思える。それに甘えた考えになるけれど、なるべくなら人の少ない所で演奏したくない。
 心の中では一人一人に向けて放っていると大それた理想論を掲げておきながら、現実ではお客は数の集合体だと考えてしまっている自分がいる。
 気にし過ぎなのは自分でも解っている。でも、打開策が見つからない。
 たった一人の為に歌を届けられる覚悟が、僕には決定的に足りないんだ。
 最初から人の多い場所で演奏し続けて来たツケが、今になって回って来た感じがする。
 とにかく、何とかしなきゃ。今はまだ良くても、後々になって重大な問題になる前に何とかして次のステップに進みたい。
 そう思い、僕は今日もラバーズに来ていた。最近はライヴを観なくてもマスターやスタッフと話をする為だけに、黄昏やイッコーの家に行ったその足で寄ってみたりする。
 今日は日曜でイベントがあるので、リハーサルの始まる昼間から。イッコーは開演前に来るらしく、黄昏は昨日の夜から朝まで唄い続けたおかげで自宅で熟睡中。やる気になってくれたのか最近はやけに前向きで、曲作りにも力を貸してくれている。
 千夜さんの叩いているバンドが出演するので、今日のライヴは是非観ておきたかった。
 と言っても勿論千夜さんの出ているステージを全部観ている訳は無い。学生のお遊びバンドもインターバルの長いバンドも掛け持っているし、僕のバイトの都合もあるからなるべくラバーズで週末に行われるライヴに出る時に観るのは限られた。
 普段から最低限のことしか話してくれないので、千夜さんの情報については周りのバンド仲間から聴くことが多い。もう同じバンドで1年も経つのに、話をした内容はほとんど覚えている。別に変な意味じゃなく、それくらいしか言葉を交わしていないと言うこと。
 だから僕としては千夜さんが正式加入してくれることは嬉しかった。けれどこの前があんな終わり方な為にその件に関しては宙ぶらりんになっている。電話で連絡を入れても繋がらなかったので、こうして直接会いに来たと言う訳。
「おう青空、今日は早いな」
 ラバーズのレストランに入るとちょうどカウンターにマスターが立っていた。日曜だからか客足も上々で、壁に飾られている磨かれたバイクの部品が少し暗めの照明を受け、輝いている。店内には新旧問わず洋楽ロックが常に流れていて、こうした雰囲気のある店には普段入らないので来る度に抵抗があった。下のライヴハウスはもう慣れたけれど。
「うんちょっと、千夜さんに会いたくて」
「なに?女のケツ追い回してんのか、やるねえ」
「違う違う違うって、バンドの話がしたいだけ」
 詰め寄られたので慌ててマスターに弁解する。それでもジト目で僕を見て来るので、諦めてピーチフィズを一つ頼むとカウンターに座った。黄昏に付き合う時とここに来た時だけはお酒を飲むようにしていた。素面だと上手く話せないから、と言うのもある。
 イッコーがマスターと付き合いが長いので、同じバンドの僕も自然に仲良くなってしまった。バンドを運営する上での助言をくれたりするので結構頼りにしている。と言っても営業時間中にしか僕は来ないから長話はあまりしていない。
「あ、そーだ。紹介しとくわ」
 カクテルを運んで来た時に突然マスターが思い出したように言うと、近くのスタッフに声をかけた。しばらくして、ライヴハウスに続く下の階段から一人の女性がやって来る。
「今日から下のラバーズで働く事になった、井上ちゃんだ。前の受付の娘が留学しちまって人手が足りなくなったから、新しく入ってもらった。下でライヴやってりゃお前もいろいろ世話になると思うんでな、ま、初めてなんでお手柔らかにな」
「井上です、よろしく」
 マスターの隣に立った細身の女性が僕に頭を下げて来る。ショートの茶髪で細い目、体のラインが出る赤のVネックの薄いセーターとボトムパンツが似合っているスラッとした20歳位の美人。首にはスタッフ専用のパスがかけられていた。
「あ、徳永……青空と言います。ここでよく演ってる『days』って言うバンドの一人です」
 挨拶をしながら、僕は井上さんの顔をまじまじと見つめた。
 どこかで見たことのあるような気がする。と思ったら、井上さんもこちらの顔をまじまじと見つめていた。どうやら同じことを考えているらしい。
「なに、出会ったその日にいきなり二人の間に恋が芽生えたってのか?」
『違います』
 横から茶々を入れて来るマスターに二人ですかさず突っ込みを返す。
「あ、わかった」
 下唇に人差し指を当てて考えていた井上さんが先に気付いた。
「君、オレンジ頭の男の子と一緒によくウチの店に食べに来てなかった?カツ丼屋」
「ああ!」
 言われて僕も思い出した。
 イッコーと水海を散策する時によく足を運んでいる、駅ビルの地下にある小さなカツ丼屋。カウンターに基本的に女性の店員が立っていて、確かにそこに井上さんの顔もあった。
 初めて連れて行って貰った時。イッコーがお代わりを頼んで丼がやって来るまでの間、僕の皿に手を伸ばして来たのを死守していたのを、丸い目で見ていたのをよく覚えている。
 店で働いている時は常に帽子を被っていたからすぐに気が付かなかった。
「覚えてるよー。常連だもの、あの子。オレンジ色の頭してたら否が応にも覚えるわよ」
「確かに……」
 街中で立っているだけで目印になる位、逆立てたオレンジ頭は目立つから。背も高いから余計に。後1年もすれば190を超える気がする。
「そういや音楽の話結構してたみたいだったけど、同じバンドの仲間?」
「ですね。イッコーって言うんですけど。夕方来るって言ってました」
「じゃあその時に声かけてみようかな、その子にも」
「井上さん、カツ丼屋辞めました?顔を見ないなと思ってたんですけど」
「うん、美味しいじゃない?あそこの。このまま働いてたら絶対太るなーって思って」
 初対面の人と話すのは結構苦手だけど、どちらも相手のことを知っているので話に花が咲く。外見からするとキツめに見えるのに、意外と優しげで物腰が良い。
「えー、積もる話も山々だと思うんだがな」
 蚊帳の外に追いやられていたマスターが一つ咳払いをして、間に割って入る。
「こっちもいろいろ教えなきゃいけねえ事があってな」
「あ、ごめんマスター」
 面白くなさそうな顔を向けられたのでグラスに口をつけ、さりげなく視線を外した。
「それじゃあね」
 マスターに連れられ、井上さんは店の奥へ引っ込んで行った。途中でこちらを振り返って笑顔で手を振ったので、僕も笑顔で手を振る。やっぱりだんだん軟派になってる、僕。
 グラスの中身を全部胃の中に流し込んでから、酔いを抑える為にお水を貰い一気飲みする。女性ヴォーカルの曲に耳を傾けていると頭がいい按配になったので、意気揚揚と店を出る。そのままの勢いでラバーズの階段を一気に駆け降り、ライヴハウスに入った。
 酔っ払った時点だと無敵になっているけれど、どうなることやら。
 受付付近をうろついている男性スタッフに挨拶して、パスを貰う。もうすっかり顔を知られているので、大きなイベントやライヴ以外は楽屋へ顔パスで出入りできるようになっていた。と言っても開場してからだとちゃんとチケットを用意して入るようにはしている。
 会場の扉の隙間から大きな音が漏れて来る。おそらくどこかのバンドのリハーサル中。用が無いなら中に入り演奏を観て行きたかったけれど、その前に用事を済ませないと。
 すれ違う人達と挨拶を交わしながらステージ横の楽屋へ続く階段を上がる。
 そして登り切ろうとした瞬間、右角の影からいきなり人が飛び出して来た。
 千夜さん?
「…………。」
 厳しい形相で口を真一文字にしたまま、足を止めてしばらく僕を睨みつけて来る。と思ったのも束の間、何も言わずに僕を無視し三段飛ばしで階段を駆け下りて行った。
 どうしたのかな?かなり怒っているみたいだったけれど。
「――っと、いけないいけない」
 しばらく呆然とその後姿を見送っていたけれど、僕は千夜さんと話をしに来たんだった。慌ててその後を追い駆ける。
 しかしどこへ行ったのやら、その姿はあっと言う間に見えなくなってしまった。外まで出てみたもののどちらの方向へ行ったのかも全く解らない。一度千夜さんの携帯に連絡を入れてみても、勿論と言うか案の定、反応は無かった。渋々中に引き返す。
 とりあえず、千夜さんのバンドに何があったのか訊きに行こう。千夜さんはスティックケースを手に怒った顔で出て行ったから、多分戻って来るつもりはない。
 楽屋の前に行って扉をノックしてから中に入る。すると残りのメンバー4人と男女のスタッフの人二名が一斉にこちらを向いた。どうやら話し中だったみたい。
「あ、いや、千夜さん、どうしたのかなと思って……」
「どーもこーもないって」
 僕を見て一番年配の髭を生やしたベースの人が、肩を竦めて手の平を上に向けてみせた。
「あいつはバンドを抜けた。そんだけの事さ」
「おいおい、まだ決まったわけじゃないだろ」
 壁にもたれかけた赤いモヒカンのギターの人が横から口を入れて来る。
「んなコト言ったってなー、叩く気のないヤツと一緒にやってたってしょーがねーじゃん」
 椅子に腰掛けた、胸前まで黒髪を伸ばしたもう一人のギターの人が参った顔をする。
「ま、後で連絡入れてみるよ。あの調子じゃ向こうから辞めるって言い出しそうだけどね」
 角刈りにした茶髪のヴォーカルの子がテーブルに寝添べったまま答えた。
「さっきも言ったけど、今日のとこは他のバンドの誰かにサポートで叩いてもらうよ。千夜じゃなくても俺達の曲叩ける奴はいるから。じゃ、俺ちょっとトイレ」
 スタッフにそう言い、茶髪の子は席を立つと楽屋を出て行く。その姿を見送っていると、向こうから手招きされたので僕も通路に出てトイレの前まで一緒について行った。
「青空、最近お前達のとこで千夜に何か変わったこととかなかった?」
「どうしたの突然?」
 彼は僕と同い年なので、普段から顔を合わせるとよく話をしている。ジャンルはハードコアだけどどちらも相手のことを認めているので、対バンも何度か行っていた。
「いやな、こないだ突然千夜が曲作りに参加するって言い出して」
 その話が出て来た途端、思い当たる節があり過ぎ、口が開いたままになってしまった。
「ん?どした?」
「あ、何でもないよ。続けて」
 僕達の件を出すと話がややこしくなりそうな気がしたので、聞き手に徹する。
「それで何度か練習でジャムりながら作ってたんだけど全然噛み合わなくてケンカばかりになってさ。ほら、ずっとサポートで叩いてもらってたじゃん、俺達のバンド。だから正式に入ってもらってやろうとした途端にぶつかってさ、バンドの仲も険悪になってたんだ」
 話を聞いていて、横で間抜けな顔で相槌を打つことしかできない。
「このままじゃいけないからって4人で話したら、3、1で千夜をサポートに戻すか別れて。あ、俺は戻す派な。確かにあいつ実力あるけど、ドラミングと同じで自分の意見を絶対引かないんだ。それってかなり問題でしょ?俺は気にしないけど、前までサポートしてた奴にいろいろ言われるのってムカつく奴も中にはいるしさ」
 彼の話を僕は、自分達のバンドと照らし合わせながら聞いていた。明日は我が身になる可能性だって無きにしも有らずだから。
「さっきも言い合いになってさ、リーダーが切れて。赤いモヒカンの――あいつはかばってたけど、そんなに自分が叩くのが嫌ならこっちから抜けるって千夜の方から言い出して、怒って出てった。前にもあいつ、一度ケンカでライヴボイコットってあっただろ?今日はしょうがないからその時と同じ奴に叩いてもらうけど」
 その事件は僕達と対バンの時に起こったからよく覚えている。今年の頭くらいだったかな、あの時は僕達の出番が終わった本番後だったのでこちらに直接被害は無かった。
「けど、どうするの?次回は千夜さんに叩いて貰うの?」
「いや、このまま首切ると思う。うちのリーダーって結構しっかりしてるから。前は許したけど2度はないだろうな」
「そう……」
 何故か僕がしゅんとしてしまう。やっぱり同じバンドの仲間だからか。
「知ってる?千夜って最近、一気に叩くバンド減ったって話」
「えっ?」
 初耳だけど、その話。
「俺も小耳に挟んだ程度だけどね。あいつ忙しくても結構かけ持ちして叩いてただろ?でもあんまり活動しないとことか、遊び半分でやってるとことかはやらなくなってるってさ。半分くらい辞めたんじゃないかなあ?それでもまだ4バンドくらい残ってると思うけど」
「そうだったんだ……」
 今回の事件と今の話、それと自分達のことを総合するに、どうやら千夜さんは叩いているバンド全てで正式に関わろうとしているみたい。でもそこで意見の食い違いや、彼の所みたいに喧嘩別れで辞めて行ったのかも知れない。
 全て臆測に過ぎないけれど、あながち当たっているような気もした。
「青空んとこもサポートで叩いてもらってるんだろ?」
「う、うん」
 いきなり話を振られたので動揺してしまう。
「気―つけろよ。あいつのせいでバンドぐしゃぐしゃになるかもしれないからな。ま、俺達はこの機に前抜けたドラムにもう一回当たってみるよ。じゃ、俺トイレ」
 笑顔を残し、彼は男子トイレの中に入って行った。
「うーん」
 その場で腕を組み、考え込む。僕を想って忠告してくれたのは有り難いけれど、千夜さんが全て悪いようには僕には思えないんだ。
 どうしてと言われても、何となくとしか言えない。叩くバンドが最近減ったと言うことは、千夜さんの中で心変わりがあったのかも知れない。その理由は分からないので、今度直接会った時に聞いてみよう。うざったがられても、意志の疎通が出来ないまま彼の所みたいにバンドから抜けられるよりはよっぽどいい。
 僕は楽屋の並ぶ通路に戻り自動販売機で清涼飲料水を買い、すぐ飲んだ。こんがらがっていた頭が幾分すっきりして、酔いも醒める。
 さて。
 千夜さんがライヴに出ないと分かったからか、僕の中で今日のイベントへの関心は一気に失せてしまった。どうしよう?
 用事は無くなってしまったし、このままイッコーをここで待ち続けていてもまだ開場までには随分時間がある。寝ている黄昏を起こすのも悪いし、今日の所は一旦引き上げた方が良い気がした。外もまだ全然暗くなっていないから、家に帰って曲の練習も出来る。
 そうと決まれば善は急げ。彼には悪いけれど今日のはどうしても観たいライヴでもないし、イッコーには後で連絡を入れ謝っておこう。
「あのー」
 パスを受付に返してから外に出ると、ちょうど入口のそばに立っていた金髪の女の子に呼び止められた。スタッフと勘違いしたのかな?
「何でしょう?」
「イベントの当日券って下で買うんですか?前売り買い逃しちゃって」
 上目遣いに僕の顔を覗き込んで来たので、思わず後ずさってしまう。薄化粧だけど、左下の目にある泣きボクロが印象的でかなり可愛い。
 とそこでピンと閃いたので、僕は姿勢を立て直しこちらから尋ねてみた。
「君、一人?」
「え?あ、うん、そうだけど……」
 調子を崩されしどろもどろで答える彼女に、僕は鞄の横ポケットからチケットを出す。
「それなら、僕のをあげるよ。これから帰る所だったから」
 どのみちイッコーに無料で貰った物だし、僕が持っていてもただの紙切れでしかない。それなら必要な人の手に渡った方がよっぽどいい。
 普段の僕ならこんなことは絶対にしないだろうけれど、イッコーならすると思ったから。
「あ、お金……」
「いいよ、貰い物だもの。楽しんで行ってね。男の人ナンパするよりもずっと面白いものが見れるからさ」
 財布を出そうとする女の子に首を横に振ってみせ、チケットを手に握らせる。この台詞も行動もイッコーの受け売りだけど、相当どぎまぎする。
「そう言う訳で。じゃあね」
「ちょ、ちょっと」
 何か言われる前に、恥ずかしさを誤魔化すように早足でその場を離れた。
 んっ?
 さっきの女の子、どこかで会ったことがあるような気がする。
 でも井上さんの時もそうだったから、今日はそう言う日なんだろうと一人納得し、駅前に向かい歩を進めた。
 日曜の水海は人がごった返している。特にラバーズのある北口方面は線路を潜った南口、東通り商店街、それらを繋ぐビル街の地下街とは違い大きな繁華街は無いけれど、競馬の場外馬券売り場が駅のそばにあるので人の波に簡単に飲まれる。特に昼間のこの時間帯はそう。ライヴが始まる夕方前には、いつも人混みは落ち着いている。
 行きつけの楽器屋に寄るのも良かったけれど、一人で行くのはちょっと淋しい。他にも特に買う予定の物は無かったので、素直に駅に足を向けた。
 最近は携帯MDの調子も悪く、街中を歩く時に音楽を聴いていない。2年前の型なので買い換えてもいいけれど、そんなお金の余裕は残念ながらありません。
 音楽がそばに無いと初めは道中で発狂しそうになっていたのに、今はもうすっかり慣れてしまいどうってことはない。家にいる時はコンポから好きな曲を流しっ放しにしていても、前みたいに眠っている時まで聴くことはしなくなった。まるで睡眠学習しているみたいで、起きた時にかえって疲れていることの方が多いから。
 駅前の大通りで信号を待っていると太陽が容赦無く照り付けて来る。年明けの冬はあれほど寒かったのにどうして夏を過ぎてもこんなにも暑いんだろう。道行く人も全員涼しい格好をしていた。かく言う僕も薄い白のジャンパーを腰に巻き、水色のTシャツ一枚。
 信号が青になったので、いつも通り先陣を切り駅前に到着。そのまま適当な券売機で切符を買う。すると横の券売機で買い終わった人の手荷物が足にぶつかった。
「すいません」
 謝って来るその女性と目が合う。
 ――共に目を見開き固まってしまった。
「……千夜さん?」
 僕がポツリと漏らすと、その人は慌てて背を向け改札口へと一目散に駆け出した。
「ちょ、ちょっと、千夜さんッ!?」
 間違いない。
 眼鏡もかけていなくて髪も下ろし私服だったけれど、千夜さんだ。
 どうしてこんなところに?と言うか、何で私服?髪の毛は?トレードマークの眼鏡は?
 あまりに突然過ぎて頭の中もとっ散らかっているけれど、僕も反射的に後を追い駆けた。
 改札の手前で追いついたのに、タイミング悪く千夜さんが抜けた後で改札に止められた。後も振り返らずに駆けて行く千夜さんの後姿を目で追い駆け、地団駄を踏みながら僕も切符を入れ、急いで改札を抜ける。
「千夜さーん!」
 プラットホームを走りながら大声で名前を呼んでも、構わず逃げて行く。端から見れば怪しい人に見えかねないのは解っていたけれど、構わず追い駆けた。
 屋根のある建物内を抜けしばらくすると、ホームの端が見えて来る。観念したのか千夜さんは停車している電車を越え、端近くの所でようやく速度を落としゆっくりと止まった。両手に手荷物を持ったまま膝に手を置き、大きく全身で息をしている。
「やっと追いついた……」
 僕も息を切れ切れにして足を止める。何の準備も無しに100m以上ダッシュするのは結構きつい。黄昏に運動しろしろっていつも言っているけれど、僕も全然駄目みたい。
「……何の用だ」
 千夜さんは振り返り、今にも飛び掛かって来そうな目つきで鋭くこちらを睨んで来た。僕は息を整えるので精一杯で、苦しんでいるのか笑っているのか解らない顔で答えるしか出来なかった。
 眩しい陽射しが僕等を照らし、もういないはずの蝉の声が遠く聴こえて来た気がした。


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